第二話 闇夜の政変

成十二年四月一日に始まる、脳梗塞による小渕首相の緊急入院から森喜朗首相誕生にいたる政権交代劇は開かれた民主主義国家としての日本の現状の不可解さをはからずも露呈し、国民はもとより、諸外国からも疑念の声が挙がった。一体この政変は日本史上いかなる評価を受けるものであろうか。

   「ええい 遅い、何をしておられるのか 早く参られよ」  
延宝八年(1680)五月五日深夜、ほの暗い江戸城中、黒書院で老中堀田正俊は待ちわびて苛立っていた。
時の将軍家綱はこの年四月初旬より病臥し、既に明日をも知れぬ死の床にあった。
初代家康、二代秀忠、三代家光と隆盛を極めた徳川将軍家ではあったが、しかし、四代家綱には後継者となるべき子がいない。いかにすべきか。
「鎌倉幕府の例にならい、京都より親王を迎え、将軍としてはいかが」意見を述べたのは、当時“下馬将軍”と呼ばれ、権勢を誇った 大老酒井忠清であった。
これに異議を唱えることも出来ず、沈黙する幕閣の中で、一人「恐れながら」と申し出たのが 老中堀田正俊であった。
「徳川宗家のお血筋が絶えたわけではありませぬ」
正俊の行動は早かった。
ただちに病床にある家綱の寝所に参上、家綱の弟館林城主綱吉を養子とし、五代将軍とすべく遺言書を入手したのである。
深夜にもかかわらず正俊は密使を走らせ、綱吉を家綱の病床に招じ入れた。
五月八日、家綱が没し、綱吉が五代将軍となるに及びて、さしもの権勢を誇った 大老酒井忠清は失脚、程なく病没。しかして一族の末路は悲惨なものであった。
代わって大老に就任した正俊は「天和の治」に功あるもやがて誅殺される。
初心は細心、細密、謙虚な権力者もいずれは驕り、傲慢となり、人心を忘れ、思いもかけぬ悲惨な結末を迎えるものであろうか。
ちなみに堀田正俊はかの“春日の局”の一族である。

        
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