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    人喰い地下道    
       
(23)-(27)

   

(23)

私たちは、君たちと、違う形のモノ。

       

「眼鏡」

「似合いませんか?」

「ううん。頭良さそうに見える」

「という事は、普段はあほっぽいんですか!」

わざと悲鳴を上げたチナツを、ナノリは薄く笑った。

青年が気を使ってくれているのだろう事は容易に想像が付く。昨日も今日も曖昧な答えしか出せないナノリを、チナツは急かしたり咎めたりしなかった。

ただ、少し弱ったように頭を掻いて、苦笑して、何か古ぼけたコピーを一枚テーブルに広げて指差す。

「これ、大学の時サークルで使ってた海士戸郷−アマトゴウ−の古地図です」

南西方向がふつりと途切れた峰々に囲まれた、ほぼ円形の平野。海士戸郷とは、今彼らの住むこの土地の古い呼び名だった。

「三軒街駅の地図を見てて何かに似てるなってずっと気になってたんですけど、地下道を含めた駅周辺って、「竜ケ滝」と位置が被ってる上に、形もそっくりですよね」

 折り目の破れかけた地図の一点を指差されて、ナノリは眉を吊り上げた。

「竜ケ滝?」

「大昔に埋め立てられた…」

「知ってる」

 チナツの指した歪な円を凝視したまま短く返す、ナノリ。確かに、「鎮守の丘」からの位置関係を考えると、あの地下道は丁度「竜ケ滝」と同じ場所にある。

それが何を意味するのか、ナノリには判らなかった。しかし、もやもやとした霧が分厚く胸の内に立ち込めるような、嫌な感じがする。

急に難しい顔で黙り込んでしまったナノリを覗き込んでいたチナツが、また少し困ったように頭を掻く。

「意味ないんですけどね…。でもほら、北側の固い岩盤とか、何か昔の地形に関係あるのかなーとか、ちょっと思っただけで」

何百年も前の地図なんか見せられても困りますよね。などとチナツは恐縮して言ったが、ナノリはなぜか首を横に振った。

「この土地の古地図を見たのは始めて。少し、興味がある」

ぶっきらぼうに告げられた言葉の内容を口の中で数回反芻してから、チナツは慌ててテーブルにしがみ付いた。

「ぼく、古地図の他にも文献の写しも幾つか持ってますよ? 伝承とか、伝説の類ですけど。良かったらお見せしましょうか!」

水を得た魚のような勢いのチナツを、きょとんと…非常に珍しく…した顔で見つめてから、ナノリはくすりと笑った。

「いや! えっと…、ご迷惑でなければ、ですけど…」

急に意気消沈して椅子から浮かせていた腰を落としたチナツの手元に、ナノリは広げられていた古地図を丁寧に折り畳んで押し戻した。

        

「気が向いたら誘ってくれればいい。それを断わる理由はないわ」

      

横山千夏、二十六歳。

天にも昇る気持ちだった。

       

(24)

残ったのは二つの事件と一つの事故。

ナノリがチナツから受け取って来た資料と、リョウのところから持って来た新聞記事のスクラップを冷たい床にぶちまけて中央に座り込んだマトイは、立てた片膝に腕を預けていた。

室内は真っ暗。

今はもうイレーネもキッカもナノリも居ない、事務所。

時間は夜。

窓のない空間は、文字通りの暗闇だった。

その完全な闇の中に、ぽつりと、光を映した鏡面のような円が二つ並んで浮かんでいる。平面でありながら、球面。眼球の中を覗き込めば、似たようなものが見られるかもしれない。

事件は二つ。

酔って地下道中央広場のベンチで寝ていたサラリーマンを数名の少年たちが襲い、金品を奪った。襲われたサラリーマンは無抵抗に暴行され、後日死亡している。

地下道の出入り口が深夜施錠されるようになったのは、その事件が契機らしい。

それから、レイプ事件も起こっている。帰宅途中の女性が地下道内で複数名の男に囲まれ、その場で暴行。解放されて放心状態の女性は施錠前に地下道内を見回りに来た警備員にも犯され、事件は翌朝まで発露しなかった。

被害女性は事件後精神病院への入退院を繰り返し、数年後に死亡。死因は自殺。

「女」は生きているらしいとキッカの言葉で当たりを付けたマトイの有力候補はこの自殺女性だったのだが、ナノリの持って来た資料がまた真相を曖昧なものにする。「男」は役に立たず「女」に係わるなとあの少女が言うくらいだから、どちらも無関係ではないだろうが。

事故の方は、五年程前、帰宅途中の男子高校生が例の地下道に駆け込んだ際、L字に折れ曲がった階段のすぐ下で転んでいた幼児を避けようとして転倒。双方ともに軽い怪我を負ったものの命に別状はなかった。

二つの事件に比べて格段に扱いの小さい、ちょっとした記事。しかしマトイの「触覚」にはなぜかその事故が粘つくように絡まり、彼は結局その記事を通算で十二回も読み返した。

キッカの言う「カイジュウ」はなんなのか。

そういえば、中間にある広場…訪れた時は円形だと思っていたが、実際は少々歪んだ楕円のような形状だった…の中央に水場があったなと思い出す。

三軒町駅とそれに繋がる地下道の変遷を物語る地図を完全な暗闇の中で眺めながらマトイは、あの水場に生息していたソフトビニール製のカメに向かって少女が「怪獣に触るな」と言ったのも思い出した。

では、あれが「カイジュウ」の正体か?

まさか。

カメは、誰かが置き忘れたものを別の誰かがいたずらして岩場に放り込んだものにしか見えなかったはずだ。

「口、口…口ねぇ…」

金色のメッシュ混じりの赤毛をがしがしと掻きながら、マトイが呟く。

周囲に散乱した新聞記事のスクラップと、地図のコピー。

怪しい所の見つからない地下道。

しかし。

消えた男子学生。

キッカは、急げという。

「しゃーねーな。ユライんとこでも行くか…」

何も見る事の敵わない暗闇の中、マトイは散らかった資料もそのままに立ち上がり…。

        

ぺた。

       

暗闇の中で、奇妙な水音がした。

      

(25)

好き嫌いが激しく別れるという点においてはジッソウにしてもナノリにしてもマトイにしても変わりはないが、前者二人に比べれば世間的に好き率が高いだろうというのが、マトイの唯一の救いだった。

それにしてももっと「マシ」なものだったら良かったのにと思わなくもない。あえて醜悪な姿を与えられ、生理的嫌悪感を掻き立てて悪し様に罵られながらも現し世に居らねばならぬものの憂鬱など、高い所から有象無象を眺めて退屈を凌ぐ姫様方には理解出来るまい。とも。

文句を垂れても仕方ないが。

伊佐間纏は一人遊びの産物。

牧菜則は望まれた純心の産物。

ならば、騨平十槍はさしずめ狂気の産物か。

何にせよ、彼らは誰一人として「オカルト」という枠組みに嵌められた未確認生物ではなく、少女…鹿叉ゆらいにとっては、現実的にそこに居て暮らしているものだった。

だから。

        

ぺた、ぺた、ぺたっ。

       

湯上りに煌々と灯かりを点した縁側を鼻歌交じりで歩いていて不意に耳を擽った奇妙な水音に、少女はなんの疑問も抱かず庭へと顔を向けた。生い茂る木々の根元、膝まで伸び放題に伸びた雑草の間から銀色に光る円が二つ並んでこちらを見ているのに驚くでもなく、薄いガラスを嵌めた格子の引き戸をがらりと開ける。

「マトイ?」

おおよそ人間のものでないその水音に向けて、少女は多少警戒を含んだ声で問うた。寝間着代わりの浴衣は薄く、ガラス戸の隙間からひっそりと忍び込んで来た水気の多い夜気が肌寒い。

自分の身体を抱き締めるようにして腕をさする少女を見つめていた掌くらい大きな銀色の円盤がぱちりと瞬きし、ぎゅっと縮むのと同時に垂直に急上昇する。

「ダヒラ、居る?」

かさりと下草を掻き分けて現われたマトイが廊下から庭に射す光の中に踏み込んでから、ユライは左右を見回した。

「離れに姿ないなら、その辺じゃない?」

夜気に湿った雑木林を目で示されて、マトイは無意識に眉を寄せた。ただでさえ「お仲間」の多い鎮守が丘…丘というよりも、小山なのだが…に建つ社周辺で、どうやってアレを探せというのか。

いつもの調子でポケットに手を突っ込んだマトイは、うんざりしたように溜め息を吐いた。ジッソウが居れば山の天辺どころかその上まで行って街全体を眺められると期待していたのにあの気紛れめ、と勝手に期待を裏切られて憤ってみる。

お互い色々と滅茶苦茶な事になっているが、ジッソウに出来てマトイに出来ないといえば空を飛ぶ事で、その逆なら泳ぐ事か。殆どの「同胞」さえこの場所への出入りを嫌うジッソウが渋々ながらもマトイだけ黙認しているのは、以前ユライが東斜面にある古井戸から地下水脈に転げ落ち、溺れかけたからだった。

水場でだけはどうしようもない。これが百年か百五十年前で、未だ夜の闇が闇として人の恐怖を支配していた頃ならばまだしも、不夜と化した現代では――。

「ちょっと上まで行って来るからさー、やつが戻ったらそう伝えててくれる?」

「いいけど…。マトイ、リョウさんに頼まれて「人食い地下道」調べてんじゃないの?」

地下道調査に山の天辺はないと思ったのだろうユライが小首を傾げる。

「そうだよ。地下道の全景見てーから、上から眺めてみようかなって思って」

だから街が一望出来るこの場所に来たのだと暗に言われて、少女は頷いた。

「んー。じゃ、お仕事がんばってね」

白地に藍で蝶が染め抜かれた浴衣の美少女が、にこりと微笑む。

「…ゆうちゃん、今度ガッコに迎え行くからさー、俺とデートしよーよ。ついでにイイコトも」

少女の笑顔に緩い笑みを返したマトイが軽薄な口調で言うなり、ユライはわざと難しい顔を作って言い返してやった。

「みせーねんしゃとのいんこーは逮捕モンよ? マトイ。きっとそうなったら、リョウさんが喜んで手錠かけてくれるし」

だったらとっくにダヒラなんか投獄されてんでしょ。とマトイは、笑う少女に向かって大仰に肩を竦めて見せた。

        

(26)

ここは全ての流れを堰き止め溜め込む「嚢」だった。

確かに、上空から一望する都市は三方を折り重なった山に囲まれ、南西方向だけがまるで袋の口を開けたようになっている。盆地と呼ぶほど明らかでもないが景観の殆どは山野という、ともすれば廃れて消える地方都市だろう。

しかしここには太古、双子の巫女姫が治める都があった。

        

二つ腹陰陽の姫、先ず六つの人柱、五種の獣、四種の蟲を土中に納め気を操らむ。

       

千余年の昔、二人の姫は先述の贄を用いて嚢の口、広い平原に繋がる開口部の中央、やや内側に、人工の山を築かせた。それが今ある「鎮守の丘」であり、八合目に建つ「社」こそが、双子の姫のうちの一人、「千世(ちせ)姫」の御殿だった。

果たして、それまでは、痩せた土地に根付く作物もなく、平地の北東から南に向かって流れる川が氾濫すれば水捌けの悪い土地柄のせいか必ずといっていいほど疫病が発生し、飢えと貧しさにこの土地を棄てるものが後を絶たなかった都に、突如清廉な気が流れ込む。ただ諾々と全てを受け入れ膿み腐らせるだけだったこの場所に、二人の事業は気の流れを作ったのだ。

これにて活気を取り戻した都はその後千年大きく失墜する事なく、現在は中核地方都市にまで成長した。中央に比べれば安い土地や人件費は魅力的であり、流入し決められた経路を通って出て行く「気」はこの地の情報を世間に広げて、今や地方トレンドの発信地として全国的にも名を馳せている。

千年前と変わらぬ山々の頂、うねるように流れ続ける「野蛭川」。田畑は随分と消えたが平地の形状は大きく様変わりすることなく、その全てを「鎮守の丘」が見下ろしている。

平坦な地面から突如森が生えたような錯覚を抱かせる丘は千年後の今、度重なる伐採や戦火、自然の山火事などを経て、樹齢数百年の大木と若々しい木々の混在する奇妙な場所になっていた。幾度となく開発の手が伸び、一度は丘そのものを崩して高速道路を通そうという計画も持ち上がったが、全ては…実現せずに頓挫する。

発案者が原因不明の熱病に冒され倒れていく。

測量士が落石に合って怪我をする。

時には発注業者が突然の不渡りに倒産を余儀なくされたり、受注業者の代表が暴漢に襲われて入院したりと、最早これこそが都市伝説の筆頭ではないかと思えそうな不可解な事象が続き、ついに、「鎮守の丘」には国家でさえも手を出さなくなった。

中でも住民を巻き込んだ大騒動になったのは、今から四十年ほど前、高度経済成長の波が地方都市にも派生した頃だろうか。都市を囲む山と丘の一部を削って、北から南に走る高速道路のジャンクションを建設する計画が突如持ち上がったのだ。

それまでの経緯を知る住民は反対した。議会も国に対して高速道路の迂回を申し出た。経済効果? 地方活性? そんなものの下す微々たる恩恵よりも、住民は「鎮守の丘」の祟りを恐れた。

ところが、そんな世迷言など一蹴されるのがオチであり、計画は当時の地元選出国会議員のごり押しで本院通過直前まで進んでしまった。蒼褪める住民。祟りを信じない若い議員。儲かる話に群がる亡者ども。

身の危険をギリギリまで引き付けて、ようよう「鎮守の丘」は重い腰を上げた。

ある日突然。関係機関全ての場所で、「赤頭百足」が大量発生したのだ。

阿鼻叫喚である。

害虫駆除業者は昼夜を徹して百足を追い回し、女性職員は残らず精神的な苦痛を訴えて休職し、議会と言う議会は空転し最早全ての建物をナパームで焼き払うしか解決方法はないと怪しい専門家が発表する騒ぎに発展する。

そこで事件を追っていた某テレビ局の取材班が辿り着いたのが、「鬼百足の岩屋」を有する「鎮守の丘」の社だった。

当時の主…ユライの祖母に当たる…は取材に対しこう答える。

       

丘から手をお引きなされませ。よもや二度と、手をお出しになられますな。

        

なんだか判らないが精神的に疲弊していた当時の運輸…高速道路は運輸省の管轄だった…大臣は、すっかりやつれて目の下にクマを作り、乱れた髪のままテレビに出て宣言する。

南北縦貫道路の建設を白紙に戻す。

直後、建物のどこにでも居た朱色の頭のグロテスクな百足は、潮が引くように姿を消した。

ちなみに、あれほどの数が各所に居たにも係わらず、百足による咬害は一件もなかった。

         

(27)

百足の凶暴さも、容赦のなさも、「都」の風景も、つまりは千年変わっていない。

「鬼百足の岩屋」と呼ばれる落石の塊に腰を下ろし、マトイは丘の北東に広がる平野を眺めながら薄笑いを零した。生い茂った木々はその周辺だけ綺麗に朽ちて剥げ頭のようになっており、岩場もないのに自然石がごろごろと積み上げられていて、男はその天辺に上って下界を見ている。

風もないのに時折下草がざわめき、木の葉が揺れる。八合目の社周辺では虫の声も夜活動する鳥の気配もあったが、ここにあるのは薄気味悪い静寂とこちらを窺う無数の目だけだった。

一番新しい地下道の地図をポケットから取り出して顔の前に翳したマトイは、三軒町駅方向に身体を向け直した。「口」だとされる部分を南に向けて見つめ、ついと視線を動かして下界の光を確かめる。

血液のように流れる車のヘッドライト。

ちかちかと煩い街の光。

灯かりの消えたオフィス街はモノリスのように暗く佇み。

天上で、星が瞬く。

ふと、西側の麓から何か、姿は見えない巨大…というよりも、長大か…な何かがぞわりと立ち上がり、身をくねらせて丘の周囲を回ると、八合目の社辺りに吸われて消えた。それっきり音沙汰のないのに不満げな息を吐いたマトイを、アレは今頃笑っているのだろう。いやいやいや。アレが笑うワケなどないか。

薄気味悪い化け物が。てめーは忠犬か。

悔し紛れに内心で吐き捨て、わざと牙を剥いてみてからマトイは、おやと首を捻った。

「犬?」

そりゃカイジュウじゃねぇわなと呟いて、でも何か引っ掛かって、再度地図を見る。

細長くうねった地下道の中央辺りは貧相にふくらみ、その前後にまるで手足のように短い、折れ曲がった坑道が繋がる。南は「口」。ならば、他より長く北に伸びるのは「尾」か? と詮無い思いを適当に遣り過ごそうとしたマトイの脳裡に、リョウの職場でハネて来た一枚の新聞記事が閃いた。

地下道掘削中に地下水噴出。作業員二名が陥没部から転落したものの、コンクリートの下に溜まった地下水は水深四十センチ程度、幅一メートル弱、長さ三メートル強ですぐ土中に吸われ消失。その後再度地盤を調査した結果、全体に湿った地質は認められたが水脈らしいものは見つからなかった。

「…噴出してすぐ消えた地下水」

チナツが見せてくれたとナノリの言った「古地図」

実体のない地下水。

人食い地下道。

カイジュウの口。

         

都市伝説。…「伝説」。

        

マトイはぱちりと指を鳴らし、顔の前に翳していた地図を皺だらけにしてスーツのポケットに捻じ込んだ。

「血の匂いに誘われて目を覚ましたのは、「あの鰐」か!」

逆から入って男と女の話を聞いたのが失敗だったなと今更ながら反省しつつ、マトイは岩屋の天辺からひょいと飛び降りた。

「なるほど、工事の騒音で叩き起こされて寝ぼけてたとこ、ようやく本格的に目ぇ覚ましそうなワケですか、鰐め。

となると、「竜」退治に乗り出すより先に、別の怪現象で人払いしとかなきゃダメじゃね?」

恐ろしい勢いで木立の間を走り…というよりは、飛び跳ね…抜けながら、ジッソウか、ナノリか、自分か、はたまた別の「誰か」かと、マトイは高速で考えを巡らせる。

視界を遮る枝を腕で振り払い、「鎮守の丘」の周囲をぐるりと走る公道に跳び出してからぴたりと足を停めたマトイは、ポケットに両手を突っ込んでがくりとうな垂れた。

「人畜無害で意味不明ときたら、結局俺しかねぇじゃんよ」

地下道管理者さんアンド清掃業者さんごめんなさい。と誠意なく心の中で呟いて、男は夜の闇に紛れるように歩き出した。

       

   
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