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    占者の街    
       
終幕 占者の街 顛末(1)

   

 その日、最初に彼らを訪れた時よりも緊張した面持ちでバスターズのドアを開けた保安官、ネル・アフ・ローを迎えたのは、全身湿布と包帯だらけのチェス・ピッケル・ヘルガスターだった。彼女はいつも通りの不機嫌そうな顔で、一階の殆どを占めるダイニング・フロアの入り口近く、手配者の似顔絵が張り出された壁の前に腕を組んで立っていた。

「あら、ごきげんよう、保安官…」

 シュアラスタ愛用の紙巻きを唇に乗せたまま、彼女が朗らかに笑う。その語尾の濁りにちょっとはにかんだ笑みを返してから、ネルはぺこんと会釈した。

「バスター・ジェイフォードは?」

「部屋にいるわ。四階の、手前から四つめ。まだ頭が痛いって、ソファに転がってるけどね」

 あれからもう丸二日以上過ぎている。それでもまだ体調が悪いのか、シュアラスタは部屋から降りて来ないのだ。

「少し、お話を」

「いいんじゃない? とりあえず、暴れなくなったから」

 あはは、と取ってつけたように笑い、チェスはネルを躱してヌッフがうたた寝しているテーブルに爪先を向けた。

 彼女は、すぐネルから無関を失くしたように見える。実際そうなのか、実は、保安官が相棒に何の用事があってここへ顔を出したのか探りたいのかは、しかし、その冷めた過ぎる美貌からは窺い知れない。

 ネルは、もう一度彼女の背中に向かって会釈してから、カウンターの中でグラスを磨いているマスター・エコーに近付いた。

「パパ・エコー」

 慣れたその言い方に、微か、寝ているはずのヌッフの眉が吊り上がり、チェスのグランブルーが細められる。

「どうした? ボウズ」

「やっぱりボク、保安官になろうと思う」

「…そう」

 何か思う所があるのか、マスター・エコーは感慨深げに目を眇めてネルを見つめ、ひっそりと微笑んだのだ。

 明かされない秘密。誰も問わないから彼は答えず、そして、彼が多くを語ろうとしないから、誰も問えない、秘密…。

「もしかしたら、結局、父さんと兄さんみたいに、ここに…戻ってくるかもしれないけど」

 晴れやかに笑って、ネルはそれ以上何も言わず、ダイニングフロアから続く階段を目指して歩き出した。

 階段を、ゆっくりと上る。バスターズというのは、いつも雑多に人が出入りしているのになぜかいつもキレイに掃除されていて、下手をすると、そこには誰も住まっていないような錯覚さえ起こさせる、特異な場所だった。

 ネル・アフ・ローは、その意味を知っている。

 彼らは、悪党は、そこに「居た」形跡を残すことを嫌がるのだ。

 廃墟じみた埃っぽい静寂の廊下を進み、四つ目の部屋のドアをノックする。応えは、ぶっきらぼうに「開いてる」とだけ吐き捨てる、不愉快そうな声。

「バスター・ジェイフォードに、最後の報告をしに来ました」

「あ? おう…。別に」

 報告される事なんかねぇよ、とシュアラスタは、ドアの正面に置かれたソファにうつ伏せのままぶつぶつと呟いたが、ネルは構わず話し続けた。

「占者館は取り壊しが決まりました。その跡地にポーラ・フィルマが小さな小屋を建て占いを続けるそうで、何人かの占い師は彼女に倣って小屋で営業を再開するそうです。占術者協会自体は存続しますし、ほとんどの占い師も町は出ないようです」

「ふーん」

「…ギャレイの一件は、近くバスターズに通知が来るでしょうが、公表されない事が決まりました。それは…」

「ハルパスのヤツが手でも回したんだろ。規約の細かいトコは忘れたが、町の存続に関わる事項だからな」

 ソファの上で、シュアラスタがごそりと寝返りを打ち仰向けになる。彼は持ち上げた腕を顔に翳し眉を顰めて、開け放たれているカーテンに向って何やら文句を言った。

「近くの街に、丁度大陸保安本部から派遣されている特務官の方がいらしてて、バスター・フローが確認指示書を送ったそうです。ギャレイの関わったこの町の事件公開刺し止めの返信は、今朝詰め所に届いたばかりです」

「…………シュタイデッカーって署名か?」

 ソファから漏れ出しようやく自分に向けられたうんざり気味の声に、ネルが小首を傾げる。

「大陸特務保安官、クニマル・シュタイデッカー」

 確かめるように言い置かれて、ネルは、ぱっと表情を明るく変えた。

「ご存知なんですか?」

「…腐れ縁。ご存知じゃない方が絶対に俺のためだったろうが、残念ながらよくご存知だ。ダンナがこっち来るってんなら、寝てる暇じゃないな。相棒に夜逃げの支度させとかねぇと、何させられるか判ったモンじゃ…」

 ばさ、と身体にかけていたのだろう派手な刺繍のシャツを撥ね上げて起き上がったシュアラスタが、面倒そうに髪をかき上げ、テーブルに置いていた紙巻きを手に取ってから、ふと、ネルの視線に気付いて首を傾げる。

「なんだ?」

 問われて、ネルははっとシュアラスタから目を逸らした。相手が全裸の美女だったら納得の行く行動だが、どう見ても、着痩せするがヌッフほど立派な体格でもない男の半裸に対するには、少々不可解な反応ではないだろうか。

 ソファは、ドアに対して垂直に置かれている。それに寝転んでいたシュアラスタが身を起こし、つまり、彼はネルに背中を向ける格好になったのだ。

 背中。痩せてごつごつした、猫背気味の背中。それには、もしも伝説のドラゴンなどという未確認生物がいるとして、その爪でなら付けられないこともないだろうと思える、切れ味の悪い刃物で無理やりその身体を引き裂こうとしたように黒ずんだ裂傷痕が、べったり二本、左肩から右脇腹にかけて斜めに大きく走っていたのだ。

 ふと、シュアラスタの薄い唇から苦笑が漏れる。どうにも、注意力というか、何かが散漫になっているのか、普段ならチェス以外の目に触れさせる事のないそれ…今のシュアラスタを形成する重大な過去の爪痕とでも言おうか…を、不覚にもネルに晒してしまったと、彼はやっと気付いたのだ。

「ま、それはどうでもいいとして、だ」

 言いながら、床に落としたシャツを拾って羽織り、ボタンも留めずに右の裾だけを腰の浅い革ズボンに突っ込む。背中の傷に比べれば前面は綺麗なものだが、後ろから撃たれて腹部まで貫通した銃創が密集して幾つもへこんでいるのは、あまり気分のいい眺めではない。

「この町の行く末なんぞ俺には関係ない。ギャレイの件を口外するなと上から指示が出れば、それに従うだけだしな」

 肩を竦めてネルを促し、階下のダイニング・フロアに向おうとしたシュアラスタを、ネルは正面から見据えた。

「ボクは、保安官になります。カスみたいな正義感にしがみついて寿命を縮めても、追いたてられた故郷ではなく、ボクと…父さんと兄さんを迎えてくれたパパ・エコーのいるこの町の、保安官に」

「? あほか、お前。なんで俺に宣誓してんだよ。そういうのはね…」

 シュアラスタは、「パパ・エコー」というネルの言い回しと緊張に強張った表情の意味を、問いたださなかった。

「レディ・ポーラ・フィルマは、正式に財界代表として町の運営に関わると約束してくれました。財界代表、領主代行、区長が集まる、話し合いの機関も用意されます。自警団は保安部の協力組織として準保安官に任命される事が決まりました。それと!」

 食いつくような顔で必死に言い募るネルを置き去りに、シュアラスタがさっさと廊下に踏み出す。

「バスターズからの定期巡回を、町が正式に要請するそうです!」

「ハッ!」

 必死になって言い募った最後の台詞を耳にして、シュアラスタは吐き出すように笑った。

 その時男は、何を考えたのか。なぜ、そこでそう笑えるのか。しかし青年保安官はそれを問えず、男は、タネを明かさない。

 そういうものだ。悪党などと言う人種は。

「ネル・アフ・ロー保安官」

 ネルに背を向けたまま、シュアラスタが呟く。

「はい…」

 そのシュアラスタに向き直ったネルの前に何かがぽいっと放り出され、青年は慌てて手を出した。

 見もしないのに狙ったのか、ただ広げただけの掌にぽとりと落ちた、藍色のバッヂ。

「やるよ、それ」

「……これ、保安官のバッヂじゃないですか」

 金貨と同じ大きさ、直径三センチの丸いバッヂ。描かれた模様には、公正と博愛の意味があるという。

「制服に着けてたのを、間違ってポケットに入れちまってたんだよ」

 シュアラスタは欠伸を噛み殺しながらそう言って、振り返らずに肩先でひらひらと手を振り、階段に続く角を曲がった。

「かぁっこいいー」

 壁に張り付いて立ち聞きしていたらしいシャオリーが、今日は下ろしたままの長い髪を揺らし、いひひ、と笑う。その、さも少女臭い仕草にげっそりと顔を顰め、シュアラスタは溜め息と紫煙を吐き出した。

「かわいいぶるのはやめろ…、気色悪ぃ」

「うお! 何、シュアちんたら生意気! シャオになんか文句あんのー!」

「俺の名前を縮めて呼ぶな!」

「うむー。相棒が美人だと思っていい気になるなぁ!」

 ビシッ! とシャオリーは、ギャレイに抉り取られて未だ腫れ上がっているシュアラスタの首に目いっぱいジャンプして手刀を叩き込み、彼が悲鳴を上げその場に蹲った隙を突いて風のように逃げ去った。

「くっそーー! 覚えてろよ、大年増め!」

 バタン、と逃げ込んだ部屋のドアに全身を叩き付けて閉じてから聞こえて来た悪態に、シャオリーはぎりぎりと歯噛みした。

「てめーも覚えてろよ、ジャンキーの青二才め」

 喉の奥で軋るような低い呟きに、先客が、びく、と背中を震わせる。

「……何やってるんですか? バスター・ジャオジャイマ…」

「うん?」

 びくびくと声を掛けられて、ひょいっと肩越しに先客、ルイードを振り返ったシャオリーが、急に相好を崩しにぱっと歯を見せて笑った。

「シュアラスタちんいじめてんの」

 言って軽やかに身を翻したシャオリーが勝手にソファに飛び込み、隅っこに退避したルイードを更に隅まで追い詰めて、その膝の上に広げられている本を取り上げばしんと床に投げ捨てる。

「ボクちゃんさー」

「はい?」

 詰め寄って来るシャオリーから極限まで逃げたルイードはそこで、わざとのように引き攣った作り笑いで小首を傾げて見せた。

「なんで、ヌッフだったの?」

 シャオリーの零れ落ちそうに大きな瞳が、じっとルイードを見つめる。

「なんでって…」

 そこまで少年の顔で弱ったように呟いてルイードは、ふと、シャオリーの顔つきが一瞬前までと変わっているのに気付いた。

 それは、女性の顔。外見に惑わされて嘘など言おうものなら、彼女はここでルイードを締め上げ、叩きのめして、カーライルさえ置き去りにヌッフを連れて行ってしまうに違いない、と思わせる……女の顔。

「ずっと、それだけは訊こうと思ってた」

 ルイードが思うに、「女」とは残酷で、怒ると怖い。

「僕が答えてそれに納得してくれたら、もう、ヌッフを連れて行くなんて言いませんか?」

「さぁ、どうだろ。聞かなくちゃ判んない」

 即答して、引き歪んだシャオリーの唇。それから目を逸らさず、ルイードは鼻先を突きつけるように迫っていた彼女を、そっと押し戻した。

「僕には、「生きて行けなくなる時」が必ずやって来るんです。同じに見えて、それはあなたと全く違う。あなたとわたしは、全く正反対の性質を持って、それぞれの姿を保っている…。判りますか? バスター・ジャオジャイマ」

 呟いて、達観の微笑み。ルイードは、ついに「少年」の仮面を…捨てた。

「僕は、ヌッフの「凧」で空に還るんです。そう、僕が決めました」

 白帆の凧、不恰好な鳥のよう。それを求めるのは今でないけれど、いつか必ず、求めなければならない時が来る。

 顔だけをシャオリーに向けたルイードは、薄い灰色の瞳を眇めて仄かに微笑み、静かに俯いた。今日は長上着も羽織っていないからか、その、細い首筋、華奢な肩、薄い身体、少女のような小作りな顔はますます子供っぽく見えたが、静謐に言い置かれた言葉の最後に混ぜられた待ち望む笑みと吐息は、永きに渡って人の世を見通し尽くして来た者特有の深さと失望、相反する酷薄さと希望に、淡く滲んでいる。

 余りにも現実味のないその笑みに、シャオリーが惚けたように呟く。

「……ボクちゃん、キミ…、何者?」

 手も触れず、怨嗟の歌声。全身に巡る血液の一滴までもを蹂躙する、その呪い。悲鳴でも哄笑でもなく、天使のようなボーイソプラノが紡ぎ出す……死の歌。

「ただのガキですよ」

 もう五年以上前、シャオリーが、ヌッフが始めて出会った時から、ルイード・ジュサイーアスという少年は………歳を取っていない。

 肩を竦めて言い返され、シャオリーはふっと短い溜め息を吐いた。

 背中に冷たい汗が流れている。無意識に全身ががちがちに硬直している。あの声を聞いた記憶が、曖昧な寒気になって足元から這い上がってくる。

「チェリーパイ…」

 表情を和らげて、シャオリーは殊更子供っぽい声でけらけらと笑った。

「美味しいのがありますってよ、ボクちゃん。下行こー」

 普段からすればかなりラフだと思える淡いクリーム色のシャツに包んだ細っこい腕を小脇に抱え込み、シャオリーは勢いよく立ち上がった。

 悪党には、知らなくていい事がある。例えば、誰かの過去、だとか…。

「あわわ…。そんなに引っ張らないでください! バスター・ジャオジャイマ!」

「引っ張ってないもーん。ボクちゃんシャオより足短いんじゃないの?」

 ドアを蹴り開けて廊下に飛び出して転ぶようにな勢いで階段を駆け下り、三階に差し掛かった、途端、下からひょっと姿を見せた巨体に激突して、少年と少女はひっ転びそうになった。

「ふみゅう!」

「ぷ!」

「………………そこの中等院生ども、階段でふざけてんじゃぁねぇよ」

 咄嗟に突き出した左右の手にそれぞれシャオリーとルイードをぶら提げたヌッフが、溜め息混じりに言う。それとほぼ同時、厳つい顔に収まった灰色の瞳が少し不思議そうにルイードを見つめ、微かに首を傾げた。

「あ、そういやシャオは支払いもするんだったっけ。ボクちゃん先に行っててねーん」

 ぶら提げられたままでぽんと手を打ったシャオリーを下ろし、何か言いかけて、口を閉ざすヌッフ。

 駆け離れて行く少女のような背中から、ぽとりと床に落としたルイードの苦笑いに顔を向け直し、ヌッフはもう一度首を傾げて見せた。

「…とりあえず、今日はこのまま行ってくれるようです」

 それだけ言い置き、ルイードがゆっくり階段に消える。

 コキコキと首を鳴らしてから、ヌッフは黙ってまた四階を目指し歩き出した。

 余計な事を心配してやっても、仕方がないのだ。だから、出そうになった独り言も、意味がない。

「……ところがこっちは、他人事じゃないけどな」

 口の中で苦笑混じりに呟いたヌッフが、階段の中腹にうっそりと佇んでいる黒づくめを見上げてから、面倒そうにがりがり頭を掻いた。

「なんか用か? カーライル」

 ほとんど黒にしか見えない濃紺の瞳が、じっとヌッフを見下ろしている。問いかけには答える気がないのか、彼は口を開こうとしなかった。

「用事がないならそこどけよ。ど真ん中に突っ立ってたら邪魔だろが」

 ほんの少し身体を開いてカーライルの作った隙。ヌッフが通るには狭い気もするが、通り抜ける方も避ける方も平然としている。

「彼女、シャオリーを連れて行け」

 すれ違い様、カーライルがぼそりと呟いた。と、一瞬だけカーライルの横顔を目だけで見遣り、ヌッフは大仰に肩を竦めて、おまけに、掌を天井に向けお手上げのポーズを作って見せる。

「お断り。ガキはひとりで十分だ」

 刹那、バシン! と発条の撥ねる音。ヌッフの背中すれすれに持ち上がった鉤爪…いや、持ち上がるはずだった鋼鉄の爪は、何かに阻まれて、下ろされたままぴくりとも動かなかった。

 思わず、カーライルが目を剥く。

 カーライルの右腕は、いつの間にか細いチェーンで階段の手摺に括りつけられていたのだ。輪にした先端を手首に通されたのも、その反対の先端を手摺の出っ張りに引っ掛けられたのも気付かなかった自分に、憤然と怒りが込み上げて来る。普段は完璧な鉄面皮が崩れて、彼は、凛々しい眉を吊り上げ平然と通り過ぎる広い背中を睨みつけた。

「ついでに言うなら、女もひとりで十分だしな」

 ハハハ、と素っ気無く笑ったヌッフが、後ろを振り返りもせずさっさと部屋に引き上げて行く。

 階段の中腹に取り残されて、カーライルはどうしようもなく苛立っていた。崩れない面(おもて)も、足りないくらいの言葉も、結局いつかあの大男が連れ去ってしまうだろう相棒を悲しませないための演出だと言うのに、なぜか、当のヌッフを前にすると保っていられない。

 カーライルは、今まで一度もシャオリーに口答えした事がなかった。平然と、「ヌッフちんがシャオを連れてってくれるって言ったら、カーくんとはそこでバイバイだからねー」と死刑宣告された時も、彼は黙って頷いたのだ。

 なぜ?

 溜め息さえ出ない。

「何かの罰ゲームかい? カーライル・ロウゥエン。そうでないなら、邪魔だからどいてくれないかな」

 下から掛かった声にうっそりと顔を向けてから、カーライルは一歩手摺に近寄って、ようやく手首に絡んだチェーンを不器用そうな手つきで外し始めた。

 その、どこかいつもと趣の違う横顔をちらりと覗き込んだハルパスが、行き過ぎる間際、失笑を漏らす。

 カーライルは、キッとハルパスを睨んだ。

「はは、そんな顔しても無理だよ、カーライル・ロウゥエン。どんなに虚勢を張っても、強がってみても、君は誰よりも弱いんだ。判るかい?」

 金髪碧眼の美男子が、まるっきり冷え切った笑いを真っ直ぐに叩きつけて来る。その顔面に鉤爪を叩き込んでやりたい衝動にぎゅっと唇を噛んだカーライルの鼻先にほっそりとした指を突き付けたハルパスが、わざとのように身を屈めてその顔を覗き込んだ。

「それだ、それ。なぜ君は思った通りに行動しない? わたしが無闇に首を突っ込む事ではないんだろうが、君の相棒がごねるとわたしのかわいいルイード・ジュサイアースの元気がなくなる。ヌッフ・ギガバイトなどどうでもいいが、わたしのハニーの保護者としては、アレほど最適な人間はいないからね」

 女性のような白皙に浮かんだ、正体不明の笑み。

「貴様がシャオリー・ジャオジャイマに対してはっきりした態度を取れば、騒ぎは沈静化するんだよ」

 ふん。と蔑んだように鼻を鳴らしつつ身を起こし、ハルパスは横柄に腕を組んだ。

「これだから男は臆病で面倒だと言うんだ。ヌッフ・ギガバイトといい、シュアラスタ・ジェイフォードといい、貴様といい。回りの女性に散々迷惑をかけなければ生きて行けないと、本気で勘違いしているんじゃないのか?」

 その言い方が…どうも腑に落ちない。

「…そういうお前も、男だろう」

 と、勢い、カーライルは言い返した。

「そうだったかな?」

 あはははは、とカンに触る声を立てて笑いながら、ハルパスはいきなりカーライルの左手首をひっ掴み、両手を使ってぎりぎりと指を伸ばしてから、彼の掌を…自分のインバネスの中に突っ込んだではないか。

 ふにょ。と……予想外の素敵な感触。

「!!!!!!!!!!!!!!!!」

……カーくん、蒼白。

「出血大サービスだ、あり難いと思え」

 吐き捨てて、ついでにカーライルの胴体を靴裏で強か蹴飛ばしながら捕らえていた腕を放したハルパスが、指先に絡めた極細チェーンを振り回す。

「この先一生自慢していいぞ、カーライル・ロウゥエン。ただし、わたしの身体に障ると寿命が縮むという言い伝えがあるのを、忘れるな」

 こちらもいつの間に、それを解いたのか…。

 ぱくぱくと鯉のように口を開けたり閉めたりしているカーライルに背を向けて舌を出し、悠々と階段を上がって、左に爪先を向ける、ハルパス。

 階下からか細い悲鳴と柔らかいものが階段を転がり落ちる音がしたが、それはあえて無視してやった。

「…本当に、男というのはからかい甲斐のあるバカばっかりだな」

 喉の奥で笑いをすり潰したハルパスが、インバネスを翻してドアを開け放つ。

「支度はいいかい? ミディア。そろそろ出よう」

「準備はオッケー。でも、忘れ物」

 ドアの前に立つハルパスに二人分の荷物を押し付けて、ミディアは部屋を飛び出した。

「先に下行ってて! シュアラスタに、お別れのキスしてくる」

「…………あ」

 何か言いかけたハルパスを躱して、ミディアはシュアラスタ(たち)の部屋に飛び込んだ。

「ってあらぁ?」

 部屋は、空っぽだったが。

 がらんとした室内に置かれているのは、ソファ。背凭れには、シュアラスタがいつも着ているキャメル色のロングコートがだらしなく引っかかっているだけ。それ以外人影も気配もなく、ミディアは、短い溜め息を漏らした唇で、何か……とても不愉快な感想…を捻り出そうとして、やめた。

「……ふーんだ」

 何をどう言っても、どうせ、いっときも一緒にはいられないのだ。シュアラスタがただの「赤」で、ミディアは「判定員」。理由はもちろんそれだけでないが、彼女は「それだけが理由だ」と、今日もまた自分に言い聞かせる。

 うな垂れて、開け放ったドアに握り拳をがつんと叩きつけ、拗ねた顔のまま踵を返し…。

「? 何か用? ……あたしにじゃないにしても」

 言われて、ミディアは顔を上げた。

 たった今階段を上がって来たのだろう、廊下の真ん中にチェスが不機嫌そうな顔で立っている。チェス・ピッケル・ヘルガスターという名前のこの女は、気に病むのもばかばかしくなるほど、いつでもこんな冷たい表情をしていた。

 いつでも。だから彼女が時折見せる華やかな笑みは、チェスを邪魔者だと決めつけるミディアでさえ目を逸らせないほど、美しくて遠い。

「アンタにじゃない。シュアラスタは?」

 刺のある声にも動じた風なく、「下」とぶっきらぼうに言い置いたチェスが、ミディアの肩先を躱し部屋に入る。

 通り過ぎた眩しいピンクゴールドの髪から、微かに甘い、紙巻き煙草の香り。

 チェスは、ミディアよりも背が高い。女性としては大きい方と言っていいだろう。確か、一七五センチに少し足りないハルパスより、ほんの数センチ低いくらいか。全体に華奢な印象はないが、長い手足と程よくついた筋肉、細い首。整った美貌。唯一の欠点は、……シュアラスタの言うように……、胸と尻が女性的でなく薄肉、だという程度だろう。

 改めてその後ろ姿を見直し、ミディアは、ぎゅ、と顔を顰めた。

「……やっぱり、アンタキライ」

「? あ、そう」

 ソファに掛けられていたキャメルのコートを取り上げてばたばたあちこちを叩いてから、チェスはそれをまた丸めてソファに放り出した。

 ミディアには、理想がある。

「そんな判り切った事今更改めて言われても、どうって感想もないわ」

 部屋の中央に腕組みして立ったまま呟いてから、チェスは短い溜め息を吐いた。

 恋人との身長差は、十五センチがいい。

「荷物にはなかったって…、コートにも入ってないじゃないのよ、あのバカ」

 長い指を唇に当てた彼女が、独り言を吐き捨てる。

 並んで立ってほんの少し顎を上げ、彼の瞳が覗けるくらいが丁度いい。

「いつだっけ? 紙巻きの補充したの…」

 唇から外した指を髪に突っ込み、絡まったそれを梳く。

 なのに彼は、……一八八センチもあるのだ、背丈が。

「どっちにしても消耗品でしょ? 新しいの手配した方が早いわね」

 腕を解く。真紅のコートを翻す。入り口を塞ぐミディアに大股で歩み寄りながら、チェスは、あの硬質な光を放つグランブルーの瞳で、彼女を…見下ろした。

 この豪華な女は、彼女の「彼」に、…悔しいけれど…、理想的。

「どいて」

「…………シスターだってそうは見えなかったのに、なんでアンタなんだろ。だから、アンタなんて大っキライ!」

 叩きつけるように言ってくるりと踵を返したミディアが、ぽかんとしたチェスをその場に取り残して走り去って行く。その背を見送ってしまってから、チェスは俄かに眉を寄せた。

 浅い息を吐く。気分を変えようとする。なのに、ミディアの言葉のたったひとつが、珍しく、チェスの気持ちをかき乱した。

「シスターね。だから、そんな女見た事も聞いた事も会った事もないって言ってんのよ。知らないの、そんな…」

       

「お前……、どれ?」

         

  チェスは、最後の言葉が出せずに、ぎゅっと唇を引き結んだ。

  

   
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