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    人喰い地下道    
       
(18)-(22)

   

(18)

「あるんでしょ、建設部。その情報、なんとかならない? ヨコヤマ君」

雰囲気だけはずば抜けていい室内、淡いオレンジ色の間接照明が点在する中、ナノリは素っ気無く言いつつ、プリントアウトされた一枚の書面をチナツの顔にぶつける勢いで突き出した。

「三軒町駅周辺の、開拓地図ですか?」

窓際に置かれた丸テーブルには、空の灰皿とウイスキーのグラス、それから、ミネラルウォーターのグラスが置かれており、チナツとナノリはそれを挟んで向かい合っていた。

イレーネとタカアキに連れられて来たチナツを、ナノリは相変わらずにこりともせずに迎えた。四人で食卓を囲み、多分人生で二番目くらいに高級な食事をしたにも係わらず、青年はその味を殆ど覚えて居ないほど緊張しまくっていて、その後、話があるから二十八階の部屋まで来いと…命令口調で…言われた時には、答えた声が上ずってしまった程だ。

広く切られたガラス張りの窓にはレースのカーテンがあしらわれ、眼下に流れる車のヘッドライトが描く光の川を飾っていた。

少々小さいが座り心地はいい肘掛け椅子に収まったチナツが、差し出された紙片を受取り、首を捻る。

三軒町駅といえば市街地の中心よりやや北西に外れた位置にあるものの、周囲にはオフィス街、商店街と、その外側には住宅地もある、比較的拓けた場所だ。

「そう、現行地図じゃなくて、出来れば、駅が出来た頃から現在までの、周囲の開拓状況が判るようなヤツがいいんだけど」

火をつけないKOOLを弄びながら足を組んだナノリが、淡々と言う。

「…さすがに、旧駅舎時代のものはないと思いますけど…」

ダテに地方財閥の叩き上げ重役の秘書を勤めている訳ではないのか、この瞬間も仕事の心配だろう、壁掛け時計に視線を流してすぐ、チナツは携帯電話を取り出した。事実を正直に述べて使えない男だと思われるのは少し癪だと思いつつ呟いた青年に、ナノリがちょっと眉間に皺を寄せて見せる。

ひとつ有能なとこでも見せて、お株の上昇を! と夢見た青年は内心涙ぐんだ。

「旧駅舎って、何? それ、どのくらい前?」

 しかし、ナノリの口から出たのは、意外にも平凡な質問だった。

「二十年くらい前ですね、三軒町駅が木造の古い駅舎だったのは。一旦駅舎を解体、今の一番ホームが設置されて、数年後に地下鉄の一部開通に伴って増築、全線開通したのは更にそれから五年後で、その後三年間かけて大々的な増改築が行なわれ、ほぼ今の状態になったと…」

そこまですらすらと言ってから、チナツが尻窄みに言葉尻を濁して俯く。

「すいません、勝手にぺらぺら話しちゃって」

急にぴょこんと頭を下げた青年の向かいで、ナノリが呆れたように煙草を咥えていたのだ。

「ああ。違う、ヨコヤマ君。君、よく知ってるのね」

まるで煙を払い退けるように…彼女は実際煙草を吸っていないのだが…顔の前で手を左右に振る、ナノリ。

「あ! ぼく、大学の時郷土史サークルに居て、この辺りの古地図から地域開拓史を紐解く研究に青春を費やしたんで、ちょっとはそういうのに詳しいんですよ」

「…それで、どこに柔道部が入るの?」

「それは、高校の時です」

胸を逸らして言い切ったチナツをげんなりと見遣り、ナノリは内心嘆息した。

         

どうせ青春を費やすなら柔道部の方がよかったんじゃないの? ヨコヤマ君。

         

と彼女は、そのおかげで「イレーネに目を付けられた」青年を、ちょっと憐れだと思った。

      

(19)

その後、二箇所ほど電話するとチナツに言われたナノリは無言で頷いて、テーブルの上にあった灰皿を手に取りバルコニーに出た。というか、都心の高層ホテルにバルコニーておかしい。と思ったが突っ込むには至らず、この場合は在り難かったから、寛容に対処。

ようやく火をつけたKOOLの苦い煙を肺に溜め、細長く吐き出す。

ヨコヤマチナツは今時珍しい純粋な青年だと、あの腐れ魔女……イレーネはけらけら笑いながらナノリに教えた。

その青年が偶然、イレーネと路上で口喧嘩していた…実は、イレーネとナノリは仲が悪い…彼女を見かけて一目惚れしたと聞いた時は、どんな新手の嫌がらせだと本気で思っていたのだが。

参るのよね。

こつんと背後のガラスに背を押し付けて、ナノリはくゆる煙を見るともなしに眺める。

イレーネの言う通り、チナツは好青年だった。

だからこそ、彼には…関わり合いたくないと思う。

のに、だ。

自分の背で押し留める恰好だったガラス戸を軽く叩かれて、ナノリは顔を上げ振り返った。淡い色調で飾られた、上品な室内。オレンジ色の光。閉じた携帯電話を顔の横で揺らしながら、チナツが薄く微笑んでいる。

終わったという合図なのだろう、ナノリは吸いかけの煙草を灰皿で揉み消し、室内に戻った。

「それで?」

急ぎの仕事だったのか、脇に押し遣られていた話題を引き戻すように言ったナノリに、チナツが頷いて見せる。

「土地調査部と建設部に手を回しときました。まだ残業中の職員に適当な事言って、幾つかダミーを混ぜた資料探さしてるんで、ぼく、これからすぐ社に戻って目的の地図の複写取っときます。

他に何か、必要なものとかありますか? 牧さん」

「………」

驚いた。

新しいKOOLを指で摘んだままじっと見つめてくるナノリの視線が痛かったのか、携帯電話をポケットに戻したチナツが、困ったように眉を寄せて苦笑いする。

「そのミネラルウォーター、頂いていいスか?」

まさか再度社に顔を出すと思っていなかったのだろうチナツの頼んだウイスキーは、グラス三分の一程減っている。そう大した量でもないし濃さでもないだろうに、青年は、まさか酒臭いまま出社するのはどうかと思ったのだろう。

アルコールの類は菓子の匂い付けさえだめというナノリの目の前にある透明な液体を指差したチナツが小首を傾げ、彼女は、らしくなく、慌てて頷きグラスを差し出した。

どうもすいません。仄かに笑みを浮かべた唇に近付く滑らかなラウンド。

ナノリはそれをじっと見つめたまま。

小さく、息を吐いた。

「…私の、ロクでもない人生を罵倒して嫌悪してくれる「人」が欲しいなと、思う時がある」

無表情に淡々と呟いたナノリの、どこか人形めいた顔を、チナツが少し驚いたように見返す。

「私は臆病で、ダヒラは狂ってる。だからマトイは神々しくて羨ましい」

「………牧さん?」

ことり、とテーブルにグラスを置いたチナツは不安そうに首を傾げ、ナノリの俯きかけた顔を覗き込むようにして身を乗り出した。

「君は、いい人」

消え入りそうに言い足したナノリが、不器用な笑顔を見せる。

「早いところタカアキの秘書なんか辞めて、イレーネの手の届かない所に逃げるといい。あれは、ただの元水晶占い師なんかじゃなく、もっと厄介でタチの悪いものだから。私も」

          

「―――それでもぼくは、あなたが好きなんですよ」

        

青年の口から極自然に出た告白をナノリは。

         

「私の「本当の姿」を見ても正気で同じ事が言えたら、その時は考えてやってもいい」

       

暗に、拒絶した。

        

(20)

人間だって結局表と裏を使い分けている。

だからその「裏」が少々おかしな事になっているからといって悲観する必要はないし、そもそも、ダヒラ以外の「俺たち」にその原罪はない。

と、チナツの呼び出しを受けて出かけようとしていたナノリに、マトイはつまらなそうな口調で言った。

         

「とまぁ、そんないたずらをしたおかげで、イレーネとキッカに事務所を追い出されまして」

だからってなんでわざわざ地下鉄とバスを乗り継いでここまで来るのよこのバカ男。と精一杯忌々しげに、心の中で、リョウは吐き捨てた。

「ま、ミネちゃんの顔を見るついでに仕事なんかも出来ちゃうかな、なんて一石二鳥なワケなんで、そんな迷惑そうにしてくれなくてもー」

いくら俺でも二人きりでこの嫌悪感じゃ傷付いちゃうよ? などと全く傷付いた風もなくけたけたと笑うマトイの前にマグカップを叩きつけ、リョウはわざと大きく嘆息してやった。

「…という事は、やはり伊佐間探偵も牧さんも、騨平十槍と「同類」なんですよね」

「いきなり直球だね、ミネちゃん」

否定も肯定もなく軽薄に笑いながら煮詰まって不味そうなコーヒーに手を伸ばすマトイを半目で見下ろしつつ、リョウはじりじりと後ずさった。

アレと同類! 最悪!

「わたし、ムカデとハサミムシとゾウリムシとクモが、だいっきらいなんです」

「いやー、女の子は大抵嫌うよねー。約一名一種類につき平気なコ、知り合いにいるけど」

「だからあれは例外です! ですから…!」

仕事以外で顔を合わせるのは嫌なのだと、リョウは切実に訴えようとした。

「俺、入ってないし、そこに」

ぴ、と失礼にも下から人差し指を突きつけられたリョウが、思わず口を噤む。

「だから安心だってワケじゃないけどさ」

宙に浮いていた手を膝に戻したマトイが、テーブルに散らかった書類を眺め回しつつけけけと笑う。

本当なのか、嘘なのか。

急に勢いを失くしたリョウは、がくりとうな垂れてもう一度わざとらしく嘆息した。

「それで、事務所を追い出されて行く所がないから、私をからかいに来たんですか、伊佐間探偵」

「いやー、さすがに俺でもそこまで意地悪くないよ。ちょっとミネちゃんに訊きたい事あって寄っただけ」

寄っただけ、という部分に安堵していいのかどうか判らないまま、リョウが不機嫌な顔ではぁと生返事する。

「あの地下道及び駅の拡張工事に係わる事故とか事件とかって、調べついてんのかな」

縁切りラブホ、と赤ペンで書かれた書類を顔の前に翳したマトイが、妙に沈んだ声でいかにもありがちな質問を繰り出す。

「新聞記事なんかのスクラップくらいならあります」

「それでいいから、見して」

白い書面の上から目だけを覗かせたマトイが、なぜか急にはははと笑った。

「何変な顔してんの、ミネちゃん。つうか、こんな面白い上に簡単な仕事あんのに、なんで「人食い地下道」なんて面倒臭いの持ち込むかなー、キミは」

言ってから、ひらひらと振り回される書類。

「それ、本当なんですか?」

訝しそうに眉を寄せたリョウが、マトイの振り回す紙束を指差して落とし込んだ声を出す。

縁切りラブホ。

「うっそに決まってんでしょーが。この部屋にはいってやっちゃったら必ず別れる? はっはっはー。誰かが面白半分で言い出した噂に乗っかって、別れたいカップル続々御入室! それで噂は真実になり、はい、都市伝説の出来上がり、ってね。

ま、ここでやったら必ず片方殺されるとか、シャレなんなくなったら是非ともうちに持ち込んでよ、ミネちゃん。二人で試そうではないですか」

軽薄な声の最後に乗ってきた投げキッスをリョウは、身体を水平に二歩分も動かして素早く避けた。

           

(21)

いつも通りの課内でありながらいつもと違う違和感に落ち着かない気分で、リョウは意味もなく書類の山を右から左に動かしたり、整理しかけの資料を引き出しから取り出して広げ、頭に入らない文字列を目で追ったりした。

名ばかりの応接セットに陣取ったマトイは、さっきからもう二時間もああやって動かずに新聞記事を纏めたスクラップを睨んでいる。動かずに、といっても本当に彼がびくりともしないのではなく、その場から腰を上げないという意味だが。

ソファの座面にまで浸蝕している様々な資料を避けて小さくなったまま、マトイはまずリョウの纏めた新聞記事を一通り流し読みした。速読並みの勢いで繰られるページに、果たして真面目に仕事をしているのかと訝っていたリョウの内心など知らず最後のページまで進み、ぱたりとそのノートを閉じる。

それで、ロクに内容など把握していないのだろうと大仰に嘆息しかけたリョウをマトイが驚かせたのは、その後だった。

何か書くものはないかと問われ、丁度手元にあった青い極太油性ペンを差し出したリョウを、マトイが笑う。ミネちゃん最高。気に触る物の言い方と軽薄な笑い声に彼女が不機嫌な顔をするのと同時、男は新聞記事を青いバツ印で消し始めた。

一度閉じたノートを開き、無造作に大きくバツを描く。一ページ目、二ページ目…。一ページに一枚という几帳面さで貼り付けられた切り抜きを、マトイは容赦なく消していった。

しかし、それは全ての記事に対するものではない。どういう選定基準があるのが、青いバツを逃れているものもあった。

最後のページをバツなしで閉じたマトイが、再度ノートを開いてページを繰り始める。バツの記事は飛ばされ、バツなしの記事だけを丁寧に読み直しているようだった。

地下道内でのスリ騒ぎを淡々と報告する小さなものから、坑道建設中に起こった重大死亡事故を仰々しく報じるものまで、いわゆる大学ノート四冊に纏められたスクラップを二度、三度と読み返してはバツを付けるマトイの、ある意味まっとうな行動に、リョウは戸惑いを隠せない。

もっとこう…「こういう連中」なのだから、地道な下調べなどせずパッパッと事件を片付けているのだと、そう思っていた。

都合五回資料を読み返して青いバツを付けたマトイが、生き残った記事だけを破り取りテーブルの上に並べ始める。今度は何を始めるのかと積み上がった書類の間から窺うリョウの視線が可笑しかったのか、ようやくそこで彼は、二時間ぶりに薄い笑みを見せた。

「俺たちはねぇ、ミネちゃん。神様じゃないんですよ?」

まるでリョウの内心を読んだように、男が呟く。

タロットカードを捲る占い師のような手付きで破ったノートを一枚ずつ並べてから、持て余した長い足にそれぞれ腕を預けて。

「色々ちょっとおかしな事になってるだけで、見ないものは判らないし、聞かない情報は持ってないし、知りたい事があるならソレ相応の努力をしなくちゃなんない」

楽しくメンドい人生ですよ。

神様なんて退屈そうな職業には憧れないけども。

何が可笑しいのか、マトイは言ってからげらげら笑い、笑いながら、テーブルに並んだ記事のうち、建設中の事故を報じる二枚を指で弾いて床に落とした。一枚は壁面の崩落事故、もう一枚は、地下水の噴出事故だ。

残りは、三枚。

みっつの事件。

「さて、ハラを減らした怪獣はどれだろね。

ところでさ、ミネちゃん」

それぞれの記事に添えられた白黒写真を目を細めて眺めてから、糊でごわごわのページを丸めてスーツの内ポケットに捻じ込んだマトイは、代わりに車のキーを取り出しつつソファから腰を浮かせた。

「幾ら言っても口を閉じないヤツの口を閉じさせるのには、どうしたらいいと思う?」

つられて自分も立ち上がったリョウが、難しい顔で眉間に皺を寄せる。

「――――――――縫い付ける?」

たっぷり十数秒熟考した挙句に返った乱暴な答えに、マトイは一瞬惚けた顔でリョウの真剣な顔を見返した。

「…ミネちゃん、やっぱ最高だわ」

その後投げ返された呆れた笑いと短い台詞になぜか、リョウは耳まで赤くなった。

        

(22)

待ち合わせの場所にやや遅れて姿を見せたチナツは、いつ何時でも無愛想で不機嫌そうなナノリに恐縮しながら茶封筒を差し出した。

「仕事中だったでしょう? こちらこそ、無茶言ってごめんなさい、ヨコヤマ君」

昨晩の告白など覚えていないかのように素っ気無く返して来たナノリの顔をいっとき見つめてから、チナツはぎこちなく微笑んだ。

「いえ、近藤専務に外出の許可貰いましたから。牧さんの頼みはイレーネ奥様の頼みと同じだから、ぬかったらクビにするって脅されましたよ」

ははは、と力ない声を立てたチナツに、ナノリがようやく仄かな笑みを向ける。

書類の受け渡しをするから少し時間をくれと申し出たチナツに、タカアキはわざわざ高級レストランの個室を予約して、自らイレーネに電話しナノリを向かわせるよう告げた。自力では一生拝めそうもない豪華な室内に、品のいい調度品。並べられた、サラダとパスタとスープという、簡単でありながら何万円もしそうなランチにびくつくチナツに支配人は、お支払は近藤様より頂いておりますと小声で耳打ちしてくれた。

テーブルに着き、昼食を摂る前にと早速取り出された茶封筒を無造作に開けて中身を並べ始めた咥え煙草のナノリの顔を、チナツは緊張しながら見つめている。

好きだと告げた言葉をやんわり押し返された事には、チナツも気付いていた。しかし、まだ諦めた訳ではない。何せ彼女は他に付き合っている人が居るとも、誰かを好きだとも、チナツを嫌いだとも言っていないのだから。というのは自分に都合のいい解釈かもしれないが。

取り出された地図に視線を落としていたナノリが、引き寄せた灰皿にKOOLの吸い差しを捻じ込む。

「ヨコヤマ君」

硬い、抑揚のない声で呼ばれて、チナツは思わず背筋を伸ばした。

「有難う、助かる。工事計画の青写真なんてレアもの、図書館じゃ探せなかった」

地図に注がれていた視線が垂直に上がり、緊張した面持ちのチナツに向けられる。

酷く判り難いがナノリは満足したらしいと思って、チナツもようやく肩の力を抜いた。横山千夏、二十六歳。好きな女性にいい所を見せられて、内心ガッツポーズを取る。

「それで…ここ、この工事の計画書では南口から真っ直ぐ北に地下道を掘削する予定だったのが、途中で変更になってる理由は、判る?」

比較的初期段階の地図を押し出されて、ナノリの俯いた顔を惚けたように見つめていたチナツが慌てて視線を落とす。

「ああ、そこ、ぼくもなんでかなって思ってちょっと調べたんですけど、どうも、北側に酷く硬い岩盤があって、少し西に出口を移したようですね。当初計画より三十メートル西寄りにするだけで工期は短縮、予算も圧縮出来るって調査結果だったんで、変更したんじゃないですか?」

「世知辛い話」

くすりと、ナノリが淡い紅色の唇で孤を描く。

「――。企業なんてそんなものですよ。利益の追求しない事には、成り立ちませんから」

「君のお給料も出ない」

「現実的で笑えませんよ、牧さん…」

はぁ。とわざと嘆息して肩を落とす、チナツ。

「ああ、それから…」

秘書らしく暗色のスーツに身を包んだチナツが、胸のポケットから黒いセルフレームの眼鏡を取り出してかける。

「ヨコヤマ君、目が悪い?」

「高校の時、柔道の試合でちょっと怪我しまして、それから視力下がっちゃったんですよ。それで柔道やめて、文科系に転身しました」

清潔に整えられた、やや錆びたように脱色した髪と面長ながら歳より幼く見える顔。小柄なナノリより頭一つ背が高く一見非力な優男風に見えるが、チナツは柔道の有段者だという。

おまけに「中身」は清廉だ。

そんなチナツが、「自分」を好きだと言っていい訳がない…。

出掛けにマトイの言っていた言葉を思い出し、ナノリは少し憂鬱になった。

「…そんなにぼくの顔じっと見て、どうしました? 牧さん。もしかして、ちょっとはぼくに惚れました?」

声を掛けられてはっとすると、テーブルに別の地図を広げて何か探していたはずのチナツが、ナノリを見つめている。

仄かな笑顔の青年。

ナノリは、答えられなかった。

       

   
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