セブンとの出会い


 1964年、16歳で軽二輪の免許を取り、父親お下がりの三菱シルバーピジョン、続いてホンダCS90と乗りました。1964年という年は、ホンダが3年前の1961年にマン島で初勝利を挙げ、以後オートバイのグランプリレースを席巻し、その余勢を駆ってF1グランプリにも進出し、RA271(1.5L)をニュルブルクリンクにデビューさせた年でした。

 ホンダF1(1964年〜1968年)

 私はオートバイに乗る一方で、ホンダF1の動向がとても気になりました。従って、オートバイ雑誌(オートバイとモーターサイクリストのうちいずれか面白そうな方)を買う一方で、1966年頃からはCARグラフィックとオート・スポーツも買うようになりました。

 この当時はF1グランプリに対する世間の注目はほとんど無く、レース結果をいち早く知る方法は週刊平凡パンチでした。平凡パンチにはレース結果を知る事以外に、もうひとつ別の楽しみもありました。また、日曜日朝のNHKの海外ニュースと映画館で上映される海外ニュースでほんの数秒だけ本物のF1の走る姿を見る事ができました。私の期待もむなしく、ホンダF1はなかなか勝つ事はできませんでした。

   
ホンダF1の戦績
  ホンダ ワールド・チャンピオン
’62 125,250,350制覇(オートバイ) G.ヒル      (BRM)
’63 金色のF1(RA270)完成 J.クラーク (ロータス・クライマックス)
’64 R.バックナム(RA271)西独GPにデビュー J.サーティース (フェラーリ)
’65 R.ギンサー(RA272)メキシコGPで優勝 J.クラーク (ロータス・クライマックス)
’66 RA273(3L)イタリアGPより出場 J.ブラバム  (ブラバム・レプコ)
’67 J.サーティース(RA300)イタリアGPで優勝 D.フルム    (ブラバム・レプコ)
’68 空冷F1(RA302)の悲劇、一時休止宣言  G.ヒル      (ロータス・フォード)
  
関連事項   ’62  ロータス25(初のフルモノコック車)登場
         ’66  1.5Lから3Lへレギュレーション変更
         ’67  強敵フォード・コスワースDFV登場
         ’68  4月7日、ジム・クラーク、F2でホッケンハイムに死す

 ホンダF1が出場した5年間の間に深く印象づけられた事は、ジム・クラークとロータスの強さ、そして過渡特性が良くて軽量なエンジンと、同じく軽量なシャシーの重要さでした。
この時期、ロータスというメーカーは何か神秘的な力を持ったメーカーのように思えました。(神秘的という意味ではホンダもそうだったのですが、これとも少し違う・・・)

 RA273は規定重量500sに対し700sもありました。1968年は中村良夫監督の思惑通りに事が進めばワールド・チャンピオンを獲得してもおかしくはない年でしたが、ホンダの、と言うよりも本田宗一郎さんの空冷路線のためにその通りには行きませんでした。

忘れられていたロータス・セブン

 私は1968年からホンダS600に乗るようになりましたが、この当時の憧れの車は従ってロータス・エランでした。(当時のエス乗りは大抵そうでした) ロータス・セブンの事は、その強烈なアピアランスを1965年頃に何かの雑誌で見た記憶は鮮明に残っていますが、この当時はまったく非現実的な車でした。

 というのも、私がCARグラフィックをぼつぼつ買い始めた1965年以後、60年代の間にセブンがCARグラフィックに登場したのはたったの一度だけで、しかもそれは1967年4月号のスポーツカー特集号ですが、そこにはスーパー・セブン(S2)の説明として、「ヨーロッパが英国で販売され始めると、姿を消すものと思われる」と書いてありました。1968〜1970年のスポーツカー特集増刊号には、セブンのセの字も出て来ませんでした。

 つまり、この当時はセブンはすでに過去の車であって、消えるのを待つだけ、といった印象でした。当時ロータスは東急商事が輸入していましたが、セブンは扱っておりませんでした。そもそもその頃はセブンのような車がまともにナンバーを取れる訳がないと私は思っていましたから、その事に何の疑問も抱きませんでした。
当時からイギリスでは本物のF3にナンバーが付いて走っていたりしましたから、セブンのような車はイギリスでだけ走れるものと思っていました。

 1965年頃に雑誌で見たセブンや、オート・スポーツ1967年5月号で見た1964年式のセブンは何か特殊な方法でナンバーを取得したものと思っていました。 (これらのセブンは東急商事以前に芙蓉貿易で輸入したもののようです)

 
CARグラフィックのセブン記事(〜1980)
  題名   内容
’62 11 インプレッション   日本に最初に入ったセブン(948cc)らしい
’63 7 日本GPレーシングカー解説  
’67 4 特集スポーツカー   ヨーロッパの英国発売で姿を消すとの説明
’70 5 ジュネーブ・ショウ      S4
’70 6 ニューモデル        S4、東急興産が輸入
’71 11 ロータス・セヴン2つの世代   
セヴンのショートヒストリー    
S4とS3(実際はS2のよう)
S3は’62からとの記述あり(本当は68’)
’76 4 2台のトラディショナルスポーツ  ケイターハム・スーパーセブン詳報
’79 1 ベイルートからきたスーパー・セヴン
スーパー・セヴンのショートヒストリー
S3(やっとS3登場、写真が良い)
   
’80 9 スーパー・セヴン         ケイターハム
 
 その後1970年6月号でS4をCARグラフィックで見たときは、「これは一体何なんだ?」と思いました。確かに当時デューンバギーというものはアメリカ辺りで流行っていたようで、日本でも3輪バギーのバモス・ホンダなどが出てきましたが、(日本国内ではナンバーが付かなかった?) そもそもああしたものとセブンとは嗜好の分野がまったく違う訳で、
「チャップマンはどうしちゃったんだろう?」と、(その時には)思わずにはいられませんでした。

椎間板ヘルニア

 その後私は大学時代にやっていたハンドボールが悪かったのか椎間板ヘルニアにかかり、1973年には手術を受けましたが、それでもなかなか良くならず、ついに自動車で飛ばす事はできなくなりました。(コーナリングのときに腰椎に曲げモーメントが掛かるのが特に良くないのです)そこで再びオートバイの世界にカムバックしました。

 オートバイというものは一般には腰に悪いとされていますが、実際には(ハンドルが短いものを除けば)サスペンションは自動車より柔らかいし、ショックを足と手で受ける事もできるので、腰をかばいながら運転できるのです。ナナハンやリッター車は取り回しが大変だろう、と思われがちですが、こつを飲み込めばどうという事はありません。
まあセブンに興味を持たれる方ならオートバイの事は良く知っている方が多いと思いますが。

 その後CARグラフィック1976年4月号でS3タイプのケイターハムが紹介されましたが、私とは縁のない話で、またケイターハムという名前にもなじめず、さほど興味は覚えませんでした。

 ケイターハムではアルミ部分が無塗装となっており、ロータス・セブンの強烈な外観が既にインプットされていた私には、取って付けたようなノーズコーンが不恰好に見えました。
(乗れない者のひがみというものもかなりあったと思いますが)

 20歳代における私とセブンとの出会いは、以上のようにさほどロマンチックなものではありませんでした。

   
「2台のトラディショナル・スポーツ」

CARグラフィック1976年4月号

日本で最初のケイターハム・スーパーセブン詳報

文・吉田匠さん

   

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