兼坂弘さんの毒舌評論
05年10月30日
究極のエンジンを求めて 三栄書房 1988年 |
兼坂弘さんの 「究極のエンジンを求めて」 とその続編および新編を読みました。 これは兼坂弘さんがモーターファン誌に 「兼坂弘の毒舌評論」 として掲載されたものをまとめたもので内容は各社の新型エンジンについての評論です。 当 「気ままにトーク」 で紹介した 「超 クルマはかくして作られる」 で福野礼一郎さんは兼坂弘さんについてかなり長く書いてますが、それによると兼坂弘さんは福野礼一郎さんが駆け出しの編集者だった20年ほど前に、某所で自動車会社の設計者たちに向かって 「貴様らコドモは」 とよび、「基礎から勉強しなおしてこいっ」 と怒鳴っていたそうです。 モーターファンに書いていたということから、私はホンダF1の中村良夫さん同様、兼坂弘さんも戦時中のエンジンの大家である富塚清さんの弟子なのかな、と思ってましたが、この本をやっとのことで入手して読んでみたら兼坂弘さんは大正12年生まれで昭和17年に日大の夜間を卒業していすゞに入り、いすゞを退職後はエンジンデザイン・コンサルタントをしていたそうです。 つまり中村さんのようなエリートではなく、ほとんど 「独学」 の人ですね。 「クルマはかくして作られる」 に福野礼一郎さんが書いてるのを読んだときにも思ったんですが、こういってはなんですが、いすゞでディーゼルエンジンをしていた人が果たしてトヨタやホンダののエンジン技術者を本当に 「コドモ」 呼ばわり出来るのか、恐らく普通はそう思うのではないかと思うんですが。 この点が一番の関心事だったんですが、いざこの本を読んでみると、「いやー、すごいなー」 と思うばかりでした。 |
続 究極のエンジンを求めて 三栄書房 1991年 |
兼坂弘さんはこの本で具体的にいろいろな提言をしています。 ネジの塑性域角度法による締め付け、リショルム・コンプレッサー、ミラーサイクルエンジン、シリンダーブロックのスカート部分の剛性を上げること、シリンダーブロックとミッションの結合剛性をあげること、効率の悪いトロコイド・ポンプをやめて普通の歯車式ポンプを採用すること、カムシャフトの駆動は高くともチェーンを使うこと、サーペンタインベルト一本で補機類をまわすこと、などなど。 例えばベアリング・ハウジングの加工はベアリングキャップをシリンダー・ブロックにボルトで締め付けてからベアリングの入る孔を加工し、一旦外してベアリング・シェルを入れて、再びボルトで締め付けて組み立てるそうです。 この場合従来のトルク法だと締め付け力のばらつきは50%もあり、孔の加工時と組み付け時とでボルトの締め付け力が変わり孔が真円でなくなることがある。塑性域角度法を用いればばらつきは18%となり真円度が改善する。 これは新編を読むとトヨタ・エスティマ用エンジンで実現おり、ほかにも兼坂弘さんの念願であったリショルム過給ミラーサイクル・エンジンはユーノス800で実現するなど多くのものが兼坂弘さんの提言どおりとなっています。 塑性域角度法はいすゞで5年かけて研究し、リショルム・コンプレッサーも実際に設計した経験があるそうで、エンジンに必要な知識はガソリンエンジンもディーゼルも同じなんですね。 トヨタが中でももっとも真剣に兼坂弘さんの提言に耳を傾けているようで、兼坂弘さんが取材に訪れるとそれぞれのオーソリティー6,7人が出席してくれるそうです。これに対しホンダは 「担当でないから分かりません」 ということが多く、「担当者を連れてこいっ」 といってもこないそうです。 ホンダは兼坂弘さんの毒舌に腹を立てて取材拒否したこともあるそうです。大人気ないですね。毒舌が気に入らないんだったら取材を受けた上で反論すべきだと思います。 初編ではホンダのF1ティーム監督だった桜井淑敏さんとの誌上座談会が載ってますが、ここで桜井さんは 「全開領域でもストイキ(理論空燃比である14〜15)で燃やしてる」 と言い張りますが兼坂弘さんは 「ストイキよりも濃いはずだ」 といい、これは続編を見ると自動車技術会の講演会で桜井さんは 「ストイキの少し下(濃いと言うこと)」 と白状しておりなかなか面白いです。桜井さんはカッコつけたかったわけですね。 なおホンダがターボをあまりださないことについて兼坂弘さんは 「F1でターボの問題点についていやというほど知ってしまったから」 と推測してます。 |
新 究極のエンジンを求めて 三栄書房 1994年 |
この本はエンジン改善の具体的な方法を知ることもできますが、その点については既にかなり実現しており、むしろそれ以上に改善に取り組む手法が分かる貴重なものだと思います。 兼坂弘さんはいわゆるエリートではありませんが独学で随分勉強されたようで 「エンジンは60歳にならないと分からない」 とも言ってます。ご自身はいすゞではずっとエンジン設計に従事しており、人事異動の辞令が来るたびにこれを破り捨て、54歳にしていすゞ中央研究所への移動の辞令を受けたのを機に退職されたそうです。 スケベ話もふんだんに出てきますが、本田宗一郎さんに大変似てる人のように私は感じました。この方がいすゞでなくホンダに入っていたらどうなっていたのか、本田宗一郎さんと意気投合したのか、あるいは大喧嘩したのか、大いに興味のあるところです。 |