悪魔はシャイに I Love You

幕間 水梨家のごくふつうの午後


「え……っ? 悠乃サン、いまなんて言った?」
 わたしの言葉に、エリュシエルなんて耽美な名前が悔しいくらい似合っている銀色の悪魔はキレイな目を大きく見開いて、ぽかんとしている。
「だから、お母さんにあなたを紹介したいのよ」

幕間
水梨家のごくふつうの午後


「あのキレイでカッコいい彼が来るの?」
 そう言って目を輝かせた日、たいして料理好きでもないお母さんが、山のように食材を調達してきたのには驚いた。
「そんなに気を遣わなくていいよ」
「だって、お夕飯くらい食べていくでしょう?」
 ああ、お母さん、ごめんなさい。
 彼は明日、お昼過ぎにうちにやってくることになっている。そして、たぶん夕飯を食べてから帰るのだ、ふつうのカレシみたいに。
 ふつうのカレシ──だったらどんなによかったことか。
 ごめんなさい、お母さん。あなたの娘が好きになったひとはふつうじゃありません。彼は天使みたいにキレイでやさしい、でも、翼と角の生えた悪魔なんです。しかも、悪魔の彼は、ほとんど毎晩わたしの部屋に来ているんです。

 うららかな春の日。土曜日の昼下がり、一時半きっかりに水梨家のチャイムが鳴った。
「あっ、わたしがでる……」そう言いかけた声は「はーい、今出ます」と言って玄関に走り去るお母さんにさえぎられた。
 今日のお母さんはとても気合いが入っている。いつもよりおしゃれなエプロンをしているし、髪もばっちりセットしている。
 しかも。リビングでは、仕事が忙しくて土曜はあまり家にいないお父さんが、なぜかテレビを観ている。無関心を装っているけれど、絶対、偶然なんかじゃないと思う。
 ごめんね、悪魔サン……エリュシエル。
 いくら三百年生きている悪魔でも、心の準備もなしにカノジョの父親とご対面は辛いよね。特に彼は悪魔のくせになぜかとても不器用だし。
 お母さんのあとから、玄関に向かうと、ドアの隙間からすらりとした彼の姿が見えた。
 え……っ? スーツ?
「あらあら、いらっしゃいませ」
 お母さんがにこにこと彼を迎える。
 彼は、いつもの人に化けた彼とは少しだけ違っていた。高級そうな細身の黒いスーツに、落ち着いて洒落たネクタイをしめて。髪もつややかな黒で前髪をふわりとうしろに流して、いつもより短めにしている。瞳だけがいつもの明るい琥珀色だった。
「はじめまして。いつも水梨さんにはお世話になっております」
 よく響く甘い低めの声。いつもとうって変わったスーツ姿の彼はまるでどこかの御曹司みたいに見える。
「エリュシエル・モトヤマです」
 彼がそう名乗ってふわりと微笑むと、お母さんはぼーっとその顔に見蕩れてしまった。
 さすが、すべてに愛される銀の翼。
「ちょっと、お母さんってば」
 腕をつつくと、はっとして「悠乃にはもったいないくらい素敵ね。さ、中にどうぞ」と、お母さんはほんのり赤くなってそう言った。
 リビングに通された彼をちらりと見たお父さんも、しばらく呆然とその姿をながめていた。ただ、お父さんと目が合った彼のほうも、一瞬、「ヤバイ」という貌をしたのをわたしは見逃さなかったけど。
「あ……ゆ、水梨さんのお父様ですか」
 声がいつもの、ぼそぼそした感じになっている。
「……たしかにわたしが悠乃の父親だが。君は?」
 ぼーっとしていたお父さんが彼を睨むように見上げた。
「エリュシエル・モトヤマです。お嬢さんとは仲良くさせていただいております」
 彼は緊張した面持ちで頭をさげた。
 なんだか、とてもふつうでびっくりする。ふつうと言い切るには、彼はキレイすぎるし、独特の存在感がありすぎるけど。
「君は……社会人か?」
「いえ、まだ、学生です」
 彼が困っているのがわかる。このひとはあまり嘘をつきたくないのだ。悪魔のくせに、全然悪魔らしくないから。
「お父さん、悠乃の大切なお客様を立たせたままでなにしてるの。モトヤマさん、こちらでお茶でも召し上がってね」
 お母さんの声に、彼はお父さんに向かって小さく頭を下げてから、お客様用のソファに腰掛けた。
 いつも思うんだけど、悪魔サン……エリュシエルはなんでもキレイに食べる。この日も彼は食べにくいミルフィーユをキレイに切り分けて、さくさくと美味しそうに食べている。
「モトヤマさん、おいくつ?」
 お母さんがほんのり顔を赤らめたまま訊ねた。
「……二十二歳です」
「外国からいらしたの?」
 お母さんの問いかけに、彼はとても困った表情になった。
「……いえ、ぼくは、こう見えても日本で育ったんです」
 一瞬、彼が本当のことを言っている気がした。日本育ちの悪魔なんて、変だけど。でも──。
「お母さん、エリュシエルは日本語ぺらぺらだし。そんなの全然気にしなくて大丈夫なの。ね、もう二階に行ってもいいでしょ?」
「えっ、もう?」
 お母さんは名残惜しそうな貌をしたけれど、わたしはとまどう彼の腕を無理矢理引っ張って立ち上がらせた。
「部屋に行こう」
「あ、ああ。お母さん、ごちそうさまでした。あとは、おかまいなく」
 彼は微笑んで、また両親に頭を下げた。

 わたしの部屋につくと、彼はふうーっと大きく息をついた。
「あーあ、むちゃくちゃ緊張した」
 言いながら、ごそごそとこたつに入る。
「スーツ、しわにならない?」
「ん? 魔法で出しただけだから、別にいいよ」
 笑いながら、ネクタイをゆるめる彼は本当にふつうの男の人に見える。彼女の家に遊びに来た、ふつうのカレシ。
「ありがとう」
 わたしはぽつりと言った。
「え? 悠乃サン?」
 彼は首をかしげて、わたしの顔をのぞきこんだ。短めの黒髪が、彼をとても真面目な青年に見せている。たぶん、ホントに真面目なひとなんだと思う。今日だって、お母さんに対して、真面目なカレシに見えるよう、がんばってこんな格好をしてきてくれたんだろう。
「そういうのも、似合うよ」
 わたしが言うと、彼は照れくさそうな顔をした。
「……いや、いつもの髪型でスーツ着るとさ、なんかチャラい感じになっちゃって。それじゃ、親御さんもやっぱり心配するだろうし」
 彼の台詞にわたしは思わずふき出した。
「な、なんだよ?」
「エリュシエルの口から親御さんって、なんかヘン」
「ヘンかよ」
 彼は不服そうに口を曲げた。
「ごめんね」
 そっぽを向いてしまった彼に、わたしはそっと口にした。
「別に、そんな謝るほどのことじゃ」
「たくさん嘘をつかせちゃって、ごめん」
 このひとは、たぶん真面目で嘘の嫌いなひとなのだと思う。善と悪の霊質を持ってしまったから、悪魔と呼ばれているけれど。このひとは──見た目そのままの天使みたいなひとなんだと思う。
「悠乃サンが悪いんじゃないよ」
 彼はまた、いつものようにふわりと微笑った。
「ご両親に挨拶するのは、ふつうだろ? 悠乃サンはひとり娘だし、男ができたらやっぱり心配するよな」
 彼の言葉に思わずくすくす笑ってしまった。今日の悪魔サンは、本当にふつうの人に見える。
「なら、夕食も一緒に食べてってくれる? お母さん、昨日から一生懸命つくってくれてるのよ」
 わたしが言うと、彼は心底うれしそうに「夕飯か、楽しみだな」と言って笑った。

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