ロータス・セブン・ヒストリー

永遠の名車S3はやむなく作られた


 セブンの歴史は2007年にて50年にもなります。
はじめの16年がロータス・セブン及びスーパーセブン、以後の34年がケイターハム・スーパーセブンです。

ロータス・セブンの直接の子孫であるケイターハム・スーパーセブンにとってはもちろんのこと、他のセブンタイプカーにとっても元祖とも言うべきロータス・セブンの波乱に富んだ歴史を振り返ってみましょう。

 
HISTORY OF LOTUS SEVEN
1957年 10月のロンドン・モーターショーでマーク6の発展型であるセブンS1エリートともに発表。
S1(シリーズ1)はレースに出るビギナーのための車で、ベースモデルは40bhpでしたが、高性能モデルとしてコベントリー・クライマックスFWA(1097cc 75bhp)を搭載した物もありスーパーセブンと呼ばれました。 
アメリカ向けにはクラムシェル(2枚貝)・フェンダーを付けたセブン・アメリカが作られました。
バックヤードビルダーから高級スポーツカーメーカーへの脱皮を目指すコーリン・チャップマンにとって期待をかけたのは勿論エリートであって、S1はマーク6の延長線上で簡単に作る事が出来る、活動資金を稼ぐためのクルマでした。
S1の生産台数は242台以上と言われています.
クーパー・クライマックス 2.5LF1デビュー
鋼管スペースフレームのミドにエンジンを載せる戦後型の新しいマシンでした。
1958年 ロータス、F1GPに進出。この時コーリン・チャップマン30歳。
1959年 エリートデリバリー開始。
エリ−トはFRPモノコック構造でしたが複雑な2重構造であったため生産コストがかさみ、また車体の信頼性にも問題があり、さらにはEタイプ・ジャガーにも匹敵する高価格であったため失敗に終わり、ロータスは早くも倒産の危機に襲われました。
1960年 S2発表。
S1の意外な売れ行きを見たチャップマンは収入源確保のためにS1の生産性を上げ、かつ公道走行に主眼を置いたS2を開発しました。
S2は主として生産コスト削減のためS1に比べかなりフレームの部材を省略しました。
不必要と思われる部材を抜いていくというこのやり方はレーシングカー製作においてもチャップマンの常套手段でしたが、S2では後にフレーム破壊の苦情となって現れました。
S2は後期からクラムシェル・フェンダーとなりました。
1961年 売上を確保し危機を乗り切るためにS2の大幅値下げを断行。
これにより顧客はロータスから直接購入するようになりロータス・ディーラーの中には廃業に追い込まれる店が出ました。
グレアム・ニアンが運営に参加していたケイターハム・カーセールス(ケイターハム・カーサービスの説もある)もそうした店のひとつでしたが、セブンにほれ込んでいたニアンは店の権利を買い取って独立しました。
1962年 ロンドン・モーターショーでエラン発表。
エランはエリートに代わる物としてではなくセブンの代替車種として、従って安価なオープンスポーツカーとして開発が進められ、FRPモノコックではなく、後にトヨタ2000GTにも参考にされた高剛性のX型バックボーンフレームを持っていました。
エランは成功しロータスは危機を回避する事が出来ました。
ロータス25 F1 デビュー 画期的な軽合金フルモノコックボディー
1963年 FRPセブンの計画が持ち上がりましたが、コーティナプロジェクトのため中止。
ロータス・コーティナ発表。
ロータスにとってフォードとのつながりは重要なものでした。
フライング・スコッチ、ジム・クラーク、ワールドチャンピオン獲得。
1965年 エラン+2発表。
ジム・クラーク、再度ワールドチャンピオン獲得。
2度のタイトル獲得とエランの成功によって、高級スポーツカーの売上でGPをまかなうというチャップマンの夢は現実に向かい歩み出しました。
これと比例して手の掛かるキットカー、セブンは近代的な自動車メーカーとは相容れず、次第に顧みられなくなっていきました。
エランの成功で新たに増えたディーラーはセブンにはあまり関心を示しませんでした。
1966年 S2の生産は徐々に減少しついにストップしました。
ケイターハム・カーセールスのニアンはチャップマンに直訴しS2生産再開の約束を取り付け、さらにセブンのロータス社を除く独占販売権を翌年から得る事となりました。 (これはS4の発売まで続きました)
しかしチャップマンはこの時おそらく、いずれヨーロッパの発売と共にセブンは生産中止とする腹づもりでした。
12月ヨーロッパ発表。
1967年 チャップマンにとってヨーロッパはセブンに変わるべき車であり、ヨーロッパの登場によりセブンは生産中止となる事が言明されました。
(CG 68.9 「ロータス工場を見る」より)
ヨーロッパはその名の示す通り先ず大陸で発売され、英国発売までの間セブンは寿命を延ばすこととなりました。
1968年 S3発表。
セブンがいずれ無くなる事を知ったセブンファンからS2の注文が殺到、中古車価格も高騰しロータス社はセブンの生産を止めない旨の声明を発表せざるを得ない事態となりました。(CG 70.6 「ロータスセブンS4」より)
セブンの生産をやむなく続ける事となり、とりあえずS2を手直ししてS3としました。
S3ではエスコ−ト用リアアクスルの採用の他シートベルトやロールバーが装着可能となりました。
S3は後期型になりやっとフレームが強化されました。
このS3後期型が現在に続くセブンの直接の先祖です。
なおチャップマンの頭の中には’63のセブンFRP計画がありS3の開発とほぼ同時に「新時代のセブン」の開発もスタートしました。
S2は1,350台、S3は350台生産。
ロンドンボートクラブ会員、グレアム・ヒル、ワールド・チャンピオン獲得。
1970年 S4発表。
S4は梯子型フレームに一部スペースフレームを組み合わせ、大きな単位ごとに一体成形されたFRPボディーがこれに載せられました。
これまでのセブンに比べ居住性は大きく向上しましたが、当時アメリカで流行っていたデューンバギーに似せたスタイルは、古典的なセブンを愛する人々からは高い評価を得られませんでした。
S4は1,000台の生産。
グランプリのタイガー、ヨッヘン・リント イタリアGPに死すもチャンピオン獲得。
1973年 ロータスはS4の生産を中止しましたが、5月にパブ・ロータスでロータスからケイターハム・カーセールスへセブンの製造権を譲渡する契約が成立しました。
ニアンはセブン製造専門会社であるセブン・カーズを設立。
車名はロータスを名乗る訳には行かず、社名が無く単にスーパーセブンと称されました。
ロータスのバッジの代わりに7の字を用いた7バッジが付けられました。
1974年 S4タイプは部品の供給が滞るようになり、60台程度で生産を終え、かねてからニーズが高かったS3タイプに戻る。
ほどなくしてケイターハム・カーズに社名変更。
現在はケイターハム・カーズが生産、ケイターハム・カーセールスが販売を担当しています。
 
 C.チャップマンの夢はバックヤードビルダーから脱却して高級スポーツカーメーカーになり、フェラーリのようにそこで得た利益でGP活動を行ない好成績を挙げる事でした。
キットカーのセブンはチャップマンにとってある時期以降(特にエランの成功以降)はお荷物だったようです。
1966年には実際に生産が一時ストップしたし、ヨーロッパの英国内販売とともに寿命を尽きる予定にもなっていました。
しかしながらチャップマンがセブンをさほど重視しなかった事は、逆にセブンを生き永らえさせる結果となったようです。
なぜならもしチャップマンが新時代のセブンであるS4をあと5年も早く(1965年頃に)発表したとしたら、それは現実のS4がそうであったように恐らくは失敗に終わり、ケイターハム・カーセールスを買い取ったばかりで資金に余裕の無かったであろうグラハム・ニアンに引き取られるという事は無かったであろうからです。

 S4を私が初めてCARグラフィックで見た時には本当にこれは一体何?と思いましたが、今思うにチャップマンはセブンを作る以上は何としてでも古典的でない新しい時代のセブンを作りたかったのではないでしょうか。
考えて見れば、エリ−ト、エラン、ヨーロッパのどれもが当時としては画期的なスポーツカーであり、セブンも新しくなければACBC(アンソニー・コーリン・ブルース・チャップマン)のバッジを付ける価値がないとさえ考えていたように思います。

実際に60年代から70年代初頭にかけて世の中もクルマも大きく変わりつつありました。チャップマンはこの動きに乗り遅れまいとしたのではないでしょうか。
見方によってはロータス・セブンS4はもっともチャップマンの心意気を示したモデルだと言えるのかもしれません。
(それとしても、もう少し違うデザインがあった筈だとは思いますが…)
これはちょうど空冷こそ理想と考えた本田宗一郎さんが1台あたり5万円の赤字になったと言われる、あの強制二重空冷(DDAC)のHONDA1300を作ったのに似ているような気がします。

しかし実際に70年代に世界を吹き荒れたのは安全と、環境保護と、省資源、省エネルギーの大合唱で、新時代のスポーツカー像などはそっちのけでした。

 鬼才チャップマンの産み出したセブンは結局古典的なスタイルのS3タイプが時代を問わずに大きな支持を受ける結果となりましたが、このセブンの安住の地は従がって一貫してセブンを護り続けたケイターハムをおいて他にはないということが出来るでしょう。

 晩年のチャップマンは必ずしも満足の行く業績を挙げられなかったようですが、1990年にフランス第一のスポーツ誌「ル・エキップ」が行なった、戦後40年のF1GPに貢献した人物の投票では、エンツォ・フェラーリ、ジム・クラークについで第3位に入っています。
その功績については誰もが等しく認めているという事でしょう。
(なお日本人ではただ一人ホンダF1の中村良夫さんが18位に入っています)

 

コーリン・チャップマンと
グレアム・ニアン
1973.6

LOTUS SEVENより

 

HPCはハイパフォーマンスコースの略

  

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