知らないはずなのに、その名前を耳にしたとき、心臓がどくんとはねあがった。
Scene 11
名前の魔法
悠乃サンが映画に出る?
しかもオレの相手役?
ほにゃらけそうになって、思わずうつむいた。
「空けるのはかまわないけど。うしろの彼、出たくないんじゃない?」
悠乃サンの尖った声が聴こえる。
誤解だ、悠乃サン。オレは出たい。たとえ現実そのままのキミを見てるだけのダメ男の役だろうと悠乃サンと一緒なら出たい。いや、絶対、出てやる。
「ああ、山本はシャイなだけ。水梨さんがヒロインに決まって、緊張してんの」
「ばっ、馬鹿。なんつーことを、北条!」
そこまで言ったらバレるじゃねーか。
「で、出るの、出ないの? 山本くん?」
悠乃サンがオレの顔をまっすぐ見て訊いた。
今なんて言いました、悠乃サン。
「……え、山本くんって……オレ?」
はじめてちゃんと顔を見て名前を呼ばれた気がする。
「ここで山本って、あなたしかいないじゃない」
もしかして──オレの名前、覚えてもらえたのか?
「そりゃまあそうだけど、いきなり、ゆ……じゃなくて……ええっと……ああ、その、出るよ」
つい、悠乃サンと呼びそうになって、顔をそむけた。
もうちょっとスムーズに会話をしてみたい。はやく、ゴールデンウィークが来るといいのに。いつのまにか、オレは映画の撮影がはじまるのを心待ちにしていた。
春の夜はざわめいている。ライトアップされた桜の花びらが、はらはらと風に舞う。なにかに揺さぶられて、オレは昨日と同じビルの屋上にいた。部屋の中でじっとしていたくない。月が煌々と輝くころになると、銀色の指環がちりちりと疼きはじめる。
疼きに堪えきれず、オレは夜空に舞い上がる。輝く銀の翼を大きく広げると、なにかの縛めから解放されたような気がした。生まれてはじめて自由になった気がする。
いや、違う。
本当の自由は、違う。
自由な翼はもっと大きく、もっと──。
なにかを思い出しかけた、そのとき。
『悪魔サン』
オレを呼ぶ悠乃サンの心の声が胸に響いた。
「こんばんは」
ごくふつうに挨拶して、オレは彼女の部屋に姿をあらわした。
「こんばんは」
悠乃サンはシンプルな白いワンピース姿で、ぎこちなく笑った。
「ここ、いい?」
まだ、夜は冷えるからか、片付けられていないこたつに入っていいか訊ねると、彼女はちいさくこくりとうなずく。悪魔のオレは薄着でも寒くないのだが、この部屋でこたつ以外の場所にいるのはやっぱり居心地が悪い。
「あの……」
悠乃サンが言いにくそうにうつむいた。
仕方ない。ものすごく不本意だけど。
「美瀬のこと?」
ああいうの、好みっぽいよな。
オレがその名を口にすると、悠乃サンはなぜか肩をびくりとふるわせた。
「逃げて」
彼女はふるえる声で言った。
「……なに?」
「だから、逃げて。悪魔サンは気づいてるかも知れないけど、あの人は悪魔払い師なの。このまえ映画で観たキアヌ・リーブスみたいなことができるみたい」
「エクソシスト? あいつが?」
オレはかなり昔、流行った映画のタイトルを口にした。エクソシスト──悪魔払い師とは悪魔を滅殺するのを生業としている者のこと、らしい。三田村ならもっと詳しく知っているかもしれない。
つまり、オレはあいつに祓われるってことか──悪魔だから。
「美瀬くん、あなたの名前を知ってた」
怒ったような、悠乃サンの声。
オレの名前……まさか……正体がバレた?
「ええっと。いや、それ、たぶん冗談だから」
言って、オレは彼女の顔をのぞきこんだ。悠乃サンは、なぜか泣いていた。
「あなたが教えてくれなかった名前」
いつのまにか、オレの指は彼女の涙に触れていた。
「ごめん……驚いただろ?」
「エリュシエル」
……え?
その名前を聞いたとき、小指の指環が火花をあげ、どくりと心臓がはねあがった。
「銀のエリュシエル。どうして? こんなにきれいな名前なのに教えてくれなかったの」
正体はバレてはいないらしい。でも──。
「それって……オレの名前?」
オレは呆然と呟いた。
「もう! こんなときに、なんで山本くんみたいなこと言ってるのよ!」
悠乃サンは泣き笑いの顔で叫んだ。
山本くんみたい? 悪魔のオレが?
「ちょっと、悪魔サン! なに笑ってるの! わたし怒ってるんだから!」
「ご、ごめん。ちょっとツボった」
正直、泣きそうだ。まさか、悠乃サンの口から、山本くんみたいだなんて台詞が出るとは。オレは笑うふりをして肩をふるわせていた。
「あく、じゃなくて……エリュシエル!」
悠乃サンが怒ったように叫ぶ。
また心臓がどくどくと鳴る。指環が熱い。なにかが、はじけそうだ。
「悠乃サン……悪い。その名前を連呼するのはやめてくれ」
息苦しくなり、オレはこたつから出て、こともあろうか悠乃サンのベッドに頭をうずめた。そのときは苦しくて気づいてなかったけど。
「……大丈夫?」
いつのまにか悠乃サンがオレの背をさすってくれている。
「大丈夫。悠乃サンに嫌いって言われたときほど辛くない」
悪魔のオレはぼそっと言った。
悠乃サンの動きがぴくりと止まる。
「嫌い。あなたなんか、大嫌い」
言葉とはうらはらに、背中にあたたかい感触があった。
「……悠乃サン?」
彼女がもたれかかる感触。そのとき。
「やっぱり混沌の悪魔を喚んじゃったんだね、悠乃サン」
シニカルな低い声が小さな部屋に響いた。