Afternoon Tea

   

  PART2

(2000年「DEAR SNOWY」時代のエッセイです)

<はしかの思ひ出>


幼稚園の頃に、おたふく風邪にかかった。

両頬がぶぶぶーっとふくれて、アンパンマンのようになった。

幼稚園は当然休んだのだが、

熱も下がり、頬のぶぶぶーっも引いてきたら、

子供は大人しくなどしていない。

しかし親は、用心してしばらく幼稚園に行かせなかったし、

お友達と遊ぶのも、もちろんダメだ。

ヒマを持て余した私は、一人庭で骨の折れた傘を振り回して遊んでいたのだが、

その時、突然担当の先生がお見舞いに来た。

元気よく遊んでいた私は思わず、

「あわわわわわわっ」となり、そのまま家の中に飛び込んで、

洋服を来たままフトンにスラィディングした。

その時一部始終を、シビアな目で見ていた先生の姿が今でも忘れられない・・・。

 

子供の頃にかかったのは、おたふく風邪のみである。

どうしたわけか、麻疹も、水疱瘡も、風疹もすべて私を避けていった。

がっ、それから数十年後のある日、突然高熱が出たのだ。

のどが痛くてたまらない。

見ると、口内炎が一個、二個、三個、・・・十個。

一日経つごとに、その数が増えていく。

熱は40度まで上がった。

「風邪だろう」とタカをくくっていたが、

その熱は、3日たっても、4日たっても下がらない。

そして、なぜか手や足に赤い斑点のようなものが浮き上がってきた。

そしてあまりののどの痛さに、耳鼻科へ行った。

解熱剤と、口内炎用の薬をもらって帰ったが、

いくら解熱剤を飲んでも、熱は下がらない。

口内炎は増えるばかりだ。

そして再度、耳鼻科に。

その時医者は、手や足に出てきた赤い斑点を見て、

「膠原病の疑いがあるから、検査した方がいい」と言って、

大学病院への紹介状を書いてくれた。

そして翌日、大学病院の耳鼻科へ行ったのだが、

たまたま土曜日だったので、検査は行なわず、

「原因不明。また月曜日に来院すること。」と帰されしまった。

翌日、あまりの高熱続き(40度近いのが1週間)と、

ひどい痛みと脱水症状のため、呼吸困難に陥り、

「このままでいたら、多分私は死ぬ。」と思い、

電話で友人に来て貰った。

そして私の姿を見た友人は驚き、すぐに救急車を呼んで、

昨日行った大学病院まで付いてきてくれのだ。

結局内科に回され、診断は「麻疹」。

私は、あまりの苦しさに、

「あのぉ、これから入院・・・。」と訴えるように言ったら、

研修医のような医者が、

「麻疹は家で寝ていて、ウィルスがでるのを待ってれば治る。

だいたい麻疹で入院なんかする人はいない。」

と傲岸に言い放った。

それで解熱の注射を打たれただけで、終わり。

「うちで寝てれば治る、なんて言われても、

7日間高熱続きの上、口内炎で喉が塞がれて痛みのため、

ほとんど何も食べれない、水も飲めない状況で

このままほっといていいのか、おい。」と思ったが、

「大丈夫です。」と太鼓判を押され帰されてしまった。

それで、仕方なくタクシーで帰宅しのだが、

やはり帰ってからも、「ううっ、苦しい、死ぬ」で一晩中寝られず、

翌日、今度は違う友人に付き添ってもらい、同じ病院へ行った。

そして、今度は内科ではなく、皮膚科に回されて、

私の姿を見た医者が、

「これはひどい。ひどすぎる。すぐ入院しなさい。重症で危ない。」

と言ったのだ。

昨日の研修医とは、えらい違いである。

それから毎日点滴6本。

今まで、熱と痛みのために眠れなかったのを取り戻す如く、

ひたすら眠った。

しかし、口内炎を始め、体中の粘膜に麻疹が出来た痛みで、

食べ物は、入院してからも3日ほど受け付けなかった。

そのため、短期間で6キロもやせた。

顔はフットボールのように赤く腫れ上がり、

鏡に写る顔は、まるでバケモノのようで、

若い看護婦に、「これってちゃんと治りますか?」と聞いたら、

「わかりません。」と答えられ、

「うーん、このまま治らなかったら、見せ物小屋で、

親の因果が子に報い・・・の世界で生きるのか?」と

半分真剣に悩んだ。

しかし、入院4日目から斑点は引いて行き、

熱も完全に下がり、結局1週間で退院できたのだ。

 

入院と言うのは、今まで生きてきた中で、

この時、1回こっきりのみ。

しっかし、子供の頃に、麻疹や水疱瘡をやらず、

成人になってからかかると、

こんな死ぬような苦しい思いをさせられるとは・・・。

大人になってやっていない方、ご注意を!

(でもまだ水疱瘡をやっていない私。

麻疹よりもっと怖そう・・・。)

 

<憂いる幼児>

恥ずかしい話だが、私は幼稚園を2浪したことがある。

大学まで行ける幼稚園を親が受験させたのだ。

というと、加熱した「お受験」のように聞こえるが、

実は、地元にあるたいして有名ではないエスカレーター学校であった。

面接の時に、

「おかあさんはだれ?」と聞かれて、

「わからない。」と答えたバカ幼児である。

多分他の子供たちは、ちゃんと「お母さんはこの人」と言えたか、

指させたのだろう。

他の子供達が受かり、自分の子供が落ちたことが悔しかったのか、

よせばいいのに、母は、私を2年続けて受験させたのだ。

そして2年目も落ちた。

それでしょうがなく、1年保育の市立の幼稚園に通った。

当時、泣き虫で人と話すことが大の苦手、

食が細く、母が作ってくれたお弁当を食べるのが、

苦痛以外なんでもなかったあの頃・・・。

ああっ、そんな時代が私にもあったなんて。

 

そういう子供であったから、いじめっ子からも相当やられた。

上履きや、カバンをよく隠された。

お弁当を残したりすると、

「いってやろ、いってやろ、セーンセイにいってやろ」が始まる。

そうするとすぐ、「ビエーッ」と泣き出す。

工作の時間に、作り方がわからないと、

一人で「ビエーッ」と泣き出す。

先生からも、「すぐに泣きゃあいいってもんじゃない」と言われた。

当たり前である。

今の私が、その当時の私を見たら、

イライラして、一発ぐらいなぐっていたかも・・・。

とにかく、どんくさい子供であった。

ピアノのお稽古に行く途中、トロトロしていて、

よくドブにはまった。

おまけに月謝まで落として、怒られたこともある。

運動神経は、悪くなかったのだが、

多分頭が鈍かったのだろう。

 

仲の良い女の子が一人いた。

クラスは一緒ではなかったが、

集団登校、下校時にいつも手をつないでいた女の子だ。

確かジュンコちゃんという名前だった。

その子も私同様、滅多に話しをしない。

私は、「ジュンコちゃんのクラスにいじめっこいる?」と聞いた。

ジュンコちゃんは、「うん、いる。」と答えた。

「何人?」 「二人。」

「わたしのところは、4人・・・・。」

そこで二人して、深いため息をついたのだ。

幼稚園児にして、この憂い・・・。

 

子供の頃は、内弁慶でも変わって行く子は沢山いる。

あんなに無口だった私でも、

今じゃこの通り、うるさがられるくらいのオシャベリだ。

食が細いなんて、絶対に考えられない。

今じゃ、太すぎて困っている。

でも、あの時の憂いる記憶、

あれは今でも、なんとなく寂しくて、

悲しい気持ちになるね。

 

<ピアノ・レッスン>

ピアノを習い始めたのは、

確か3才のお誕生を迎えた時だった。

お稽古日は、土曜日。

仕事を持っていた母が、お昼で帰宅し、

午後から、いつも一緒にピアノの先生の家までついてくる。

そしてレッスンが始まると、

熱心な母は、後ろのソファで待つことが出来ず、

ピアノを弾く私の右側に、必ずくっついて座った。

左側の先生、右側の母に挟まれた私は、

3歳児ながら、極度の緊張の元で、

毎回レッスンに挑まなければならなかった。

おまけに、私の覚えの悪さはピカ一だったらしく、

先生が私の指に自分の指をのせて、

何度も何度も、繰り返して弾かせる。

しかし何度弾かせても、覚えない私に、

まるで、ラジオ体操最後の、

「はい、大きく息を吸って、はい、吐いてー。」

なんて声が聞こえてきそうな、

深いため息をつくのだ。

その時、3歳児の私が思ったこと。

それは、

「私は非常に申し訳ないことをしている。」

だった。

3歳児の私に、ここまで思わせるほど、

先生は、1曲終わるたびに、

疲労困憊といったような表情をしていた。

 

さらに自宅に戻れば、音楽の「お」の字も知らない母が、

ピアノの横に座り、先生の稽古を見よう見まねで、

私にレッスンをつける。

そうなると、もうメチャメチャのグチャグチャだ。

だからピアノのお稽古は、

楽しいなんて思ったことなど一度もなく、

さらに4才の発表会で私は、

「山の音楽隊」を弾いたのだが、

客席に向かって挨拶をせず、

ピアノに向かっておじぎをしたため、

ホール内は、笑いの渦となって、

お客さん方をなごませてしまった。

にもかかわらず、厳しい母には、

「はずかしい思いをした」と

後々まで、言われる始末で、

幼少時、ピアノにかかわることで、

あまりいい思い出はない。

 

それでも、バイエルから、チェルニー、ソナタと

教則本を重ねていくうちに、

「音楽って結構いいかもしれない」と

少しずつ思えるようになってきた。

がっ、相変わらずピアノのレッスンを受けても

先生にため息をつかれる下手さ加減には、

変わりなかったのだが・・・。

自分で弾くのは苦手であっても、

ピアノ曲を聴くのは、かなり好きであった。

聴くだけではなく、全音ピアノピースの譜面の裏に出ている、

ピアノ曲のタイトルを見るとワクワクした。

「アルプスの夕映え」だとか、「月の光」、

「ダブニュー川のさざ波」、「ラ・カンパネラ」etc、

曲自体は聴いたことがなくても、

タイトルのきれいな単語から連想した

美しい風景を頭に描き、

ちょっとした空想旅行を楽しむことが出来たのだ。

 

父に買ってきてもらった、ピアノ小品集のLPレコードは、

すり減るまで聞いた。

音楽の先生が弾いた「乙女の祈り」に感動し、

すぐさま全音ピアノピースを買ってきて練習をした。

しかし、いかんせん指が短い私には、

1オクターブ分、指を開いて弾くこの曲を

まともに弾きこなすことなど出来なかったのだが・・・。

 

近所のバイオリンを習っていたマナちゃんという女の子がいたが、

そのマナちゃんのバイオリンを弾く姿を見て、

こんな得体の知れない物を弾けるこの子は、

なんて偉大なんだ、と驚いた記憶がある。

しかし弾いていた音色は、一生懸命弾いている姿とは、

裏腹な、耳を覆いたくなるようなモノであったが。

それから数十年後、私はマナちゃんが奏でる音より、

もっとひどいバイオリンの音色を

自宅で奏でて、犬たちの大ヒンシュクを買っていた。

よせばいいのに、30過ぎてから、

3年間バイオリンを習ったのだ。

友達の前で弾いたら、お腹をかかえて、

笑い転げられた。

自分の指で音を作っていくバイオリンは、

弦を押さえる指が少しでもずれると、

聞くに耐えない音がでる。

自分で弾いていても、頭が変になりそうで、

「絶対音感があったら、私はこのバイオリンの音で絶対に死ぬ。」

そう確信したぐらいだ。

 

あと10年くらい熱心にレッスンすれば、

ちょっとはマシな音色が出たかもしれない。

しかし店を始めたと同時に、レッスンをやめてしまったので、

バイオリンは、箱もあけないまま放置してある。

もしかしたら、もう音自体が出ないかもしれない。

以前に先生から、

「あなたもヨーロッパに行ったとき、

良いバイオリンを購入すればいいのに。紹介しますよ。」

と言われたが、

それは、確実に宝の持ち腐れとなったので、

やはり、やめておいたのが賢明であった。

 

今はピアノ曲を聴くよりも、

弦楽器を聴く方が断然好きである。

バイオリンからチェロ、クラシックギターまで、

演奏家は問わずに、だいたい選曲で

CDを選んで聴いている。

ちなみに良く聴くのが、古沢巌氏のバイオリンCD、

バイオリニスト、ギドン・クレーメルの「ル・シネマ」、

またチェロのヨーヨー・マのシリーズやミーシャ・マイスキー、

村治香織のギターである。

子供の頃、いやいや通っていたピアノのお稽古は、

結局、こうやって音楽好きにしてくれたのから、

やはり感謝すべきことなのだろう。

 

<若葉に思う>

美しい5月。

この季節になると、

ビージーズの「若葉のころ」の曲を思い出す。

まだ小学生だった時分、

夢中になった映画「小さな恋のメロディ」(Snowman's Box「小さな恋のメロディ」参照)

の挿入歌だ。

イギリスのパブリックスクールに通う、

少年と少女の恋の物語。

叙情豊かな映像で、全編に流れる曲も、またファッションも

子供の私から見て、とてもステキだった記憶がある。

この映画の端から端まで、

なにを見ても、なにを取っても、全部が大好きだった。

 

主人公の少女メロディが着ていた学校の制服は、

紺のブレザーに水色のギンガムチェックのミニワンピース。

男の子も、白いシャツにネクタイ、そして紺のブレザー。

特に女の子たちは、さわやかな初夏を思わせるミニのワンピースから、

スラリとした足を出して、すごいかわいかった。

今でこそ、日本の学校もブレザーに、

チェックのスカートなんてところがほとんどになったが、

この当時といえば(1970年初め)、同じブレザーにスカートといっても、

紺の丸襟、プリーツの中途半端な長さのスカート、

おまけに、トドメが三つ折りソックスだったりするチョーダサさ。

その後、三つ折りでないタイプのソックスに移行していったが、

ルーズソックスの原点とも言えるような、だらしないシロモノもあり、

うちからソックタッチを忘れると、

ズルズルしたソックスを持て余しながら、

だらーっと気分悪く一日が終わる、なんてこともよくあった。

男の子は、真っ黒いガクランに、

坊主頭なんて規則の学校も結構あって、

それこそ男の子の頭の形や、どこにハゲがあるのかも、

バッチリ分かってしまった受難の時代だ。

 

おっと、話がそれた。

そう、この映画、二十数年だった今でも、

思い出すと胸がキュンとする。

別に自分の初恋と重なるとか、

そんなエピソードなどかけらもないのだが、

とにかく、11才のロンドンのパブリックスクールに通う子供たちが、

思いっきり楽しそうに、毎日を過ごしている。

子供なりの憂いはあっても、

仲間とワイワイ遊んで、そして初恋をして、

通り過ぎてゆく幼き日々なのだ。

また、全編に流れるビージーズの歌が、

子供達の表情をキラキラと引き立てる。

そう、ビージーズの歌、いいのよねぇ。

英語だから意味はわからないが、

訳を読むと、これがいい。

 

                    −若葉のころ−

         ぼくがまだ小さくて、クリスマスツリーが大きかったころ、

         友達が遊んでいるときに、ぼくらは恋をささやいていた。

         ぼくに聞かないて、なぜ時が過ぎ去ったのか。

         なにかが遠くからやってきて、ぼくたちが大きく、

         クリスマスツリーが小さくなった。そして誰も時間を聞かない。

         だが君とぼくと、二人の愛は永遠に消えない。

         誰かが泣く、5月が来たとき。

         二人のために育てたリンゴの木。リンゴの実が落ちてゆく、ひとつづつ。

         そしてぼくは思い出す。その一刻一刻を。

         君のほほにキスをして、君が去った日を。

         ぼくたちが大きく、クリスマスツリーが小さくなった。

         そして誰も時間を聞かない。

         だが君とぼくと、二人の愛は永遠に消えない。

         誰かが泣く、5月が来たとき。

 

子供の頃の恋を、遠い昔にしてしまった時の流れに

今でも胸が疼くって感じなのかな。

リンゴの実がひとつ、ひとつ、落ちてゆくたびに

季節も、相手も、自分も変わってゆく。

大人になっていく過程で、なにかを捨て、なにかをあきらめ、

生きて行くという現実にため息ばかりをつく日もある・・・。

別の曲「メロディ・フェア」の歌詞にもあったが、

「雨が降るのを眺めているメロディ、

 人生は雨ではなく、メリーゴーランドのようなもの・・・」

 

きっとこの映画は、子供の恋を描きながら、

実は、大人たちが子供の頃に置き忘れて来た、

心のおとぎ話のような気がする。

大人になると、忘れていってしまうことが沢山あるけれど、

この映画を思い出すと、心の奥にしまった宝箱を開けるような、

そんな気持ちになるのかもしれない。

 きらきらと輝く若葉に、自分の子供時代の姿を重ねながら・・・。

                                                 Come first of May

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