小野不由美 24


黄昏の岸 暁の天


2001/09/24

 十二国記の世界は、天の理(ことわり)によって動いているという。天の理は絶対だ。何人たりともこれを冒すことは許されない。では、天とは何なのだ?

 王たる人物を麒麟が天啓によって見出し、玉座に据える。それは天の理に基づいているはず。しかし、現実はどうだ。道を踏み外す王がいる。謀反を起こす輩がいる。何のための天なのだ。国が荒廃するのもまた天の理なのか。

 『風の海 迷宮の岸』で、載国の王、泰王として見いだされた驍宗(ぎょうそう)。登極からわずか半年にして、復興に燃える驍宗は消息を絶ち、幼い泰麒は衝撃のあまり忽然と姿を消した。偽王による圧政が始まった載国の行く末を憂える将軍李斎(りさい)は、景王陽子に面会するため命懸けで空を翔ける…。

 載国を救ってやりたい景王陽子の前に、天の理が立ちはだかる。曰く、兵をもって他国を侵してはならぬ、云々。まるでお役所のように融通が利かない天の理。天の理に背いたかどうか、それだけが問題だ。李斎や陽子と同様、僕も大いに疑問を感じた。

 何故に、載国は、泰麒はこれほどまでの苦難に見舞われるのだ。天に慈悲はないのか。李斎の叫びは読者の叫びでもある。これまでも十二国記の世界の矛盾性は描かれてきたが、本作ではそれらが一気に噴出する。

 しかし、ただ手をこまねいてはいない。十二国の歴史上初、各国が協力し合っての泰麒捜索作戦が繰り広げられる。天に慈悲がなくても、諸国の王と麒麟には慈悲があるのが救いである。天の理という法の網をかいくぐれ。前例がないなら作ってしまえ。

 載国復興への道のりは、あまりにも険しい。しかし、他国のために労を割いた陽子たちの行為が無意味とは思いたくない。天の理を動かせなくても、何かできることはある。国境を越えた協力が可能であることが証明されたのは、大きな一歩だ。慶国にとっても他の協力国にとっても、きっとプラスになるはずだし、いつか必ず報われると信じたい。

 なお、今回の一件で泰麒が蓬莱に流されていた間の話が、『魔性の子』らしい。



小野不由美著作リストに戻る