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    人喰い地下道    
       
(28)-(32)

   

(28)

ユライが教室のドアを開けると、一瞬吸い付いた視線が慌てたように振り切られて、少女は薄笑みを浮かべそうになってしまった。

平和だわ、恋愛命のじょしこーせー。他に考える事ねぇのかよ、ばーか。

と、はしたなくも心中で暴言を吐き、しかし涼しい顔を保って机の間を擦り抜け自分の席に着く間際、黒板に近い場所でたむろっている数名の内、先日野球部のOBとゆらいを「引き合わせてくれた」少女に胡散臭いほど完璧な作り笑いを向ける。

「この前、どーもね、シズカちゃん。リョウさん、助かったって言ってたよ」

「あ、ううん。どうせアタシは話通しただけだし、いいの。それで、ゆらいちゃん、その…りょうさんて、何者なのよ」

心なし引き攣った笑顔で答えて来た当人と、どこか冷たい視線をユライに向ける少女たち。

「少女」たちは純真で潔癖だ。本当はそうでなくても、自分たちはそうだと信じている。

だから「鹿叉ゆらい」という人間は大抵の少年や少女、もしかしたら大人たちの中で、酷く汚らしいものに見えるのだろう。まぁ、そんな「噂」本人にとってはどうでもよく、放置したツケが諾々と来ているだけなのかもしれないが。

「けーさつのひと」

素っ気無く言い放ったユライは、一瞬硬直した少女たちに目もくれず、ひらひらと手を振って自分の座席に着いた。

刹那の停滞を経てまた教室にざわめきが戻る。

平和バンザイ、これが「日常」で、自分は日常からとうにはみ出しているとユライは内心微笑ましく思った。

「ゆうちゃん! ねー、聞いた? 聞いた? 聞いた?」

「…おはよ、シノ。朝から元気いっぱいね」

がらりと教室の戸が開くなりきゃあきゃあした可憐な声で呼ばれて、ユライはうんざりした顔をそちらに向けて呆れた声を出した。

飛び込んで来てゆらいの前の席に座った矢作志乃−ヤハギ シノ−は、ふわふわにカールさせた長い髪を振り回してユライを振り向き、机にしがみ付くようにして少女の顔を覗き込んで来た。大きな目と長い睫、色つきのリップスティックを綺麗に塗った可愛らしい彼女は、ユライの数少ない友人の一人だった。

目前を行き過ぎ、ともすれば顔面を掠りそうになった亜麻茶色の毛先を素晴らしい身のこなしで避けたゆらいにも気付かず、シノが興奮した様子でまくし立てる。

「例の「人食い地下道」に進展あり! 世間は今その話題で持ちきりよっ!」

ばん! 机を叩いたシノのか弱い手をなんとなく見つめ、ユライは「へー」と生返事した。関係ないが、自分がそんな事をしたら机が真っ二つになり兼ねないと思う。

「ていうかそれどの世間? あたし、知らないんだけど」

友人の笑顔を見ながら、少女は内心「早かったなぁ」と嘆息した。

まさに昨日の今日か。リョウとマトイが動いたのは昨日の昼過ぎで、今日もう進展があったとすれば、事件が小物だったのか、急を要したのか…。

「おめーが世間に無関心過ぎんだよ」

新鮮な噂を知らないと答えたユライにシノが浮き浮き話かけようとした途端、別の声が二人の間に割って入る。

「無責任な世間があたしにもうちょい無関心になってくれたら、聞き耳くらい立ててもいいけど?」

冷たく言い返されて。

腕を組んでシノとユライを見下ろしていた男子生徒が、心底どうしようもないと言いたげに苦笑を浮かべた。

君島剣也−キミシマ ケンナリ−。

「おめー、ホント可愛くねぇ」

ケンナリは溜め息みたいに言いつつ、担いでいた剣道の防具と竹刀を床に降ろした。

       

(29)

自習だったのが幸いして、一時間目は教室のあちこちで固まった仲良しグループが笑いあったり、ひそひそ話したりしていた。当然、ユライとシノ、ケンナリ、それから、庵庵白桜−イオリアン ハクオウ−という、小粒で女の子のような顔をした少年も額を突き合わせ、世間で持ちきりらしい噂話を披露し合っている。

とはいえ、話しているのはもっぱらシノとハクオウなのだが…。

「とまぁ、ここまでがゆうちゃんも知ってる「人食い地下道」の噂ね?」

手にした電子手帳に視線を落として言う、母方の祖母がドイツ人だというハクオウは、艶々の黒髪にも係わらずなぜか目が緑色で、色が白くて少女のような外見も合間って女子から人気が高い。それなのに本人は全く女の子に興味がなく、双子の妹を溺愛していて滅茶苦茶なオカルトオタクという、ケンナリ曰くイタ過ぎる人物だった。

などというケンナリ本人も見た目は悪くなく剣道部の主将で女子の人気も高いのだが、こちらは筋金入りの剣道オタクで暇さえあれば素振りをしているような人物だったから、ユライに言わせれば目くそ鼻くそを笑うという所か。

さて。例のシズカという少女がユライを邪魔者扱いする原因はどちらなのかと机に頬杖を突いて考える少女の意識を現実に引き戻す、シノの声。

「それが今朝急展開っていうか大進展? ついに、飢えた「人食い地下道」が涎を垂らして世間に恐怖を!」

言われて。

ユライは二秒ほど考え込み、いきなり吹き出した。

「あははは! 何、そのB級ホラーの煽り文句みたいなの」

整った顔立ちに似合いの冷たい表情が多いユライの大爆笑に、釣られて、ケンナリとハクオウも苦笑を漏らす。

「やだなぁ、ゆうちゃん! 笑い事じゃないんだよ? すっごい大事件だったんだから!」

か弱そうな拳を振り上げて力説するシノの上気した顔をちらりと見遣り、ユライはなんとか笑いを押さえ込んだ声で問うた。

「もしかして、見たの? シノ」

地下道の涎とやらを。

「ううん、見てない」

急に小さくなってふるふると首を横に振ったシノの照れ笑いを、今度はハクオウが笑う。

「まぁ、ヤハギじゃない人は結構見てるよ、その怪現象。ボクが調べたところによると、第一発見者と駅員、地下道を管理してる警備会社の警備員、いたずらだって通報を受けて来た駅前交番の警官、それから、後で呼ばれた清掃業者の社員とか、始発を使おうとして駅に集まってた利用客の一部とかね、百人近くが見てるかな」

多い。というのがユライの率直な感想だった。もしマトイが何らかの意図を持ってそれを仕掛けたのだとしたら、彼の目的は明日にも新しい都市伝説を流布させる事なのか。

よくもまぁこの短時間でそんだけ調べたな。というケンナリの呆れた声に、ハクオウが尾鰭の突く前に情報が欲しかったんだよと冷静に答えている。微妙な気分。

既にその怪現象自体が、「人食い地下道」の尾鰭かもしれないのに。

「で、結局その「涎事件」て、何?」

事の詳細を知らないユライが訊ねると、シノがまた嬉々として話し出す。

「ほら、あの「人食い地下道」の口、ゆうちゃんだって知ってるよね?」

「正式名称は三軒街駅地下道南口」

「その口のガラス戸に、今朝、得体の知れない透明な粘液が天井から床までべっとべとに着いてたんだって」

「周囲にはなんか黴臭いっていうか、湿った匂いが漂ってて薄気味悪いものだから、今日は地下道使用禁止みたいだね」

んー。と顎に細い指を当てたハクオウが緑色の瞳で天井を見上げると、教室のどこかできゃぁと歓声が上がった。

交互に話すシノとハクオウ。ユライは時折口を挟む質問者で、ケンナリは完全な聞き手だった。

閉じた口の垂らす、涎。

「…それ、成分とか判んないの? ハクオウ」

「採取出来てないから、わかんない」

大仰に肩を竦めて首を横に振るハクオウの心底残念そうな顔を見つつユライは、制服のポケットから赤い携帯電話を取り出した。

        

(30)

「―――沼の水?」

眉を吊り上げて聞き返したユライに、電話の向こうの人物は溜め息混じりにそうよと答えた。

『とはいえ、完全な「どこどこ沼の水」じゃないけどね。微生物も確認されたし、水生植物の茎の一部も混入してたらしいけど、それがどうしてあんな糊みたいにねばねばしてるのかは判ってない』

「その沼は特定されてないんですか?」

『今調査中。管轄、保健所よ』

「…人体に影響みたいのは?」

『不衛生って所以外はないわよ、沼の水だもの』

沼の水の衛生状態の悪さって、結構怖いのよ? などと付け足されて、ユライははぁと生返事した。

『…まさかゆうちゃん、何か心当たりあるの?』

ユライが地下道の噂に進展ありと報告がてらリョウに電話してみれば、さすがに今朝の情報はもう彼女にも届いていた。それならと内容を質問に切り替えると、意外にも彼女は少女の問いにすらすらと答えてくれた。

「いえ。友達が、その粘液の成分て何かなー、なんて言うもんで」

微妙に剣を含んだリョウの声に、ユライが慌てて作り笑いを浮かべる。見えてないと判ってはいるけれど。

『そう。…ねぇ、ゆうちゃん、その時の状況見た生徒とか、居るかしら?』

「事件」にもならない「事件」に私服警官が派手に首を突っ込むのは頂けないのか、ある程度署内の情報は手に入るものの迂闊に動き回る訳にも行かないリョウが、声を潜めてユライに訊く。それで少女は一旦電話を耳から離し、ハクオウに小首を傾げて見せた。

「怪現象の目撃情報あり? ハクオウ」

「少ないよ、二件」

「上出来上出来。…情報ならありますって、リョウさん。え? ああ、オカルト信者でシスコンの友達が登校前に調べて来たヤツです。マトイとは無関係」

というかシスコンは要らない情報でしょー! と頭を抱えて悲鳴を上げる、ハクオウ。

「…て、「リョウさん」?」

しかしハクオウはそこで、ユライの漏らした名前に反応を示した。

「聞いてメールします? 一応学生の身なんで、すぐは無理ですけど」

「あ、ダメ! ボクが直接行って話したい!」

がたんと椅子を鳴らして腰を浮かせたハクオウの眩暈がしそうなきらきらの笑顔に、ユライは頬を引き攣らせた。

「だって、ゆうちゃんの言う「リョウさん」て、都市伝説対策課の人でしょ!」

いいえ、警視庁都市生活安全対策課分室の人です。と、ユライの耳に、リョウのうんざりした声が聞こえた。

       

(31)

怖い話って、みんな結構好きだよね。

どうせ自分の周りでは起こらないって思ってるし、実害のない共通の話題であって、同じ「恐怖」を共有出来るものだから。

       

四時半までに話が終わらなかったら自分はとっとと帰ると、リョウの顔を見るなり挨拶もそこそこにユライは言った。

「日暮れ早くなってるんで、四時半過ぎるとジッソウが迎えに来ちゃいますから」

淡々と述べられた「シッゾウ」という名前に一抹の薄ら寒さを感じつつ無言で頷いてからリョウは、ユライの傍らに座っている小柄な男子生徒に視線を向けた。

「始めまして、イオリアンハクオウと言います」

「始めまして。よろしくね、庵庵くん。大嶺嶺です」

すちゃ! と機敏に立ち上がったハクオウに大人の笑みを見せたリョウを、椅子に座り直したユライがくすりと笑う。その笑みの意味が判らず不審そうな顔をしたものの、彼女はすぐに椅子に腰を下ろした。

「それで、えーと…。後ろの二人は自己紹介してくれないのかしら?」

言われて、ユライたちに背を向ける恰好で並んで座っていた黒い詰襟と白いブレザーの肩が跳ね上がる。

「その他大勢の野次馬に自己紹介を求めますか、リョウさん」

「ゆうちゃんの関連項目に追加しとく必要あるでしょう?」

「……善良な学生だってのは言っておいた方がいいですよね」

妙な緊張感のある応酬に、勝手に着いて来たシノとケンナリが他人のふりも忘れて目を丸くし、睨み合うユライとリョウを振り返った。

「すげぇ、さすが女刑事さん。拳闘七段の鹿叉に負けてねぇ…」

思わず呟いたケンナリの側頭部に、ユライの肘が入る。恐ろしい勢いで。

その平和なじゃれあいを微笑ましく見つめていたリョウは、不意に表情を曇らせてがくりと肩を落とした。

「ゆうちゃんが「普通の高校生」だと思うと、なんだか哀しくなるわ」

最早よよと泣き崩れたい心情を意識の外に蹴り出し、リョウはまず後ろの席の二人を呼び寄せた。情報の提供者はハクオウ少年だが、都市伝説という「噂」の部分で、他の生徒の見解も聞いておくのは悪くない。

そう言われて、シノは喜んで席を移り、ユライの空けたハクオウの隣にちょこんと座った。制服を無視するならばどちらも似たような愛らしさに、リョウもつい相好を崩す。

最後に渋々移動して来たケンナリの体格の良さには、さすがのリョウもちょっと驚いた。ハイヒールを履いて百七十を越える彼女と、身長が百七十三センチもあるユライに負けていない。

しかも身体の厚みがあり、やたら姿勢がいい。

「君島君って、何かスポーツやってるの?」

「子供の時から剣道やってます。今も」

剣道部の主将なんですよー、などと話すシノの暢気な笑顔に笑みを返し、納得する。

「青春ねー。ゆうちゃんも何かやったら? スポーツ」

「ありますよ、拳闘部」

初耳。

「やらないの? 強いんでしょう?」

くるりと旋回したリョウの綺麗な横顔を見遣り、少年少女たちが苦笑を零す。シノとケンナリが移動した際、ゆらいは彼女の真横に座りなおしていたのだ。

見つめて来るリョウに笑みも見せず、ユライがけろりと言い返す。

「部活なんかやったら帰り遅くなるじゃないですか。それに、一年の時乱取り組み手で顧問落として、退部−クビ−にされてるんで、あたし」

鹿叉ゆらい、十七歳。

手加減という言葉は、どこかに忘れて来たらしい。

        

(32)

地下道に通じる入口、「三軒街駅地下道南口」の異変に最初に気付いたのは、始発列車を使用して出張する予定のサラリーマンだった。

朝まだき、午前四時半。眠気を振り払いつつ三軒街駅に向かっていたサラリーマンは、本来通り過ぎるはずだった地下道入口前で「何か」にびしゃりと革靴の先端を突っ込んでしまい、眉をひそめて足を停めた。

正面に向けていた視線を靴先に落とせば、未だ薄闇に霞む中、白い街灯の光を照り返す水溜りの長く伸びた先が、足裏に虐げられている。嫌な予感がしてふんふんと鼻を鳴らすと、微かに何か奇妙な匂いもした。いかに人目のない早朝とはいえ、まさか駅前で立小便もないだろうがと、サラリーマンはますます顔を顰めてその濡れた痕跡を辿る。

恐る恐る振り上げた視線の先にあったのは、残念ながらどこぞの酔っ払いの小水溜まりではなく…。

床から天井まであるガラス戸と、その手前に立ち塞がる鉄製の格子状シャッターに分厚く付着し、でろでろと流れて床に蟠っている、何やら得体の知れないものだった。

驚いてなぜか息を停め、サラリーマンはその粘着質な液体から爪先を抜いて大きく飛び離れた。気色悪い。一体なんの工事をしたいんだJRめと口の中で呟き、靴裏に着いたそれをコンクリートに擦り付ける。

その後湧き上がって来た怒りに任せて駅に飛び込んだサラリーマンと連れ立って地下道の入口に行った駅員はしかし、まずこんな訳の判らない工事などしていないと言った。

そこで、質の悪いいたずらか、はたまた新手のテロ行為なのかと蒼褪めた駅員は早急に付近を立ち入り禁止にし、最寄りの交番に通報する騒ぎになる。

「ボクが話を聞いたのは、第一報を受けた駅員に呼ばれて立ち入り禁止のロープを張った別の駅員さんと、警察の現場検証が終わるまで近くで待機させられてた清掃業者の作業員ね。

実は、その粘液みたいなものが人体に有毒でないってのは早々に判ってたようで、一応科学班は来てたらしいけど、すぐ掃除させる手筈も整ってたんだよね」

愛用の電子手帳を開いて話すハクオウの小さな顔を見つめ、リョウは顔を顰めた。

雑な仕事で情報を漏洩させたと身内を非難すべきか、イオリアン少年の行動力を賞賛すべきか、非常に複雑な気分になる。

その粘液が科学物質や発火物でないのは、一目瞭然だった。先の電話でリョウは「微生物と水生植物の茎の一部」が混入していたとユライに伝えたが、実のところ、混じっていたのはそれだけではなかった。

その他にも、腐った水草の葉や小石、なんと、生きたままのタニシもどじょうも、リョウの知らない何かの幼生らしいものもあったのだ。

そう、どう見てもそれは、透明でねばねばと気持ち悪く変質した、どこかの溜め池か川底の泥のようなものだった。

「その粘液は、きっちり地下通路入口の天井から床まで、左右の柱から柱まで、隙間なく付着…というか、そういう小奇麗な状況ではなくて、とにかく、丁寧に満遍なく、べったりと塗り付けられていたんだって。

ああ、それ、粘液って言われているけど随分硬い? 物質みたいで、含んだ水分が多少地面に流れ出ていたものの、本体の方は自重に負けて垂れている様子もなかったって、駅員さんは言ってた」

「…地下道内部の方の状況、判ってる人っていないかしら」

手早く必要な情報だけを自分の手帳に書き止めていたリョウが、独り言のように呟く。

「粘液どころか水分の流入も、地下道内部にはなかった」

ハクオウに問うた訳でもないつい洩れた一言にきっぱりと答えられて、リョウは思わず少女のような白い顔を凝視してしまった。

黒髪をやや長めに伸ばした、透き通った緑色の目の少年が、どこかしら人懐こい猫のように目を細めて微笑み、小首を傾げる。

「だからね? オオミネさん。これって…やっぱり怪異だなーって、そう、思わない?」

        

なぜなのか。

       

リョウにはその時のハクオウ少年が、真っ赤な舌を出して口の周囲をべらりと舐める、黒猫に見えた。

       

   
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