古処誠二 11





2009/09/17

 最新戦争小説『線』の刊行に際し、YUMIURI ONLINEに大変珍しい古処誠二さんのインタビューが掲載されている。僕と同年代の古処さんが、戦争小説を描き続ける理由は何か。その問いに対する古処さんの答えは、以下の通りである。

「なぜかといわれると困る。登山家が山に登る理由を聞かれるのと同じです」

 インタビューの内容を僕なりに解釈すると、古処誠二はあくまで個人を描きたいのであり、戦争を描きたいわけではない、ということか。最新刊『線』は、ニューギニア島を舞台とする初の短編集である。全9編の登場人物に相関はない。共通しているのは、前線要員ではないこと。なるほど、個人を描くには、短編は理に適っているかもしれない。

 だがしかし、本作に限らないかもしれないが、全編に諦観が漂っている。飢え、マラリア、腐臭…麻痺した感覚が、個人を埋没させている。読んでいる僕自身の感覚も麻痺し、個人の感情が訴えてこない。正直なところ、読み終えてもあまり印象に残らなかった。

 インタビューを読んで、僕が古処誠二を誤解していた面もあったことを知った。最初に『ルール』という悲惨さを強調した作品を書いたのは意図的であったこと。僕は『遮断』の感想に、こう書いた。古処誠二が戦争小説を書き続ける限り、『ルール』を上回る衝撃を受けることはないだろう。それもそのはず、衝撃を与えるつもりなどなかったのだ。

 「戦争の悲惨さが評価の尺度となることへの反発」も抱いてきたという。古処作品を「悲惨さに頼らない、新しい戦争文学」と称しているが、冷静に考えれば十分に悲惨だ。ただ、戦後世代には実感を伴わない。戦後世代に本気で衝撃を与えるには、際限なく悲惨さを強調する意外にないだろう。しかし、古処誠二は安易な道は選ばなかった。

 その道は、死屍累々たるニューギニアの兵站線のように、あまりにも険しい道。本作は、古処さんが完成型を突き詰める上での途中経過なのか。そう考えれば、局面をぶつ切りにし、始まりも終わりもない全9編の意味が、変わってくるかもしれない。



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