日本車の個性とは(2)

その後を決めたBC戦争

06年8月16日


トヨタ・スポーツ800
 
私が20歳のころにBC戦争と言うものがありました。日産ブルーバード(P510)とトヨペットコロナ(RT40)の戦いですね。

ブルーバードはその前の型のP410がコロナに破れたために、日産は渾身の力でP510を登場させました。P410で尻下がりといわれたデザインを一新したスーパーソニックライン、国産車では異例というべき4輪独立懸架とOHCエンジンという先進性はコロナを大きく引き離していました。

若かった私はもちろんブルーバードを応援しました。対するコロナは、これは電気カミソリといわれたモデルですが、ゴテゴテとした装飾だけが目に付く、ブルーバードに比較すれば取り立てて価値があるとも思えないクルマでした。意味もなく太いタイヤも私は嫌いでした。ところがこの戦いで日産は立ち直れないほどの(現在まで続く)敗北を負うんですね。そしてこれがその後の日本車のあり方をほぼ決めてしまったわけです。

何故こういうことになってしまったのかといえば、一言で言うなら日産の技術至上主義とお客さんの趣味嗜好を十分に考慮するトヨタ戦略との違いでしょう。そういえば当事の平凡パンチなどには「女性はデラックスな感じがするコロナのほうを好むでしょう」と良く書いてありました。

当時既に「技術の日産、販売のトヨタ」ということがいわれてましたが、日本の自動車会社はいわゆる技術至上主義のところはすべてメゲています。日産、プリンス、富士重工、三菱などですね。プリンス自動車工業などはプリンス自動車工学などと呼ばれました。
いいものさえ作れば勝てると信じた会社は総じてメゲていますね。

これに対しお客さんの趣味嗜好を尊重するトヨタ、ホンダが勝ってます。ホンダは本田宗一郎さんが技術一本の人だったから、いかにも技術一本やりの会社のように思われがちですが、実は社長の実印は販売担当の藤沢副社長に預けて好きなようにやらせるという、販売を十分に尊重した会社です。ホンダが4サイクルに転向したのも、ホンダの土台を作ったスーパーカブもともに藤沢さんの提案です。

本田宗一郎さんが販売を藤沢さんに任せるようになった理由は、恐らく本田さんはそれ以前にピストンリングの会社である東海精機を経営していたために、販売の重要性を十分認識していたためと思われます。トヨタはもともと豊田自動織機が母体ですから、販売の重要性を理解して、販売についてはトヨタ自販に一任し、トヨタ自工と対等の権限を与えました。

トヨタ自販の人は世界中を飛び回り、クルマに対する世界中の人の求めるものを模索し、これを自工に要求し実現させました。自販の人は自らをコスモポリタンと呼び、自工内部の営業担当者をコロモポリタンと呼んで馬鹿にしました。(自工の本拠地である豊田市は以前は挙母【ころも】市でした)

一方日産やプリンスでは販売担当者の意見などほとんど技術者から取り合ってもらえなかったそうですね。「俺たちがいいもの作るんだから君たちは黙って売ってくればいいんだ」見たいな感じだったそうです。

人々が求めるものだけ作ればそれでいいのか? という疑問は当然私にも強くあります。シトロエンSMとまでは行かなくとも、自分たちが「これだ」と信じるものをドーンと出してほしい。そういう思いは恐らくみんなが思ってることだと思いますが、しかしトヨタ的なクルマ作りがこれほどの大成功を収めた現在、これもまた一つの個性であると思うべきなのかもしれません。

一つはっきりといえることはBC戦争における日産の敗北は日本のクルマ社会の後進性を表したものだということですね。

 
なかなか雰囲気がありますね
   

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