Scene 13
闇の魔法が解けるとき
「……美瀬」
聞き覚えのある声に、なんとか顔をあげ振り返ると、うっすらと笑みを浮かべた美瀬竜也が部屋の入り口に立っていた。
「ふうん。本当に天使のような姿をしているんだね。エリュシエル」
美瀬がその名を口にすると、息苦しく、頭がきりきりと痛んだ。銀の指環をはめた指が激しく脈打つ。
「……だから、それは誰のことだ」
オレはやっとの思いでそれだけ言った。
「自分の名前も知らないの?」
無機質な低い声が頭に響く。
「美瀬くん、やめて」
悠乃サンのはりつめた声が心にしみて、なぜか哀しい。
「オレにそんな名前があるはずがない」
自分の声さえ、やけに遠い。自分のもののはずなのに、聞き慣れたそれとは違う大人びた低い声──現実味のない翼と角のある悪魔の声。
オレはエリュシエルなんて名前の悪魔じゃなかったはずだ。オレの名前は山本陽一──それだけだったはず、なのに。どうして、こんなに息苦しくて、なにかがはじけそうなんだ。
「暗黒の竜皇子ヴィセリオンの名において」
緑色の瞳の男は詠うように唇に言葉をのせながら、しなやかに両腕を動かして、宙になにかの文様を描いた。
「エイケルダムの炎の蛇よ、ジューダスの苦痛の刃もて捕縛せよ、位階十三位のセラフにして混沌の堕天使エリュシエル」
美瀬が高らかに告げたとき、全身を炎の槍に貫かれるような激痛が走って、オレは意識を手放した。
気づいたときには、虚空に浮かぶ蜘蛛の巣のような魔法陣に吊るされていた。指環をはめた小指の血管がどくどくと鳴っている。
「封じられた身とはいえ、あっけないね、エリュシエル」
虚空に浮かんだ美瀬がくつりと笑った。その腕の中で、蒼褪めた悠乃サンがまぶたをとじている。
「悠乃サンは……家に帰してくれないか」
オレは掠れた声で口にした。
「ずいぶん紳士的な悪魔だね」
「……こんな姿はしてるけど、オレは本当の悪魔じゃない」
そう言うと、美瀬はくすくすと笑いだした。
「ねぇ、エリュシエル。本当にいまでも信じてるの? 自分がただの人間だって」
美瀬は悠乃サンを足許に横たえた。なにもない空間に彼女のすらりとした身体が浮かんでいる。闇の中で緑色に煌めく瞳の男が、ゆらりと動いてオレのすぐそばまで歩み寄る。
「魔法の指環を使うだけで、魂を吹き込まれただけの下等な泥人形が思い通りに魔法を使えるようになるなんて、本当に信じてたの? すべてに愛される銀の翼を、親切な悪魔が与えた偽物だなんて──まさか本当に信じてたの?」
「……それ以上言うな」
オレは絞り出すように低く叫んだ。
「オレは人間だ。オレは……悪魔なんかじゃない」
「解っているくせに、真実から目を背けるの?」
美瀬の髪はもう金色ではなかった。美瀬の立っていた場所には、黒髪に、爬虫類のような妖しい三日月の瞳孔をもつ男がいた。その背には蝙蝠のようなかぎ爪のついた翼があった。
「君はいつも逃げてばかりだ。君の魔力も、その姿も、指環の魔法なんかじゃないって、とっくに気づいていたんだろう……地味で目立たないのが大好きな山本クン?」
美瀬はひんやりとした白い笑みを浮かべると、オレの心臓に長く伸びた爪を突き立てる。痛みのあまり声もでない。
「人間なら、まちがいなく死ぬよ。どうしても人間だと言い張るのなら、このままここで死ねばいい、愚かなエリュシエル」
そう告げて、緑の瞳の悪魔は爪を引き抜いた。
自分の胸から輝く鮮血がほとばしるのを、オレは不思議な気持ちで眺めていた。死ぬという実感がわかない。
「銀のエリュシエル。混沌の宿命ゆえに、赤子のうちに封じられた銀色の堕天使。自分の真の姿も、名前さえ知らずに育った天使のような悪魔」
誰かの声がぼんやりと聴こえる。
竜族特有の賢しらな声。大天使ルシフェルに討たれ、臣下にくだった竜族の皇子──どこからか、そんな知識が流れ込んでくる。
ああ、そうだ、エリュシエルはこれでは死ねない。心臓が停まり、肉体を失う程度で霊的存在であるセラフが死ぬはずがない。霊核である魂を滅さないかぎり、天使や悪魔が死ぬことはないのだ。
そうと識った刹那──銀の指環が弾けて、視界がホワイトアウトした。
銀色の翼ある男が胸から赤く輝く血を流して、虚空に浮かんでいる。蒼白なその顔には生気がない。
意識を取り戻した悠乃サンが男のすぐそばで泣いている。
そんな光景を、オレはぼんやりと見下ろしていた。なぜか美瀬の姿も消えている。
オレは悠乃サンには見えない透き通った霊体のまま、彼女の傍らに舞い降りた。震える指先で、悠乃サンの額に触れようとする。」 ──銀色の悪魔の記憶を封じるために。
さよなら、悠乃サン。キミを巻き込んじゃって、ゴメン。
「……エリュシエル」
ふいに、悠乃サンの唇からこぼれた名前にどきりとして、指が止まった。闇の封印が解けてしまったいまは、その名で呼ばれてももうどこも痛むことはないけれど──なぜか、胸がきしんだ。
「エリュシエル」
悠乃サンは泣きながら、冷たくなったオレの頬やまぶたや銀の髪に触れて、もうひとつのオレの名前を呼び続けている。
「大嫌い……あなたなんか、大嫌い」
その言葉に心が千切れそうになったけれど、すぐに彼女は蒼褪めたオレの唇にキスを落とした。
オレはここにいるのに──そう思ったとき、ふいに唇にぬくもりを感じた。
オレはいつのまにか彼女のまえに横たわって、泣き顔を見上げていた。
「……悠乃サン」
「エリュシエル?」
悠乃サンが不思議なものでも見るようにオレを見下ろす。胸から血を流して、死んでいた男がいきなり目をあけたんだから、そりゃ驚きもするだろう。
「死んだのは身体だけ。それももう復元したから大丈夫だよ」
ぎこちなく笑って起き上がると、胸の傷はあとかたもなく消えた。背中にざわりとした疼きを感じて目眩がする。セラフの翼は霊力の徴(しるし)だから、エネルギーの大きさだけ翼が生えてしまう。
ざわざわと背中に生え出る異形の徴──位階十三位のセラフがもつ六枚の翼。
「翼が……どうして六枚もあるの?」
悠乃サンがオレの背を見て、呆然と訊いた。
「邪魔なだけなんだけどね」
声が震えてしまう。堪えきれずオレは悠乃サンを抱きしめた。
「……ごめん。しばらくこのままでいて」
「泣いてるの?」
「寒いだけ」
「嘘」
悠乃サンは怒ったように言って、オレの顔を見ようとする。オレは泣き顔を見られたくなくて、彼女をぎゅっと抱きしめ顔をあげられないようにした。
「ずるい」
オレの胸元で呟く吐息がくすぐったい。
「お願いだから、このままじっとしてて」
「イヤよ」
「……オレが嫌い? やっぱり怖い?」
腕のなかの悠乃サンがびくりと身じろぎする。
「そうか」
オレは彼女からそっと身体を離して、ぶざまな顔を見られないように背中を向けた。
「そうかってなによ? わたしの気持ちなんて、魔法でわかっちゃったってこと?」
悠乃サンの怒った声がして、いきなり翼のひとつを思い切りひっぱられた。
「いたっ!」
本当は痛いというよりも、くすぐったい。
「やめろってば、悠乃サン!」
こんなものが生えてるのなんか、嫌なのに。引っ張られた背中の感触は、たしかにそれが自分の一部だと告げている。
「怖いわよっ! こんなのが六枚も生えてるひとなんて……怖いわよ」
悠乃サンは言いながら、引っ張っていた翼を抱えこんでしまった。
怖いんなら、離してほしい。翼は感覚がするどくて、そんなふうになつかれると、ドキドキしてしまう。
「悠乃サン。それ、離して、ね?」
「イヤ」
言葉でそう言いながらも、悠乃サンは翼を離して、オレのまえにするりと回った。
「やっぱり、泣いてるんじゃない」
「……見るなよ」
顔を背けようとすると、今度は髪を引っ張られて正面から向き合わされた。
「痛いって」
悠乃サンがオレの頬に手をのばすから、つい、視線をあわせてしまう。彼女の瞳の中に銀色の瞳が映りこむ。いまのオレは、どんなふうにキミの心に映っているんだろう。
「ふつうじゃないけど、きれいで、やさしくて……でも、嘘つきで意外にぬけてて不器用で意地っ張りで」
「……それって、オレのこと?」
オレが呟くように口にすると、悠乃サンは花が咲いたみたいににっこりと笑った。
「わたしの恋をかなえてくれるんだったよね?」
そう、それがそもそものオレと悠乃サンの契約のはじまりだった。オレは静かにうなずく。それを見た彼女は、こちらを真直ぐに見上げてはっきりと告げた。
「あなたの、たったひとりの恋人になりたい」
……えっ?
オレは悠乃サンのきれいな黒い瞳をまじまじと見つめた──それは、ダメだ。
「悠乃サン、もうなにも言うな。セラフにとって言葉は契約だ。本気で悪魔の恋人になるつもりか?」
「たとえ、あなたがすべてに愛されるひとだとしても、あなたはわたしだけを好きでいて。銀のエリュシエル」
かちりと、どこかで鍵がかかった気がした。悪魔の真名であるエリュシエルを言葉にしたところで、契約は成立してしまった。あっけなく。
「悠乃サン……どうして」
「悪魔なんて嫌いになろうと思ったのに……どうしても、ダメだった。ダメなんだからしょうがないじゃない」
気づくと、彼女を抱きしめていた。悠乃サンの身体はとてもあたたかくて、甘い匂いがした。オレは彼女の髪にくちづけてから、ちいさいけれどはっきりと告げた。
「キミの願いをかなえよう。銀のエリュシエルの名において、オレはキミだけの恋人だ、水梨悠乃サン」
そして耳許にささやく。
「あのさ、信じないかも知れないけど……オレはもう、ずっとキミのことしか見てなかったから」
息をのむ微かな音がして、彼女は「信じてあげる」と掠れた声で呟いた。
遠くで、悪魔の嗤う声が聴こえたような気がする。
それが──悪魔のオレと悠乃サンの、本当のはじまりだった。