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    占者の街    
       
第五幕 占者の街 占者の場合(1)

   

 朝は、気分がいい。

 例えば憂鬱な悩みを抱えているとしても、朝には、いっときそれを忘れさせてくれる清々しさがある。

 だからその女性、ミムサ・ノス占術者協会筆頭、レディ・ポーラ・フィルマは、朝が好きだった。

 朝日に少し遅れて寝所から離れたレディ・ポーラ・フィルマは、化粧台を覗き込んで自分に朗らかな微笑みを向けた。栗色の大きな瞳に、亜麻色の巻き毛。顎の細い整った顔立ちは少々神経質そうだが、それが逆に、占い師としての不思議な印象を作り出してもいる。

 鏡面から目を逸らさずに着座したところで、彼女はふと細い眉をひそめた。視界の左上辺りが、薄っすら曇って見えたのだ。

「いやだわ。あれほどいつも鏡はきちんと磨いておきなさいと言っているのに…」

 彼女は鏡台の引出しから柔らかい布を取出すと、鏡の曇りを拭い取ろうと腕を伸ばした。彼女の商売道具は宝飾も美しい手鏡で、それに依頼者の未来を写し観る。だからだろうか、レディ・ポーラ・フィルマは決して口うるさい方ではなかったが、鏡の取り扱いだけは別だった。

 館の占い師たちがそれぞれの個室に顔を見せるのは、午後から夕方にかけて、である。もちろんレディ・ポーラ・フィルマも同様だったから、それまでの短い時間で、館の運営方針を固めたり、協会幹部と会談したり、時にはミムサ・ノスの議会議員と密会したりしなければならない。

 今日も、忙しい一日になりそう。と桜色の唇をほころばせて、彼女は曇りの消えた鏡を見つめた。

 考える事も、する事も、彼女には幾らでもあった。町議会の乗っ取りを企んでいるなどと裏で囁かれているような大逸れた計画はないにしても、ミムサ・ノスを影から支えたいという情熱はあったし、する自信もあった。腑抜けの保安官や領主代行を黙らせて、町の生活をこの町に住む人の手に委ねたい。それを実現するまでは、たとえどんな陰口を叩かれようとも、多少の強行手段に訴えることも辞さない。

 町の外貨収入の半分をこの館が担い始めた時から、彼女の情熱は……暴走し始めていたのか。

 町が、憎くもある。幼いレディ・ポーラ・フィルマと歳の離れた姉を残して消えた父と母をも、憎んでいるのかもしれない。しかし、姉だけは別だった。

 その姉が人知れず町を出る朝。彼女は、レディ・ポーラ・フィルマに言い残したのだ。

 ミムサ・ノスが暮らし良い町になったら戻って来る。と。

 だから彼女も町を愛した。

 未来を見通す目で、この町を…どこかへ導けると信じた。

         

…………しかし残念ながらレディ・ポーラ・フィルマは、姉の失踪とともに時間の止まってしまった純真な少女は、「外の世界」を、知らなかった。

          

         

「あの、フィルマ様!」

 いっとき鏡を見つめて物思いにふけっていたレディ・ポーラ・フィルマの意識を現実に引き戻したのは、寝室に駆け込んで来た黒いローブの使用人だった。頭から黒いレースのベールをすっぽり被った独特のスタイルは、リルイ・ロンギンの従者だ。

「どうしました?」

 スツールから立ち上がりつつ落ち着いた声で問うレディ・ポーラ・フィルマにそわそわと歩み寄りながらも、その従者はしきりに背後を気にしていた。ベールのせいで顔はよく見えないが、いつも一階待合室で香を焚いている小柄な女性だというのはすぐに判った。

「とにかく、お召し替えを。大変なんです!」

 従者は言うなり、有無を言わせぬ、意外に強い力でレディ・ポーラ・フィルマの腕をひっ掴み、昨日のうちに彼女の従者が支度していたブルーのドレスをもう一方の手で乱暴に拾い上げて、唖然とするレディ・ポーラ・フィルマに突き出した。

「? 何があったというのですか? 説明を…」

「ですから、大変なんです。すぐに着替えて、前庭に」

 なぜか従者は、その部分だけ妙にぶっきらぼうに言い放ち、レディ・ポーラ・フィルマをドレッサーの前に押し遣った。同じ館に暮らすものなのだから細かいことを言うべきではないが、と思いつつも、彼女は眉を吊り上げて背後の従者を睨んだ。

「それよりあなた、なぜわたくしの元へ? ここはシルヴィアに任せてあるはずです。しかもあなたは、リルイ様の者ではないのですか?」

 それを聞くなり、窓の外を見遣っていた従者が、ベールの中からレディ・ポーラ・フィルマを……呆れたように見つめ返してきた。

「……一大事です、レディ。とにかく、さっさと着替えてくださいまし」

 時置かず返って来たのも、嘲笑交じりの気に触る言い方。

 思わず、さらに言い返そうとしたレディ・ポーラ・フィルマだったが、なんとかそれを飲み込み、判りました、と掠れた声で返答するのに成功する。リルイ・ロンギンと彼女は訪問客の人気を二分する、いわばこの館の二大勢力と陰で言われていたから、例え従者であれどもリルイの手の者に下手な暴言を吐きつける訳にもいかないのだ。

 実際、旅人が尋ねるのは当然筆頭であるレディ・ポーラ・フィルマだったが、町の住民が事ある毎に尋ねて返礼を持ち込むのは、リルイ・ロンギンの方が格段に多い。それを妬んでいるなどと面白くない噂を立てられるくらいなら、従者の暴言など気にしないに越したことは無い、と彼女は思った。

 多少荒々しい動作で着替えをはじめたレディ・ポーラ・フィルマの背中に、女がベールの下から失笑を吐きつける。覆い隠されて黒く霞み、歪んだ唇は、毒々しい真紅に塗られていた。

「前庭で、一体何が?」

 身支度を整えて振り返ったレディ・ポーラ・フィルマに顔を向けた女は、答える代わりに意味不明の笑いを含んだ質問をした。

「フィルマ様の、今日の運勢はいかが?」

「? 占い師は、自らの未来を見てはいけないのです」

「ふーん。じゃぁ、アタシが教えてあげよっかな」

 ぞんざいな口調で言い放ちながら軽く手を挙げてレディ・ポーラ・フィルマを促した女が、ふふん、と鼻を鳴らす。

「あなた何を…」

 怪訝そうな占い師。女が大仰に肩を竦める。

「今日の、あんたの星のめぐりはサイテーだよ、レディ・ポーラ・フィルマ」

 静まり返った館に、女のけたけた笑いがこだました。

  

   
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