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    人喰い地下道    
       
(38)-(42)

   

(38)

大袈裟な祭壇も生贄も面倒な呪文も要らない。

テレビや映画や小説の中のおどろおどろしい空想とは違い、極自然になんとなく始まってなんとなく終わる本当の「魔法」というのは、意外につまらないもの。

でも、そうでなければ生き残れない。

マイノリティは、目立ってはいけないのだ。いつの時代も。

        

明滅した蛍光灯の光に驚かされて、リョウは思わず二度瞬きしてから天井に視線を投げた。何が在ったのかとは思わない。「何をしたのか」とは、思ったかもしれないが。

しかし、劇的に周囲の光景が変わる訳でも、目の前のマトイが「何か」になる訳でもなく、やっぱりリョウは苛立たしげに息を吐いて顔を正面に向け直した。何をしたいのか、この男は。無言で、背筋に冷たい空気を感じながらその場に佇んでいなければならないのにどうしても耐えられず、彼女は大きく息を吸い込んだ。

「何が聞こえる? ミネちゃん」

血の気の失せた指先を握り込んで意味のない事でも喚き散らしてやろうとしたリョウを遮って、ふと顎を上げ天井に視線をくれたマトイが囁く。

小さな声。

酷く、良く通る。

咄嗟にそれで口を噤んだリョウの耳に、届く。

      

がーんがーんがーんがーん。

だっだっだっだっだっだっだっだ。

どどどどどどどどどどどどど。

ごんごんごんごんごんごん、ごんごんごんごんごん。

こっこっこっこっ。

たたたたたたたたた。

ざすっざすっざすっ。

かっつかっつかっつかっつかっつかっつ。

かかっ、かかかかか、かっ、かっ。

ああ、わぁ、おーい、そっちの、ばかやろう、ええーっ、はははは、わはははは。

ぱふぇと、あたらしいばっくの、おこづかいねあげ、げーせんよって。

あいつほかの、ぶちょうのばか、ともだちのかれしと、あっちに、ほてるとか。

わかってねぇ、まってよ、うるせ、あめが、おやじのさ、きのうから、うそ。

どすっ、がっがっがっ、ぎゃははははは、ううううう、どすどす、はなぢ、ぎゃはははははは、やめ、きたねっ、かね、じゅうごじゅうろくじゅうしち、げろはくな、うううううう、ていこう、たまけれよ、ぎゃははははは、あれ、つまんね、ぎゃははははは。

かかかかかかかかかかかかかかかかかか、にげんな、やめ、おれたち、ぎゃぁ、どたっ、たすけて、ばたばたばた、ひっ、おおすげぇ、びりっ、やめ、おれのこっく、ううぐうっ、ぐちっぐちっ、はっはっはっはっは、いくっ、はぁはぁはぁはぁ、ううううううううっ。

あーんあーん、ばたっ、どたっ、きゃあああ、ごめんなさい、あーんあーん。

      

瞬きも許さぬ刹那で一気に押し寄せた大量の音が、リョウの脳を激しく揺さぶる。頭を押さえつけ、身体を押さえつけ、周囲を取り囲んだ無数の人間が口々に大声で喚き、擬音を発しているかのような錯覚に、彼女は蒼白になってぶるぶる震え出した。

圧して来る音。

完全に硬直し焦点の定まらない瞳だけを揺らしているリョウを、マトイは離れた場所から眺めている。男にもまた大音量の騒音が届いていたが、彼にとってそれは「特に珍しい現象」ではなかったから、適当に遣り過ごせた。

途切れる事なく続く音声と共に、佇むリョウとマトイを通り抜けて透明な人間が歩き過ぎて地下道に吸い込まれ、時に奥から現われては地上へと消えて行った。折り重なって押し合ってへし合って激流のように動き続ける透明な気配の波は、老若男女入り乱れているようだった。

ついに、リョウががくりと膝を折ってその場に座り込んだ。不自然に上半身を傾斜させたままコンクリートに膝を置いて顔を伏せ、搾り出すように唸り始めた彼女をいっとき見つめてから、マトイがやれやれと肩を竦める。

怪異が怖いくせに、アンテナの受信感度がいいのは考え物だ。

「イレーネ、ミネちゃんの周囲だけ、閉じてやってくんね?」

溜め息混じりに言ったマトイは、どこかから聞こえて来たイレーネの呆れた笑い声に、ちょっと顔を顰めた。

      

(39)

地下通路の天井に張り付いた蛍光灯が、ぱぱ、と短く、点滅した。

それにはっとしたリョウが、遥か前方に吸われていた視線を佇むマトイに戻し、何度も瞬きする。

「…な……に…?」

何かあった、自分に。でも、それがなんなのか理解出来ない。

一瞬前の記憶が綺麗に飛んでしまっているような、一秒間だけ夢を見ていたような気持ち悪さに、リョウは思わず小さな声を漏らした。しかし正面に立つマトイは先から全く動いておらず、相変わらず軽薄そうに口の端を歪めている。

その、マトイの細長い腕がすうと持ち上がり、リョウの背後を指差す。

差された彼女は、本当に大袈裟にびくりと身体を震わせてから、その指先が自分ではなく自分の後ろに向けられているのだと気付いて、振り返った。

途端、白いスニーカーが角から覗き、すぐに、黒い詰襟の学生服に身を包んだ男子生徒が一人、階段を駆け下りて来て踊り場に姿を見せたではないか。

『よっと』

たん、と平面を蹴ったスニーカーの底。男子生徒は踊り場の先、L字の後半部分を一気に飛び降り、危なげなく着地した。

『…って? なんだよあいつら、もう奥まで進んだのかよー。待っててくれてもいいじゃん、薄情ものどもめ』

酷く歪(ひず)んだ、電波の受信状況が悪いラジオ番組みたいに近付いては遠ざかる細かいノイズ交じりの声で呟き、肩からずり落ちそうになっていたボディバックを掛け直した少年が、日焼けした顔に不満の色を滲ませて口を尖らせる。その、スポーツマンを思わせる刈り込んだ短髪と、今時逆に新鮮味さえ感じられる黒い詰襟の学生服にリョウは、きゅっと形の良い眉を顰めた。

通路の真ん中に佇んでいるリョウとマトイなど目に入って居ないかのように、ふうと息を吐いて正面に顔を向けた少年が軽い足取りで一歩踏み出す。リョウが、そのまま進んだらすぐぶつかってしまうと正常に考えたのは、ほんの一瞬だけだったが。

少年は迷いなくリョウに体当たりして来た。いいや。実際そうではなかったが、彼女にはそう見えた。

しかし、黒い詰襟の人影はまるでなんの抵抗もなくリョウを擦り抜け滲んだ灰色の尾を引いて更に進むと、にやにやしているマトイをもすうと通り抜けてしまったではないか。

だから、リョウにも判る。

これは、「地下道」の記憶。

「…―――伊佐間探偵」

腹に力を入れていないと掠れそうになる声を振り絞ったリョウは、男子生徒をやり過ごしてその後ろ姿を追って首を巡らせたマトイを睨んだ。

「なんでしょー、ミネちゃん」

男の顔は見えない。

「男子学生は、地下道に駆け込み上部の階段を下りて踊り場に辿り着く前に、消えています」

だから、なんの茶番か知らないが、こんな悪質ないたずらはやめてくれと彼女は抗議しようとした。

「ミネちゃんさ、学生の頃、毎日見てる学校の人っ子一人居ない時間て、想像した事あるかな」

薄い肩が微かに揺れている。男の顔は見えない。

「大勢の人が居て、自分が居て、それでやっとその「場所」が「現実」になるんだなー、なんて考えた事、ある?」

男の顔は見えない。でも、きっと伊佐間纏は笑っている。

       

「もしかして自分がその、誰も見てない「時間」の「場所」に入り込んじゃうかもしんないとかまでは、思わないよね?」

      

走り去る少年の背中に据えていた視線をゆっくりと正面、緊張に頬を強張らせたリョウに戻す。

薄い唇の端を笑いの形に吊り上げて、灰色の目を銀色に光らせて。

嗤い。

       

「異界は薄絹一枚隔てたそこにあってさ、異形は…どこにでも居んだよ」

      

(40)

ずずずずずずずっぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞ。

     

少年は姿の見えない友人に追いつこうと、足早に地下道内部を中央広場に向かって進んでいた。それにしても今日はやけに人通りが少ないなと思って前後を確かめると、自分の他には、入口付近に黒っぽくて細長い人影がこちらに背を向けて立っているだけだった。

珍しい事もあるもんだと、地下道内の静けさなど大して気にも掛けずに小走りのまま正面に顔を戻し。

微かに見え始めた中央広場の緑。

聞こえるはずの水音。

スニーカーのゴム底がコンクリートを叩く音。

少年は再度ボディバックを肩に掛け直し。

一歩。

瞬間。

       

ばくん。

      

視界が一瞬嫌に鮮明なピンクになり、すぐ暗闇になり、何か重くて硬いもので垂直に押し潰される衝撃と表皮がざくざくに引き裂かれる激痛が同時に少年の意識を暗転させる。

     

「っ!」

血飛沫と肉で歪んだ孤を描きつつ千切れ飛んだ膝から下を、遠くで起こっているにも係わらず目前で繰り広げられているもののように凝視して、リョウは声にならない悲鳴を上げた。いきなりその「口」に飛び込んでしまった男子学生と違い、彼女には何が彼を「喰った」のか、はっきりと見えている。

それはごつごつと固く尖った鱗に覆われた口を地下道と同じ大きさに広げ、内臓に繋がる口腔を晒して、無防備に飛び込んできた翅虫でも飲み込むかのようにあっさりと少年を丸呑みにした。大きな口。細長い口。生々しい桃色の口内には舌がなく、象牙色の歯が鮫のようにぞろりと幾重にも生えていた。

口の中のものを咀嚼するようにそれが顎を動かすと、真っ赤な体液が口の端から、歯の隙間から地面に降ってばたばたと音を立てた。気持ちが悪い。頭を横にしたり斜めにしたりして「肉」を喰うそれから目を離す事の出来ないリョウは、込み上げて来そうになる胃液を必死になって押し留めた。

ごくりと、肉塊になった男子生徒を呑み込んだそれは器用にも、床に転がって赤い染みを作っている膝から下に剥き出した歯の先端を引っ掛けて上空に放り上げ、またも、ばくん、と歯をあわせた。

これが、消えた生徒の「顛末」なのか。

リョウには、匂い付きの悪夢だとしか思えないが。

例えば目を逸らし、その場に座り込んで泣き出すとか、気を失うとか出来るくらいに肝が据わっていれば良かったと、リョウは今回も考えた。それすらも出来ない。目を離したら何をされるか判らない。

だから瞬きもせず。

大嶺嶺は。

美味そうに生肉を噛み砕くそれと。

伊佐間纏。

       

見ていた。

      

(41)

目に掛かる長さの赤毛に走る、幾筋もの金色。

色の薄い目。

背後でがつがつと顎をあわせて久しぶりの肉を咀嚼するそれなど気にも留めず、マトイはポケットに手を突っ込んだままリョウに近付いた。

冷笑の張り付いた薄い唇。

爪先がぶつかるほどの距離で立ち止まった男を、リョウが頬を強張らせて睨み上げる。これは悪い夢か、幻か、はたまた現実なのか。

       

「キミの経験したモンは結局キミにとっての現実(リアル)でさ、なのに、他人にしたら荒唐無稽な夢物語ってのもアリでしょ? ミネちゃん。キミは元優秀な刑事さんで、殺人犯も強盗犯も外国人マフィアも捕まえてるけど、実際それを見てない大勢にとっちゃ「嘘」か「本当」か判らない話だしね。

だから実は、この世の多くは酷く曖昧なんだよ。だって考えてもみよう。新聞やテレビを賑わす事件、事故。大概の人はそれをどこかで起こった事実だと「信じてる」けども、どこどこ県なになに市なんとかの市道なんつう場所が実は存在してるかどうか知ってるのはほんの一部で、もしかしたら、日本国中の人が「ああ、そんな場所で事故があったんだ」ってさ、思ってるだけかもしんないし。

それでつまり俺が何を言いたいのかつうとだね。

「現実」か「非現実」かを決めるのは、結局自分なんだよ、って事。

噂話、都市伝説。鏡の向こうには異世界があって、深夜灯かりのない部屋でそれを覗くと吸い込まれてしまう。

本当に吸い込まれた人間が居るのかとリアリストが問う。

オカルティストは居るはずだと答える。

さて、どっちが「正解」か。

どっちも正解でしょ。

有ると思えばある、ないと思うならない。とかってぇ事じゃなくさ、個人の認識の違いなんだよね。

固定された事実ってやつは、最初からは存在しない。

事実は、認識を得て固定されるモンだよ」

       

にぃ、と、薄い唇の端を吊り上げて、男は嗤う。

      

「地下道だって、「生きてりゃハラも減る」もんさ」

      

飴色の髪がさらと揺れ、強張った頬に触れる。

冷たい唇。酷く冷え切った唇が言葉を拒絶するリョウの固く結んだ唇を撫で過ぎて、マトイが彼女から一歩退いた。

途端唐突に、饐えた水の匂いを含んだ温い風が正面からごおと身体を叩き、リョウは反射的に腕で口と鼻を覆って身構えた。

それがこちらに突進して来る。中間部が不恰好に太った長い胴体に、先端に爪のある五指を蓄えた短い手足と、ぎざぎざした鱗の逆立った尾っぽ。身体は全体に平たく、ごつごつとして見える。それが全身を忙しく左右にくねらせ肉薄するのをリョウは、なぜか妙に冷静に眺めながら思った。

鰐みたい。

鰐というには首が太くて不恰好かもしれないが。

      

「鰐みたい」

      

声に出してみる。

ははは、とマトイが笑った。

       

「はいはい。ミネちゃん、せいか

       

ばくん。

      

視界を埋めたピンクが唐突に閉じ。

伊佐間纏は、見事に、喰われた。

      

(42)

鼻先で閉じた「口」が迫って来た勢いそのままに引き戻されるのを、リョウは背筋を凍らせて身動き一つ出来ずに見送った。

伊佐間纏は喰われた。

ひと呑みで。

次は自分だとリョウは思った。

恐怖はない。

どうせ夢だ。

夢でなくてもいい。

       

投げ遣りに。

みっともなく何かにしがみ付く事で過去を忘れようとしている。

あの少女のように清らかなまま堕落する事も出来ない。

どろどろとぬかるんだ地面に手足を取られて引きずり込まれるのに抵抗している。

それなのに何も上手く行かない。

        

「いいわ。どうせわたしはとうに、夢と現実の区別が付かない頭のおかしい女だって、そう思われてるんだし」

       

ふん、と鼻を鳴らしてつまらなそうにリョウが呟いた直後、最早後退し切って姿の見えない件の「鰐」が、ぶふぅ、とげっぷした。それを下品だと彼女が眉を寄せる頃、遅れて、腐った匂いの突風が地下道内を奔る。

最悪。

再度込み上げてきた気色悪さに、リョウはますます顔を顰めた。鰐も、伊佐間纏もムカつく。

投げ遣りに。

       

「一体、あなたは何をしたいのよ!」

       

苛立ちに金切り声を上げれば、どこからか、イレーネのけらけら笑う声がした。

何か答えるでもなく、ただひたすら無邪気に笑うその声が筒状の地下道内で弾け、十重二十重と頭上から降り注ぐのを睨む、リョウ。あの事務所にはまともな人間など皆無。立派な紳士の妻だろうが、高名な大学教授の娘だろうが、ただのヘビースモーカーだろうが探偵だろうが、十把ひとからげ、どいつもこいつも「化け物」だ。

        

ぞっ、ぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞっ!

       

一旦姿の見えなくなった件の鰐が、またもや不恰好に手足をばたつかせて奥から高速で迫って来るのを見ながら、リョウはわざとのように溜め息を吐いた。

鰐が口を開く。

口腔は妙に鮮明なピンクだった。

悪趣味。

リョウが嘲笑を込めて小さく呟き。

襲い来る尖った歯が。

         

ばくん。

        

大嶺嶺は、見事に、喰われた。

       

   
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