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    占者の街    
       
第六章 占者の街 悪党の場合(1)

   

 館に駆け込んだギャレイを追ってエントランスに飛び込んだチェスは、静寂と、どこからか注がれる視線を確かめるようにホールの真ん中で足を停めた。腰に下げた愛刀の柄に指を這わせるも、焦って抜くような愚行は犯さない。

 まるで刀身を封じているかのような印象の、皮紐とバンドで幾重にも補強された武骨な鞘。しかし、それから覗く純白の柄は、美しい金糸銀糸で飾られていた。

 二・三歩後から追い着いて来てチェスと肩を並べ、それから悠々と紙巻きを点けたシュアラスタも平素と変わりないが、灰色がかった緑の瞳だけは油断なく周囲を窺っている。

「先行く」

 物陰に身を隠したギャレイの手下を数えてから素っ気無く言放ち、シュアラスタは床に靴裏を滑らせ一歩踏み出した。彼が迷わず爪先を向けたのは、真正面にある大階段。

 幅四メートル程の階段には、左右と中央に手摺りがある。上りと下りを隔てているのだろうそれの左側へ進みながら、シュアラスタは一度だけ左右に視線を馳せた。

 チェスは相変わらずホールの真ん中にただ立っていた。今はもう、柄に置いていた手も下ろされている。警戒していない訳ではないだろうが、必要以上に緊張もしていない。

 シュアラスタのコートの翻る衣擦れだけが、静かなホールにこだました。そう高級でもない薄い絨毯が階段にまできっちり敷き詰められており、足音を吸収している。

 のんびりしてはいられない。とは思うが、気が急いている風でもない。普通よりやや速いくらいの歩調で階段を中ほどまで上がったシュアラスタの、コートの裾が跳ねた。と、それを視認するより速く、チェスの姿がホールから掻き消えた。

 真紅の残影が一直線に階段を駆け上がると、一階中ほどで停まっていたシュアラスタが背中の回転弾倉式拳銃を引っこ抜いて身体を開き、たった今までチェスのいた付近目掛け轟音を発する。射出反動を逃がすために軽く持ち上げた銃口を手首で押さえ込んで、二度目の銃撃。その間に、チェスの姿は占い師の個室群が外壁にへばりついた三階部分までを一気に駆け抜け、アパートメントフロアへ到達していた。

「かくれんぼは趣味じゃねぇよ。さっさと来い。でないと、女首領の死に目に会えなくなるぜ」

 ハッ、と押し出すように笑って、シュアラスタは真ん中の手摺をひらりと飛び越えた。

 途端、空気を引き裂く音を伴って飛来した何かが、階段に突き刺さる。ナイフというよりもう少し大きめのダガーだと獲物の種類を見切ったものの、シュアラスタはそれを無視して階段を走り抜け……。

「うわっ!」

「! 危ないじゃないのよっ!」

 四階アパートメントフロアの直前で、後ろ向きに飛び出して来たチェスと衝突しそうになって、間一髪、彼女を抱き留めた。

「それ、俺のセリフだろ…」

「そうかも」

 肩を竦めて言い合い、交差して、シュアラスタは四階へ。チェスはその場に踏み止まり、大階段に向き直る。

「足場悪いわね。ちょっとあたしが不利かしら?」

 目を細めて階下を見遣り、チェスは婉然と微笑んだ。

 二階部分から飛び出してきたみっつの人影が、ぴくりとも動かずにチェスを見上げている。前の二人は背中を丸めて両腕をだらりと垂らした、まったく同じ顔、同じ禿頭、同じに下卑た笑いの小男。そのやや後ろには、ヌッフ顔負けの筋肉を半裸という悪趣味さで誇示した大男が、無表情に仁王立ちしている。

 チェスと向かい合った三人は無言だった。ただ、ひどく澱んだ目で舐めるように彼女を見上げていただけだ。

「自己紹介は必要?」

 言いつつチェスが、腰の剣をすらりと抜く。

「必要ないなら、いらっしゃい」

 自然に切っ先を床に向けた彼女の剣は、サーベルに似た形をしていた。しかしその刀身はサーベルよりも幅が広く、肉厚。白磁のごとき純白の、峰を包むように彫り込まれたレリーフも美しい、まるでチェス自身に似た豪華な剣。

 ソルジェンテという銘なのだと、彼女がいつか言った。

 宝剣、バヅィリカ・ソルジェンテ。寺院の泉、と呼ばれ恐れられたその剣は、チェス以外の誰にも抜くことは出来ない。

 もしも目の前の彼らが外でハルパスの真紅の剣を見ていたのならば、それが、体裁は違えど同じ種類の宝剣なのだと気付けただろう。二本一対、ではなく、三本が対をなす不可解の産物。いかなる金属で鍛えられているものか、その刀身に鋼の刃は光らない。

 弧を描いたラズベリーの唇が短い息を吐き出した直後、二人の小男が奇声を発しながら全身をぐんと反らした。その動きに合わせて振り上げられた両腕から幾条もの煌めきがチェス目掛けて放たれ、重く凝り固まった空気を引き裂いて縦横にうねりながら彼女に襲い掛からんとする。

「…鋼糸なら腕が飛ぶわね」

 口の中で物騒なことを呟きつつも、チェスは一歩踏み出して空いている左腕を顔の前に翳し、右手の剣を掬うように鋭く一閃させた。

 ソルジェンテの真白い刃に撫で斬られた殆どのワイヤーはぱさぱさと彼女の足元に落ちたが、そう来るだろうと予想して、尚且つ隙を見越し撃ち込まれた後続の数本が翳した左腕に絡み付き、チェスの動きを制限する。

 予定だった。

「……あんたたち本物のバカでしょ?! ただの糸なんかであたしをどうしようってのよ! 綾取り希望なら他当たんなさいよね!」

 まったく! となんだか間違った事に腹を立てながら、チェスは自らの左腕に絡んだ普通よりちょっと丈夫そうなワイヤーを手繰り寄せ、繋がった先が男の手首に巻かれたリストバンドから伸びているのだと確認するなり、いきなり、手摺を飛び越え階段の外側へと身を躍らせたではないか。

「いひゃぁっ!」

 それで青くなったのは、仕掛けたはずの小男の方だった。

 斜め横に引っ張られてひっ転び、蔦の透かし彫りを施した階段手摺の格子に突っ込んだところで、引っかかって停まる。しかし肩はあらぬ方向に捩れ、手摺から外にはみ出していた腕は、ゴギン、と呆気ない音ともに反対側へへし折れてしまった。

「ぎひゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 高低さ悠に十メートル。その三分の二以上を落下して宙吊りになったところで、チェスはなんの躊躇いもなく剣を振ってワイヤーを斬った。細いワイヤー数本で身体を支えたせいなのか、絡めていた左腕、コートの袖がずたずたに引き裂かれて鮮血が吹き出したが、そんなのは気にもかけずに一階フロアに点在するソファめがけて飛び降り、ワンクッション、勢いに逆らわず床に転がって、衝撃を逃がす。

…いや、それでもこの行動は非常識だろう。普通の人間なら骨の一本や二本は折れても当然だし、そうでなければ、人間という括りからの退去を命じたい。

 しかし彼女は、平然と、弾ける様に起き上がった。

「初っ端で手傷負ったなんて、あいつになんて言い訳しようかしら?」

 不敵な笑みを零す唇で甘やかに呟きながら、チェスは一目散に階段に跳びつき、上空から振り降りてくる怒号を真っ向から迎え撃った。

 攻撃に転じてきたのは、ただでさえ暑苦しい筋肉を更に膨らませた大男。体躯に似合わぬ身軽さで反転しながら、階段を五段か六段飛ばしで瞬く間にチェスに迫ってくる。

「的が大きいと当たり易いんですって。知ってる?」

 小首を傾げて言い放つなりチェスは、…これも非常識な事に、ひらりと中央の手摺に飛び乗った。

 手摺としては充分過ぎるが、足場としては不充分で不適当極まりない傾斜の激しい十五センチ程のそれを、危なげなく疾駆する真紅のコート。まさかそんなバカな話もあるまいと油断して空中に身を置いていた大男が、蒼白になって悲鳴をひり出した刹那、右に引いて構えた宝剣の切っ先が芸術的な弧を描き、交差した男の胴体を薙ぎ払う。

 彼は最後まで果敢だった、と誉めよう。

 相手が普通の人間であったならば、勝機はあったかもしれないし、彼女を道連れにする事も出来たかもしれない。

 しかし、バスター・チェス・ピッケル・ヘルガスターと今呼ばれている女には、常識など通用しないのだ。

 大男は空中で身を捻り、通り過ぎる間際のチェスの後頭部に、伸ばした腕の振りで渾身の一撃を見舞おうとした。しかしなぜか拳の軌道は斜めにずれて空を切り、勢い余って、ぐるぐると男の上半身だけが旋廻する。

 上半身、だけ。

 どた。と肉の塊が階段を打ち据えそのまま階下に転がり落ちて行くのを、チェスは見ようともしなかった。それ以上の悲鳴を上げる事もなく、しかし絶叫の形に開けられた口から血反吐と舌をだらりと垂らしながら、胴体の真ん中で真っ二つにされた男の上半身と下半身は、大階段に血と内臓を遺しつつも無残に、遠ざかって行く。

 その間も手摺を駆け上り、残った二人に肉薄する真紅のコート。腕を折られた男が憎しみの瞳で見据えてくるのを「なつかしいし心地いい」と思いながら、彼女は声も立てずに薄っすらと笑った。

 そういう世界で生きてきた。今も、抜け出せていない。でも、それでよかった…。

 右、無傷の男が投擲してきたダガーを剣で払い落とし、手摺を蹴って突進しつつ刃を返して、掬い上げる斬撃。ガラ空きの脇腹から首筋までを一気に斬り上げられた小男は悲鳴を上げる暇さえなく、ばっくり割れた傷から大量の血液を噴出させてチェスの長い髪と白い顔に真紅の斑点を穿ち、手摺に突っ込んで息絶える。

 その一瞬の隙を狙っていたのだろう、最後の一人が気配を殺してチェスの背後に忍びより、生き残っていた片手に握ったダガーを、頭上高く振り上げた。

 男は、気配も足音も消していた。そのつもりだったし、今までだってしくじったことはなかった。夜道で一人歩きの旅人に忍びより、背後から喉を掻っ捌いて、死が死として認識される前に哀れな犠牲者から命を奪い、金品を奪ってきた。

 だから男は、背を向けた女バスターの首筋に自らの凶器が吸い込まれるのを、疑っていなかったのだ。

 どん! と腹部に鈍い衝撃を感じた小男が、ダガーを振り上げたままちらりと目だけを動かし、自分の身体を見下ろす。

「あ? あぁぁ? ああああああ……。あ、あああああ、ああああああああっ?!」

 意識など無視して、間抜けな声が開いた唇から押し出された。何がなんだか判らないのに、がくがくと全身が震え出す。

「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」

「…いい事教えといてあげるわ。あたしね、他人より体温低いのよ」

 床すれすれに膝を落とした低い姿勢のまま呟くように言ったチェスが、あの、宝珠に勝とも劣らない深い輝きの瞳でじろりと男を見上げる。

 掬い上げた剣先を一瞬で握り替え、自分の腹部に這わせて真後ろに突き出したまま。

 その刀身を、ぬるりと鮮血が舐める。男は手にしたダガーを握り直して、しかし、身体を折り曲げがたがた震えながら、数歩、後退した。

「匂いと体温ってのは、誤魔化し難いモンでしょう?」

 宝剣の握りを離して男を解放し、チェスは長い髪を盛大に払いながら、全身で背後を振り返った。

「悪いけど、あんたらみたいに楽したくて人殺しやってるワケじゃないのよ、あたし。でなかったら、目が潰れても殺せるようには…、ならなくてよかったものね」

 ゆっくり弧を描く、唇。細められたグランブルーの瞳の中に、マリンスノーのような、燐光。

「シケた話して悪かったかしら。とりあえず、好きな所にさっさと行ってちょうだい。…天国か、地獄か、そんなモンがあるならね」

 言い終えるなりチェスは、よろよろと後退して中央の手摺に背中でぶつかり停まった男の腹から突き出したソルジェンテの柄を、瞬間で撥ねた爪先で蹴り上げた。

 絶叫。仰け反って膝から崩れ、唸り声を発しながら白目を剥いて倒れ込みそうになった男の肩を上空から刹那で戻した足で支え、無造作に伸ばした手でソルジェンテを引き抜く。

「…………これが日常ってのも、どうかと思うけど。さすがに」

 生暖かい血の匂いに顔色ひとつ変えもせず、でも、チェスは呆れて呟いた。

「ほんと、あたしたちのさわやかな朝には、お似合いなんだけど」

 がしがし金髪を掻きながらチェスは、男を階下に向けて軽く蹴飛ばしてから階段を登り始めた。

 すでに意識が無いのか、小男は口と腹部から鮮血を撒き散らしつつ階段を転がり落ち、途中に引っかかっていた大男の下半身に突っ込んで停まる。

……。その頃には、すでに首があらぬ方向に向き、手足も、壊れた人形のように投げ出されているだけだった。

  

   
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