福音書の受難記事には 「……大ぜいの群衆も、剣と棒とを持って……」(マタイ 26.47) のように「剣」「棒」が登場する。 聖書には書かれていないが受難物語には「聖杯」がつきものだ。 これに「金貨」が加わればタロットのスートが全部登場することになるが、 原語ではどうなのか調べてないのでよくわからない。 なお、ユダがイエスを売ったのは「銀貨」三十枚である (マタイ 27.3)。
1999-04-15 (4) 02:43:00 +0900
きのうの 22 時に愛用のダイバーズウォッチをラジオの時報に合わせようとしたら --- 厳密にいえば何秒進んでいるかを確認しようとしたら --- 秒針が2秒ずつ動いている。 電池切れ間近だ。 いままで10年以上使ってきたが、 一度もこの電池切れ予告機能が作動したのを見たことがない。 気がつくと止まっているのだ。 働かないのかなと思っていたが、見落としていただけかもしれない。 秒針を「ああ、動いているなあ」ぐらいにながめているだけでは気づかないほどだ。 きのう時報と合わせたときは普通に動いていたのだからもうしばらくは動くだろう。 時計屋にいって電池交換してもらおう。 と思っていたら 1 時 22 分で止まってしまった。 説明書をみるとこの予告が出てから二三日は動くとなっているのだが。 やっぱり何か変だ。
1999-04-15 (4) 02:21:00 +0900
所沢のダイオキシン騒ぎについては、 新聞を斜め読みしているだけなのだけど、 煎茶のダイオキシン濃度はほかの野菜と比べて高めだが、 いれたお茶に全てが出るわけではないから大丈夫、ということだったように思う。 粉を全て飲んでしまう抹茶の場合はどうなるのだろう? よく新聞を読んでみよう。
……などと下書きを書いたまま忘れていたが、 先日、家庭でお茶の葉をくだいて粉末にし、 食べられるようにする機械が売られているのを発見した。 大丈夫かな。
1999-04-15 (4) 01:56:00 +0900
セガサターンの格闘ゲーム Fighters Megamix のキャラクタ RENTAHERO は乾電池が切れるとアーマーがなくなり普通の人間 「やまだたろう」にもどってしまうが、 その状態で勝ちポーズをとるとTシャツの胸のマークが見える。 1キャラは白地に Virtua Fighter, 2キャラは黒地に Fighting Vipers のロゴが描かれているようだ。 知らなかった。
1999-04-14 (3) 02:04:00 +0900
ギリシア文字の名称は alpha, beta, ..., omega とつづりで書くことができる。 もちろん、ギリシア文字でも書ける。 しかし、ラテン字母の名称はあまりつづりで書かれたのを見たことがない。
知人から聞いたのだが、 野上素一「新伊和辞典」(白水社)では acca が見出しに立てられている。 字母「H」の名称であると同時に 「取るに足りない物〔事〕」というような意味で熟語の中で使われるためらしい。
1999-04-13 (2) 20:09:00 +0900
ちょっと前の「不審船」関連の新聞記事にはほとんど目を通していたつもりだが、 「「不審船」はどこからはいってきたのか」 「はいってきた時点で発見できなかったのか」 「そうだとしたら、そのことについてどう考えているのか」 が全くわからない。 今回の「不審船」の行動から想像すると、 もしも日本の領海にはいろうとしていた時点で日本側が停止を求めていれば 「不審船」は出ていったと思う。 それなら(いちおう)問題なしだったのではないだろうか?
1999-04-13 (2) 20:05:00 +0900
小学生時代から使っていた私の広辞苑第二版の、 背表紙と表紙の境目に裂け目がはいってしまった。 玄関の本棚に立ててあったのを上の部分に手をかけて取り出そうとした際、 手がすべって背表紙の上端部分に指をかけて引いてしまったため裂けたのだ。 修理しないでこのまま使うか。
奥付を見ると 1971 年 11 月 18 日発行の第二版第五刷だ。 ということは、小学生時代から使っていたものではないな。 そういえば、 しばらく使ってから落丁か乱丁が発見されて取り換えてもらったような記憶がある。 当時の広辞苑は「じ」「ぢ」「ず」「づ」 の書き分けをしないなど現代かなづかいと少々違う見出しの表記を使っていたので、 単語が見つからないのはそのせいかと思っていたら落丁か乱丁のせいだったのだ。
定価 3200 円というのは文庫本と比べると高いような気がする。 当時岩波文庫は「★」一つ 50 円で、最高が「★」五つの 250 円だったと思う。 その 12 倍以上ということはいまなら 10000 円を越えてしまうだろう。
1999-04-12 (1) 22:44:10 +0900
金沢の香林坊にある109に「KLEIN D'OEIL」(O と E は合字) という「レディスウェア」の店ができるらしいが、 カナでは「クランデュイュ」と書くらしい。 「イ」のあとに小さな「ュ」がくるのが目新しい。
1999-04-12 (1) 00:48:00 +0900
高校の入学式・卒業式などでの「君が代」の斉唱拒否のニュースを聞くが、 校歌の斉唱拒否はないのだろうか? けっこう妙な校歌もあるようだが。
1999-04-10 (6) 02:12:00 +0900
わが家の Win95 で「設定」「コントロールパネル」「日付と時刻」 と選び進んで 「現在のタイムゾーン」を見たら、 なんと「東京(標準時)」と書いてある。 確かに東京における標準時ではあるけれど東京だけの標準時じゃない。 ここは「日本(標準時)」が正しいと思うぞ。
これを書いた人は日本のタイムゾーンについて考えたことがないんじゃないかな。 たいていの日本人はそうで、それでいっこうに困らないからそれでもいいのだが。
1999-04-09 (5) 23:02:23 +0900
ちょっと前に書いた『「アルパ」は「’Αλφα」で「オメガ」は「’Ω」』 について、 massangeana さんから「当時は字母『Ω』の名前は『オー』だったのでは」 という御指摘をいただいた。 「オメガ」はギリシア語では「オー・メガ」であり、 「オー」という別称もある (参考:田中美知太郎・松平千秋「ギリシア語文法」(岩波書店))。 「オー」のほうが古い名称らしい (参考:古川晴風「ギリシャ語辞典」(大学書林))。
なんだかそんな気がしてきた。 字母「Ω」そのものを書いたんだったら、 その前に気息記号「’」をつける必要ないもんね。
しかし、疑問も残る。 「新約聖書V パウロの名による書簡 公同書簡 ヨハネの黙示録」(岩波書店) 巻末の「補注 用語解説」で「アルファ・オメガ」 を見ると「Alpha, Omega」(O の上には長音を表わす横棒あり)と添えてある。 同書から黙示録だけを取り出した「ヨハネの黙示録」(岩波書店)も同様。 ほかの例から推測するとこれが原語のようだが、 これは訳者のカン違いか?
(付:原語が「オー」だったら訳文でも「オー」とすべきではないか、 という意見もあるだろうが、 「ヨハネの黙示録」が書かれた時点で「オー」 と呼ばれていた字母がいまでは「オメガ」と呼ばれるのだから、 近代語に訳すときに「オメガ」としても問題はないだろう。)
1999-04-08 (4) 00:58:30 +0900
ちょっと前に書いた『「買春」は「かいしゅん」と読むのか?』 について、 奥村さんから 「『遺言』を『いごん』と読むのと同じような法律用語では」、 massangeana さんから 「『市立』を『いちりつ』と読むようなものでは」、 という御指摘をいただいたが、 「遺言」には元々「いごん」「ゆいごん」両方の読みがあるようだし、 「市立」を「いちりつ」と読むのは耳で聞いたときに 「私立」と区別できるためであって新聞のような“目で見る”メディアで 「買春」に「かいしゅん」とふりがなを振る必要はないと思うので、 やっぱり納得できないのであった。
1999-04-07 (3) 23:10:54 +0900
雪の降った晩には勤務先から帰るバスがなかなかこないことがある。 歩いて帰らざるを得なくなった場合に途中でこごえ死なないようにと、 冬の始まりにコニャックのミニチュアボトルを買ってカバンに入れた。 (その前の冬はポケットボトルにしたら結構重く、 少し飲んで減らそうとしたら全部飲んでしまったので。)
もう春だろうと思って二三日前にうちで空けてしまったら、 きょうはあられが降った。
1999-04-07 (3) 23:04:09 +0900
最近、NHKのニュースなどを聞いていて感じるのだが、 「〜歳の銀行員を逮捕しました」と言ったあと 「この銀行員は……」の意味で「銀行員は……」を使っていることが多いようだ。 「銀行員は……」「銀行員は……」とくり返されると、 なんだか銀行員一般を指しているように感じられてきて気持ちが悪いことがある。
この用法が若者たちの日本語に影響を与えているかも知れない、 という説を知人から聞いた。 数学の議論でも、この誤解から話が合わなくなる可能性がある。 例えば、学生は前に出てきた開集合を指して 「開集合は〜です」と言ったつもりなのに教師の側は 「任意の開集合は〜です」と主張したと思ってしまうとか。
1999-04-07 (3) 22:49:06 +0900
ことしの聖金曜日には四福音書の受難の部分を通読したので、 復活日には復活の記事を読んでみた。 その際、ルカ 24.13 の、 エルサレムとエマオの距離の単位が訳によっていろいろであることに気がついた。 文語訳は「三里」、口語訳は「七マイル」、 共同訳・新共同訳は「六十スタディオン」だ。 原文の単位が「スタディオン」なのでそれをそのまま使うのが最近のやり方だろう。 文語訳は昔のものだから、「里」なのも納得できる。 しかし、1954 年の口語訳の単位が「マイル」なのはなぜだろう?
1999-04-07 (3) 02:48:00 +0900
6日付朝日新聞大阪本社版スポーツ面の政府広報に 『「夏時間」、「サマータイム」 などまちまちに使用されている本制度にふさわしい名称についても、 最終報告書に盛り込むため募集しています』 とある。
「エコタイム」とかにだけは絶対にならないでほしいな。
1999-04-07 (3) 02:37:00 +0900
わが家の Win95 マシンをアメリカ合衆国の時間帯に設定し、 夏時間にどう対応しているか実験してみた。
「コントロールパネル」の中で「日付と時刻」を選び、 「タイムゾーン」を「(GMT-05:00) 東部標準時(米国およびカナダ)」にする。 それから「日付と時刻」を 2020 年 4 月 5 日 の 0 時 59 分 50 秒(ぐらい)にしてみた。 この日は四月の第一日曜日なので、 この 10 秒後から夏時間になるはずである。
※ 2020 年で実験したのは、 おかしなタイムスタンプのファイルができてしまったとき大きくずれているほうが 「これはあのときのファイルだ」 とわかりやすいからだ。 ウルトラQの「2020 年の挑戦」が念頭にあるのはいうまでもない。:-)
ところが、何も起こらない。 いろいろ試してみたのち、 その日 の 1 時 59 分 50 秒(ぐらい)にセットすると時計の針が 2 時になったとたんに一時間とんで 3 時をさすことがわかった。 しかし「現在のタイムゾーン」は「東部標準時」のまま。 おかしいな、と思ったがいったん「タイムゾーン」 を表示させて「現在のタイムゾーン」を隠してからからもう一度 「日付と時刻」を表示させると「東部夏時間」に変わっている。 あれ、夏時間への切り換えは午前 1 時に時計の針を進めるんだと思っていたけど、 午前 2 時だったかな? アメリカ本土は四つのタイムゾーンを使っているので全てのタイムゾーンで同時に夏時間に切り換わるように切り換え時刻を調節している? と思ったりもしたがはずれ。 おかしいな。ことし 1999 年で実験しても同じだ。
夏時間から標準時にもどるのは 10 月の最終日曜日である 10 月 25 日で、 午前 2 時が午前 1 時になる。
ベルリン・ローマ・ウィーンなどの時間帯では、 夏時間への切り換えが 3 月の最終日曜日である 3 月 29 日の午前 2 時(標準時)。 標準時への復帰は 9 月の最終日曜日である 9 月 27 日の午前 3 時(夏時間)。
なお、 「日付と時刻のプロパティ」 のウィンドウが表示されていないときに切り換わりの時刻を過ぎると 「夏時間の調整のためにシステムクロックが更新されました。 新しい設定が正しいか、確認してください」 というメッセージウィンドウが出て、「OK」を押すと 「日付と時刻のプロパティ」が出る。 マシンが止まっている間に切り換え時刻を過ぎたときは Win95 が立ち上がりかかったところで同じメッセージが出て 「日付と時刻のプロパティ」になり、それを閉じてからデスクトップが現われる。
南半球のシドニーとかはどうなっているんだろう、 と実験を始めるときりがないのでやめておこう。
それよりも、 存在しないはずの時刻、米国の 4 月 5 日 2 時 30 分にしてみるとなぜか 「夏時間」と表示される。 二つ存在する 10 月 25 日 1 時 30 分は「夏時間」だ。 標準時にもどってからの 1 時 30 分に合わせたいときはどうするのだろう? (これは、「自動的に夏時間の調整をする」 をオフにしておいても変わらないようだ。 ここまではずっとオンにして実験をすすめてきた。)
最後の実験。 夏時間から標準時にもどる直前にセーブしたファイルと、 もどった直後にセーブしたファイルをエクスプローラーで 「更新日時」順に並べてみる。 前者のほうが新しいと判断された。 これじゃ困るなあ。 make などの、 タイムスタンプを比べて判断しているプログラムが正しく動かないじゃん……。
おおっと、時計を元にもどしておかなくちゃ。 (ってせりふ、「パーマン」にありましたな。:-))
※ 実験を終えてタイムゾーンも日付時刻も元にもどすと、 なんだか時空旅行から帰ってきたような気がする私はお気楽な性格? :-)
1999-04-07 (3) 02:33:00 +0900
ヨハネの黙示録 1.8 に 「わたしはアルパであり、オメガである」 という有名な句がある。 原文では「アルパ」は「’Αλφα」とつづりで書かれているのに対し 「オメガ」は「’Ω」と字母そのものが書かれている。 この違いはなぜ?
1999-04-07 (3) 00:20:00 +0900
もしも日本に夏時間が導入された場合、 現在の OS は対応していないのでなんとかしなくてはならない。 「夏時間は無視し、現在のままにしておく」 というなら問題はないが、 「コンピュータの時計を UTC に統一してしまう」 「UTC +1000 の時間帯に合わせる」 などとした場合どうなるのか実験してみた。
使ったマシンの OS は WinNT 3.51である。(←古い ^^;)
「コントロールパネル」内の「日付と時刻」で「時間帯」を Greenwich Mean Time にしてみる。 すると「夏時間の自動調整」 に勝手にチェックがはいってしまうのでこれを消す。 (Greenwich Mean Time に“夏時間”はないはずだ。 Greenwich Mean Time は London と同じ時間帯に属するので、 London の夏時間に自動的に対応する、という意味だろう。)
そこでファイルマネージャを開いてみると、 そのマシンのハードディスク内のファイルのタイムスタンプは変わらないが、 samba を利用してマウントしている linux マシンのファイルは時刻がずれる。 双方のマシンの時間帯を見て換算しているようだ。 ネットワークドライブも同様。
「net time」で時刻を linux マシンに合わせると時刻がずれる。 この際も双方の時間帯を見て計算していると思われる。 メーラからメールを発信する際の時刻はローカルになる。 つまり、+0900 と表示されていた部分が変わってくる。
なお、こういう実験の途中でファイルを作成したり更新したりすると、 あとでとんでもない時間になっていて困ることがあるので要注意である。 よって、メモは別のマシンでとるようにした。
1999-04-05 (1) 01:47:42 +0900
小学生のとき、「時刻」と「時間」の違いを習った。 いま導入が話題になっている「夏時間」 (あるいは「日光節約時間」) は時間を変えるのではなく時刻を変えるのだから 「夏時刻」(あるいは「日光節約時刻」) でないと、教育の現場が混乱するのではないか。 もちろん、「夏時間」(あるいは「日光節約時間」) は一つの熟語であって「時間」の一種ではない、 とすることも不可能ではない。 「圧力」が「力」ではないように。
1999-04-02 (5) 18:42:12 +0900
……というタイトルの本の広告が、 3月21日付朝日新聞大阪本社版読書面に出ている。
この本の内容とは全然関係ない(と思われる)が、 最近の若い人は女装した男性を「おかま」 と呼ぶことがあって話が通じなかったりする。 その“定義”に従うとすると記紀の中に「おかま」は出てくるか、 出てくるとしたら「日本のおかま第一号」は誰だろうか、 と知人に尋ねたところ、ヤマトタケルではないかとのことだった。 そういえば“クマソ退治”のくだりでは女に化けて近づくのだった。 「童女(をとめ)の髪の如(ごと)その結はせる御髪を梳(けづ)り垂れ、 その姨(をば)の御衣御裳を服(け)して、 既に童女の姿になりて、 女人(をみな)の中に交(まじ)り立ちて、その室(むろ)の内(うち)に入りましき」 (「古事記」(岩波文庫)119 ページ)とある。
1999-04-02 (5) 18:25:30 +0900
先日カゼ気味だったので眠るべきでない時間に眠ったら夜眠れなくなり、 しかたなくリヒターのバッハ「ヨハネ受難曲」の CD を出してきて聞いた。 91 年秋に出た CD のようだが、全く聞いた覚えがない。 買っただけでしまいこんでいたものか。 もしかしたら「ヨハネ受難曲」を聞いたのも生まれて初めてかも知れない。 「あれ、こんな切迫したシーンから始まったっけ?」って感じがした。 ヨハネ福音書には鶏が鳴いたあとペテロがどうしたか書いていないことも初めて知った。
ちなみに、今年はきょうが聖金曜日だ。
1999-04-02 (5) 18:06:20 +0900
ベートーベンもマーラーも交響曲を9曲書き、 それぞれ「第9」の直前に声楽をともなうオーケストラの大作を書いている。 ベートーベンは「ミサ・ソレムニス」、 マーラーは「大地の歌」である。 それだけ。
1999-03-29 (1) 02:21:48 +0900
金沢の兼六園が開いている時間は、現行では
看板やガイドブックの書き換えもしなければならないから、 導入にあたってはじゅうぶんな検討が必要だろう。
1999-03-29 (1) 01:34:53 +0900
「おこなう」は「行う」と書くのが送りがなの原則に合っているようだが、 これだと「おこなって」が「行って」となり「いって」と区別がつかない。 しかしたいていは前後関係で区別がつく、 と思っていたのだが「招かれて行った」は区別がつかないのだった。
1999-03-29 (1) 01:20:30 +0900
金沢市内の書店「福音館」で日本聖書協会の新共同訳 「新約聖書 詩編つき」を手にとってみた。 日本聖書協会の聖書は目次の直前に“奥付”があるのだが、 ここに「新約聖書詩編つき」と書いてある。 「新約聖書」と「詩編つき」の間にすき間がないのだ。 これでは「『新約聖書詩編』つき」と誤解されるかも知れない。 英語では New Testament with Psalms となるらしいので 「詩編つき新約聖書」ときちんと訳せば問題ないのだろうが、 あくまで“付録”である「詩編」 のほうが最初にくるのには抵抗があるかもしれない。 ほかに「新約聖書(詩編つき)」「新約聖書 付・詩編」 などとする方法もあるだろう。
なお、口語訳の“奥付”は正しく「新約聖書 詩篇つき」となっていた。
(新共同訳が「詩編つき」で口語訳が「詩篇つき」 なのは実際に本文がそうなっているからである。)
1999-03-28 (0) 23:20:38 +0900
日本聖書協会の「聖書目録 1997-1998」10 ページの、 口語訳のビニールクロス装の小型および中型 「新約聖書 詩篇つき」には 「新約聖書27巻と新約聖書詩篇収録」という説明がついている。 詩篇は旧約聖書の中の一つの書なのだから、これは正しくない。
一般の本屋さんから(確か)日本聖書協会に 「『新約聖書 詩篇つき』はカタログに出ていますが 『旧約聖書 詩篇つき』というのはないのですか?」 という問い合わせがくることがある、 と聞いたことがあるが、 “本家本元”がこんなミスをしちゃあいけませんな。 その上の皮装[ママ]は正しく 「新約聖書27巻と旧約聖書詩篇収録」となっているのに。
1999-03-28 (0) 01:44:27 +0900
19日付朝日新聞に「児童買春禁止成立の見通し」 という記事が出ているが、 本文の「買春」には「かいしゅん」とふりがなが振ってある。 「買」には「かい」という音(オン)はないはずだが。
1999-03-28 (0) 01:34:26 +0900
通勤の北鉄バス内で「全面24時間ストライキ」という貼り紙を見たが、 夏時間への移行日だと「全面23時間ストライキ」、 夏時間からの移行日だと「全面25時間ストライキ」とでもなるのだろうか?
1999-03-26 (5) 02:44:42 +0900
どこにしまいなくしたんだろう? と思っていたが、 ラテン語ギリシア語の入門書と並んでいた。 新書版をしまっているところばかりさがしていたのがいけなかったのだー。
1999-03-26 (5) 02:41:03 +0900
21日付朝日新聞大阪本社版「ウイークエンド経済」の面に 「裏技でひとまず乗り切ろう コンピュータ 2000 年問題」 という記事が出ている。 ちょっと前に「天声人語 --- コンピュータ二〇〇〇年問題と皇紀」 というタイトルでこの「いろいろ」に書いた話も出ているのだが、 私の予想と違って 「安田生命保険は一九七〇年代、 個人保険の契約管理システムについて、 神武天皇が即位したとされる年を元年とする皇紀の下二けたを採用した」 のだそうだ。 これだと 1940 年より前に生まれた客の誕生日は表現できないはずだが、 契約年月日とそのときの年齢を記録することで処理したのだろうか?
この記事には、 ほかに「昭和」を利用するアイディアも出ているけど、 問題を先送りするだけ、という気もする。 「日本の会社は 2025 年(昭和 100 年)と 2040 年(皇紀 2700 年)もあぶない」と言われたりして。
1999-03-23 (2) 02:21:50 +0900
22日(月)の夕方、 NHKラジオが「きょうは祝日で」と言っていたが、 22日は振替休日だったはずだ。 「国民の祝日に関する法律」は「国民の祝日」を定義し、 第三条で『「国民の祝日」は休日とする』 『「国民の祝日」が日曜日にあたるときは、 その翌日を休日とする」 としているので “振替休日は祝日ではない” と考えるのが妥当ではあるまいか? きちんとした時刻表などは「日祝ダイヤ」 ではなく「休日ダイヤ」と書いているはずである。
1999-03-23 (2) 01:33:34 +0900
きのう、ホームページに書いてあったメールアドレスを ZEM97513◎biglobe.ne.jp から sunomono◎muf.biglobe.ne.jp に書き換えた。 両者は全く同じアカウントで、 単に後者は新しく取得した別名に過ぎないんだけど。 本文は変わってないのにタイムスタンプだけが更新されたので迷惑だったかも。
1999-03-23 (2) 01:20:54 +0900
(本項の)「@」を「◎」で置き換えた。迷惑メール除けのため。
2005-01-30 (0) 17:04:50 +0900
文庫本のカバーは丸善の革製のを利用している。 裏は布張りでちょっと豪華な感じなので、 なかなか気に入っているのだ。 ところが、 古い岩波文庫などで薄い半透明の紙に包まれているものは、 ブックカバーとの間ですれるとその紙がボロボロになりそうで気になってしまう。
そこで、カバーの下にもう一つカバーをかけることにした。 材料は和紙でできた無地の便箋。 本の厚さによって折り目の位置を変えなければならないが、 本ごとに別のをかけるなら革製のカバーを使って資源節約をしている意味がない。 一枚の紙を折りなおして使うのも紙に折り目がいくつもついてうまくないだろう。 私が考えたのは表表紙と裏表紙に別のカバーをかけること。 背中のところは少々重なるようにしてある。 上から革製のカバーをかければバラバラになる心配は全くない。
1999-03-22 (1) 00:49:32 +0900
「ガメラ2」の中に、 草薙浅黄が父親に電話するシーンがあった。 仙台駅前の公衆電話からで、背景の時計は4時ごろを指していたと思う。 午前か午後かはわからないが、 彼女は女友だちと蔵王へスキーに行く途中という設定でありながらあたりは明るく、 人通りも多いのでおそらく午後の4時だろう。 父親はニューヨークにいるという設定で、 夏時間を実施していない時期だろうから日本からみて14時間遅れの午前2時。 そんな時刻に電話かけちゃうなんて、 なんてことを数年前に映画館で見たときには考えていた。
映画「ガメラ3」の宣伝なのだろうか、 金沢では20日(土)13時から「ガメラ2」がテレビで放映された。 私はこれを待っていたのだ。 (普通は続編の公開前に放映されると思うがな〜。 入りが悪いのであわてて放映した、といううわさもあり。)
録画して確認したが、 電波状態があまりよくなく、 わが家のビデオデッキが画質より小ささ優先のものであるせいもあって、 よくは見えなかった。 しかし、時計が指しているのは私が記憶していた4時ではなく、 5時20分か4時25分のようだ。 これだと、 午前にせよ午後にせよ、 スキーシーズンには暗いのではないか? なお、 役者の足元が映らないようなので駅前の映像を前もってとっておいてその前で役者が演技したのかも知れない。 また、残念なことに、 父親がニューヨークに「いる」のか、 それともこれからニューヨークに「ゆく」のか確認するのを忘れた (まま、その上に本日放送の「ちびまる子ちゃん」等を録画してしまった。 けど、 山咲千里の出ている「ガメラ3」 の予告編と試写会の様子をくり返し見たからよしとするか)。
1999-03-21 (0) 23:08:21 +0900
映画「ガメラ3」 のプログラムによるとガメラは身長80メートル体重120トンという設定になっている。 この100分の1のカメ、 すなわち身長80センチメートルのカメがいたとすると、 体重は身長の三乗に比例するはずだから100万分の1で120グラム。 ちょっと軽すぎませんか?
……という話はときどき聞くが、 トンにはメートル法のトン以外にもいろいろなトンがあることを忘れているのでは? 広辞苑第四版で「トン」 をひくと仏トンのほかに英トン米トン総トン排水トン重量トン純トンとかが出ている。 だったらガメラの世界固有の「ガメラトン」があってもいいのでは?
確かウルトラマンは身長40メートル体重2万トンで、 20分の1の人間を考えると体重2.5トンでおかしなことになってしまうのだけど、 こちらは「(仮称)ウルトラトン」とかいうことでいかがでしょ?
1999-03-21 (0) 22:47:48 +0900
いまやっている映画「ガメラ」の世界はカメがいない世界、 という設定になっているらしい。 登場人物がガメラを見て「あっ、カメだ!」 と叫んだりすると観客の力が抜けるからそうした、 という話を読んだことがある。
ということはあの世界では「カメ」という概念は存在せず、 「亀」という漢字も、それを含む熟語も存在しないのでは!? と一時は思っていたが、 現実のこの世界にはリュウがいないにもかかわらず 「竜頭(リュウズ)」という言葉があるんだから。
1999-03-21 (0) 22:28:21 +0900
岩波文庫「福音書」(塚本虎二訳)の付録で知ったのだが、 マタイ伝の「二人の息子のたとえ」(第 21 章第 28 節)の兄弟の答が、 テキストによって逆になっているのだそうだ。 新共同訳では「いやです」と言ったが出かけたのが兄、 「承知しました」と言って出かけないのが弟だが、 口語訳および文語訳では逆になっている。
実際に父と二人の息子がいて、 父が子二人を前に何か用事を言いつける。 兄は「私の答はマタイ伝の『二人の息子のたとえ』の兄の答と同じです」 と答え、 弟は「私の答はその弟の答と同じです」 と答えるので父は「どちらか一人はやってくれるのだったな」 程度にその話を思い出して「よし」と言うが、 あとで聞くと二人ともやっていない。 父は怒るが、 よく聞いてみると兄は口語訳を、弟は新共同訳を読んでいた、 という小話はどうかな?
1999-03-21 (0) 22:24:14 +0900
二十年も前に買った本だがきのうようやく読了。 訳者の敷衍や意味の補充にあたる部分を小型活字にしているのが特徴だ。 例えば 「世の始めに、 すでに言葉はおられた」(ヨハネ福音書 1.1) のうち、 「世の」と「すでに」 だけは地の文の8ポイント活字より一回り小さい7ポイントを使っているとのことだ。
しかし、活字の大きさにそれほど違いがあるわけではないので、 読んでいるうちにどれが訳者の補いなのか注意するのに疲れてくる。 こんな文章あったっけ? と思ってよく見ると小活字だったりするわけだ。 「ユダはパンをたべると、 すぐ出ていった。夜であった。 --- そとには丸い月がかがやいていたが、 ユダの心は真暗であった」(同 13.30) になると少々やりすぎの感がある。 また、 「するとその人はすぐ直って、 担架をかついで歩きまわった。 あいにくその日は安息日であった」(同 5.9) の「あいにく」 は原文にはないようなので小活字が適当と思われるのにそうなっていない。 一方、 「ナザレ人イエス、ユダヤ人の王と書いてあった」(同 19.19) には地の文よりも一回り大きな活字が使われている。
(上の引用部分では小活字に <SMALL> ... </SMALL> を、 大活字に <BIG> ... </BIG> を使ってみたが、 それがどう表示されるかはブラウザによることに注意されたい。)
1999-03-21 (0) 20:55:25 +0900
「和泉式部日記」に 「慰むと聞けばかたらまほしけれど身のうきことぞいふかひもなき」 という歌がある。 岩波文庫では 15 ページだ。 第二句と第三句は 「聞けばかたらま|ほしけれど」 となっている。 「まほし」という助動詞の中で切れるなんてヘンな歌、 と思ったが、 「まほし」は「まくほし」 にさかのぼるそうだからこれで普通なのかも。
1999-03-20 (6) 19:27:53 +0900
7日付朝日新聞大阪本社版読書面の井波律子氏の文章の冒頭に 「はじめて孔子の言行録『論語』(吉川幸次郎著、朝日選書 上・下)を通読したのは」 とあって、吉川幸次郎が書いた孔子の言行録が存在するのか? と思ったが、まだ確認していない。
1999-03-18 (4) 01:47:28 +0900
7日付朝日新聞大阪本社版社会面の 「2歳男児、8時間連れ回す」という記事中に (容疑者の少女は) 「お漏らしをしていた松山市内の会社員(二八)の長男を見つけた」 という句があった。 おもらしをしていたのは二十八歳の会社員なのだろうか、 それとも2歳の長男なのだろうか?
……というのはほとんど揚げ足とりだが、 記事の冒頭には「二歳の男児が母親と買い物中」とあり、 この「母親」と上の引用部分の「会社員」 とが同一人物なのかどうかはいくら読んでもわからない。
こう文章を始めたなら、 「お漏らしをしていたこの男児を見つけた」 としたほうがすっきりしたのではないだろうか? どうしても誰の子かを書きたかった? (そういう場合、父親を書いて母親は省略されることが多いようだが、 それはそれで問題のような気がする。)
1999-03-18 (4) 01:38:17 +0900
新約聖書学者の田川建三先生のお名前は、 Tコードで(最上段以外の)右左打ちの文字ばかりからなっている。 右左打ちは最も出現頻度の高い文字にあてられているから、 それらだけからなる人名にちょくちょく出会いそうなものだが、 実際には意外と少ない。
1999-03-18 (4) 01:28:56 +0900
「小立野通り」は金沢市の兼六園の裏から出ている通りの名。 「小立野」は「こだつの」と読む。
1999-03-18 (4) 01:23:51 +0900
1999-01-19 (2) 17:50:30 +0900 付で出したクイズだが、 答を書くのを忘れていた。 それは「京」。 「東京」「京都」などでよく使われるからはいっているのだろう。
1999-03-18 (4) 01:20:15 +0900
上のリンクはいまはった。それまでは a href タグをおいていなかった。
2006-05-08 (1) 02:52:18 +0900
1月30日付と2月18日付の朝日新聞大阪本社版に出ていたヨーヨー・マの 「シンプリー・バロック」という CD の広告の 「ニ長調」の「ニ」が作曲者名 「ボッケリーニ」の「ニ」と比べて大きいような気がする、 と前に書いたが、 切り抜いて折り曲げ両者を近づけてみたら明らかに大きい。
なんでこの方法に気づかなかったのだろう?
1999-03-18 (4) 01:14:55 +0900
聖書の人名で「バル〜」は「〜の子」という意味のことが多いが、 サムエル記下 17 章 27 節などに出てくるバルジライはそうではないらしい。
対人地雷全面禁止条約の記事を見ていたら急に気になって。
1999-03-18 (4) 01:11:45 +0900
「和泉式部日記」では宮と交換した和歌が大きな役割をはたしている。 受け取った和歌は残しておくだろうが、 贈った和歌は手元にコピーを残しておくのだろうか?
1999-03-18 (4) 01:07:00 +0900
「和泉式部日記」に「出だし袿(いだしうちき)」という語が見える。 岩波文庫では 72 ページだ。 小学館の「新選古語辞典 改訂新版」(1966 年)で調べると 「出だし衣(いだしぎぬ)」を見よ、とあってそちらの説明は 「直衣(のうし)・狩衣(かりぎぬ)などの下に着た袿(うちき)・衵(あこめ) などの下着の美しいすそを、 わざと少し出して着ること。 この下着は上着よりもたけ長く作る」 とある。 こういうの、昔からあったのね。
1999-03-18 (4) 01:03:26 +0900
1月30日の朝日新聞大阪本社版ラジオ面のコラム 「キュー」の誤植は「オーバー・夕イム」の「夕」だろう。 カタカナの「タ」でなく漢字の「夕」になっている。 二度出てくる。
1999-03-17 (3) 22:44:45 +0900
2月26日の朝日新聞大阪本社版社会面に 「甲南大で入試集計ミス/昨年 46人誤って不合格」 という記事が出ていた。 「四十六人については二十四日から、 改めて合格していたことを知らせている。 今後、全員におわびの意味を込めて、 入学金相当の約三十万円を払うとともに、 入学や編入学の希望調査を始める」 とのことだ。 おそらくこの入試は競争試験だったと思われるので 「46人誤って不合格」 ということは 「46人誤って合格」 でもあるわけだが、 そのことはこの記事では全くふれられていない。
1999-03-17 (3) 22:37:01 +0900
……とのこと。この日は日曜日か……。
1999-03-16 (2) 03:13:08 +0900
斉藤国治「星の古記録」(岩波新書、1982)の 195 ページによれば、 現行の日本標準時が採用されたのは 1888 年 1 月 1 日だそうだ。 それまでは旧江戸城本丸跡中央気象台の地方平均太陽時を使っており、 両者の差は 19 分 1 秒、とのこと。
現行のグレゴリウス暦への切り換え時の騒ぎについてはよく知られているが、 この 19 分 1 秒はどうやって乗りきったのだろうか? 除夜の鐘はどちらの時刻でついたのだろう?
1999-03-16 (2) 03:09:06 +0900
近所のスーパーの広告を見ていたらブルーベリーの宣伝に 「視力の回復や目の疲れに効果があることで注目されています」 とあった。 「視力の回復に効果がある」は「視力の回復を促進する」ということだが、 「目の疲れに効果がある」は「目の疲れを促進する」という意味ではない。 この二つの用法を区別して説明している辞典は手元のにはなかった。
1999-03-15 (1) 02:36:46 +0900
「和泉式部集・和泉式部続集」をながめていたら「和泉式部日記」 が読みたくなり、書庫をさがしたが買ってないようだったので購入した。 赤染衛門とお友だちだったのか……。
1999-03-14 (0) 02:04:48 +0900
CDのケースは左ききの人が設計したので右ききの人にはCDがとり出しにくい、 という話を聞いたことがあったが、 私自身は完全な右ききなのに全く不便と感じず、不思議に思っていた。
ところがある日、自分は部分的に左ききであることに気づいた。 ゆで卵の殻をむくとき、 右手で卵をテーブルにたたきつけてヒビをいれ、 そのまま右手で保持して左手でむくのである。 ミカンの皮をむくとき、カサをたたんで止めるときなどもそうだ。 右手が保持する側、左手が動く側、となる傾向があるらしい。
1999-03-14 (0) 00:38:03 +0900
新聞に大学入試問題と解答例がのるときの解答例はワープロ打ちが多くなったが、 数学は手書きだ。 これが TeX になるのはいつごろだろうか? 増減表マクロとかも作る必要があるな。
1999-03-14 (0) 00:28:41 +0900
10日の朝日新聞大阪本社版スポーツ面に 《松井に被弾も黒田「納得」》 という見出しがあった。 被弾は「弾丸に当ること」(広辞苑第四版) だから松井の打球が黒田に当たったのかと思ったらそうではなく本塁打を打たれたということらしい。
1999-03-14 (0) 00:24:44 +0900
最近、カラヤン指揮のブルックナー交響曲第7番のCDを入手した。 第2楽章のアダージョがとても美しいのでここだけくり返し聞いている。 解説によるとこの楽章の終わりの部分は葬送の音楽なのだそうだ。 ちょっと前に「アダージョ・カラヤン」というCDが爆発的に売れ、 そのあと「クリスマス・アダージョ・カラヤン」というのも出たが、 「葬送・アダージョ・カラヤン」もあったらよいのではないだろうか?
1999-03-14 (0) 00:19:00 +0900
古今和歌集に 「色も香もおなじ昔にさくらめど年ふる人ぞあらたまりける」 という紀友則の歌があるが、 この歌にはヘブル文字の一つ「ラメド」が物名式に含まれている。
1999-03-13 (6) 17:31:51 +0900
「臓器の移植に関する法律」 第六条には 「医師は、 死亡した者が生存中に当該臓器を移植術に使用されるために提供する意思を書面により表示している場合であつて、 その旨の告知を受けた遺族が当該臓器の摘出を拒まないとき又は遺族がないときは、 移植術に使用されるための臓器を、 死体(脳死した者の身体を含む。以下同じ。)から摘出することができる」 とある。 (引用は三省堂「新六法」(1998)から。以下同じ。)
ところで、 臓器を移植された人が死亡してもしくは脳死状態になってその臓器をさらに別の人に再移植する際には、 この条文の初めの 「死亡した者」は誰を指すのだろうか? 生まれたときその臓器をもっていた人を指すようにも読めるし、 移植を受けた人を指すようにも読める。 もし前者なら、 移植を受けた人およびその遺族はその臓器を再移植に使うために摘出することを拒否する権利がないような気がするし、 後者なら拒否できるような気がする。 別のところでこういうことは決まっているのだろうか?
第二条には「死亡した者が生存中に有していた自己の臓器の……」 とあるので、 この法律は再移植は扱っていないのかも知れない。
(「死体(脳死した者の身体を含む。以下同じ。)から」 とあるので、仮に前者であっても、 「この臓器は『自分が脳死になったら移植用に摘出してよい』 という意思表示をした人の臓器で、その人はすでに死亡している。 よって摘出してよい」と生きたまま摘出される心配はないようだ。)
1999-03-12 (5) 22:33:53 +0900
大学生のころはB5のいわゆる“大学ノート”を使っていたが、 大学院にはいってからは一回わり大きなA4のノートを使うようになった。 複雑な図式を書いたりするには大きいほうが便利だし、 A4のプレプリントを持ち歩かねばならないのでA4サイズ以上のカバンが必須だったからだ。 「大学ノート」とは広辞苑(第三版)によれば 「大判の筆記帳。通常B5判の大きさ。大学生が使うのでいう」とのこと。 よって私はA4の大学ノートをふざけて“大学院ノート”と呼んでいたのだった。
1999-03-12 (5) 21:59:20 +0900
映画「ガメラ3」のスタッフロールの中になんだかわからない文字があった。 「÷」を横にしたような文字だが下の端が少し曲がっている。 あとでプログラムを見たら「ヨシオ・J・マキ」 という音楽製作の人の名前の「・J・」 がフォントの都合で一文字のように見えたのだとわかった。 「J」の下があまり曲がっていなくて幅がせまかったせいかも。
1999-03-12 (5) 21:54:24 +0900
Leonhard Euler の全集が Leonhardi Euleri Opera Omnia というタイトルで出版中である。 この Leonhardi Euleri は Leonhard Euler をラテン語に見立てての属格形ではないかと思うのだが、 よくわからない。 岩波の数学辞典で「Euler」あるいは「オイラー」 の参考文献を見ると、 第2版は「L. Euler, Opera omnia」 だが第3版は「Leonhardi Euleri Opera omnia」 となっている。
1999-03-08 (1) 18:43:30 +0900
2月18日付朝日新聞大阪本社版にヨーヨー・マの 「シンプリー・バロック」というタイトルの CD の広告が出ているが、 曲目の中にある「ニ長調」の「ニ」が 作曲者名「ボッケリーニ」の「ニ」と比べて大きいような気がする。 もしかしたら漢数字の「二」なのではあるまいか?
(同広告は1月30日にも出ていた。)
1999-03-08 (1) 03:22:44 +0900
5日付朝日新聞大阪本社版の記事によると 「地球と夏時間を考える国民会議」が夏時間導入を提言したそうだが、 「夏時間の期間については、 国際金融や国際航空路線などへの影響をできるだけ少なくするため、 米国などで採用されている制度に合わせて、 四月の第一日曜日から十月の最終日曜日までとした」 とのことだ。
現行では東京とニューヨークとの時差は普段で14時間、 アメリカが夏時間を実施している間だけ13時間となっているが、 もしもこの通り実施されたとすると時差が14時間でないのは日本が夏時間に移る時刻からアメリカが夏時間に移る時刻までの14時間および夏時間から戻る日の14時間のみとなる。 「影響をできるだけ少なくするため」は 「影響ができるだけ少なくて済むよう考慮しつつ夏時間を導入する」ではなく 「影響ができるだけ少なくなるようにするため夏時間を導入する」 の意味なのだろうか?
1999-03-08 (1) 03:08:42 +0900
2月18日付朝日新聞大阪本社版経済面の記事によれば、 「……サマータイム制を導入すると、 省エネ効果は原油換算で〇・〇八%だが」 とのことだ。
1999-03-08 (1) 02:49:33 +0900
眉・目・鼻・口などの形のアイコンを作り、 顔の輪郭を描いた壁紙の上で福笑いをしたらどうだろう? 回転しないから面白くないか。
1999-03-08 (1) 02:41:15 +0900
ちょっと前から、北鉄バスには 「各学校・大学の冬期休業に合わせて(中略) 学期休みダイヤになる便がございますので」 という掲示が貼られている。 どうして「冬期」なのだろう、 もう春なのに。
1999-03-08 (1) 02:38:11 +0900
「毎週月曜と水曜に」の意味で「月水」などと言うことがあるが、 広辞苑で「月水」をひいてもこの意味は出ていない。 「日月」は熟語のときとこの意味のときで読みが違う。 「土木」は曜日の順番が逆なので誤解はないか?
1999-03-08 (1) 02:33:02 +0900
1999-03-08 (1) 02:25:49 +0900
先日、久しぶりに「ケーリー・ハミルトンの定理」 という言葉を聞く機会があってはじめて気づいたのだが、 Hamilton は四元数体に、 Cayley は八次元の非結合的な代数に、 それぞれ名が冠せられているわけで、 その二人の名前が並んでいるのは面白いような気もする。
1999-03-08 (1) 02:21:45 +0900
金沢のデパート「香林坊大和」の垂れ幕にホワイトデーの宣伝が出ていたが、 そこに「各F」という表記があった。 「各階」という意味らしい。
1999-03-08 (1) 02:10:21 +0900
2月16日付朝日新聞ラジオ面のコラム「キュー」 《「お水の花道」の中身は商人物語」》には 「専門知織」という誤字がある。
1999-03-06 (6) 18:15:47 +0900
印欧語では同じことが多いようだが。
1999-03-06 (6) 18:12:39 +0900
十問中七問正解すれば合格する試験を受けているとしよう。 最初の五問中四問は正しく答えられた自信があれば、 あとの五問の中で二問まで「間違うことができる」。 これを可能動詞形で表現しようとすれば、 「思う:思える=間違う:間違える」だから 「間違える」となって別の動詞と同じ形になってしまう。 よってこの形は使われないのだろう。
「間違える」は下一段なので、 「間違えることができる」は(やや保守的な態度をとるならば) 「間違えられる」となる。 (いわゆるラ抜き言葉を使えば「間違えれる」。)
1999-03-06 (6) 18:10:02 +0900
前者はワ行五段だから「思う」と同じように 「間違わない 間違います 間違う 間違うとき 間違えば 間違え」と活用し、 後者は下一段なので「考える」と同じように 「間違えない 間違えます 間違える 間違えるとき 間違えれば 間違えよ/間違えろ」 と活用する。 この二つが別の動詞だということはつい最近辞書をながめていて気がついた。 そもそもは前者は自動詞、後者は他動詞らしい。 私自身は、 これらの活用形の中で「間違います」だけは使わないような気がする。 なんだか俗な形のような気がして「間違えます」で代用しているようだ。 名詞の「間違い」は使うけど。
1999-03-06 (6) 18:00:18 +0900
いわゆる旧暦は昔の中国の暦だが、 それが生きている文化圏では夏時間を 「立夏」(現行のグレゴリウス暦の5月6日ごろ)から 「立秋」(同8月8日ごろ) までとするのも面白いかも知れない。 これだと本当に暑い時期には標準時に戻るので 「夏時間を採用したから暑くて夜眠れない」という苦情はなくなる。 最も昼の時間が長くなる夏至の前後約47日ずつなので 「日光節約時間(Daylight Saving Time)」というもう一つの名前にもよく合っているし、 対称性の点からも美しい。
(上の文章を「最も昼の時間が長くなる夏至」と読むと、 厳密にいえば正しくないかもしれない。 「最も昼の時間が長くなる」は「約47日」にかかるとして読むこと。:-))
1999-03-01 (1) 00:19:45 +0900
私は日本で夏時間を導入することには懐疑的なのだが、 もしも導入するなら 「夏時間の実施は春分の日から秋分の日まで」 とするのがよいかも知れないと思っている。
欧米では始まりも終わりも日曜日に決まっているらしい。 今年は夏時間の開始がイギリスおよびヨーロッパ諸国で3月28日、 アメリカ合衆国とカナダで4月4日であり、 終了はどちらも10月1日となっている。 おそらく何月の第何日曜日、もしくは最終日曜日、 のように決まっているのだろう。
日本でそのように決められている日付は母の日と父の日、 それに来年から移動祝日になった成人の日などぐらいだ。 一方、春分の日と秋分の日は以前から国民の祝日でもあり、 みんなよく知っている。 この日を開始と終了の日にして 「昼が夜より長くなったから夏時間」 と説明すれば理解されやすいのではないだろうか。
欧米は週単位でものごとが動いているので週の途中で切り換わるとまずいのかもしれないが、 日本では問題ないだろう、切り換え日が休日なら。
(念のためにつけ加えると、 「春分の日そのものは夏時間なの、冬時間なの?」 という混乱は起こらない。 その日の午前1時に時計を一時間すすめて午前2時とするからだ。 秋分の日も同様。)
1999-03-01 (1) 22:47:16 +0900
……と思う。 職場などへ出かけてみて人が亡くなったことを知り、 そこからあわててかけつける、というのが普通だった。 いまは「お通夜は何日です」と前もって言われたりして。
1999-03-01 (1) 00:03:09 +0900
オペラとかで「原典版」がはやっているが、 マンガ“サザエさん”の原典版はどうだろう? サザエさんが独身で、マスオさんやタラちゃんは全く登場しない。
1999-03-01 (1) 00:00:38 +0900
……って、間違うのは私ぐらいかな。
1999-02-28 (0) 23:57:42 +0900
少々カゼ気味だが、休めない仕事で日曜日も職場に出ている。 トイレでうがいをした際、 自分が「が〜〜〜〜」と声を出していることに気がついた。 声を出さなくてもうがいはできる。 幼稚園で「がらがらうがい」と「ぶくぶくうがい」を教わったときからずっと、 がらがらうがいの際には声を出していたのだ。
(1998-08-13 (4) 01:55:37 +0900 付の 「フランス語の autre を間違って発音していた」参照。 って、あんまり関係ないか。)1999-02-28 (0) 23:55:57 +0900
上のリンクはいまはったもの。 前はタイトルとタイムスタンプのみ。 (別の言い方をすれば「a href タグがなかった」。)
2004-04-27 (2) 19:43:22 +0900
現行のグレゴリウス暦は平年の二月が28日までしかない。 他の月より日数が少ないため、 予定をたてたり統計をとったりする際に考慮しなければならないが、 そのほかに「二月と三月の曜日が同じになる」という問題点もある。 日付を指定する際には月・日だけでなく曜日も添えるとチェックサムの働きをするが、 二月と三月を間違えた場合は効果がない。 私のように見開き一週間の手帳を使っている人は要注意。
1999-02-28 (0) 20:04:17 +0900
古典ヘブライ語には高校生のときから何度か挑戦してそのたびに挫折してきたが、 数日前からまた Weingreen の A Practical Grammar for Classical Hebrew をとり出してきて勉強を始めた。 まだ文法にまで到達しないが、いままでになく進んでいる。
その原因の一つは、 字母の名前や文法事項名のヘブライ語を“正しく” 発音するのをあきらめたことだと思う。 例えば、 一ページ目に出てくる字母の名前をヘブライ語の正しい発音で覚えようとすると、 二ページ目以降の発音に関する記述を読まねばならない。 母音の名前はヘブライ語でこういうのか……、 それもついでに覚えなくちゃ、 などと行ったりきたりしているとなかなか進まないのだ。 自信のないことはなかなか覚えられない、 という私の性格も影響しているのかも知れない。 “正しく”発音するのはあきらめ、 日本語式にアレフ、ベス、……、 あるいは英語式に aleph, beth, ..., と覚えてまずは進んでみよう、 ヘブライ語での“正しい”名前はあとから戻って覚えればいい、 と思ったら気が楽になってぐんぐん進みだした。
考えてみれば、 英語のアルファベットは中学一年で(英語としての) 正しい名前を覚えたが、 その前に小学校の算数でエー、ビー、シー、……、エックス、 ……などと、 図形の中の点の名前や未知数を表わす文字の名前として、一応学んでいた。 ギリシア語のアルファベットも、 正しく覚える前に中学の数学や物理で一応習っているのだ。 「ξ」を「グザイ」と読む、英語なまりの日本語式であったりもしたが。
このやり方って、そんなに間違ってないんじゃないかなあ。 今夜はマッピークまで勉強した。もう寝よう。
1999-02-26 (5) 00:14:57 +0900
例えば「ガ」と読む漢字を元にして「ガ」という音を表わす漢字を作る。 「カ」に濁音を付すのではなく、独立した文字として作る。 こうすれば「ジヂズヅ」の問題も解決するはずだ。
(私は賛成しないけど。)
1999-02-25 (4) 02:17:35 +0900
互いに知り合いである二人に同一本文でメールを出す場合、 二人のあて名を書いて一本のメールで送ることがあるが、 返事を出す側はもう一人の受取人にもあいさつを書かねばならないので、 場合によっては気を使わせてしまうのであった。
1999-02-25 (4) 02:00:28 +0900
……おっかなびっくり口にしたことがあったような気がしてきた。 小さなころはわずかな違いでも重大に思えて。
1999-02-25 (4) 01:56:57 +0900
ちょっと前に友人に紅茶を出したら、 二人とも最後少し残していたので不思議に思った。 あとで考えたら、 私は葉が大きめの銘柄の紅茶を選んで茶こしを使わないので、 わずかだが葉のくずが出ていたのだった。 自分じゃ気にしないんだけど。
1999-02-25 (4) 01:54:24 +0900
1999-02-25 (4) 01:48:00 +0900
「ダブリュー・ダブリュー・ダブリュー」だと長いので 私は時々「トリプル・ダブリュー」と読んだりするが、 よく考えると「ダブリュー」自身が「ダブル・ユー」なので 「トリプル・ダブル・ユー」となってなんだかおかしい。 「セクストゥープル(sextuple)・ユー」と読めばいいんだろうか?
1999-02-25 (4) 01:41:57 +0900
……という貼り紙をブティックで見た。 「試着する服の数は二以下に」という意味であって、 「一番か二番になった人しか試着できません」という意味ではない。
前者の意味の「着」は助数詞だが、後者には呼び名があるんだろうか?
1999-02-25 (4) 01:36:17 +0900
前者は数学用語、後者はアパートの名前(にあってもおかしくない)。
1999-02-25 (4) 01:33:08 +0900
1月末にJR列車に乗ったとき、 電光掲示ニュースに「小゜コ首相」と出るのを見た。 「゜」と「コ」は半角のようだった。 外字が文字化けしたのか?
1999-02-25 (4) 01:31:34 +0900
……はいないだろうか? 「ポケモン」とか言うから。
1999-02-25 (4) 01:29:11 +0900
よく、雪の地方から暖かい地方に雪や雪だるまが送られたりする。 そういう場合送ってきたのが誰かはっきりわかっているはずであるが、 よくわからない人からもらった雪だるまが溶けたら中から生首が出てきた、 なんてことはないんだろうか?
1999-02-25 (4) 01:26:57 +0900
……は Iwappara-skijomae (o の上には横棒あり)であった。 英語と日本語(のローマ字書き)が混じっているのが興味深い。 金沢から東京へ帰る際に乗り換える越後湯沢の隣の駅。
1999-02-25 (4) 01:24:26 +0900
ギリシア語新約聖書は United Bible Societies から出ている The Greek New Testament の辞書付きが便利だが、手元の Third Edition の著作権表示には 「No part of this book, except the Preface and Introduction, may be reproduced without written permisson from the publisher.」 とある。 「No」「except」「without」と“三重に”否定されているので、 どこがどうなのかしばらく考えてしまった。
1999-02-23 (2) 03:59:03 +0900
マタイ福音書のラテン語訳をながめていたら 4.18 に Ambulans という語が見えた。 イエスが最初の弟子を召し出すところだ。 英語の ambulance(救急車)と何か関係でもあるのかな? と思ったら、 この語は ambulo(あちこち歩く)の現在分詞で、 英語の ambulance は「歩く病院」が原義だそうだ。 ということは 「歩く」だけが残って肝心の「病院」はどこかへ行ってしまったわけだ。 「携帯電話」を「携帯」と略すのと似ているか?
1999-02-23 (2) 03:51:26 +0900
ギリシア語・ ラテン語は高校時代に独習したのと大学2年の前期に授業に出ただけなので、 すらすらと読めるにはほど遠い状態である。 ギリシア語の新約聖書やラテン語訳聖書はもってはいたがほとんど読まないでいた。 ところが数日前、 日本語訳と並べて読むと辞書なしでも結構わかることがわかった。 一語ずつ辞書を引きながら格闘したところで、 ほんの少ししか読めないならあまり意味がないだろう。 まだ翻訳を読んでいないなら少しずつ意味がわかるという楽しみもあるし、 ひどい訳文で読むよりも直接原文にあたるほうがよい、という人もいるが、 いまの場合それらはあてはまらない。 この方法で少し読んでみよう。 少しわかった上でもっとわかりたければ辞書を引けばよい。
1999-02-23 (2) 03:39:22 +0900
朝日新聞社の雑誌 AERA は縦書きだが、 「in short ... World」 のページはニュースの発信地名を原綴で添えている。 例えば昨年の 11 月 9 日号だと 「ロンドン発」の記事には「London」という文字が付されているのだが、 「L」が上に、「n」が下にくるように 90°回転させて縦に書かれているから、 雑誌を左回わりに 90°回転させて読めばきちんと読めるようになっている。 一方、 その前のエルサレム発の記事に付されたヘブル文字は反対向きに 90°回わさないと正しく読めない。 AERA としては、最初に読む文字が上にくるよう回転させる、 ということで統一しているつもりなのだろうが、 ヘブル文字などの右から左へ書く文字の上下をカン違いする読者はいないだろうか?
(もしも下から上へ書く文字が存在したら上下を逆にして載せるのだろうか?)
1999-02-23 (2) 03:27:20 +0900
21日朝日新聞大阪本社版社会面に 《指導要録、シュレッダーに/大阪・高槻の中学教諭「うっかりミスで」》 という記事が出ている。 本文を読むと、 双子の兄弟の指導要録をコピーして転校先に送ろうとしていた際、 弟の分の二枚組み原本の二枚目を誤ってシュレッダーにかけてしまった、 という事故らしい。
想像だが、 双子の兄弟であれば名前が似ていることが考えられる。 姓が2文字に名が2文字の計4文字のうち上から3文字目まで同一、 ということもありそうだ。 弟の原本を兄の分のコピーだとカン違いしたんじゃないかしら。
(家族の一人の話では、 三つ子に文字の上では全く同じ名前をつけた例があるそうだ。 読み方だけを変えて。 本人たちも困ると思うけど。)
1999-02-23 (2) 03:13:32 +0900
……のを思い出した。 もちろん「泣いて馬謖(ばしょく)を斬る」の地口。
1999-02-23 (2) 03:07:06 +0900
21日付朝日新聞大阪本社版読書面で 「ミシェル・フーコー/情熱と受苦」という本が紹介されているが、 その中に「ホモ・セクシュアル」という表記があった。 おそらく英語の homosexual のことであろう。 元をたどれば homo と sexual からできた語であろうが、 英語で一語につづるものを分けて書く必要があろうか? と思って考えていたら、 次の行に「フーコ1」というとんでもない誤植を発見した。 (原文は縦書きであることに注意。)
1999-02-23 (2) 03:02:58 +0900
きのうの朝日新聞の天声人語はコンピュータの二〇〇〇年問題を扱っていたが、 その中に 「安田生命保険は、 三十年ほど前から個人保険の管理に 「皇紀」を使ってきた。 (中略) これなら来年は二千六百六十年。 問題はない。 西暦では不都合と見た先人の知恵だが、 これなど例外中の例外」 とあった。
西暦を使おうが皇紀を使おうが、 下二ケタで年を管理していればいつか問題が生じる。 もしもこの会社が皇紀を四ケタで扱っていれば問題は起きないが、 それは西暦でも四ケタで扱っていれば問題が起きないのと同じことだ。
と思ってちょっと考えたら、 四ケタで扱っているに決まっているではないか。 三十年前は皇紀 2629 年。 当時 30 歳だった人の生まれた年は皇紀 2599 年だから、 もし下二ケタで扱っていたならその人の年齢は負になるはずだ。 これだけじゃ“絶対四ケタで扱っている”とは言いきれないけど。
ほかに、西暦は「二〇〇〇年」と書くのに皇紀は 「二千六百六十年」と書くのはなぜか、という問題もあるが、まっ、いいか。
1999-02-23 (2) 02:41:35 +0900
私は夏時間導入には懐疑的なのだが、 その理由の一つは現在の家庭にある時計内蔵の機械の多さである。 前に夏時間が採用されていた五十年ほど前には、 家庭にある時計といえば柱時計、目覚まし時計、腕時計ぐらいだったと思う。 それらはほぼ毎日、なんらかの形で人間が世話をしてやらなければ止まってしまった。 いまでは多くの電器製品にタイマー用などの時計が組み込まれている。 しかも、 それらは一度時刻を合わせたら電池が切れるまで何もしなくてよいほど正確だ。 よって、もし夏時間が導入されたら、 夏時間への切り換え時と夏時間からの切り換え時の年二回、 時計を合わせ直す手間が新たに加わる。 説明書を見ないと合わせ方を思い出せないことも多いだろう。
おそらく、夏時間が導入されたら、 「内蔵時計はワンタッチで夏時間対応」をうたった電器製品が出ると思う。 あるボタンを押すと太陽のマークか何かが出て時計の表示が1時間進み、 もう一度押すと元に戻るのだ。 私だったら、 やや調子がよくない電器製品はその機会にそういう新型に買い換えるだろう。 よって、 夏時間が採用されると電器製品の売上げは一時的にせよ伸びると思うのだが、 そう言っている人はほとんどいないようだ。
1999-02-23 (2) 02:28:52 +0900