
第十四章 家族のみんなが死んでゆく
明治四十三年九月十五日 啄木は 東京朝日新聞「朝日歌壇」の選者となり、ようやく存在を認められるようになりました。
十月四日、長男真一が誕生、啄木は三行書きという新しい表現形式の歌集「一握の砂」を発行しようとしますが、十月二十七日、真一は夭折し、ようやく手にした稿料も真一のために費やされてしまいました。
「一握の砂」により注目され、啄木は歌人としての地位を確立していきます。
しかし、啄木は明治四十四年二月四日、腹膜炎のため 東京帝国大学青山内科に入院、退院後、肺結核はしだいに悪化していきました。
さらに六月、妻節子の実家堀合家への帰省をめぐり、夫婦間に深刻な軋轢が生じ、堀合家と義絶、九月には宮崎郁雨の援助も得られなくなり経済的に困窮します。
また肺結核という病気のため住んでいた借家も追われ、小石川に移ります。
明治四十五年三月七日、啄木の母カツも肺結核のため死亡。
絶望した啄木は母の死後、目に見えて衰弱し、明治四十五年四月十三日、その二十七才の生涯を終えました。
第十五章 絶望の淵で
明治四十四年になると啄木の一家はさながら肺結核の家となり、節子の実家堀合家、それにつながる宮崎郁雨はせめて節子、京子の二人は手元で静養させたかったのでしょう。しかし、すでに啄木は正常な判断力を失い、節子を手放そうとはしませんでした。
節子は啄木が死んだ時、八ヶ月の身重でした。すでに結核の症状もあり、千葉県北条に移り住み、ここで 次女房江を生みます。
明治四十五年秋、節子は啄木の遺骨を胸に実家のある函館に帰り、親子三人のわび住まいを始めますが、厳寒の気候を乗り切れず、年初早々病状が悪化、二人の子供に思いを残しながら遂に帰らぬ人となりました。