Scene 13
悪魔はシャイに I Love You
バレンタインデーの翌朝、わたしはお母さんに仮病をつかって学校をやすんだ。
ごめんなさい。明日はちゃんと行きます。
わたしはワガママだ。あのひとだってもう、こんなワガママ娘の相手をしなくてすんでせいせいしてるかもしれない。「二度と来ないで」なんて言うんじゃなかった。ああもう、また、涙が出てきた。ゆうべ眠れなかったせいか、頭の芯が鈍く痛んだまま、ゆるゆると惰眠を貪った。
"悠乃サンはそれでいいの?"
あのひとの哀しそうな貌。
"大丈夫、悠乃サン。オレがついてるから"
耳元に響くやさしい声。
"オレじゃ、ダメか?"
──あれが本当だったら、よかったのに。
窓の外がみかん色に染まってくると、ふいにそわそわしてきた。未練がましい。でも、もしかしたら──。だって、あのひとの仕事はまだ終わっていない。
アルミパックに入ったおかゆを電子レンジで温めて、さらさらと簡単に食事をすませると、わたしはあわただしく支度をはじめた。
もし来てくれても、こんなはれぼったい顔じゃ会えないもの。
時計は八時ちょっとまえ。いつもだったら、もうすぐどこからか彼があらわれる。
ドキドキして、心臓が飛びだしそう。
「こんばんは、悠乃サン」
ドキッ。いつも通りの彼の声。低くて甘くてよく響く、大好きな声。
怒ってる? 顔を見るのが怖い。
「本、逆さま」
「え、あれ?」
つい、顔をあげると、キレイに笑う彼と目が合ってしまう。本は……逆さまになってない。
「今のはウソ。でも、読んでなかっただろ?」
「う、ウソって……」
もしかして、からかわれてる?
「ちゃんと顔見て話したかったから」
言って、彼はくすっと笑った。今夜の悪魔サンはなんだかキザっぽい──こんなの、彼らしくない。思わず彼をムッと睨んだ。ああ、わたしって可愛くない。
「あのさ……チョコレート、うまかった」
あ、ちょっと声がいつものぼそぼそになった。
「……食べたの?」
そうだよね。このひとが捨てちゃうわけない。
「甘過ぎなくてちょうどよかった。えっと、ゆうべは、その……ゴメン」
ぽつぽつと呟くように言って、目を逸らす。視線がさだまらないまま、彼はもそもそとこたつに入ってきて下を向いた。
「あとさ、まえに悠乃サンに言ったの、本気だから」
「まえに言ったの、って?」
下を向いた彼の顔をのぞきこむように声をかけたら、アイスのスプーンを差し出したときみたいに、飛び退くように後ずさった。
やだ、顔が赤いよ。
「こ、これいい?」
真っ赤な顔のまま、彼はみかんに手を出そうとした。
「ダメ」
やっぱりわたしは性格が悪いかも。
「えーと……だから、まえに言っただろ?」
銀の髪をかきあげながら、キレイな顔を不機嫌そうに歪めて彼が言う。でも、たぶんこれは困ってるだけで、怒ってるわけじゃないよね。
「魔界にナマズヒゲの人事部長がいるって話?」
「……わざとだな?」
「さっきのお返し」
わたしがふんっと笑うと、彼はとてもうれしそうに笑った。じわりとどこかが熱くなる。
そのまま会話が途切れて、なにか言葉をさがすけど見つからない。
透きとおった銀色の瞳がもの問いたげに揺れて、わたしを見つめていた。
「オレ……悠乃サンのこと、本気だから」
「本……気?」
彼の眼差しの意味がわかっていても、すぐには信じられなくて、問い返してしまう。
「だから、その……」
彼はおずおずと長い指をわたしの頬に伸ばした。ひんやりとした感触にびくりとする。このひとのすべてはやわらかな銀色。ひんやりとした指先なのに、わたしは彼の触れた頬から熱を帯びて、ぼうっとあたたかくなる。ふわりと両手で頬を包みこまれると、すぐ目のまえに彼の顔があった。幻想的で、リアルな、彼の顔。このひとが悪魔だなんて、なにかの間違いだ。シャイでやさしい銀色の天使。わたしは目をとじて、"彼"を待った。
彼のくちびるは、ひんやりとなめらかで──でも冷たくはなかった。
指先に触れた、翼の根元のやわらかな羽根もなにもかも。
「……好きだよ」
彼の肩に顔を載せて、自分が囁くのが遠くに聞こえた。
* * *
「キミはもう、人間に戻れぬよ、山本クン」
ナーンはひやりとした笑みをはいた。
いつもの剽軽な貌は狡猾な偽装で、これが奴の本当の貌なんだろう。酷薄というよりも、さらにタチの悪い無表情な貌が夜に浮かぶ。
「それなら訊くが、もしもオレがこの指環で、悠乃サンに"山本陽一を好きになる魔法"をかけてたら、どうなっていた?」
ナーンは口の端を吊り上げ、すうっと目を細めてオレを見おろした。
「堕ちていたんだろう? オレはいまごろ本当の悪魔になっていたはずだ」
「ふむ。それほど、愚かでもないか」
ナーンはふだんの剽軽な貌に戻って、やれやれといった仕草をした。
「この仕事に期限は決まっていなかったな。つまり、オレは悪魔として彼女とつきあいながら、人間のオレが彼女とつきあえるよう努力すればいいわけだ」
オレは慎重に言葉を選ぶ。おそらく悪魔にとって"言葉"は"契約"だ。
「そう上手くいくかの? 忘れておるようじゃが、本当のキミはバレンタインにチョコレートをひとつももらえないような不甲斐ない男だぞ」
「……うるせぇ、ナマズヒゲ」
「いやはや、存外、骨のある男でわしもうれしいよ」
ナーンが部屋から消え失せて、オレはようやく息をついた。背中にじっとりと冷や汗をかいている。
とりあえず、いまそこにある危機は乗り越えたようだ。
また、しらじらと夜が明ける。
ナマズヒゲの手前、強気なこと言っちまったけど、悠乃サンに本当のオレを好きになってもらえる自信なんて全然ない。
でも──オレの周りでなにかが変わりはじめている。
ホッとしたらあくびが出た。いまはすこしだけ眠ろう。
そのころのオレはまだ──なにひとつわかっていなかった。自分のことさえ。
迂闊だった。こんがらがったオレの運命。仕組まれた悪魔の罠に、悠乃サンを巻き込んでしまったことをオレが悔やむのは、もうすこし後のことになる。