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    人喰い地下道    
       
(33)-(37)

   

(33)

そこは警察機関の庁舎とは関係ない、「呼人駅−ヨヒト エキ−」前近くの雑居ビル四階にあった。

日も暮れて、既に課長も退所した時間に分室へ取って返したリョウは、とにもかくにも雑多に色んなものが散らかっている課内に飛び込み、自分のデスクのスタンド一つを点して、散乱する資料から目的のものを見つけ出そうと辺りを掻き回しはじめた。

しんとした静寂を攪拌する、紙束の擦れ合う音。封筒ごとに纏められた「事件」の資料を邪魔な順番に床に落とし、随分前に入手した「鎮守の丘」を含むこの一帯の古地図を探し出して、デスクに広げる。

それから、昨日マトイの読み散らかした「人食い地下道」関連の新聞記事のスクラップを取り上げて、一冊目の一ページ目を開いた。

室内の暗さを映したバツが視界に飛び込み、リョウが眉を寄せる。青い極太マジックでつけられたはずのそれは、スタンドの灯かりの下ではなぜか黒く見えた。

「水分」という単語についてちょっと気になる事があるのだと言い出したのは、例の粘液の目撃情報を一通り披露した後のハクオウ少年だった。

基本薄暗く、時に無人になる「地下道」というのは都市伝説の舞台としても、身近な怪談の舞台としても比較的ポピュラーで、ネタには事欠かないという。それに実際の「事件」や「事故」が加わる事によってより真実味を帯びる場合もあるし、実際の「事件」や「事故」からいかにも現実的な「怪異系都市伝説」が生まれる事も少なくはないと、少年は愛らしい笑顔で言う。

まず。あの地下道のほぼ中央にある「水場」について。

あれは地上部分で使われる水の一部を迂回させて一旦外に出し、単調な地下道の光景を替える役割を持っていると説明されていたが、実際、あの水がどこから来ているのかは誰も知らない。という「噂」がある。

一節によれば、過去にあった「地下水噴出事故」の際、あの地下道の真下に大きな地底湖が見つかり、そこには目のない巨大地下生物が生息していて、学者が今も研究を続けているらしいとか、それの水位が下がると「野蛭川」が氾濫する恐れがあるから監視するためにあの水場が作られているとか、曖昧且つ根拠もなく、説明のつかないものが大多数を占めているのだが。

       

「ただし、事実もあるんですよ、オオミネさん。

あの水場、中央に島がある、いわゆるドーナツ状の形なんですが、あそこの水、変な水流になってるんです」

        

通常、ドーナツ状の場所に水が流れているとなれば、単純に横の動きを想像する。循環しているとでも言えばいいのか、右から左への流れだ。

しかしあの水場の水はなぜか、縦の水流だという。縁から奥へ。中央の「島」に向かって水が流れている。

       

「…それのどこが不思議なの? 給排水のシステム上なら、少しも変じゃないでしょう?」

        

リョウが怪訝そうに言うなり、ハクオウはけらけらと、それこそ愉快そうに笑った。

       

「そうなんですよね。ちょっと考えればすぐ判りそうなものなのに、円形の水場だっていうだけで、人は勝手に横に水が流れていると思う。そもそも、真ん中の島に人工の岩が置かれているから、全部が埋め立てられていると考えますよね? でも、あれ、実は中が空洞で、下の方に並んでる小さな排水口から水を吸い込んで岩の内部に溜め、濾過してから下水に流してる、いわゆるフィルターなんですよ」

      

これは「事実」だとハクオウは言う。

オカルトでも都市伝説でもなく、ただの認識不足が起こした「勘違い」だ。

       

「でもですね、オオミネさん? あの地下道で「ある液体」を地面に流した場合だけ、それがどの場所であってもあの水場方向に流れる、というのも、本当なんですよ」

      

水分96%、血漿蛋白質4%、そのほか微量の脂肪、糖、無機塩類で構成される液性成分と、赤血球96%、白血球3%、血小板1%で構成される血球成分の、液体。

       

それが「人食い地下道」の最初の噂だった。

      

(34)

その噂の顕著な例としてハクオウの上げた「事件」と「事故」の証拠を探していたリョウは、新聞記事のスクラップを三度も見直してからがっくりと肩を落として天井を見上げ、思い切り苛立った溜め息を吐いた。

だから、リョウはあの男が嫌いだった。あのルックスで無能だったらきっともう少し友好的な気分になれる。それなのに…伊佐間纏は、リョウが今日になってやっと辿り着いた記事にもう手を出していて、あまつさえ持ち去っていたのだ。

今更それを誰に愚痴っていいのか判らず、リョウは再度大きく嘆息してから顔を水平に戻した。

ないものをないないと騒いでもしょうがない。どこに在るのか、行き先だけは判っているのだからと自分に言い聞かせ、リョウはデスクに広げた古地図に視線を落とした。

現代の都市伝説を「噂−ウソ−」か「真実−マコト−」か知りたいなら、まずその土地の伝説を知れ、とは、転属…左遷…されてすぐに挨拶に行かされた、郷土史家シカマタシオンに頂いた有り難いお言葉だった。

そのシオンがなぜか「都市伝説対策課」の外部管理員であり、リョウ左遷の元凶たるユライの実父であると知った瞬間、彼女は眩暈で倒れそうになったものだ。

運命の悪意を感じた。

その悪意が今現在も弱まる事無く、自分に注がれているとも思う。

眉間に修復し難い縦皺を寄せたまま、リョウは古地図に描かれた「鎮守の丘」を探し出して指を置き、そこから北東方向へと真っ直ぐ線を引くように指先を滑らせた。田畑、街道、集落。「鎮守の丘」以外には凹凸の少ない平坦な地図の右端にはうねる蛇のような川があり、平地には池や沼が点在していた。

「…―――あ、った」

筆で描かれた地図のコピーをなぞっていたリョウの目に留まる、歪な円。斜めに引き伸ばされた楕円に近いそれに小さく書き添えられた文字は、間違いなくハクオウの言ったものと合致している。

「竜ケ滝」

池か沼か、せめて淵くらいなら納得出来そうなのに、「滝」とはまた訳の判らない名前ねと呆れ半分で呟きつつ、今度はそれに最新の市街地地図を並べて位置を確認する。

「三軒街駅」と「竜ケ滝」からそれぞれ「鎮守の丘」の方向や距離を目測すると、間違いなく、二箇所はほぼ同じ位置にあった。正確に言うならば、現在の駅から北西方向に伸びる恰好で、昔「竜ケ滝」があったのだが。

      

「竜ケ滝には、昔、竜が棲んでいたといわれてたんだよね? ゆうちゃん」

「んー。まぁ、そういう「伝説」になってるみたい」

      

気性の荒い「竜」は、近付く人間をことごとく捕食し巨大に、強大になった。

目に余るその暴挙に二人の巫女姫は「竜」に出て行けと告げたが、「竜」は聞く耳を持たず、あまつさえ、訪れた巫女たちを喰い殺し、その「力」を手に入れようとした。

       

「二つ腹の巫女姫には「異形」と呼ばれる幾人もの下僕が在って、「竜」はその「異形」の手で滝壺に沈められ、埋められてしまった。っていうのが、「伝説」のあらすじ。折りしも現代、その「伝説」の上にあの「人食い地下道」は…」

      

長く伸ばした首、大きく開けた口、長大な胴体に短い手足を蓄えた、伝説の「竜」のごとく横たわっている。

     

それは「竜」というより「鰐」のようだと感想を述べたリョウに、シノとケンナリは同意し、ハクオウは満足げに頷いた。

そして、ユライは。

       

ただ、静かに、微笑んでいた。

      

(35)

目の荒い写真。

それがマトイの目には異様に映った。

だからマトイは、三つの記事をリョウの手元から持ち去った。

       

辿り着いたら、彼女も、喰われるかもしれない。

     

二つの事件と一つの事故に関する「異様」がマトイの中で解決したのは、意外にも、時間的にはリョウと大差ない、今日の午後だった。

明け方に一仕事して部屋に戻り、午前中いっぱいを寝て過ごしたマトイは、いつもより遅い時間に事務所へ顔を出した。すると、昨晩床に散らかしたままだった地図と新聞記事の前に、キッカが立っていたのだ。

「ごめんね、キッカ」

「遅いよ、マトイ」

振り返らずに呟く少女。

肘掛け椅子のすぐ手前にまで散乱した書類を避けてなのか、珍しく立ったままの少女の傍らにしゃがんで三軒街駅付近の地図に手を伸ばしたマトイの額に、ぽす、と黒猫の後ろ足で蹴りを入れる、キッカ。

アイタ。とわざとのように痛そうな顔をして、それからへらりと笑ったマトイの眼前で、件の仔猫がだらりと手足を弛緩させる。

「ぺろぺろ。ごくん。ぱくん。むしゃむしゃ」

キッカは抑揚のない声で言いながら仔猫の両前足を左右の手で掴み、右、左、と舐める仕草なのだろう、丸い先端を片方ずつ口の形の縫い取りに擦り付けてからお辞儀するように首を下げ、それから大きく仰向け、正面に戻して小さく頷くように何度も上下させた。

その一連の仔猫の動作がキッカの口にした擬音に見合った行動だというのは、マトイにもすぐ判る。少女は沢山の感情、沢山の出来事、沢山の結果、沢山の声にいつもいつも悩まされていて、だから、全てを「閉ざしてしまった」。

そして唯一その少女と「外」とを繋いでいるのが、この黒猫のぬいぐるみなのだが。

「白」という名前の、黒猫の。

肘掛椅子の前が拓けると、キッカは「白」の手で顔をこしこし擦るマネをしながら、それにすとんと座った。細かい花柄の、ピンタックも精緻なフリルのドレスが、今日も可愛らしい。

        

ぺろぺろ。ごくん。ぱくん。むしゃむしゃ。

     

散らかした地図を回収し、ついでにスーツのポケットに捻じ込んでいた皺だらけの地図も重ねたマトイが、それを、今までずっと何もせずに突っ立っていたイレーネに手渡す。

それからリョウの纏めた新聞記事のスクラップに視線を落として、マトイは…気付いた。

「……マキ、これ、この事件と事故の起きた場所、地下道のどの辺だか特定出来る?」

不意に険しい表情で顔を上げたマトイに指示されたナノリは、背後にある小さなドアを開けて、中からチナツに渡された茶封筒を取り出した。

「写真見せて。昨日、言われた通り地下道内は全部調べてある」

口から入ったマトイは行くなと言われた枝道を含めた地下道の詳細は昨日の内にナノリが調べ、特に異常はないという報告がマトイにもなされている。マトイもナノリも普段は大抵公共交通機関を使うのだが、三軒街駅から駅裏に抜ける地下道は歩いた事がなかったのだ。

またも床に並べた三つの記事の手前に広げられた、地下道の俯瞰図。

「サラリーマン暴行事件は東1通路の出口付近、レイプ事件は西2通路から作業通路に入ってすぐの配電室前。事故の方は記事通り南口」

しゃがんで地図を睨むマトイの視線の先で、ナノリの細い指が三箇所に点を穿つ。

「――あの通路さ、中央が少し盛り上がってて、壁に向かって傾斜してんだよね」

「排水のためでしょう?」

マトイの肩越しに地図を覗き込んだイレーネが呟く。

「そうです、イレーネ正解。だとしたら、つうか、だったら? か。

この写真、変じゃねぇ?」

言ってマトイは、黒く真っ直ぐに伸びた血の筋を指差したまま、イレーネとナノリの顔を順繰りに見回した。

       

(36)

洗い流される前の生々しい写真が載っていたのは、事故のものだけだった。

排水のため中央部が微かに盛り上がった地下道の床。

その床に、墨のように流れる赤い物。

しかしその墨は。

左右に流れる事なく、真っ直ぐに、地下道の奥へと「吸われて」いた。

     

「それがつまり、「人食い地下道」の噂の走りなんだよね。暴行事件の発見者に比べて、南口で起こった事故の目撃者は多かった。その、大勢の目撃者の内の何人もが、それをおかしいと思った。

だから、あの地下道は「噂」になった。

血を啜る、人喰い地下道、ってね」

      

それで、「気になる」というだけの理由で過去の事象を洗い直し、八方手を尽くして…どうして高校生にそんな事が出来たのか甚だ疑問だが…過去の事件、事故の写真や資料を調べ上げたハクオウは、地下水噴出事故から三年後に起こったサラリーマン暴行事件以降、その現象が起こっているようだと分析したらしかった。

血液ないし血液成分の混入した「水分」だけが、左右の溝に排水されない。

結果的にそれが洗い流されてしまうのか、踏み荒らされて正体を亡くすのか、はたまた本当に「地下道に食われる」のか判らなかったのは、致し方のない事か。

夕暮れを過ぎ、帰宅するサラリーマンの数も随分まばらな三軒街駅に到着したリョウは、すっかり掃除された地下道南口を恨めしげに見上げ、大仰に嘆息した。

勢いでここまで来てしまったものの、正直、今すぐはいさようならと踵を返して帰りたい。人食い地下道なんてオカルト話を信じている訳では断じてなく、しかし、封鎖された地下道の入り口は薄暗い上に金属製のシャッターで固く閉じられていて、薄気味悪い。

痴漢でも出たらどうしてくれるのよ。と考えてみたが、その痴漢に黙って触らせる理由が全く思い浮かばず、出てきたら喜んで現行犯逮捕してやると結論を出した。

一旦駅舎に向かい、改札の職員に身分証明を提示したリョウは、今朝のいたずら事件…という事になっていた…のちょっとした確認があるのでと出任せを言って、封鎖されている地下道南口に駅舎から侵入する通路の通行許可を取った。今日はもうどこの出入り口も閉鎖されているのでと一応注意してくれた駅員に会釈し、トラロープを跨いで暗い通路に踏み込む。

灯かりは、点いていた。

固く閉じたガラス張りのドアの前で一度足を停め、床から天井まで眺めてみる。とはいえ、既に清掃を終えたそこには例の「沼の水」の形跡すらなかった。

そもそもアレは一体なんだったのか。

リョウは眉間に皺を寄せて難しい顔を作ってから、爪先を通路の奥、地下道へ繋がるL字型の階段へと向けた。

駅構内に流れるアナウンスが聞こえる。

電車の発着する音も。

駅前を行き交う車の騒音や。

微かだけれど、人の声。

生活という騒音。

それから薄布一枚隔てた場所に居るような気味の悪さを感じつつ、リョウはパンプスの踵を鳴らしてL字階段をゆっくりと下り、左に折れた。

刹那、ぷつん、と雑音が途切れる。

一瞬、どきりと心臓が撥ねた。

思わず背後を振り返り、首を伸ばして角の向こう、たった今通って来たばかりの階段と、閉じたガラス戸越しに煌く街の灯かりを確かめて、内心安堵の溜め息を漏らす。

無人の地下道と言うのはどうにも気味が悪かったから、リョウはさっさと調査を済ませて帰ろうと思った。

正面に顔を戻し、こつりと階段にヒールの踵を当てる。

長い、通路。

真っ直ぐで寂しい通路。

明るい街とは別世界のようなその場所に一歩踏み込んで。

        

刹那。

      

「どうしてキミはそうやって、俺の邪魔ばっかすんのかな」

無人のはずの通路の真ん中に、なぜか、マトイが立っていた。

        

(37)

リョウが正面から足元に視線を動かしたのは、ほんの一瞬だと思う。

短い階段の最後を確かめようと目線を下げ、壁面に白っぽいタイルの貼られた薄暗い地下道に一歩踏み込んだ途端苦笑を含んだ声を掛けられて、彼女はびくりと背筋を凍らせて顔を上げ、足を停めた。

「伊佐間探偵。どこから沸いて出たんですか」

人の気配などなかったはずの通路に忽然と姿を現した…とリョウには思えた…マトイを咎めるように、もしかしたら、一瞬でも大袈裟に驚いてしまったのを恥じて隠すかのように、剣のある声で問うたリョウに軽薄な笑みを返す男。

「火の無いところに煙は立たないでしょー、ミネちゃん。「まさか俺」でも、コンクリで固められた地下道に沸いて出るほど器用じゃないわな」

マトイは、シルエットの細い流行のダークスーツに黒いシャツ、朱色でストライプの入ったネクタイを締め、いつものようにポケットに両手を突っ込んでそこに立っていた。通路の中央に佇んだリョウをやや斜に構えて、にやにやと薄笑いを浮かべているのが、やっぱり気に触る。

伊佐間纏。

金色のメッシュを入れた赤毛と、灰色の目の。

何か。

リョウはマトイを睨むようにして佇み、男が口を開くのを待った。

「―――わざわざ人払いまでして、首尾よく今晩を乗り切れば「人喰い地下道」なんて都市伝説はいつか廃れてはいさようなら、ってトコまで来てんのに、なんでキミは進んで首を突っ込むかな」

いかにも軽い口調で、それなのに酷く冷たい事を言われているような気になって、リョウは一瞬怯んだ。

気に触る。

いいや。

大嶺嶺は、伊佐間纏のこの「冷たさ」が怖いのだ。

友好的なようにして。優しいふりをして。協力は惜しまない俺は君が大好きなんだと言いながら。

       

ヒトカケラも心を許さず支度された「伊佐間纏」だけを押し付けてくる。

      

「ホント、カグラなんかミネちゃん責めたりしないんだから、俺のトコに持ち込んだ仕事は丸投げしよ? 今度からね」

神無季神楽−カンナギ カグラ−。マトイとも、ユライ、ユライの父シオン母ヒサキ、ダヒラジッソウとも旧知だという、リョウの上司。

緊張に強張った顔で固唾を飲んだリョウから視線を逃がし、マトイは薄っすらと、暗く笑った。

       

「残念ながら、今回「も」巻き込んじゃうけどね」

       

マトイの唇から少し落胆した声が洩れて、瞬間。

地下通路の天井に張り付いた蛍光灯が、ぱぱ、と短く、点滅した。

       

   
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