悪魔はシャイに I Love You

第3幕 銀の雨 Scene 12


 それは、ゴールデンウィークまで、あと一週間になった日のことだった。それは同時に、わたしにとってはじめての映画撮影がスタートする一週間まえを意味していた。
 まさか、その日がそれ以上の意味を持つ日になるとは、わたしはもちろん、山本くんも予期していなかったと思う。

Scene 12
闇の翼


「悠乃のその髪も見慣れたよね」
 絵里が朝のあいさつがわりに話しかけてくる。
「意外に似合うでしょ?」
 あのあと、エルと一緒に美容院に行って、ショートボブにカットしてもらった。やっぱり長いほうが好きなんだけど、たまには短いのも悪くないと思う。
「なんか、まえより可愛くなったな」
 エルもそう言って微笑ってくれたし。
 あのあと、わたしへの嫌がらせはぴたっと止んだ。エルのおかげか、山本くんのおかげかはわからない。その話をしようとすると、ふたりともするりと話題をかわす。どちらも不器用そうなのに、そんなところだけ上手いのも似ている。
 そう、エルと山本くんは似ている。場の空気を変えてしまうほど美形のエルと、ジミーと呼ばれてしまうほど地味な山本くん。見かけは全然違うのに、よく見ると表情や仕草や話し方まで似ている。そして、たぶん、山本くんはまだ、わたしのことを好きな気がする。正直、悪い気はしない。でも。
 ──困った。
「どうしたの、悠乃?」
 絵里が、ぼんやりとしていたわたしの顔をのぞき込んだ。
「絵里。撮影、ついてきてくれるんだよね?」
「うん。よく知らない男子が多くて、悠乃も不安だろうし。ちょっと面白そうだし。……あの人もいるし」
 最後の言葉はわたしにだけ聴こえるようにこそっと言う。
 絵里は山本くんが好きなのだ。
 ──困った。
 ちょっとまえに、山本くんが絵里を好きになるよう、エルに頼んだけれど、エルがそのことで動いてくれた気配はない。もともと、人の心を操ったりするのが嫌いなのだ、わたしのやさしい悪魔は。でも、わたしももう一度、エルにそれを頼む気持ちにはなれない。
 山本くんの気持ちに気づいてしまったから。
 だから、絵里に撮影現場についてきてもらおうと思った。絵里は山本くんと接点がない。卑怯かもしれないけれど、こんなことしかできない。
 ふと、顔をあげると、また山本くんと目があった。
「あとでな」と唇が言っている。昼休みの映画の打ち合わせのことを言っているらしい。わたしは少し笑ってこくりとうなずいた。彼の顔がぱっと明るくなる。
 ちょっと可愛いかもしれない。
 ──困った。いくらあの人に似てるからって、こんなの、ダメ。絵里に悪いし。こんなのは、ダメ。

 昼休みになって、早めに昼食を済ませたわたしは、山本くんたちとゴールデンウィークの打ち合わせをしていた。
「で、水梨さん。その髪、どういう心境の変化?」
 三田村くんがにこにこしながら、つっこんでくる。
「おい」
 山本くんが眉をひそめて三田村くんをひじで小突いた。それにかまうことなく、三田村くんは天井を仰ぎ見ながら語りはじめた。
「いいよいいよ。ショートボブ。男にとって永遠のロマンだ。かの宮崎駿監督もショートボブが大好きなんだよねぇ。おさげの女の子は、途中で絶対、髪を切られてショートボブにされるんだ。それが大人への通過儀礼の象徴的シーンなんだよねぇ」
「おまえは勝手に熱く語ってろ」
 呆れたように言う山本くんの視線が、ふいに何かを見とがめたように、すうっと細められる。
 ああ、エルに似てる。
 そう思ったとき、彼の隣にいた北条くんも何かに気づいて、窓の外を見た。
「あれ……なんだ?」
 なにごとにも如才ない北条くんらしくもなく、とぎれとぎれに呟く。山本くんが奥歯をぎりっと噛み締めるのが見えた。わたしは彼らしくない怖い表情に驚いて、ようやく彼らが注目している窓の外を見た。
 そこに──信じられないものが浮かんでいた。

 黒い翼の群れ。
 はじめは鴉の大群に見えた。
 そこに、そんなものがあるとは思わないから、そう見えただけなのだろう。あれが鴉のはずがない。あれは、人のかたちに似たものに、大きな黒い翼が生えているモノだ。
 闇色の翼の──悪魔。
 わたしの知っている、やさしい銀色の悪魔には似ても似つかぬ、禍々しい気をまとったものの大群が灰色の空に浮かんでいた。
 気配に振り向くと、山本くんが打ち合わせに使っていた部室から廊下へ駆け出そうとしていた。
「山本くん?」
 思わず声をかけると、彼は振り向いて微笑って見せた。そのときだった。
「山本クン。山本陽一クン」
 黒い翼の群れから、よく響く低い声が降ってきた。あの人に少しも似ていない感情のない声。
 山本くんはちいさく舌打ちをしてから、ふたたび、廊下へ向かおうとする。
「可哀想な人間どもを見捨てて逃げるのかね? 山本クン」
 悪魔の声が不自然なほどに響き渡り、学校中がざわめくのがわかる。
「なんで、あれ……おまえのことを呼んでるんだ?」
 三田村くんが、がたがた震えながら間延びした声で訊いた。
「あれ、なんなんだ? 映画の撮影……とかじゃないよ、な」
「……わからない」
 山本くんが悔しげに、なぜか振り絞るように応える。
 そう、どうして、山本くんなんだろう?
 あれは、似ても似つかないけれど、やっぱりエルの同族なんだろう。なら、ここで名前を呼ばれるのは、わたしなんじゃないだろうか。
 わたしは銀色の悪魔の恋人だから。
「……エリュシエル。お願い、来て」
 わたしは彼の名を呼んだ。
 すると、びくりと震えた山本くんが、なぜか凍りついた表情でこちらを向く。
「ダメだ、悠乃サン。いま、その名前を口にしちゃ。奴らに気づかれ──」
「……えっ?」
 そのとき、窓の外を見つめたまま、北条くんが叫んだ。
「逃げろ! 一匹来る!」
 山本くんがわたしの肩に手をかける。引き寄せられ、抱きしめられて。彼は耳許でささやいた。
「大丈夫。絶対、守るから」
 それは──その言葉は。
 なにかが閃いた瞬間、窓ガラスが割れて、鴉のような翼をした悪魔がひとり飛び込んで来た。
「これはこれは、銀の君の恋人まで、ご一緒とは」
 わたしの手をとろうとした、奇妙なかたちの鬚を生やした悪魔の手を、山本くんがぴしゃりと払う。悪魔は口の端をつり上げて、笑顔を模した仮面のように怪しく笑った。
「ほう。よろしいのですか。山本陽一クン? この方にすべてを話して、魔界までお連れするつもりですかな?」
「最初から、そういう計画か……ナーン」
 ナーン──それは、エリュシエルの上司の名前だったと、わたしは、妙に冴えた意識で思い出していた。

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