キース・アウト
(キースの逸脱)

2017年 2月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。

















2018.02.11

そういうことだったのか!
日本人が皆、同じ格好をしている理由=中国メディア


[サーチナ 2月11日]


 日本では仕事をするうえでは何らかの規則があることが一般的だ。スーツであったり、定められた制服であったりと、服装に若干の違いはあっても「どのような服装でも可」という職場は少ないのではないだろうか。中国でも近年はスーツで勤務することを定めている企業が増加傾向にあるものの、社員の服装に対する規定を設けず、社員は私服で勤務するという企業は多い。

 それゆえ、日本を訪れた中国人の多くは「日本人は皆一様に同じ格好をしている」と驚くというが、何より驚愕するのは「たとえ富裕層であっても、皆と同じようにスーツを着ていて、見分けがつかないこと」だという。中国メディアの東方頭条はこのほど、日本人は成功者を含めて皆、制服を着用している理由を考察する記事を掲載した。

 中国人はますます豊かになっているが、日本人と大きく違っているのは自分の富を他人にひけらかすのを好む傾向にあることだ。それゆえブランド品を持ち、高級車に乗って自分の社会的ステータスを誇示しようとする人も多い。

 記事は「近年、米国では成功者の間で自分が好きな服を制服にする動きがある」と伝え、アップル創業者の故スティーブ・ジョブズ氏やフェイスブックCEOのマーク・ザッカーバーグ氏などが「毎日同じ服を着ている」と紹介。成功者たちが同じ服を何着も用意し、着回す理由について、ザッカーバーグ氏の見解として「何を着るか悩むという社会に貢献しない意思決定を極力排除するため」だと紹介した。

 続けて、ザッカーバーグ氏たちをはじめとする米国の成功者たちは、日常における不要な悩みをできるだけ排除しようとする「ミニマリスト」であると指摘。日本でも学校や職場で服装に対する規定を設け、皆が同じ服装をすると決めることは「不要な悩みの排除」や「服を購入したり選んだりするという時間の節約」につながっていると指摘し、こうした要因が日本人が制服を着用し、同じ格好をしている理由なのではないかと考察した。




 なるほどね、こういう説明の仕方があるのかと感心した記事。

日本でも学校や職場で服装に対する規定を設け、皆が同じ服装をすると決めることは「不要な悩みの排除」や「服を購入したり選んだりするという時間の節約」につながっている

 通用するかどうかは別として、一度は子どもに投げかけてみる価値のある言葉だと思う。

 ちなみに生前のジョブズの最終年収は1ドル。しかし一時期の年収が日本円で770億と聞けば、以後はもう1ドルでいいという気持ちも分からないではない。ちなみに1ドルもいらないということにならなかったのは、何か法律上の理由らしい。
 
 マーク・ザッカーバーグの場合も現在の給与収入は年1ドル。ただし彼の全資産(4625億円)を米国債で運用すれば、年間で112億円強の収入があるというから。
 
 翻って日本の大卒サラリーマンの生涯年収は2億5420万円と推定されている(2013年)。しかも年々下がっているのだ(2000年当時は2億7900万円だった)。(年収ガイド「サラリーマン・一般の生涯年収・生涯賃金」
 
 
ジョブズの最高年収770億円は日本の大卒サラリーマン303人が生涯をかけて稼ぐ賃金と一緒。
 
 
「不要な悩みの排除」や「服を購入したり選んだりするという時間の節約」をすると、こういういいことがあるのだと、ちょっと教えてやればいい。もちろん“それがすべてだ”というわけでも、“必ずそうなる”というわけではないが。
 






2018.02.12

日本の性教育は時代遅れ、
ユネスコは小学生に性交のリスク教育推奨


[DIAMOND on line 2月12日]


現在、日本の性教育は、教育課程の家庭科や保健科といった授業で実施されている。しかし、欧米などの教育先進国をはじめ、アジア諸国と比較しても、その内容は乏しいと指摘されがちだ。人が生きていくうえで避けては通れない「性」にまつわる教養。タブー視される向きもある中、公教育はどこまで担うべきか、専門家に聞く。(フリーライター 末吉陽子)


長年、教育現場を悩ませた 「性教育はどこまで行うべきか?」

日本の性教育は遅れていると言われるが、公教育でどこまで担うべきなのか――

「人間は成長過程で性を自然に理解し、習得すべきもの」――そう考える人は少なくないだろう。性は極めてプライベートな感性を刺激し、神秘的であり、エロティシズムと切り離せないテーマでもある。それゆえに、習得の手段として、義務教育で学ぶ「英・数・理・社・国」といった教科と同列に教えることは難しい。

 しかし、それでも公教育で科学的な見地に基づいて学ぶ必要があると訴えるのは、日本の性教育の変遷に詳しい埼玉大学教育学部の田代美江子教授である。

「日本の性教育のはじまりは、敗戦直後から国が主導してきた『純潔教育』に遡ります。『子女の教育指導によって正しい男女間の交際の指導・性道徳の昂揚をはかる為措置を講ずること』『正しい文化活動を助成して青年男女の健全な思想を涵養するために措置を講ずること』を目的に、風俗対策や治安対策の一環としてスタートしました」

「1972年には日本性教育協会が設立され、純潔教育から、性行為に関する諸問題を科学的に解明しようとする学問(性科学)を主軸にする性教育へと転換。以来、諸外国の性教育情報なども取り入れながら、少しずつ進展してきました」

(以下、DIAMOND on line 『日本の性教育は時代遅れ、ユネスコは小学生に性交のリスク教育推奨』で)


 私がこのサイトのこのコーナーで「この記事は優れたものだから読め」ということはめったにない。しかしこの記事は例外で、ぜひ読んでいただきたい。ここ数年の学校における性教育の変遷が実に要領よくまとめられているからである。
 とくに2002年に東京都の七生養護学校を標的とした性教育バッシングが起き、そのために性教育がおおいに後退したという事実は、繰り返し記憶されるべきと思う。

 私もこれに関わる記事をいくつか書いているが(2004.05.05 性教育は児童への個別指導を重視…文科省方針2005.04.05 社説=性教育 現場の工夫を大切に 等)、そもそも学校が及び腰で始めたことに水を浴びせれば、火が消えてしまうのは明らかだった。

 05年、自民党の山谷えり子議員が、大阪府吹田市の公立小学校で使用していた、男女の性器の名称を書いて受精のしくみを図解した性教育の副読本を問題視し、小泉純一郎首相(当時)に問うたところ、「これはちょっとひどいですね。(中略)性教育は我々の年代では教えてもらったことはありませんが、知らないうちに自然に一通りのことを覚えちゃうんですね」と答弁した

 私もこの発言をよく覚えているが、元首相の言う「知らないうちに自然に一通りのことを覚えちゃうんですね」という状況は今も変わりない。状況は変わりないが“自然”の中身は違う。

 2004年に私は次のように書いた。
 もともと苦痛を押して行ってきた教育活動だけに「やらなくていい」となれば、潮の引く様は驚くほど速い。

 特に問題を起きない限り、教師は性教育に積極的に手を出さなくなる。

 性の問題は家庭に任されることになる。
 そして家庭が優秀な性教育を行わない限り、実際の教育はテレビ・雑誌・インターネット・口コミが担うことになるだろう。

 
 そして今、予言通りになった。
 なったにもかかわらず、これだけ劣悪な環境の中で、被害が、
厚生労働省の「感染症発生動向調査」によると、16年単年の報告数だけみても、20歳未満の性器クラミジア感染症は約2200人、淋菌感染症は約500人、性器ヘルペスウイルス感染症は約300人に上る程度で済んでいるのは、結局、学校の道徳教育が優秀だからなのかもしれない。それでいいとも思わないが。
 
 
 




2018.02.17

市賠償の半額分支払い、元顧問に命令
バスケ部生徒自殺


[朝日新聞 2月16日]


 大阪市立桜宮高校バスケットボール部の男子生徒が顧問だった男性から暴行を受けて自殺した問題で、市が遺族に支払った賠償金の半額を元顧問の男性に求めた訴訟の判決が16日、大阪地裁であった。長谷部幸弥裁判長は元顧問に、請求通り4361万円の支払いを命じた。公務員の賠償責任を被害者・遺族が直接問うのは法的に困難ななか、生徒の両親は今回の判決が教育現場の暴力の抑止力になれば、と望んでいる。

 部の主将だった生徒は元顧問から暴力や暴言を受け、2012年12月に自殺。元顧問は傷害罪などで有罪判決を受けた。遺族は13年、市を相手に東京地裁に損害賠償請求訴訟を提起。判決に基づき、市は遅延損害金を含め8723万円を支払った。

 今回の大阪の裁判で、元顧問は「判決に従う」と争わない姿勢を表明していた。この日判決は、市が支払った賠償金と元顧問の暴行の因果関係を認定し、市の請求通りの支払いを元顧問に命じた。

 東京の裁判で、遺族が元顧問の責任を直接問えなかったのは法の制約からだ。

 国家賠償法は、公務員が職務で誰かに損害を与えた場合、国や自治体が賠償責任を負うと定めている。1955年には最高裁で公務員個人の責任を否定する判決が確定。警察官ら公務員が公権力を行使する際に萎縮しないための配慮と考えられてきた。教師や医師は民間の組織に属するケースもあるが、公立施設で働いていれば、不法行為の責任を、被害者側から直接問われることはない。

 一方で、国賠法は今回のように公務員個人に故意や重い過失があった場合、国や自治体が本人に支払いを求める「求償権」があるとも定めている。今回、市は賠償金の原資は税金で、元顧問には重い過失があったとして負担を求めることを検討。交渉したが折り合いがつかず、17年11月に提訴していた。
(以下、略)



 こうした事件に際して、ほとんどの場合、私は事態を学校や教師の側から見ようとする。被害者の側から考える目は、マスメディアをはじめいくらでもあるからだ。
 ただしこの大阪桜宮高校事件については、さすがの私もまったく心寄せることができない。
 暴行の場面は動画で撮られており、一方的に平手打ちし続ける姿は醜いとしか言いようがなく、生徒はあまりにも気の毒だった。
 
 もちろん旧式の人間として当該顧問の意図も分からないわけではない。人間は自分のためよりもむしろ仲間のためにこそ頑張るのだ。自分たちの不甲斐なさのために主将が殴られていると思えば、みんなは努力せざるを得ない、頑張らざるを得ない、それが元顧問の目論見だ。しかし指導効果があるかどうかという以前に、そのやり方はあまりにも古い。すでにそれは禁じ手なのだ。
 禁じ手となってからかなり時間がたつというのに、なぜ彼はやめなかったのか、私にはまったく理解ができない。
 
 さらに、事件に関して、一般的には暴力がつらくて生徒は自殺したように言われるが、それも違うだろう。彼を死に追いやったのは暴力ではなく、「お前はもう(選手から)はずす」といった顧問の一言なのだ。
 
 それまで死ぬほど苦しい練習にも、顧問の暴言・暴力にも耐えてきたのは、ひとえに選手として戦い、勝利するためだった。それがもう、今日を最後にコートに立てない、試合に出られないとなると、これまで耐えられたことも耐えられなくなる。何のための我慢か、何のための努力か、分からなくなる――。
 
 私には彼の絶望が直接心に入り込むようにわかるが、元顧問には理解できなかったのだろう。教師が置いた高めのハードルが、生徒には高く厚い壁に見えることがある――そのことはいつも心においておかねばならないことだ。
 元顧問は事態を甘く見た、生徒の状況をきちんと見ていなかったわけだ。
 
 
 さて、今回この記事を拾ったのは、しかし事件を振り返るためではない。
 
 児童生徒に損害を与えた場合でも、職務上のことであれば教師に賠償の責任は発生しないというのが私たちの常識だが、そうでない場合もあるということをこの際おさえておきたかったからである。

 大阪桜宮高校事件のように、教師側にこれほど大きな瑕疵がありながら損害賠償の全額を税金から支払うとなると、とてもではないが市民の理解は得られないだろう。本人も責任を負うべきだというのは、誰が考えても常識である。
 こんなふうに行政がいったん賠償金を払ってから、一部を教員に負担させるという迂回には気づかなかったが、当然の措置だと思う。
 
今回の大阪の裁判で、元顧問は「判決に従う」と争わない姿勢を表明していた。
というから、本人も同じように考えたのだろう。そうあるべきである。

 しかし
4361万円
 懲戒免職では一銭の退職金もなく、将来的には年金も減額される中で、元顧問はどうやってこれだけの支払いを行うのだろう。

 生徒の両親の言う通り、
 
今回の判決が教育現場の暴力の抑止力になれば、
と私も望む。







2018.02.25

「忙しい教師」敬遠?
教員養成学部の倍率低く


[毎日新聞 2月25日]


 国公立大入試の2次試験が25日に全国で始まる。今年の志願者数は168大学582学部の募集10万547人に対し、前年より5078人少ない延べ46万5708人。近年は好景気を受けて就職先の選択肢が多いと言われる文系の人気が続く中、教員養成系学部の志願倍率は下がっている。専門家は「教員の過酷な労働環境が知られ、敬遠されているのでは」と分析する。

 2次試験は25日に前期日程、来月8日に中期、同12日に後期が始まる。文部科学省によると、少子化など…

(以下、有料記事


 ま、そんなもんでしょ。

 ただしこうして“ゆるい教育学部”に入学した学生たちが全員教員になっていくわけではない。特に景気のいい今みたいな状況だと、多くの卒業生が民間企業に流れたりする。そもそも教員採用試験を受けない学生たちだ。

 そのため今度は教員採用試験がゆるくなる。
 どれくらい“ゆるい”かというと、今すぐにネットで拾えた大分県の例だと、
2000年度に18.5倍あった採用試験の倍率は、17.6倍(05年度)、10.5倍(10年度)と下がってきて16年度はついに4.2倍になってしまった。
大分合同新聞「教員採用試験の年齢制限、50歳以下に緩和」2017/03/16

 教員の大量退職に備えて09年度から段階的に採用者を増やした経緯もあり
と記事にはあるが、00年度年の4倍以上も採用数が増えるなんてことはあり得ない。そもそも06年度の段階で低落傾向は明かで、倍率の低下は教員不人気が主たる理由だ。

「学習指導要領改訂に向けて教師の質的向上」とか言っているこの時期に、入り口の採用試験が“ベタゆる”状態でどうするのか?

 もっとも教員の世界はよくできたもので、失われた20年のような大不況のときには信じられないくらい頭のいい子たちが教師になってくる
 それにひきかえ今みたいな好景気の時期には、ほんとうに教師にあこがれ、高給や好待遇を蹴ってこの世界に飛び込んでくる神様みたいな子たちが中心となる


 どちらも必要と言えば必要だが・・・。