「ハイブリッド」

09年8月14日


ハイブリッド

木野龍逸

文芸春秋(09年)

 
プリウスが生まれるまでの過程をかなり詳細に書いたもので大変面白かったです。

最初は豊田英二さんが「21世紀に成り立つクルマをやるべきじゃないか」といったことから始まったそうです。ただし最初の頃は燃費をカローラの1.5倍にすることが目標で、ハイブリッドというものは検討対象でさえなかったそうです。

それがハイブリッドになった経緯と言うものが、トヨタの人材の豊富さを感じさせるものです。94年に人事異動があり和田明広さんが副社長となり、塩見正直さんが常務として技術全般を見ていくこととなりました。

和田さんという人はコロナやセリカなど20車種以上のチーフエンジニアを務めた人で、トヨタでは技術の天皇と呼ばれていたそうです。通常チーフエンジニアが手がけるのは2,3車種だそうです。この和田さんが燃費の目標値について「そんなものは倍にせいっ」といったそうです。さらに「ハイブリッドでやってみたらどうだ」と言ったんです。これでハイブリッドでやることに決まったんですね。

和田福社長がハイブリッドがいいと思うようになったことについては技術担当常務の塩見さんの存在がありました。塩見さんはあの中村健也さんの元でハイブリッドを研究したことがあったんですね。

トヨタにはその昔初代クラウンのチーフエンジニアをした中村健也さんと言う「大主査」がいましたが、この中村健也さんはその後ガスタービン・ハイブリッドの研究をし、トヨタ・スポーツ800やセンチュリーで実際にクルマも作ったそうです。塩見さんは若い頃にこの研究に従事し、その後も細々とハイブリッドの研究を続けていたそうです。そして和田副社長に「ハイブリッドなら燃費半分になりますよ」と推薦したんですね。

ハイブリッドの本格開発がスタートしてから八重樫武久さんがチームリーダーとなりました。この八重樫さんが現在「ハイブリッドの父」と言われているそうです。

モノの本によると中村健也さんはエンジンや車体の開発はもちろんのこと、デザインや空気抵抗の研究まで独力でやったそうです。それでハイブリッドまでたどり着き、その研究が塩見さんのような後輩に受け継がれて、今日プリウスとなって開花したと言うことなんですね。

 

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