1999 年 12 月 31 日午後。 スーパーへ。 カフェインが切れると頭が痛くなる体質なので、 万が一のガス・水道のストップに備え、 日本茶のペットボトルを2本買う。 うちに帰り、18 時すぎ、大学に最後のアクセス。 停電するといけないので、 乾電池を入れた小型ラジカセをイヤホンで聞けるようにした。 暖房が止まった場合のための使い捨てカイロとコニャックのポケットボトルを入れたリュックサックを背負い、 懐中電灯も手元に置くようにした。 ほかに予備の乾電池、聖書、讃美歌。 最後のほうは懐中電灯から教会のキャロリングを連想して話がそれている感じもあり。 :-)
20 時にニュージーランドが 2000 年になるので NHK ラジオをつけたが、 紅白歌合戦をやっていてニュースはなし。 21 時ごろ、夕食のきしめんもリュックを背負ったままとった。 ヱビスビール(350 ml)も飲む。
23 時 45 分の紅白歌合戦が終わるころからずっと NHK ラジオ第一放送を聞き、 総合テレビを見ながら 0 時をむかえた。 0 時になる瞬間は「停電するか!?」 とちょっと見がまえて懐中電灯をにぎりしめた。
その後パソコンを使ったが不具合なし。 パソコンは自作プログラムのデバッグなどのため何度か 2000 年以降にセットしたはずなので当然だが。 安心して、コニャックのお湯割りを飲む。 2 時ごろ大学にアクセスしてネットワークの無事を確認。 tx の unix 版に Y2K パッチを 当てたものは正しく動くこともわかった。 3 時ごろ就寝。
2000 年 01 月 01 日。 UTC の 0 時をとっくに過ぎたころに起きる。 緊張が解けたせいか、 あるいはきのうリュックサックを背負って肩が凝ったせいか、 持病の頭痛がでそうな予感。
予感は的中し、 二日間寝込むというとんでもないお正月を送ったのであった。
P.S. きのう、何か書き忘れていると思ったらこれでした。:-)
2000-01-12 (3) 01:39:52 +0900
本文無シ。
2000-01-11 (2) 03:17:23 +0900
大みそかから書きためていた「いろいろ」 をきょうこそアップする。
2000-01-11 (2) 03:15:26 +0900
1999-01-15 (5) 23:31:39 +0900 付の 『来年以降の「新成人」 の定義について』参照。
2000-01-11 (2) 03:14:00 +0900
上のリンクはいまはった。 もとは a href タグがなかった。
2004-04-28 (3) 01:53:37 +0900
大みそかにスーパーに行った帰り、 安い値段でイタリア料理を食べさせる行きつけのレストラン 「サイゼリヤ」に寄り、 壁にはってあった名画のポスターからラテン語の文句を写してきた。 前から気になっていたのだ。 絵は最後の晩餐を描いたものらしいが例のあれではない。
EGO DISPONO VOBIS SICVT DISPOSVIT MIHI PATER MEVS REGNVM VT EDATIS, ET BIBATIS SVPER MENSAM MEAM IN REGNO MEO
2000-01-11 (2) 02:40:11 +0900
大みそかにスーパーに行ったら、 近くに刑務所があるせいか、 刑務所関係の写真をパネルにいれて見せていた。 市民の理解を深めてもらおう、ということだろう。 作業場を写した写真に、貼り紙が写っていたので写してきた。
安全の誓い
夕べの誓い
今日一日をかえりみて
まごころにそむくことなく
無事にすごせたことを喜び
明日への努力を誓います。
2000-01-11 (2) 02:24:25 +0900
アルファベットキーの配列で、 Qwerty につぐ普及率 --- といっても Qwerty とは全然ケタが違うだろうが --- をもつ Dvorak 配列は、 98 用の自作 FEP で使えるようにした。 ただし、アルファベットを含む 10 × 3 個のキーを
QWERT YUIOP /,.PY FGCRL ASDFG HJKL; → AOEUI DHTNS ZXCVB NM,./ ;QJKX BMWVZと置き換えるだけにとどめた妥協的な Dvorak 配列である。 記号はキーを見て打つことが多いだろうと判断したためである。
それなりに慣れ、 アセンブラのソースはほとんどこれで打っていたので、 「mov」などは Qwerty よりも Dvorak で手が覚えていた。 学生の計算機実習用に作ったタイピング練習用プログラムを、 Dvorak 配列でデバッグした記憶もある。 人によっては Qwerty と Dvorak を両方使うと混同するそうだが、 私はそれはなかった。
ところが、 MS-DOS 上で動くソフトの中には OS を通さずに自分でキーを見にゆくものがある。 確認メッセージで Y か N を押す際など、 Qwerty か Dvorak かを間違えたら悲惨なことも起こりかねない。 また、エディタのコマンドの Ctrl+C などはあくまで Ctrl と Qwerty の C を押すのか、それとも Dvorak の C なのか、 という問題が生ずる。 そんなことがあって使うのはいつの間にかやめてしまった。
知人が Dvorak 配列にも対応しているキーボードを買ったので少し試してみたが、 かなり忘れている。 おそらく、私の場合、 Dvorak で出た最高スピードは現在の Qwerty でのスピードより劣るだろう。
エディタを自作するとしたら、 その中でのみ使えるように取り込んでみたいと思ってはいるが。
2000-01-11 (2) 02:13:35 +0900
移動なのでついつい無意識のうちに shift を押すことがあったようだ。 これだとごみ箱に移さずただちに消去するらしい。 原因がわからず、 「ごみ箱がおかしい」と騒いでいた。
2000-01-11 (2) 01:58:24 +0900
emacs/mule を使っていて C-y で yank しようとするとつい「ヤンク!」 と声を出して力をいれてしまう癖がつい最近まで抜けなかった。 よく使うもののなかで yank だけが知らない単語だったせいかもしれない。 こういうとき、 今度は言うまい言うまいと思うとかえってだめ。
2000-01-11 (2) 01:52:58 +0900
宮田光雄「犠牲 --- モリヤの山からアウシュヴィッツまで」 (岩波書店「世界」 2000 年2月号) で「ユダヤ教の元旦」という表現を見た。 「元旦」は本来は元日の朝の意味だが、 ここでは「元日」のつもりなのだろう。 ユダヤの暦は日没から一日が始まるので、 文字どおりだとやや不思議なことになる。 もちろん、 日が沈んで新年がきた次の朝、とも解釈できるが。
ここでは少々揚げ足取り的にのみ取り上げたが、 読んでたいへん考えさせられた文章だったことを付記しておく。
(この文章の題には、 本文でも目次でもダッシュははいっていなかったが、 「犠牲」と「モリヤの山から……」 とに分かれていることは活字の組み方で明らかだった。 ダッシュを入れた書き方は running head によるもの。)
2000-01-11 (2) 01:38:39 +0900
南総里見八犬伝の最後には八犬士のこどもたちのことが書かれている。 彼らの間で息子・娘を結婚させているわけだが、 すると三世には 「父方の祖父は八犬士のだれそれ、 母方の祖父は八犬士のだれそれ」 というものがいたはずだ。 その先は書かれていないが、 やはり子孫の間で婚姻がなされたとすると、 四世には四人の犬士の血をひくものが、 五世には八人の犬士全ての血をひくものがいたかも知れない。 その究極の犬士の活躍、 あるいはその誕生を阻止しようとする悪の側の暗躍、 などを描くと面白い next generation ものができるのではあるまいか?
と思ったが、 犬山道節の息子・娘は犬士の息子・娘とは結婚していない。
2000-01-11 (2) 01:24:15 +0900
源氏物語を読んでいると、 「話が深刻になってきたな」 というところでまた別の女との恋愛がエピソードとして挿入されているように感じる。 たとえば「蜻蛉」の後半など。
手塚治虫のマンガ「火の鳥」で、 今ならなくてもいいようなギャグがときどき混じるのは、 ギャグを入れないとマンガにならないという思われていたから、 と聞いたことがあるが、 それと似たものか?
2000-01-10 (1) 19:40:10 +0900
(確か)JA 共済のテレビコマーシャルで、 オーケストラでは楽器の弦が切れたとき次々と楽器を交換して助け合う、 それと同じように助け合う、 というのをやっているが、 オーケストラの場合、一番後ろの奏者は弦の切れた楽器を持って退場するのだ。 助け合った結果、最後の一人は退場、 というのは人生の比喩としてはややさびしいのではないか。
ちなみに、 退場した奏者は楽屋で弦を張りなおして曲の切れ目などに再登場し、 奏者たちは本来の楽器に持ちなおして曲を続けるのだと私は理解している。
2000-01-10 (1) 19:31:00 +0900
金沢の香林坊 109 のレコード屋のポスターで見た。
「ドラゴンクエスト」のモンスター、はぐれメタルの宝箱の中味は 「しあわせのくつ」(III) 「しあわせのぼうし」(IV・VI)だ。 ちなみに初登場の II では「ふっかつのたま」、 V では「ちいさなメダル」。 ドラゴンクエストから派生した 「トルネコの大冒険」では倒すと必ず「幸せの種」を落とす。
これと関係あるのかないのか。たぶんないな。
2000-01-10 (1) 19:14:20 +0900
Google のキャッシュを見たら、 ローマ数字は機種依存文字のせいか、文字化けしていた。 よって、改めた。
2003-11-08 (6) 00:29:55 +0900
古くからの友人がくれた年賀状に 「石化ビッグバン」とあるのを見て、 石化しておいてビッグバンで大ダメージを与えるのか、と思ってしまった。
「石化」は多くの RPG にある。 相手を石にして行動不能にしてしまう。 ビッグバンはドラゴンクエスト VI のはぐれメタルの特技である。
少し考えたところ、 そうではなくて「石化」は石油化学の略ではないか、という結論に達した。
なお、「石化(せっか)」という語が広辞苑第五版に出ているが、 これではなさそうだ。
2000-01-10 (1) 19:04:13 +0900
Google のキャッシュを見たら、 ローマ数字は機種依存文字のせいか、文字化けしていた。 よって、改めた。
2003-11-08 (6) 00:35:18 +0900
2000-01-06 (4) 01:47:00 +0900
年末にこちらから出す年賀状は時間がなくなるとつい 「本年もよろしくお願い申し上げます」 などと書くだけになってしまうが、 お正月になって教え子からきた賀状にはゆっくり時間をかけて返事を書く。
どこで読んだか忘れたのだが、 私生児のほうがより情熱的な行為でみごもったので能力がすぐれているという説を思い出す。
2000-01-06 (4) 01:44:00 +0900
昨年 11 月 10 日に 国立大学理学部長会議が出した 「危うし!日本の基礎科学 − 国立大学の独立行政法人化の行方を憂う −」 という文書がある。 たとえば ここ で読めるが、 その中の 「ここで使われる有限体は1830年頃にガロアが作ったものです」 は 「発見したものです」 とすべきところではないか? 「構成したものです」ならまだわかるが。
筒井康隆「文学部唯野教授」(岩波書店 1990)の中の 「サンドイッチはサンドイッチ伯爵が作った。 バルトリン腺はバルトリン氏が作った。 だからシェリーはシェリーさんが作ったにきまってますっておっしゃっるんですよ」 (p.48) を思い出した。 ここの「シェリー」はシェリー酒のこと。
ちなみに有限体は情報科学では「ガロア体」と呼ばれることもあるらしい。
2000-01-06 (4) 01:15:00 +0900
私はコンピュータのデータはいまだにフロッピーで整理している。 たとえばメールに「mail」と題した一枚のフロッピーをあてているが、 ここには送受信したメールのほかに書きかけのメール草稿や署名 (signature)を納めたファイルなどがはいっている。 これを持って職場と自宅の間を往復するが、 当然何日か経つとフロッピーがいっぱいになる。 すると古いメールから順に「前のメール(not its real name)」 と題した別のフロッピーに移動する。 そしてそのフロッピーがいっぱいになるとフロッピーごとコピーし、 「いついつのメール」と書いてしまっておく。
(注)「not its real name」というのは、 むかし英字新聞で「Jane (not her real name)」 というような表現を見たのでまねしてみたもの。:-)
ところが、最近、 どうもフロッピー「mail」からフロッピー「前のメール」 にファイルを移動する作業があまりにしばしばすぎて、 時間のむだのような気がしてきた。 作業が頻繁になってきたのは、 だんだんに余計なファイルがフロッピー「mail」にたまり、 肝腎のメールそのものを納めるスペースが減っているせいだと思う。
この移動作業の際にはまずコピーして、 それからファイル比較ユティリティをかけて、 それから元を消すので、 ずいぶん手間がかかる。 同様の問題をかかえているフロッピーはほかにもある。 なんとか別の方法を考えねば。
2000-01-05 (3) 01:31:50 +0900
私の知り合いに「***ミニアム」という名前のアパートに住んでいる者がいる。 ***に英語のコンドミニアムの後半をくっつけて大家さんが作った名前だろう。 彼の話では、 これを「***ミニマム」 と書き間違えて年賀状を送ってくる人が毎年数人いるそうだ。 《ことしは「***ミレニアム」と書いてきたやつがいるんじゃないか》 と聞いてみたが、 そういう例はなかったそうだ。
(注)プライバシーの保護のため、 固有名詞の一部をマスクしました。
2000-01-05 (3) 01:05:20 +0900
1990 年ごろにはファイルのタイムスタンプを遠い未来にセットしようとしたら 99-12-31 などとしていた。 しかし、いま 2009-12-31 にセットして 09-12-31 と表示されるとなんだか未来のような気がしない。 なぜだろうかと少し考えたが、 単に 2000 年代に慣れていないからだと気がついた。
2000-01-05 (3) 01:01:15 +0900
日付順でソートしたときつねに最新の位置にきてほしいファイルのタイムスタンプは、 今までは 99-12-31 としていた場合が多かった。 この日付だと「作為的にこの日付にしたのだ」 ということがわかりやすいので。 しかし、2000 年を迎えてしまったのでこのままではだめだ。 2009-12-31 とかすると下二けたしか表示されない場合に 09-12-31 となってインパクトに欠ける。 少し考えて、私の百歳の誕生日に合わせることにした。 ついでに時刻も私の生まれた時刻に。
2000-01-05 (3) 00:56:20 +0900
Tコード一覧表のファイルをいろいろなディレクトリにおいているが、 vz のファイラでファイルを新しい順に並べたとき先頭にくるよう、 一部のディレクトリのは 99-12-31 23:59 というタイムスタンプにしていた。 でももう普通にエディットしたファイルのほうが前にくるのだ。
2000-01-04 (2) 00:17:30 +0900
ひとりの人間が生涯にもうける子供が二人以下だと人口は増えない、 というのは当たり前のようだが、 一人の子をもうけて離婚・死別し、別の配偶者との間に子をもうける、 などのケースがあるのであまり証明は簡単ではない。 正月の眠れない夜にまた考えてみたら、 もうすこし簡単なのを思いついた。
ある時点である集団に向かって 「ひとりの人間が生涯にもうける子供が二人以下とせよ」 というおふれが出たとする。 この集団には人の出入りはなく、 集団外の者との間に子供をもうけることはないとする。 また、 すでに子供をもうけている人は 「すでにもうけてしまった子供は構わないが、 それと合わせて二人まで」 と決めたとする。
この時点以降のこの集団の全員(この時点以降に死去した者も含む) にわたって 「あと何人子供をもうけることができるか」 を足したものが以後ずっと不変であることは、 子供が生まれればその生まれた子が二人子供をもうけることができるので+2、 しかし両親がそれぞれ−1で差し引きゼロとなることからわかる。
ここで、 「将来にわたって、この集団の人については 『人は N 代のちの子孫を生きて見ることはできない』 というような N が存在する」 という仮定をおく。 たとえば人間は 200 歳までは生きられないだろうし、 5 歳以下で子供をもうけるようにはならないだろう。 とすれば 200/5 = 40 なので人は 40 代のちの子孫を見られないだろうから N = 40 ととればよい。
さて、 おふれが出た時点よりあとのある時点を考える。 生きている者を任意に一人えらび、 その人から始めてそのもうけた子、その子のもうけた子、とたどってゆく。 すでに死去した者をたどっても構わない。 子を複数もうけた場合にはたどりかたが一通りではないが、 どちらか適当なほうをたどる。 この「たどる」という操作をたかだか (N-1) 回くり返すうちに、 必ず「あと二人子供をもうけることができる者」に達する。 そうでなければすぐ上のパラグラフの仮定に反するから。
このようにして「生きている者」から 「あと二人子供をもうけることができる者」への対応が得られた。 この対応では一人の「あと二人子供をもうけることができる者」 に対したかだか 1+2+22+ ... +2(N-1) = 2N-1 の「生きている者」が対応している。
「あと二人子供をもうけることができる者」 の数は第三パラグラフで論じた和をこえないからあとは明らかである。
2000-01-03 (1) 23:59:42 +0900
小学校の音楽の教科書は、低学年のときはハ長調(とイ短調)ばかりだが、 だんだんにシャープやフラットのついた調が出てくる。 私は、シャープが一つの長調にもシャープのつく位置によっていろいろある、 と思い込んでいた。 中学にはいってクラシック音楽に興味がわき、 楽典の本を読んでそうでないことがわかった。
2000-01-03 (1) 22:34:10 +0900
「2000 年問題」について知りたくて大みそかから元日にかけて NHK ラジオのニュースを聞いていたが、 「コンピュータが西暦 2000 年を正しく認識できないで誤動作する《2000 年問題》」 のように説明していた。 「誤動作する」という表現を使っていたかどうかは記憶が確かでないのだが、 「正しく認識する」という部分はたぶん間違いない。 この表現が少々気になった。
「認識」というとおおげさに聞こえるが、 もしもこれを 「一部のコンピュータが西暦 1999 年までしか使えないプログラムを使っているため誤動作する《2000 年問題》」 というと、ずいぶん感じが変わるのではないか。 単に期限切れのプログラムを使ってるだけだろ、と。
2000-01-03 (1) 22:30:46 +0900
高校生のころ、年賀状の返事を普通はがきでくださった先輩がいた。 ずいぶん経ってから、年賀はがきで返事を出すのは 「年賀はがきはあったけどあなたには出さなかった」 という意味になるので失礼だ、という説をどこかで読んだ。 その先輩がそう考えてそうされたのかは定かでないが。
2000-01-03 (1) 22:22:32 +0900
ものごとを「陰」と「陽」とに分ける考えに従うと、 偶数が陰、奇数が陽である。 今年は西暦 2000 年、各けたが陰の数字である。 さかのぼって考えてみると、 1999 年から 1000 年までは千のけたが陽だし、 999 年から 900 年までは百のけたが陽だった。 ということは、最も近くで各けたが陽だったのはなんと 888 年だ。
と考えてみただけ。
2000-01-03 (1) 22:15:20 +0900
フランス語ではミレニアムは millénium とつづる。 n は一つだ。 n を一つにつづり間違ってしまった人は 「フランス語で書いたのだ。 アクサンは表示できなかったから省略したのだ」 といいわけしましょう。:-)
わが家にある最大の仏仏辞典 Petit Robert には 「1765 年ごろ、ラテン語の millenarius から」 というようなことが書いてある(ようだ)。
millenarius は 「研究社 羅和辞典」によると 「千から成る、千位の」「千年の」という意味だ。 これだと annus(年)とは関係ないことになりそうだ。
2000-01-03 (1) 21:59:50 +0900
ほかの人の書いた原稿を打ち込む必要が生じるかもしれないので、 自分はどのくらいのスピードで打てるものか調べてみた。 その人の書いたものを少し打ち込んで時間を計ってみたところ、 13 分打ち込んで 3 分見直して約 800 字打てた。 計 16 分かかったのだから毎分 50 字だ。 Tコードでは 2 打で 1 文字が入力でき、 私はアルファベットなら一打あたり 0.166 から 0.200 秒ぐらいなので毎分 300 打から 360 打。 このペースなら毎分 150 字から 180 字ほど打ててもいいところ。 Tコードの表を見たりしている時間が含まれているので遅いわけだ。 なさけない。
もっとも、今回も打っているうちに指の関節ににぶい痛みが出始めた。 私は指が弱いので、 スピードを出してひとの原稿を打ち込むのには向いていない。
2000-01-01 (6) 00:52:45 +0900
風呂から出たあとに身体を拭く大型のタオルを母は「湯上げタオル」といっていたが、 広辞苑には「湯上がり」はでていてもこれはでていない。 方言だったのか?!
2000-01-01 (6) 00:47:55 +0900
私は YYMMDD の形式で名前をつけているファイル群がある。 1999 年 12 月 31 日なら 991231 などのように。 これはきょうは 000101 となるが、 ファイル名順でソートすると新しいにもかかわらずこちらが先にきてしまうので、 注意しなくてはならない。
きのうの朝起きたとき、 「これを a00101m としたらどうか?」 とひらめいた。 十六進では a が十、b が十一、……なので a0 で 00 というのもやや苦しいがあまり無理でもあるまい。 この調子でゆくと f9 が 2059 年となるので、 私が生きているうちはまず大丈夫だろう。
と思ったが、やはりやめた。 自分ひとりならよいが、 ほかの人には通じないだろう。 それに「ファイル名が数字で始まっていれば、 またその場合に限り、それは年月日」 という原則もくずすことになる。
2000-01-01 (6) 00:42:22 +0900
フランス語では何世紀という数はローマ数字で書かれることがある。 le XVIIIe siècle (大修館「スタンダード和仏辞典」、《世紀》の項)のように。 日本語では「21 世紀」と書くのか「二十一世紀」と書くのか知らないが、 「廿一世紀」とかくとローマ数字っぽくないか?
1999-12-31 (5) 23:42:40 +0900
ずいぶん前には二十一世紀は 2000 年からか 2001 年からかという議論があったようだが、 最近は聞かないのは Y2K でみんな忙しいから? 違うか。
1999-12-31 (5) 23:39:28 +0900
ミレニアム millennium は「ヨハネの黙示録」第 20 章に由来するらしい。 ウルガタでみると第 20 章最初の部分にはそれらしき言葉が六回出てくるが、 いずれも mille(千)と annus(年)の二語からなっている。
1999-12-31 (5) 23:32:28 +0900
不動産屋で「止む終えない」という表記を見た。 「やむをえない」とすれば正しく「やむを得ない」と変換されるが 「やむおえない」だと「止む終えない」となってしまう FEP もあるのでは。 そのうち語源に関する意識が薄れてゆけばかなづかいは後者になり、 「止む終えない」という漢字が当てられるようになるかもしれない。
1999-12-30 (4) 02:55:14 +0900
実数体は Cauchy 列を使って定義するのが数学科学生には一番すっきりすると思うが、 世の中には「無限小数=実数」と定義してはどうか、 と考えている人もいるようだ。 0.999... = 1 などは簡単に対処できる。 大小の定義も簡単だ。 しかし、加法を定義するとなるともうかなりむずかしいのではないか? 「無限に」くり上がりが続くことはないのか? そこはクリアできたとしても、 結合法則の証明はかなり複雑なものになるのではないか?
十進がめんどうならば二進でやってもよいがそれでも。
1999-12-30 (4) 02:49:55 +0900
年末のバイロイト音楽祭の放送は、 冒頭のファンファーレを聞くだけでもわくわくするが、 あれを集めた CD はないのだろうか? きのうのパルジファルでは第一幕と第二幕とでモティーフが違っていた。 そのあたりも知りたいものだ。
1999-12-30 (4) 02:40:25 +0900
年が変わる瞬間に年賀メールを送る人が多く、 そのときマシンが重くなるのを数年前に感じた。 その瞬間に手動で送るにせよ、 前もってその時刻に配達せよと指定しておくにせよ、 マシンやネットワークに負担をかけることは避けられない。 また、 年賀メールを読みに行く人が集中するのも問題だ。 それを防ぐ方法を何年か前に考えてみた。
公の機関が、年賀はがきの発売と同じころ「公開鍵」を発表する。 日本中の人はその鍵で年賀メールを暗号化し、送り合う。 受け取っても復号することはまだできない。 新年になったとたん、 NHK の年越し番組か何かで復号用の鍵を発表する。 それ以降は受け取った年賀メールが復号できるわけだ。
問題は、 前の年のうちに誰から年賀メールがくるかがわかってしまうこと。 受け取った時点でこっちからも出すか、 新年になって読んでから出すか。
1999-12-30 (4) 02:37:03 +0900
今年の年賀状を整理していたらそう書いたのが出てきた。 M は 1000, I は 1 だから 1000 + (1000 - 1) だ。 ローマ数字の書き方が辞書などに出ていると注意してみるようにしているが、 これが許されるのかどうかわからない。 MCMXCIX, すなわち 1000 + (1000 - 100) + (100 - 10) + (10 - 1) という書き方が許されることはわかっている。
1999-12-30 (4) 02:21:48 +0900
源氏物語をぱらぱら読んではいるが明石入道が出てくるところは読んでいない。 この名前から 「東経 135 度の子午線をまたいで立っている雲をつくような大男」 を想像してしまうのは私だけだろうか。 ある人に話したところ、 逃げようとすると後ろから「これを食らえ、これを食らえ」 といって明石焼きを投げてくる。 とてもいい匂いなのでうっかり食べてしまうと……、 というイメージが加わった。
1999-12-30 (4) 02:15:00 +0900
高校時代の私はまさに須磨がえりだった。 源氏物語を読み始めたものの「須磨」 であきらめてしまうことを須磨がえりという、 とは当時は知らなかったが、 何とか岩波文庫版の第一分冊は読んだものの第二分冊の冒頭 「須磨」を少し読んだところで投げ出してしまった。 ちょっと前に書いたように、 須磨から第二分冊が始まる本が多い。 関係ないか?
1999-12-30 (4) 02:09:10 +0900
最近、レジでおつりをもらうとき 「先に三千円お返しします」といって三千円渡される場合がある。 それからレジの人は小銭を取り出すのだが、 こちらが札を数えて確認する前に視線をそらすのは危険ではないか? レジの人が小銭と取り出している間に札を自分の紙袋などに落として 「足りなかった」と言われたらどうするのだろう? お金を渡したときは、 相手が額を確認するまで目を離してはならないと思う。
逆に、お金を払うときは一度に出すか、 あるいは一円玉から「まず端数の4円」などと出すべきだろう。
1999-12-30 (4) 02:03:02 +0900
岩波文庫の「源氏物語」は全6冊で、 第一分冊は「花散里」で終わり、第二分冊は「須磨」から始まる。
岩波の大系、新大系、旧文庫は全5冊だがいずれも第一分冊は 「花散里」までである。 ということで、どこで切り分けているのか調べてみた。
「頁数」とあるのは文庫のページ数である。
巻名 | 頁数 | 文庫 | 旧文庫 | 大系・新大系 |
---|---|---|---|---|
桐壷 | 26 | 376 | 376 | 376 |
帚木 | 52 | |||
空蝉 | 12 | |||
夕顔 | 52 | |||
若紫 | 56 | |||
末摘花 | 35 | |||
紅葉賀 | 30 | |||
花宴 | 11 | |||
葵 | 49 | |||
賢木 | 49 | |||
花散里 | 4 | |||
須磨 | 45 | 355 | 340 | 396 |
明石 | 41 | |||
澪標 | 33 | |||
蓬生 | 23 | |||
関屋 | 5 | |||
絵合 | 19 | |||
松風 | 22 | |||
薄雲 | 32 | |||
朝顔 | 22 | |||
乙女 | 52 | |||
玉鬘 | 46 | |||
初音 | 15 | 340 | ||
胡蝶 | 21 | 325 | ||
蛍 | 20 | |||
常夏 | 25 | 387 | ||
篝火 | 4 | |||
野分 | 19 | |||
行幸 | 30 | |||
藤袴 | 16 | |||
真木柱 | 40 | |||
梅枝 | 21 | |||
藤裏葉 | 25 | |||
若菜上 | 104 | |||
若菜下 | 103 | 327 | 451 | |
柏木 | 43 | 440 | ||
横笛 | 20 | |||
鈴虫 | 15 | |||
夕霧 | 76 | |||
御法 | 19 | |||
幻 | 23 | |||
匂宮 | 13 | |||
紅梅 | 15 | |||
竹河 | 44 | 331 | ||
橋姫 | 40 | |||
椎本 | 40 | |||
総角 | 92 | 515 | ||
早蕨 | 19 | 423 | ||
宿木 | 96 | |||
東屋 | 70 | 308 | ||
浮舟 | 78 | |||
蜻蛉 | 61 | |||
手習 | 80 | |||
夢浮橋 | 19 | |||
合計 | 2022 | 2022 | 2022 | 2022 |
1999-12-30 (4) 01:46:20 +0900
TABLE に </TD> タグや </TR> タグを補うなどした。
2004-04-28 (3) 01:40:12 +0900
前者は「書きようがない」のように連用形に着くのだから 「きようがない」、 後者は「書こうにも書けない」のように未然形に着くのだから 「こようにも こられない」か。
1999-12-30 (4) 01:43:43 +0900
やっぱりこの三巻はどこか感じが違う。 「七月(ふみづき)よりは、はらみ給ひにけり」 (「竹河」、岩波文庫版第五分冊 40 ページ) という露骨な言い方は宇治十帖にはなかったような。
次は戻って「若菜」から読むことにした。
1999-12-29 (3) 00:16:42 +0900
前に「開票速報特別紙面と書簡体アオリスト」 というのを書いた(1999-04-27 (2) 02:39:00 +0900)。
最近岩波書店から出た新約聖書の翻訳で、 「書簡体アオリスト」なるものを知った。 たとえば「コロサイ人への手紙」4.8 に 「あなたがたのもとに遣わしたが」とあるが、 これは「受取人が手紙を受け取った時点から見ての話」 と注がついている。
現代日本語にはこんなのはないや、と思っていたが、 「旧年中はお世話になりました。本年もよろしくお願い申し上げます」 と書く年賀状はまさにこれではないか。
「バイロイト音楽祭のパルジファルを聞きながらこの年賀状を書いています。 このクンドリー、うまいですね」 と書こうとして、なんだかこれじゃ変だと気がついて。 「聞きながらこの年賀状を書いていました」も変だけど。
1999-12-29 (3) 00:03:02 +0900
上のリンクはいまはったもの。 前は a href タグがなかった。
2004-04-28 (3) 01:25:00 +0900
第四版には載っていない。
1999-12-28 (2) 23:51:10 +0900
子供のころは、うちでクリスマスツリーを飾った。 ツリーは鉢植えにしてこの時期以外は庭に置いていたと思う。 飾るものは毎年少しずつ買ってもらったが、 ある年、 うちの最寄りの国鉄(当時)の駅のほうまで、 母に裏道を連れられて買い物にいったときの空のどんよりとした暗さと、 飾り物を売っていた店の明るさを今でも覚えているような気がする。
うちの地方では25日は終業式だったので、 朝はクリスマスプレゼントを少しだけ見てから、 いつもよりちょっとだけよそ行きのカーディガンか何かで小学校へ行き、 通信簿をもらって帰ってきてからプレゼントで遊ぶ。
大学院の学生のころ、 大学の近くの教会のクリスマスにいったこともある。 19時ごろから礼拝が始まり、 終わってから有志がキャロリングといって礼拝にこられない教会員のうちを回わって讃美歌を歌う。 お菓子などがもらえることもある。 とある政党とも関係が深いと言われる宗教団体のうちから「うるさい」と言われたり、 地上げの影響で人がよそへ移っていったりで、 だんだんと回わるうちの数も減った。 一回わりして教会へ戻ると、熱い豚汁が待っている。 電車に乗って帰る。空いてはいるものの、酔客も多い。
仕事の関係でこちらに引っ越してきてからもキャロリングに行ったことがあるが、 こちらは教会の数が少なく、教会員の家が遠いので、自動車を使わなければならない。 あるとき、 乗せてもらった自動車が、 歩いている子供にクラクションを鳴らしたのを見て、 むなしさを感じた。 この子供は、 プレゼントの待つわが家へ急ぐ途中なのかも知れないではないか。 そういう子供をクラクションで驚かせて回わるキャロリングにどんな意味があるのだろう?
最近は、この火にしか使わないロウソクに火をともし、 賛美歌を数曲、ひとりで歌うだけのクリスマスイブである。
1999-12-25 (6) 03:02:29 +0900
「二進で表記した純小数 (整数部分が 0 である小数) 全体の集合が可算であると仮定する。 0.011111... は 0.1 に等しいが、 こういった場合は後者をとるものと約束しておく。 第 n 番目の純小数の n 桁目が 0 だったら 1 を、 1 だったら 0 を n 桁目にもつ純小数を考えると、 これはこれらのどれとも一致しないから矛盾」 とやりたいが、 もしも対角線に 0 が無限に続くと 1 が無限に続く純小数ができてしまい、 具合が悪い。 二進以外ではこれは容易に避けられるが、 二進の場合は次のように証明を修正すればよい。
純小数のうち、 有限小数で書けないもの全体の集合が非可算であることを示す。 可算だったと仮定し、一列に並べておく。 これらから、次のようにして純小数 x を作る。
例:
0010010011111101100001000000110100111101011000111010001101000010100001 1111001001110111101000101101010110000100010011101110100111000010011100 1111100100110101010000111111111110111011011010111101111110100101110011 0011000111101000101010101001100011111110011110001011110001101000000001 1010110100010011101010011011000110100000101101011001101101101101100100 1010001111011101101111100010101110000001110111110001011000011100010001 0001101100110001011001011111011011010000110011110000110000111111111100 0000011100110010010111110101111001000011000001111001110111010110010001 0011110101011011011110010010011000010101010011010101111111000001100000 1110110011011011101011001011001100101100010011011000111001100010101010 1001110010010001100010001011110101010110011110110100101110111000100010 1110001010111101000110000000100101101111011000000100011011100111101111 0111011000101010011010110100011001110100010000001111011010010101100100 0100101001110100100000100001100001101001000100001110011011110100011011 0101001110100011011000000010111100001000110111110001010011001000111100 0000101111110010010110100001010100101111011110001100100101000011110010 1011001111000010001100011110101111011000001111111010100101010110011011 1000000001001100001011000100001111111000011100111000100011111011111000 0101000000011001000001000010111000100000101111100001110101100100011000 1010111010010101011000101010110110110010001100011100101100011101000010 1110011011111001111000000110111000111110010001010100101100111100010100 1110101001101111110111101010011101001011111111000001000010100111010010 1110011000011100111010000101100010000000111000110111010101110000111011 0111110001111100010011101010100111110010001001111100010000001101000011 0110011010111101010000110001001010010000111010101011100011101110000000 1000010010001000100101010000010101000101..............................この例はC言語による次のプログラムで作った。
#include <stdio.h> #include <stdlib.h> /* rand() */ #include <time.h> /* time() */ char x[70+1]; /* 「対角線論法」で作る小数をいれるところ */ main() { int i, j; /* 第 i 番目の小数、その第 j 桁目 */ int a = -1; /* 数列 a[ ] の値 */ for (j=0; j<70; j++) { /* 配列 x[ ] の初期化 */ x[j] = '0'; } x[j] = '\0'; srand((unsigned)time(NULL)); /* 乱数の種を現在時刻で決める */ for (i=0; i<25; i++) { /* このループの中が主たる部分 */ int done = 0; /* 第 i 番目の小数に関する作業が終わったら 1 に */ for (j=0; j<70; j++) { int r = rand()%2; if (!done && a < j && r == i%2) { printf("<FONT color=\"brown\">%d</FONT>", r); a = j; done = 1; x[a] = '0' + !r; } else { printf("%d", r); } } putchar('\n'); } for (j=a+1; j<70; j++) { /* 残りを「.」で埋める */ x[j] = '.'; } printf("<FONT color=\"brown\">%s</FONT>\n", x); }あまりしっかり見ていないのでバグがあるかもしれない。
こんなに苦労するぐらいなら 「0.011111... は 0.1 に等しいが、 これらは可算個だから別々のものと考えても構わない」 とするほうがずっと楽か?!
1999-12-25 (6) 02:41:42 +0900
「<」「&」「"」をエスケープしていなかったことに気づいたので、 直した。
2004-04-28 (3) 01:16:37 +0900
「サンダーバード大百科」(学習研究社、1992)によるとそうなっている。
1999-12-24 (5) 02:32:56 +0900
「源氏物語」のサイデンステッカーによる英語訳では巻名 「末摘花」は Safflower であり、 人物としての「末摘花」は Safflower Lady というらしい。 どうもこれを見るとお中元かお歳暮に食用油をもってゆく女性を想像してしまう。
1999-12-24 (5) 02:29:58 +0900
なぜだろう? いまではドイツの作曲家 Wagner の名前を「ワグナー」 と表記することはほとんどないはずだが。 「ワグナー法」のワグナーにつられた?
1999-12-23 (3) 02:43:00 +0900
ドイツの作曲家 Wagner の名前は 「ヴァーグナー」または「ワーグナー」と表記されるが、 v と b を表記しわけない方針の場合は「ヴァ」は「バ」になるのが普通ではないか? だったら「バーグナー」となるはず。 「バーグナーのバルキューレでのボータンは……」といった感じ。 「ワ」と表記するのはつづりにつられているのか、 英語式発音につられているのか。
1999-12-23 (3) 02:30:00 +0900
2000 年問題関連で、 ミネラルウォーターとかロウソクとかが売れているそうだ。 ちょっと前のニュースでは、 あるロウソク会社では普通の年の 60 倍も作っているとか。 でも、今年のうちに売り切ることができなかったらどうなるんだろう? 2000 年になって何も起こらなければ --- 私はそれを望む ---、 ばったり売れなくなるはずだ。
と思ったのだが、福袋に入れて売ってしまえばいいではないか。 「2000 年にちなんだ 2000 円福袋」とか言って。 ウソじゃないでしょ?
なーんちゃって。
1999-12-23 (3) 02:23:00 +0900
源氏物語「宿木」巻の終わり近くに、 匂宮が中君のところにきているとそこへ薫からの文がくるところがある。 《「返事(かへりごと)、書い給へ。みじや」とて、 ほかざまに、そむき給へり。 甘えて、書かざらむも、怪しければ》 (岩波文庫「源氏物語(五)」、327 ページ) と中君は返事を書くのだが、 現代でいうなら、 旦那とインターネットしていたら愛人からのメールがきてしまった、 という感じだろうか。 ほかにも、文のやりとりがインターネットメールと似た感じに思えるところが多い。 昔は貴族だけがやれた(と思われる)ことを、 今は誰もができる。 ありがたい時代だ。
1999-12-16 (4) 01:56:58 +0900
……ような気がする。 98 上ではずっと Vz エディタを使っているが、 WS が導入されてからは vi と emacs/mule を、 Windows マシンを買ってからは「メモ帳」を使い始めた。 特に混乱もなく、比較的すぐに慣れて使えたが、 変換方式の日本語入力にはなかなか慣れない。 Tコードこそ理想の入力法、という思い入れがあるせいかもしれないが、 エディタと FEP では頭の中で使っている場所が違うせいのような気もする。
1999-12-11 (6) 02:11:31 +0900
日本語ワープロではローマ字なりカナなりで読みを入力して変換する方式が主流だが、 私は gakkou と綴る「いんちきローマ字」がいやで、 ほとんど使ったことがなかった。 Tコードと出会ってある程度それをマスターしていたので、 就職後 98 用のTコード対応 FEP を作り、いまでもそれを使っている。 その後、WS を使うようになり、Windows を使うようになり、 ローマ字入力も使うようになってこの文章もそれで打っているが、 やはりTコードのほうが手にしっくりする。 もしTコードに出会わなかったら、 私も“反・日本語ワープロ”派に回っていたかもしれない。
(実は私はほとんどワープロは使わない。 使うのはエディタである。 また、漢字を入力する機能は必ずしもワープロが持っている機能ではない。 さらに、漢字かなまじり文で書いたものだけが「日本語」ではない。 それらの点に関する議論はひとまずおいておいて、 上の段落は“世間並み”の用語を使って書いた。)
1999-12-11 (6) 02:01:42 +0900
NHKラジオの「英会話」は、 題名が「英語会話」だった時代から聞いているが、 少なくとも12年前から、 テープに録音して数カ月遅れで聞く習慣になっている。 テープは引き出しに並べて入れているが、 ときどき次に聞くべきテープがわからなくなる。 きのうもそうなり、 26本たまっていたテープをはじから少しずつ聞いたが、 8月25日分のが見つからない。 録音し忘れたのか、それとも間違って消してしまったのか、 とあきらめかかったら、 「次はこれを聞くんだ」と別にしておいたのが見つかった。 やれやれ。 思いきって、いまたまっている分は聞かずに消して、 これからは生で聞いたら? と言う人もいるが、 どうもその気になれない。
1999-12-11 (6) 01:53:25 +0900
10日付朝日新聞大阪本社版3面の 「文藝春秋」の広告に 「20世紀 天皇家の試錬」という見出しが出ているが、 「20世紀」の右に 「明治、大正、昭和、」 と添えてあったので次は「平成」かと思ったら「今上」だった。 元号ではなく天皇名だったのだ。 大昔の天皇については「履中・反正の関係」 (岩波文庫「日本書紀(二)」440 ページ) のように「〜天皇」を省略するのを見たことがあるが。
1999-12-11 (6) 01:30:55 +0900
タイトルの最後が「広告見た」となっていたのを「広告で見た」に改めた。
2003-08-26 (2) 01:23:30 +0900
現代のたいていの作家の作品は、 活字で組んで印刷してから読者の目にふれる。 にもかかわらず手書きかワープロかにこだわるのは、 創作時の気合いのはいり方のようなものが違うからだろう。
(クラシックの)作曲家の多くは管弦楽曲でもピアノを利用して作曲するそうだが、 もしも別の楽器を使ったら、最終的にできるのが管弦楽曲であるにもかかわらず、 できる作品は違ってくるかもしれない。
1999-12-09 (4) 02:26:00 +0900
新聞などを見ても忘れられているようだ。
1999-12-09 (4) 02:18:10 +0900
「世界」2000 年1月号に 《「日本語練習帳」の練習帳》 と題した、丸谷才一・大野晋・井上ひさしの三氏の座談会が出ている。 その中で井上ひさしが 「僕はワープロを一〇年間使っていたのですが、 この頃は手書きなんです。 (中略)「鉄道」と手で書くと、 まず「鉄」を書かなければいけない。 そうすると、「鉄」がもっている意味がペンの先から一瞬、 濃密に立ちこめる。 そこで次に「道」でその意味の拡がりを一気に一点に集約する。 手書きはあれでなかなかドラマチックなんです。 ワープロはこれができない。 とくにローマ字で打ったら、 「鉄」の意味も「道」の意味も稀薄になってしまいます。 これは危険だと思ってワープロはやめたのです」 と発言している。
すさまじいまでの創作時の集中力に感嘆する反面、 こうやって書いたものとそうでないものと違いがわかるんだろうか、 という気もする。
1999-12-09 (4) 02:18:18 +0900
1999-II と書かれた岩波新書解説目録で矢内原忠雄先生の 「続 余の尊敬する人物」 の解説を見たら 「ルッター、内村鑑三、クロムウェル、パウロ、イザヤ……。 権威に屈せず、真実と信仰に生きたこれらのクリスチャンの姿は……」 とあって驚いた。 キリスト教の立場からすればイザヤはキリストを預言した、 となるけど、 紀元前に生きていたひとをクリスチャンといっていいのだろうか。 それから「宗教による人類救済を念願した彼ら」とあるのも気になる。 さらに、5人の順序が収録順とも執筆掲載順とも異なるのも不思議。
「余の尊敬する人物」はエレミヤ、日蓮、リンカーン、新渡戸稲造を描くが、 その解説には 「彼らの宗教的信念の深さは……」とある。
1999-12-08 (3) 02:08:03 +0900
7日付朝日新聞大阪本社版によれば 来年のセリーグ開幕は3月31日で、 36 年ぶりに3月にペナントレースが始まる、 と書いてあるが、 来年はうるう年なのでこの日は平年の4月1日に当たる。 関係ないか。
1999-12-08 (3) 01:20:18 +0900
以前ジーンズを買った店がつぶれたそうで、 そこのメンバーズカードを捨てようとしたら、 スタンプがいっぱいになって何かと交換してもらうときに記入する欄に 「生 年 月 日」と書いてあるのに気がついた。 何のつもりだろう? 原稿に「生年月日」とあったのを、 活字を組む際に「年・月・日の前のすき間に数字を記入するのだろう」 と勝手に思い込んで広くすき間をあけたのだろうか?
そういえば、 金沢で選挙に行ったとき、 「何年生まれですか?」 「何月生まれですか?」 「何日生まれですか?」と順々に聞かれ、 「生年月日を言ってください」といえば一度で済むのに、 と思ったことがある。 金沢には「生年月日」という語がない?
1999-12-07 (2) 23:51:48 +0900
……である。 閉じるほうが「”」、 開くほうはそれを裏返したものなのだ。 英語風なら開きは「“」だ。 ドイツ語式とも違う。
1999-12-07 (2) 01:31:26 +0900
算術平均でないところがちょっとおもしろい。
1999-12-02 (3) 02:10:02 +0900
30 日付朝日新聞大阪本社版第1面に熊本の小2誘拐事件がでているが、 犯人の要求どおり 3000 万円をいれた袋をかごにいれたところ、 ある男性が持ち去ろうとしたという。 捜査員が呼び止めて調べたところ、 お金がはいっていたので警察に届けようとした、 とのことで、事件とは無関係のようだったが、 この人は落とし物を拾ったという扱いで謝礼がもらえるのだろうか? 確か謝礼は 5% 以上 20% 以下だから、150 万円以上 600 万円以下となる。
遺失物じゃないからダメか?
1999-12-02 (3) 02:08:28 +0900
最初のページの目次に「いろいろ(日記のようなものです)」とあったのを変更。
1999-12-02 (4) 01:57:13 +0900
美しいのは顔か天金か? 普通は顔だと思うだろうな。
1999-12-02 (4) 01:53:50 +0900
カタカナ書きの「・」は名と姓の区切り、 アルファベットの「-」は名の二音節の間の区切りである。
1999-12-02 (4) 01:48:05 +0900
岩波の「図書」は年間購読料が安いので、 いつだったか十数年分申し込んでしまった。 よって、いま封筒に書かれている購読期限は 2008 年 04 月号だ。
1999-12-02 (4) 01:41:35 +0900
いよいよ 1999 年も終わりが近くなってきたが、 世紀末という感じがあまりしない。 私がそれを一番つよく感じたのは 80 年代の終わりのようだ。 「80 年代が終わると 90 年代、いよいよ世紀末だ」という感じで。 実際 90 年代になるとなんということもないし、 2000 年がきても別になんとも思わないだろう。
1999-12-02 (4) 01:38:40 +0900
日曜日はたいてい町中へでかけ、夕飯を食べて暗くなってからバスで帰る。 その帰りのバス停のそばには街灯があるので、 その下で待つと本を読んだりできる。 ときどき明るい時間にそのバス停からバスに乗ることがあるが、 そんなときもつい習慣で街灯の下に立ってしまう。
1999-12-02 (4) 01:30:30 +0900
北鉄バスの運転席わきに「みんなでエコドライブを」 というステッカーが張ってあった。 「エコ」はギリシア語で「家」の意と考えると、 意味がまったくわからない。
(おそらくエコロジカルなドライブの意味だと思うが。)
1999-12-02 (4) 01:22:30 +0900
私は、「南総里見八犬伝(十)」(岩波書店 1985)の付録 八犬伝談余(内田魯庵)で始めて知った。 滸我に出発する前夜の信乃の行動を考察するところで 「往返[ゆきかえり]をマラソンでヘビーを掛け」 とあるのがそれだ(同書 377 ページ)。 前後関係や言葉の感じで意味はだいたい想像がつくが、 同じ世代の人に聞くとやはり聞いたことはないという人が多い。 新明解国語辞典第三版で「ヘビー」をひくとほかに「ラストヘビー」 という言い方もあるらしい。 ということは、今はこの意味の「ヘビー」は 「スパート」に代わられたということか。
1999-12-02 (4) 01:13:48 +0900
20年ぐらい前は、 事故の原因をいうときなどによく使われていたのに。 広辞苑第五版には出ている。 私は、 「加速度がつく」全体で「速度が上がる」の通俗的表現なのだと思う。
1999-12-02 (4) 01:00:55 +0900
どこかへしまいなくしてしまったが、 記憶をたよりに書くと、 本の形を直方体とみなすとき、 背表紙が底面になるようにして机に本を立てる。 それから表紙を机の面まで開き、 のどのあたりをこすって開きぐせをつける。 裏表紙も同様。 それから表と裏から十数ページずつ開いては同様のことを行ない、 全ページにわたって開きぐせをつける。 これをしてから読むようにしないと、本の背が割れたりするのだ。
1999-12-02 (4) 00:45:20 +0900
……ということに気がついた。 最初に買ってもらった第二版にあった 「ただ、憾むらくは、あれほど本書の刊行を待望していた編者はすでに亡く、 問うても答[いら]えなき墓前に本書を献ずることになったことである」 の「問うても答[いら]えなき」 が強く印象に残っていたのだが、 これを読んだのは第二版を見た人だけなのだ。
1999-12-02 (4) 00:34:28 +0900
広辞苑第五版(総革装)を見ていて思ったのは、 これに比べると日本の聖書はつくりがいまいちだ、 ということだ。 聖書はある人たちにはとても大事な本のはずだ。 それなのに、この広辞苑と比べて、 本文の紙質、活字およびその組みかた、 造本などで十分な吟味がなされているとは思えない。 総革装のも出ているが、革の質があまり気にいらない。
というような話をある人にしたら、 聖書が偶像になって、偶像崇拝におちいってはいけないのではないか、 という指摘をされたが、 決して華美な聖書を作れといっているのではない。 せめて総革装広辞苑ぐらいのものを作ってほしい、 といいたいのである。
1999-12-02 (4) 00:26:18 +0900
第四版のときは割と早めに机上版を購入。 これはパソコンの前の床を定位置とし、 パソコン通信のメッセージ書きに大活躍したが、 あとから総革装が出てくやしい思いをしたので今回は CD-ROM 版を購入して総革装が出るのを待っていた。
今回は机上版の総革装は出ないようなので普通サイズのを入手。 いきつけの職場の生協書籍部では地方のせいで岩波の本は必ず一日以上遅れるのだが、 発売日に手にはいった。
実によい作りである。 第二版とほぼ同じ厚さだが、 2448 ページから 2988 ページへと紙数は 22% も増えている。 特別に薄い紙を作らせていると聞いたが、 それでいて裏が透けたりめくりにくかったりすることがない。 ただし、革の扱いについての注意書きなどがまったくないのは意外だった。
顔が映りそうな美しい天金だったが、買って数日後に傷をつけてしまった。 数日前には、大事に箱にいれたつもりがいれそこない、 後ろの数ページをくしゃくしゃにしてしまった。 箱の外に紙のカバーがついているので、 箱にいれたつもりがカバーと箱の間に裏表紙と最後の数ページをつっこんでしまったのだ。 翌日気づいてよく伸ばしたら、若干しわになった程度で済んだ。 我が子に寒い思いをさせまいと湯たんぽをいれてやって火傷をさせたらこんな気持ちがするだろうか、 と思ってしまった。
大事にしていてもしかたがない。 うんと使ってやろう。
1999-12-02 (4) 00:13:42 +0900
最初のページに
あなたは直前の訪問者から数えて00002人目の訪問者です。
とあったのを削除。 ほとんどうけなかったようだ。
1999-12-01 (3) 23:52:30 +0900
「総角」に「馬どものいばゆる音も」というフレーズがあるが、 この「いばゆる」を岩波古語辞典 --- 動詞は連用形で出ている --- でひくと見出しは「いばえ」であり、 下二段活用とは書いてあるがア行かヤ行かが書かれていない。 ローマ字で示してある上代特殊仮名遣で見分けよ、 ということか?
1999-12-01 (3) 02:27:30 +0900
最近、初めて気がついた。 「匂宮」「紅梅」「竹河」が間にあるのだ。
1999-12-01 (3) 01:34:30 +0900
二千円札の影響で「源氏物語」(岩波文庫)をまた最初から読み始めたが、 古語辞典をひいても完全には理解できない。 思わず「もうだめだ! 攻略本を見よう!」と口走ってある人に笑われた。 それはともかく。
大学の図書館で岩波の大系本・新大系本を見たが、 どちらもあいにく第一冊だけ借り出されている。 最初のほうは読む人が多いということか。 しかたなく新大系本の別の巻を借りることにしたが、 どれを借りるか少々迷って、 最終分冊を借りてきた。 以前少し読んだことのある「手習」が含まれているからだ。 「その頃、横川に、某の僧都とかいひて」 と始まる。 テレビの講座か何かでとりあげていて、 割とわかりやすいので自分でも読みかけたのだろう。
確かに、新大系本はわかりやすい。 最初は並べて読んでいたが、 文庫だけでどこまで読めるだろう? と思って読んでいるうち、 なぜか「手習」の最後まで読めてしまった。 昔から、「夢浮橋」は源氏物語を全部通読して最後に読もう、 と決めていたのだが、「手習」の末尾の 「よろづに、道すがら、思し乱れけるにや」 を読んで、あそこでとどまれるものではない。 「夢浮橋」に突入して、最後まで読んでしまった。 最後のページまでどきどきさせて読ませる小説はそうはない。
1999-12-01 (3) 01:33:20 +0900
第四版には出ていない。 完全にすたれた、というか、 その後継者であったカセットテープもそろそろ MD にとって代わられるか? というころになって初めてはいるなんて。
1999-12-01 (3) 01:14:05 +0900
岩波数学辞典第2版で「位相空間」の項をみると 「……は、次の公理をみたすものとして定義される」 とある。 こういう言い方はよく見かけるが、 実際に下にあるのは ZF 集合論での命題である。 よって、ZF の一つの公理である「選択公理」が 「公理」であることとは意味が違うと思う。 よくわからないが。
1999-12-01 (3) 01:09:15 +0900
マーラーの「交響曲第9番」第一楽章に「ミソラソ」という主題が出てくるが、 「君が代」の「千代に」や「いわおと」の部分と関係があろうか?
1999-12-01 (3) 00:58:35 +0900
今年の日本シリーズの、 中日ドラゴンズのホームグラウンドで行われた最初の試合 (確か第3戦) の開始前、 著名な日本人テノール歌手 (錦織さんだったと思う)の無伴奏ソロで「君が代」が歌われた。 男性が「国旗及び国歌に関する法律」の別記第二の楽譜通りに、 すなわちニ調のドリア旋法で 「君が代」を歌うのはかなりむずかしい、 ということが頭にあったので途中からカセットテープに録音しておき、 あとで電子キーボードと合わせてキーを確かめたところ、 ヘ調だった。 6度下げて歌っていたことになろう。
1999-12-01 (3) 00:55:00 +0900
夏時間になると「時計を進める」とか 「時計の針を進める」とかいうが、 どちらでも同じことだと数週間前までは思っていた。 しかし、 柱に貼る身長計を「上にあげる」と、 同じ子供の身長が「低く」計られることに気がついた。 ということは「時計を進める」 と時計の針は「遅れる」のではあるまいか? もしそうなら「時計の『針を』進める」と、 忘れずに「針を」をいれねばなるまい。
1999-11-20 (6) 01:25:46 +0900
郵便局に中島みゆきの年賀状のポスターが張ってある。 正確には覚えていないが、 千年紀の始まりにちなんだ文句が書いてあった。 いまの千年紀の始まりといえば1000年前の紫式部のころではないか。 紫式部と中島みゆきが二重写しのように見えた、というのはウソ。
1999-11-20 (6) 01:18:03 +0900
二千円札に影響されて、 源氏物語に何度目かの挑戦をしている。 まだ桐壷の冒頭だが、 源氏の御袴着の記事の「それにつけても」 という句に目が止まった。 「それにつけてもおやつはカール」 というコマーシャルがあったっけ。 およそ1000年の歳月を隔てて同じ句が使われているのか……。
1999-11-20 (6) 01:12:54 +0900
職場内の郵便局で 「天皇陛下御在位十年記念切手」 (英文では 10th Anniversary of The Reign of His Majesty The Emperor というらしい) のポスターを見たら、 「11月12日(金)発売」 とあり、おそらくそれと対応するつもりの英文には On sale fom 12 NOV. とあった。 (sale が大文字で始まっていたか否かは不確か。) 別の切手のポスターには from とあったので、これは誤植か?
1999-11-20 (6) 01:02:37 +0900
ポストにはいっていた地域の無料宣伝紙を、 ぱらっと見て捨てようとしたら、 中に「ここからはがして中をご覧ください」というはがきのようなものがはさまっていた。 「おや」と思って手にとって見たが、二つ折りのただのチラシだ。 一応、郵便はがきのような体裁にはなっているが。 こう書くことで目をひこうというわけか。
1999-11-20 (6) 00:57:29 +0900