ロード・ボンバー

ヤマハSRの元祖、なのか?

07年5月5日


オートバイの科学

講談社

1982.5

表紙のイラストは最終型である
U](SIMA 498H)

 
ロード・ボンバーはシマR&Dの島英彦さんが三栄書房のモト・ライダー誌の依頼を受けて作製したスペシャル単気筒マシンでモトライダー77年4月号で発表されました。
私は当時モトライダーを良く買ってましたが、単気筒でも4気筒と同等に走れるんだという島さんの熱い主張は印象的でした。

特にCB350Fを厳しく批判していたように記憶します。私もかなり同感に思いました。

最近入手した島英彦著「オートバイの科学」を読んで当時は分からなかったことが良くわかりました。島さんが単気筒に執着するようになったきっかけは、63年に行われた第一回日本グランプリにあるそうです。
グランプリシリーズ最終戦であるこのレースでホンダの4気筒250に乗るジム・レッドマンは優勝してチャンピオンを決めますが、ポイント争いをしていた相手は空冷単気筒のモリーニだったそうです。

30馬力程度の単気筒がなぜそんなに速いのか、と言うのが当時の島さんの思いだったそうです。

八重洲出版、モーターサイクリスト誌のテストスタッフ、リキ・レーシング・ディベロップメントのレーシング・マネージャーを務めた後、76年にシマR&Dを設立しますが、すぐにモト・ライダーからマシン製作の依頼を受けます。注文は当時の人気の中心だった大排気量のモンスター・カフェレーサーだったそうですが、ここで島さんは三栄書房のの鈴木社長を説得して軽くて幅の狭い単気筒ロードマシンの製作を決めます。エンジンはうまい具合にヤマハXT500があったわけですね。

エンジンが軽くてコンパクトであれば車体も軽く、バンク角を得やすい分エンジンを低くセットできるから低重心となり扱いやすくなる、と言うのが島さんの考えです。
フレームはダブルクレードルのものを作製し、スイングアームも作製してます。ただし公道走行はできなかったそうです。何やかやで500万近く掛かったそうです。

モト・ライダーで発表した際は写真説明として「ヤマハXT500ロード・ボンバー 4月1日発売」とあったため、エイプリルフール企画とは気付かずに購入のために愛車を処分した人もいたそうです。
(こういう場合保証とかはどうなるんでしょうか、CB400Fが発表されたときにも、これは400cc以上あったんですが、中型免許で乗れますと書いて問題となった雑誌がありましたね)

0−400m 14.28秒、最高速度177.6k/mで鈴鹿6時間耐久で総合18位でした。

以上がロード・ボンバーT]ですね。

78年2月にヤマハSR400,500が発表され、ヤマハから提供を受けた500のエンジンに乗せ換えた物がT]改(SIMA 498)、さらにまた一から作り直してホンダから提供を受けたXL500Sのエンジンを載せたものがU](SIMA 498H)です。

T]改、U]となるにしたがって耐久ロードレーサーとしての性格を強め、ともに鈴鹿8時間耐久に出ています。T]改は総合8位、U]は転倒の後総合33位でした。

ところでロードボンバーがヤマハSRの元祖なのかと言う件ですが、中沖満さんの「ぼくのキラキラ星」を読むと中沖満さんは当時ヤマハのご意見拝聴みたいな会に呼ばれることがあって、そうした場で単気筒スポーツモデルを出してほしいといったことがあり、一年後の東京モーターショーでSRが発表されたそうです。

そのとき開発スタッフからXT発表と同時にスポーツタイプの試作にかかっていたことを打ち明けられたそうです。真相は闇の中ということでしょうか。

この本はフレームからの改造の内容がかなり詳しく書いてありますから、スペシャルを作ろうとする方にとっては貴重な資料になるものと思います。

 
モト・ライダー

1980年1月増刊号

ロードボンバーが載ってるものは見つかりませんでした。

サイドカーの片輪走行の写真が表紙に載ってます。

   
こういう写真を見てサイドカーへの夢を膨らませていたんですね。

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