悪魔はシャイに I Love You

第2幕 銀の闇 Scene 12


「どんなに好きでも、もう彼を呼んじゃだめだよ。あれは銀のエリュシエル。混沌の悪魔だから」

Scene 12
混沌の堕天使


 濃い緑色の瞳に射すくめられて、わたしは身じろぎもできない。美瀬くんはうっすらと微笑んで歌うようにつづけた。
「翼あるセラフは純粋に霊的な存在だから、ふつうは絶対的な善か悪の霊質をもつ。絶対なる善をもって存在するのが天使で、悪の霊質に堕ちたのが悪魔」
 甘いコロンの香りのなかで、彼の言葉が呪文のように刻まれてゆく。
「でもね、銀色のセラフだけはちがう」
「ちがうの?」
「そう。銀の翼の霊質は混沌。善と悪の霊質をあわせもって生まれた、奇妙で不安定なセラフ」
「なら……半分は天使なの?」
 だから、悪魔なのにあんなにやさしいの?
「いや。あれは絶対に天使にはなれない。悪の霊質をもったものは、どれほど美しく、神に愛されようと、悪魔になるしかない──それが〈光帯びし者〉以来の天界の法」
「光帯びし……者?」
 わたしが繰り返すと、美瀬くんはうすく微笑んだ。
「大天使ルシフェル。かつて、神にもっとも愛された最高位の天使は、天界にはじめてあらわれた混沌のセラフだった」
 ルシフェルの名前なら知っている。物語によく出てくる魔王、堕天使ルシフェル。
「善と悪、光と闇──身の裡の相克が生み出す混沌のセラフのパワーは凄まじい。だからかな、君のエリュシエルは何者かによって封印されているみたいだね」
 ……君のエリュシエル。
 つい、美瀬くんの顔を睨むと、彼は悪戯っぽく笑った。
「だから、あれが封印されているうちに、滅してしまわないといけないんだ」
 言って、美瀬くんはまた微笑む。
「悠乃サンだって、あれが恐いんじゃない? だから、あれを遠ざけているんじゃないの?」
 わたしは──。
「安心して。もう、あれが君のまえにあらわれないようにしてあげる。あれのことなんか忘れてしまえばいい。翼ある者なんて、君にはどこか遠くの夢物語だ」
 彼がぱちんと指を鳴らすと、突然、周りのざわめきが耳に入ってきた。わたしたちの周りは真っ暗な気がしていたのに、そしてなぜかそのことを今まで少しも不思議に思っていなかったのに、ここは学校の近くの喫茶店で、店のなかには午後の陽が差し込んでいて、お客さんたちはあたりまえのようにそこにいた。
「美瀬くん……?」
「こっちが悠乃サンの世界だよ」

 美瀬くんはうちまで送ってくれた。
 喫茶店での会話が夢だったように、彼は神崎先生のモノマネなんかしてくれて、ごくふつうの帰り道だった。
「ただいま」
 玄関を開けると、お母さんが立っていた。
「今の、誰?」
「えっ?」
「このまえの彼も格好良かったけど、今日の彼は金髪の王子様みたいだったじゃない」
 また、見てたんですか、お母さん。
「美瀬くんは転校生で、隣の席になった人だよ」
 ホントはヴィセリオンって名前らしいけど。
「ふーん。やっぱり、このまえの背の高い彼が好きなんだ?」
「ち、ちがうってば!」
 わたしは泣きそうになって、階段を駆け上がった。
 もう好きじゃない。悪魔サンなんか。名前も教えてくれないひとなんか、嫌い。魔法を使って、わたしを夢中にさせるひとなんか、大嫌い。  夕食のメインディッシュはロールキャベツだった。お母さんは彼のことをなにも言わない。
 ごめんね、お母さん。でも、あのひとのことは言えない。銀色の悪魔のことで悩んでるなんて、誰にも言えない。
 わたしは洗い物を手伝ってから、自分の部屋に戻った。

「悪魔サンなんか嫌い」
 ぽつりと、呟いてみる。言葉は、彼があらわれたベッドのうえや、彼が座ったこたつのあたりをたよりなくさまよっている。
 嫌なのだ。彼を好きだと思った気持ちが、魔法からきたものなのが。こんなに好きなのに、本当の自分の気持ちじゃないなんて。彼を知った人はみんな、こんな気持ちになるなんて。
 ──でも。
「安心して。もう、あれが君のまえにあらわれないようにしてあげる。あれのことなんか忘れてしまえばいい。翼ある者なんて、君にはどこか遠くの夢物語だ」
 美瀬くんの低い声がこだまする。
 滅殺された悪魔は消える。この世のどこにもいなくなる。
 あのひとの、やさしい顔、切なげな顔、真っ赤になった顔が浮かんでは消えて。わたしのことを壊れ物のように包み込んで、長い長いキスをくれたひと。
 気づくと、呼んでいた。彼に届くように。
「悪魔サン」

 彼はいつものように、わたしのベッドのうえの空間にぷかりと浮いていた。
「こんばんは」
 ああ、銀色だ。
 夢なんかじゃない。銀色の天使みたいにきれいな悪魔。本当は、こんなふうに人を惑わす存在は消えてしまったほうがいいのかも知れない──でも。
 あいさつもそこそこに、わたしは告げた。
「逃げて」
「……なに?」
「だから、逃げて。悪魔サンは気づいてるかも知れないけど、美瀬くんは悪魔払い師なの。このまえ映画で観たキアヌ・リーブスみたいなことができるみたい」
「エクソシスト? あいつが?」
 ああ、ダメだ。このひとは気づいてない。このままじゃ美瀬くんにあっさり滅殺されちゃうわよ、ダメ悪魔。
「美瀬くん、あなたの名前を知ってた」
「ええっと。いや、それ、たぶん冗談だから」
 冗談って。なにが冗談なのよ。すぐにそうやってごまかそうとする。このひとはわたしになにも言ってくれない。まえにも研修生のバイト扱いだから銀色だなんて嘘をついた。でも、美瀬くんの言ってたことが本当──哀しいけど、わかるんだもの。
 嘘つき悪魔のくせに、そんな心配そうにわたしの顔をのぞきこまないでよ。あなたなんか大嫌い。
「あなたが教えてくれなかった名前」
 彼は長い指でわたしの頬をつたうものをぬぐった。
「ごめん……驚いただろ?」
 切なげな顔で、わたしの髪に触れる。
「エリュシエル」
 名前を呼ぶと、彼はびくりとして目を瞬かせた。
「銀のエリュシエル。どうして? こんなにきれいな名前なのに教えてくれなかったの」
 名前くらい、教えてくれてもいいじゃない。
「それって……オレの名前?」
 彼は呆然と呟いた。
 ちょっと、なんなの、この反応って。
「もう! こんなときに、なんで山本くんみたいなこと言ってるのよ!」
 自分で言ってから気がついた。山本くんといるときに感じる、不思議なデジャヴの正体はこれ。悪魔サンと地味な人は、ほんのちょっぴり似ているのかも知れない。
 悪魔サンはなぜか肩をふるわせて笑っている。
「ちょっと、悪魔サン! なに笑ってるの! わたし怒ってるんだから!」
「ご、ごめん。ちょっとツボった」
 もう、こんなに心配してるのに、この人はなにがそんなにうれしいんだろう。そう、なんだか、彼はとてもうれしそうに見える。
「あく、じゃなくて……エリュシエル!」
 名前を呼ぶと、また、彼はびくりと身体をふるわせた。
「悠乃サン……悪い。その名前を連呼するのはやめてくれ」
 彼は辛そうに言葉をつづって、わたしのベッドに頭をうずめた。息が荒くなり、銀の翼が小刻みに震えている。
「……大丈夫?」
 まさか、名前が弱点? だから教えてくれなかったの?
「大丈夫。悠乃サンに嫌いって言われたときほど辛くない」
 甘くて低い声が掠れ気味に呟いた。その苦しげな声で、そんなことを言うのは反則だと思う。
「嫌い。あなたなんか、大嫌い」
 悪魔なんかじゃなくて、ふつうの人だったらよかったのに。ふつうに好きだって言いたかったのに。
「……悠乃サン?」
 彼の声が間近に囁いた。そのとき。

「やっぱり混沌の悪魔を喚んじゃったんだね、悠乃サン」
 シニカルな低い声が小さな部屋に響いた。

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