ホンダF1設計者の現場

09年4月5日


ニ玄社

2009年

 
著者の田口英治さんは1961年に本田技研入社、66年にF1のギヤボックスの設計をし、さらに82年から92年まで第2期のF1エンジン設計をした方です。

設計者の具体的な仕事の内容がかなり詳しく書いてあり、大変面白かったです。
66年にギヤボックスの設計をしたときには中村良夫さんが4輪部隊のチーフでしたから、当然中村さんは設計の仕方についていろいろ意見をいったそうですが、本田宗一郎さんもしょっちゅうやって来てはいろいろと注文をつけたそうです。

しかも「多くの場合、この二人の意見は食い違ってる」と書いています。田口さんは本田社長に従うしか方法はなかった、と書いています。
中村さんが「一人ぼっちの風雲児」で書いていた通りですね。しかもこの時はギヤボックスを10キロ軽量化するのが目的だったそうですが、本田社長は特に大きな荷重を受けるベベルギヤの軸受けにニードルベアリングを使うことを命じたそうです。

田口さんははっきり書いてませんが、ニードルベアリングを使うことはやはり軽量化とは反対のことでしょうね。

90年と91年でしたか、アイルトン・セナとアラン・プロストがチャンピオンを決めるレースで2年続けて接触リタイヤしたことがあります。90年はセナがプロストのインを刺そうとしてプロストが譲らず、両者リタイアでプロストがチャンピオンになりました。

このときのことを田口さんは「プロストがドアを閉じた」と書いており、かなりセナに同情的な表現になってますが、私はこの当時セナの抜き方は強引過ぎると思ってました。あれじゃあ抜かれるほうがもし譲らなかったら接触だな、といつも思ってました。だからこの接触はプロストが「譲らなかっただけ」と解釈してました。両者リタイアならプロストにチャンピオンが転がり込むわけですから。

次の91年のことは今でも覚えてますね。今度はセナがリードしたまま鈴鹿に来ました。
今度は両者リタイアならセナがチャンピオンというわけです。私は必ずセナがぶつけてくるだろうと見ました。それも開始早々の第一コーナーで。

それで私は鈴鹿の第一コーナーで見ましたが、スタート直後コーナーに入りつつ減速するプロストにセナが後ろからそのままぶちかましました。本当にやっちゃった、と背筋がぞくっとしました。プロストがもしいなかったらセナはそのままコースアウトするような走り方に思えました。このときのことは田口さんは書いてないです。

田口さんはいわゆる典型的な秀才ではなく、本当にクルマが好きな方なんですね。若いころにアドラー250MBSとか、ホンダに入社してからもマセラティ57SSSを買ったそうです。こういうことが許されるのがホンダのいいところですね。

今はACエースに乗ってるそうです。こういうところはユーノス・ロードスターの開発責任者だった立花啓毅さんに似てますね。クルマが本当に好きな方がメーカーにいるということは重要なことだと思います。

ところでこの本の題名にある「ホンダF1」という呼称ですが、60年代のものは確かにホンダF1ですが、80年代以後のものはホンダはエンジンを作っただけですからホンダF1ではありません。クルマ書物の第一人者たるニ玄社はこういうところに気をつけてほしいですね。

 

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