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    占者の街    
       
第五章 占者の街 占者の場合(5)

   

 ギャレイの手下どもは、じりじりと館方向に追い詰められていた。時々背後から聞こえる銃声に何人かは振り返ったりしたが、大抵はじっと眼前の悪党どもを睨んでいる。

 ただ、まだ負けるとは限っていない。多少の手傷は追わされたものの、誰も死んではいないのだ。たとえ相手がバカみたいに強いバスターでも、人数で勝っているから、勝機は絶対にある。

 と、思い込んで。

 剣を構え、半円に布陣した悪党を舐めるように見据える。少女、黒服の男、インバネスの男、裏切り者。それらをべったりと粘つく視線で舐め終えた頃、四人の後ろからルイードとヌッフがゆっくり歩み寄ってきた。

 不意に、ハルパスの合図でミディアとシャオリー、カーライルがそれぞれの獲物を下ろし、堂々と敵に背を向けて後退する。呆気に取られたギャレイ一味の前に残されたのは、手ぶらのルイードとヌッフだけだ。

「バスター・フロー。風が止まったら…」

 ルイードが、あくまでも薄笑みを絶やさない唇で囁くように言い、答えて、ハルパスは軽く頷いただけだった。

「では、行きます」

 宣告は静謐で、しかし冷たい。

 ヌッフが動いた。一拍遅れて、ギャレイ一味も散開する。

 ヌッフは飛び出そうとした訳ではない。背中の鉄管から突き出したあの奇妙な挟み状の鉄棒に手を伸ばし、それを掴み取って、空へ投げ上げたのだ。

 バシッ! と何かの弾ける甲高い音。それと同時に上がった、怒号。まずは目の前の二人を血祭りに上げて、と勇んだ雑魚…結局、何十人集まろうとこの二人にかかれば雑魚でしかないのだ…が数の優勢を信じて放った声が悲鳴に変わるまで、あとどれくらいの猶予が残されているのか。

 白い巨大な何かが、直前に立つルイードと数メートル後ろで立ち止まったままのヌッフの間から上空に跳ね上がる。まるで羽根を広げた、でも無残なほど不恰好な鳥とも思えるその正体が、三本の極細チェーンで翼の両端と中心を繋がれた全長二メートル以上もある長方形の「凧(カイト)」だと、誰が知り得ただろう。

 カイトが舞い上がるのと同時に背中の鉄管から飛び出したハンドルを両手に握り、ヌッフはリード…繰り糸…を伸ばした。しかし朝の早い時間、風の弱いこの場所では、凧の運命は失墜だけだろう。

 刹那、ただ佇んでいたルイードが、深呼吸する。微かに顔を上げ、瞼を閉じて…。

 謳う。

 ワンフレーズ。可憐なボーイソプラノが、見知らぬ国の見知らぬ言葉で何かを朗々と謳った。と、それに合わせて、灰色に輝く白髪が、ふわり、と舞い上がる。

「全く持って、いい風だねぇ」

 にっと唇を歪めてヌッフが呟いた刹那、ルイードの声が途切れたように掻き消えた。しかし少年の全身は、彼が未だ謳い続けていると物語っている。

 何が起こったのか。起ころうとしているのか。

 突然、ルイードの長上着の裾がぶわりと翻り、同時に地面からは土埃が舞い上がり、上空では、今にも失墜しそうだった凧が、吹き上げて来る絶好の風を捕まえたように大きくしなる。ヌッフの握ったリードも一気に張りを取り戻し、凧は風を受けた歓喜に全身を震わせて、朝の太陽、生まれたばかりの光を、そのエッジに仕込まれた鋼の刃で引き裂いた。

 風。ルイードの全身から吹き出すかのように発生し、上空に向って駆け上がる、風。少年は、謳い続けている。

 ルイードに襲い掛からんとしていた雑魚どもは、その異常な現象に目を見張った。しかし最早勢いに乗った足を止める事も、振り上げた剣を引っ込める事も叶わない。

 瞬間、凧が、ヌッフの腕の動きに合わせて急落した。

 突き刺さるように地面を目指しながら、謳うルイードと、少年に迫った雑魚どもの間に刹那で割り込み、不意に軌道を変えて館の方へと横滑りする。

 悲鳴。血煙。凧のエッジが数人の男たちの足首を斬り飛ばして、再度空へ舞い戻る。

 長い尾のように血飛沫を纏い、無いはずの風を掴んで空に踊る凧。全身を竜巻のような風に翻弄されつつも無音で謳い続けるルイードに、事情を知らない数多がやっと恐怖を感じた時、凧は無情な牙を剥き出した。

 乱気流渦巻く館周辺で思い通りの風だけを捕まえるのは、ヌッフにしか出来ない超人技といえた。幼い頃から凧を使って漁をして来た彼だからこそ、ルイードとこの「呪い」を相棒に選んだのだ。

 それは、呪い。怨嗟の歌声。見知らぬ言葉が紡ぐのは、賛美歌だという。

 垂直に空へ掛け上がった凧が、ひしゃげた楕円の軌道を描いて悲鳴を上げる男たちの一団に突っ込む。運悪くその先頭に居た男は背中から凧の餌食になり、体液と内臓を撒き散らして真っ二つになって地面に沈んだ。

 両足で地面を掴んだヌッフは、全身の筋肉総動員で凧を操っていた。自然風を使っている時はまだしも、方向の定まらないこの風は、一秒先を読むのが難しい。

 左右の手首を器用に動かしながら、上昇と急降下を凧に命令する。時には同時に、時には別々に上下左右に腕を動かしているのは、カンと、凧から伝わる振動だけ。

 それでも、ヌッフは絶対に風を読み違えたりはしない。どんな乱気流に巻き込まれても、絶対、その中心にいるルイードに、凧を掠らせる事さえなかった。

 斜め下から掬い上げるよう空に走った凧が、逃走しようと闇雲に動き回る男たちの足を飛ばし、太腿を両断し、わき腹を抉って、急旋回。返す刃が悲鳴の形に表情を固定した男の首を空に撥ね上げた。

 血を吸った竜巻がルイードの白い衣装に螺旋の模様を描く。その只中で謳う少年が瞼を上げ、随分と数の減ってしまった雑魚どもを睥睨してから、軽く手を挙げる。

「ほぉ、いいね。今日は勝気だな! えぇ? ルイ」

 二十数名はいただろうギャレイの手下は、既に十を割り込んでいた。無数に切断された死体と大量の血液が溜まった前庭にぽつんと立ったルイードが、ふと謳うのをやめ、ヌッフを振り返る。

「背筋伸ばせって言ったじゃないですか」

 風が、瞬間で停まる。

 完全に失速した凧を捕らえたリードの一方だけを離し、それに繋がるハンドルが空を叩いて落下するのを見ながら、ヌッフはおしまいとばかりに落ちてくる凧のエッジを、逃げ出そうと這い回っていた男の頭頂部に叩き下ろした。

 ざっくりと割れて地面に落ちた、男の顔。

 それで落下の勢いを殺し、ふわりと地面に舞い降りた凧。

「いいですかーみなさーん。謳っちゃいますよ?」

 ルイードは呟いて、笑い、シャオリーを見つめた。

「覚悟してくださいね。シャオリーさん」

 血に塗れた少年が前方に向き直る。既に抵抗する気力の無い男たちは血溜まりの中で恐怖に震え、神経の糸が切れてしまったらしい何人かが、口角の泡を飛ばしながら、微笑むルイードに襲い掛かろうとしていた。

「気に食わなぁい。ナによー、その挑戦的な…」

 シャオリーは固めた拳を振り上げ、さっさと引き返してきたヌッフに視線を向けて、抗議しようとした。

 しかし、その時ヌッフの、事情を知るハルパスとミディアの取った行動に、シャオリーもさすがのカーライルも、それ以前から完全に呆けていたネルとレディ・ポーラ・フィルマも、唖然とした。

 何せ三人は、いきなり耳を塞いで口々に訳の判らない事を喚き出したのだ。しかも、大声で。

「忘れてた、すっかり忘れてた! てめーが本気出すとこっちも大変なんだった、そういやぁよぉ! アレか? 完全密封式耳栓とかって便利なモン売ってねぇのか? どっかに!」

「やっぱりわたしのルイード・ジュサイアースはかわいいな、本当。これくらいの被害を被っても、同行する価値があるね。不慮の事故で筋肉が命を落としたら、今度はぜひわたしを相棒に選んで貰いたいな。だったらわたしは喜んで、判定員なんてつまらないクラスを返上しようじゃないか!」

「だいたいさ! なんなのよ、あの女は。アタマくんのよね。いつどこで知り合ったか知らないけど、アタシのシュアラスタの相棒に勝手収まってるなんて、ハッキリいって許せるモンじゃないでしょ! しかも、何かあればすぐべたべたするしさ! 今度あんな事アタシの目の前でやったら、絶対毒盛ってやるんだからっ!」

「…あーのー………。!」

 それは、呆然としたシャオリーが呆然と声を上げた瞬間、または、ルイードの眉間を狙った刃がそれに到達しようかという刹那、に起こった。

 何か。毛穴と言う毛穴から染み込んで来る不快な「何か」が、シャオリーやギャレイの手下ども、耳を塞いで喚く三人以外、そこに居る全ての人間の神経をざらりと逆撫でし、筋肉を萎縮させる。瞬く間に指一本、身じろぎひとつ、呻く声帯の動きさえ奪ったそれは、ぎちぎちと音を立てて皮膚に食い込み、確実に彼らの全神経を呪縛して、息苦しささえ感じさせた。

 入り込む『何か』。それと入れ違いに吹き出す脂汗。手足を動かそうとしても、その命令が脳の中で溜まって、指先まで行き届かないもどかしさ。

 シャオリーもカーライルも、瞬間でパニックに陥りかけた。

 まるで自分そっくりの彫像に意識を移し変えられた錯覚に戦慄していたのは、彼女たちだけではない。

 ルイードの頭上にに刃を振り下ろそうとしていた男。その、哀れな最初の犠牲者が最後に見たのは、微笑んで謳う、天子のような悪魔の顔だった。

 何もない。何もしていない。しかし謳っている。

 そして、耳を塞ぎ自らの頭蓋に反響する声で「それ」の侵入を拒んでいる三人以外には、聞こえていた。

 謳。砂粒を無理やり皮膚に詰め込むかのように押し寄せて来る、歌声。それは可憐な唇から無色透明という正体不明さで滑り出し、無味無臭という現実味の無さで取り巻いて、無音という戦慄で束縛する。

 恐怖。

 翳された刃を、軽く頭を下げる事で躱したルイードが、謳いながら横に半歩移動し安全を確保。それから、何気無い動作で引いた左の掌で、とん、と、目の前で凝り固まり喘ぐ男の心臓辺りを、突き飛ばす。

 静寂一拍。血飛沫が、舞った。

 身体を二つ折りにして前のめりに倒れた男の、口から、鼻から、目から、耳から、大量の血液が噴き出し、眼球までがせり出している。

 ぐしゃりと地面に崩れて痙攣する男を見もしないルイードが、滑るような足取りで次の目標に近づき、ここでもまた同じように心臓付近を掌で叩く。その結果は前の男と同様で、ルイードの無関心さもまったく同じだった。

 数えて六人はいただろう男たちは、地面に転がっている、無様に逃げようと背を向けている、抵抗するのも忘れて座り込んでいる、に関わらず、次々ルイードの手で葬り去られた。どの男も不思議なことに、地面に倒れてやっと呪縛から逃れたようにびくびくと痙攣したが、それは断末魔の悲鳴であり、すぐその動きも止まった。

 最後の一人は、全身を硬直させてルイードの凶行を見つめているシャオリーとカーライルの正面辺りに立っていた。投擲しようとしていたのか、大きく振り上げた剣が空を突き通そうとしている。

 ルイードは、男に微笑んで見せてからその側頭部に左掌を押し当てた。零れんばかりに見開かれた目が誰かれ構わず助けを求めているように見えたが、彼に救いの手を差し伸べられる者はこの場に居ない。

 男を見上げたルイードの唇が、微かに何かを…囁いた。

 瞬間、男の側頭部、少年が掌を当てているのとは反対側が、内圧に負けて押し出されるように爆散したではないか。後頭部までもをごっそり抉り取られ、脳漿と血を放射状にぶちまけた男の身体が真横に倒れる。飛び出した眼球といい、だらりとぶら下がった舌といい、それは間違いなく、「内側から圧力をかけた」ようにしか見えなかった。

「おわりましたよー」

 ふっと息を吐いて肩の力を抜き、踵でくるりと回った少年が、血溜まりを飛び越えて掛け戻って来ながらいつものボーイソプラノで叫ぶ。と、それまで硬直していたシャオリーの全身からがっくりと力が抜け、彼女は、その場にぺしょっと座りこんだ。

「お? 終わったのか?」

「はい」

「うん、相変わらず見事な手並みだったね、ルイード・ジュサイアース。ご褒美にキスしてあげよう」

「わぁ!」

「しっかしさ、いっつも思うけど、よくこんな得体の知れないガキと組んでて命落とさないわよね、アンタさぁ」

 ミディアに言われ、迎えたルイードの白髪を大きな手でがしがし撫でながら、ヌッフは半泣きのシャオリーに顔を向けてこう言った。

「そりゃおめー、得体が知れなかろうがなんだろうが、オレもこいつも、お互いを信用してるってこったろ?」

  

   
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