「ひとりぼっちの風雲児」

中村良夫が見た本田宗一郎の実像

07年4月14日


山海堂(1994)
 
この本は随分以前に読んだ本ですが、60年代のホンダの4輪ティームのチーフでありホンダF1の責任者でもあった中村良夫さんが本田宗一郎さんの実像について書いた、きわめて希少なものです。内容は見方によってはほとんど本田宗一郎さんの悪口にも近いものであり、熱烈な宗一郎ファンにとってはショッキングな内容のものでしょう。もちろん1991年の本田宗一郎さんの死後に書かれました。

中村良夫さんは東京大学工学部航空学科で富塚清先生の元で原動機を学び、戦争中は中島飛行機で航空機のエンジンの研究をしました。戦後は中島飛行機の流れを汲む富士産業に一時身を置き、のちにくろがねでオート3輪の開発に従事しますが、くろがねが車両生産をやめた際に部下の自動車会社への再就職の斡旋をし、最も多く採用してもらったホンダに1957年(昭和32年)に中村さん自身も入社したそうです。中村さんは90〜92年国際自動車技術会の会長をされた真正の技術者でした。

入社の際中村さんは本田さんに将来F1に出る意思があるのかを聞いたところ、本田さんは「できるか、できんか、オレにはわからねぇけど、オレはやりてぇよ」と答えたそうです。

この本では最初の辺りに中村さんが本田さんを知ったいきさつが書いてありますが、それは中村さんが富士産業在籍中に自転車用補助エンジンの作製のため気化器を求めて三国商工を訪れた際、本田さんと言う人が前日に気化器をごっそり持って帰ったと聞かされますが、そのときのことを次のように書いています。

>東海精機のピストンリングは使い物にならないといつも中島飛行機の田無運転工場
  で聞かされていた、その本田さんであったことを初めて知った。

本田さんが良いピストンリングを作るために浜松高等工業学校の聴講生になって勉強した話は有名ですが、そのピストンリングがこういうものであったというだけでまず「えっ」と思いますね。

中村さんが入社したころのホンダには、技術部長が東大・中島飛行機で中村さんの先輩だった工藤義人さん、埼玉工場長が中島飛行機の先輩だった竹島弘さんなど、東大あるいは中島飛行機で仲間だった人が大勢いたそうです。こんなところにホンダの技術力の源泉があったように思います。

本田さんは中村さんの4輪車設計に関していつも見当違いの干渉をしていたことがこの本にはかなり具体的に書いてあります。例えばホンダ最初の4輪車であったS360(発売時はS500であり、すぐにS600になった)がスイングアームを利用したチェーン駆動だったのも本田さんの命令によるものだったそうですが、これにより60キロの重量増加となったそうです。私もS600に乗ってましたが、このスイングアームはあまりいいものではなかったと思います。S800では米国でのクレームを理由にしてリジットアクスルにしたあります。

乗り心地をよくするために圧縮側のダンピング・フォースをゼロにしろと言われたこともあるそうです。中村さんが説明すると「おまえなんか明治の学問しやがって」と言われたそうです。

 
オートスポーツ67年1月号

あのビッグ・ジョンことジョン・サーティースがホンダと契約し、私はこれでチャンピオンが取れるかもと期待したんですが・・・。

 
ホンダF1は64年から68年の4年間の活動でした。私は68年はかなり期待しましたが、結果は一度の優勝もありませんでした。このあたりの実情もかなり詳しく書いてあります。

64年の1.5LF1の際中村さんは当時F1でよく使われていたルーカスの燃料噴射装置を使う予定でしたが、本田さんから「ホンダ独自のものを作れ」と命令されたそうです。これはほとんど意味のないことでしたが中村さんは中島飛行機で開発したものを参考に作ったそうです。当時のホンダF1はホンダ式低圧燃料噴射装置を使っており、私などはさすがはホンダだと思いましたが、そうしたいきさつがあったわけですね。

3LF1のときは重い転がり軸受けと組み立てクランクをやめ、軽くてコムパクトな平面軸受け、一体クランクを採用するつもりでしたが、本田さんの命令で転がり軸受けとなったそうです。これで70キロの重量増になったそうです。

燃料バッグは左右モノコック・シェルにおのおの1個の燃料バッグを入れると言うオーソドックスな方法にするつもりでしたが、本田さんの「燃料が暴れる」と言う理由で13個の燃料バッグとなり50キロの重量増となったそうです。

あれやこれやで3LホンダF1は規定重量450キロに対し250キロ増の700キロとなったそうです。普通の人だったらもうこれだけでやる気をなくすでしょうね。

68年はチャンピオンを取るつもりで車体はジョン・サーティースの協力を得てローラで作り、エンジンは平面軸受けのものを後に3代目社長となる久米是志さんに設計させましたが、久米さんは本田さんから直接空冷エンジンの設計を命じられ、軽い新型エンジンはパァになったそうです。

この空冷F1RA302は中村さんの意向を無視してフランス・ホンダからジョー・シュレッサーのドライブで出走しましたが、レースで衝突炎上し、ショックを受けた久米さんは無断欠勤して四国でお遍路さんになりました。このことから世にあるホンダ本では久米さんが本田さんに反抗したように書いたものが多いですが、中村さんがこの本で書いているところでは空冷に関し本田さんに対し正面きって反対したのは中村さんだけだったそうです。

さらに中村さんが企画したシビックが否決され空冷ホンダ1300に取って代わられたのを機会に辞表を書いたそうですが、後に2代目社長となる河島喜好さんに慰留されしばらくロンドンで活動することとなったそうです。シビックはこの後に復活したわけですね。

熱烈な本田宗一郎ファンの方の中にはこのページを見て不愉快になる方もおられるかもしれません。しかし私も本田宗一郎ファンですが、この本を読んで不愉快になるということはありませんでした。それは私が本田宗一郎ファンであると同時に中村良夫ファンでもあるということも勿論あるでしょうが、もともと本田宗一郎の価値は必ずしも技術者としての価値ではなく、不可能と思えるものにチャレンジするチャレンジ精神にあると思っているからです。

2輪のマン島TTレースに挑戦したこと。4輪でも日本国内でデタラメな日本グランプリが行われていた時代に世界に出てF1に挑戦したこと。あるいは60年代のはじめころに新たな4輪車メーカーを規制する特振法が制定されそうになったころ、通産省と戦ったことなどです。

この本でも中村さんは本田さんから本田さんが一升瓶をぶら下げて通産省に乗り込み官僚を怒鳴ってやったという話を聞いたことを書いていますが、中村さんはこれについて次のように書いています。

>日本の企業の社長であって、通産省に乗り込んでいって、こんな芸当ができる人が、かつて果たして、いらっしゃったのだろうか。もちろん否であり、多くの場合、政治的取引とやらで、赤坂の料亭あたりでコチョコチョするのがオチであるのであろう。

私はこの本を読んでむしろ本田宗一郎さんの本当の価値がよく判ったように思いました。しかしホンダ4輪部隊のチーフとして35年も本田さんにお付き合いした中村さんはさぞ大変だったでしょうね。

 
日本で初めてグランプリについて詳しく書かれた貴重な本です

ニ玄社(1969)

 

目次へ   ホームページへ   次のページへ