日本車の個性とは(3)

ハンデを背負った日本車

06年10月8日


べレット1600GT
 
日本車には個性がないといった場合、二つの意味があります。
日本車らしさといったものがないという意味と、日本車には個性がある面白いクルマがないといった意味です。この二つは結局のところ同じことです。

ヨーロッパのクルマにはその国なりの特徴と言うものがあります。ドイツ車はキッカリした感じ、イギリス車はどことなく落ち着くというか、くつろげる感じですね。スーパーセブンのような骨と皮だけのクルマでも乗ってみるとなんとなく落ち着くような優しさを感じるから不思議です。クルマは友達、といった感じがします。

こういう個性というものは一朝一夕に出来るものではなく、長いクルマ作りの歴史があってできるものです。ヨーロッパ車の場合それは馬車作りから続いています。ヨーロッパには昔からコーチビルダーという馬車を作る工房があって、そこで貴族向けの高級なものから庶民向けのものまで作ってました。そういう伝統が後にクルマ作りに生かされているわけですね。

クルマで良く使われるクーペとかフェートン、あるいはカブリオレなどという言葉は、すべて馬車の形態を指す言葉です。日本には馬車を作るという伝統はほとんどありませんから、出発点のところで既に大きなハンデを背負っているということとなります。

日産がシーマを作ったときに、これは日産としては初めての高級車でしたから、高級研究会というのを立ち上げて高級とはどんなものかを研究したそうです。しかし高級というものは研究してわかるものではないですね。長い間高級なものを作り続けるなかから高級なものとはどういうものかが判ってくるんでしょう。

しかも日本で言う高級はヨーロッパの高級とはかなり内容が異なります。ヨーロッパの高級とはロールス・ロイスやジャガー、Sクラスのベンツのような贅沢なものを言いますが、日本で言う高級とは桂離宮みたいな物質的というよりはむしろ精神的な高級をいいます。

日本の高級のほうがヨーロッパの高級よりも高級なのではないのかとも思いますが、しかしクルマの高級はとりあえずは物質的な高級であるはずですから、こういう点でも日本車はハンデを背負っています。(日本的な精神性のある高級がクルマに実現するようになったらすばらしいことだと思いますが・・・これは容易なことではないですね)

スポーツカーなどというものは、もともとは貴族の遊び道具だったわけですから、ヨーロッパのように何もしなくても金がじゃんじゃん入ってくる貴族などというものがいなかった日本では、そもそもクルマで遊ぶということ自体が罪悪視されてます。だから紀宮さまと黒田さんの結婚式の際にも黒田さんのクルマ友達は一人も招待されませんでした。

スポーツカーと言うものが社会的に認知されていない中でいいスポーツカーを作るということはなかなか難しいものでしょう。貴族と言うものがフランス革命でいなくなったフランスにも高級車とスポーツカーはほとんどありません。ただし馬車作りの経験は持ってますから、これが大衆車作りに生かされています。

これほどのハンデを背負っていながら、とにもかくにも日本車は世界の第一線で活躍しているわけですから、もうそれだけで十分なんじゃないのか、という気もするわけです。

 
とてもカッコいい車でした
   

目次へ   ホームページへ   次のページへ