山本七平を冒険

地獄を見た人、死を恐れるひと、静かに怒るひと、倒れないひと、山本七平。たまにおちゃめな山本七平。

クリスチャンの家庭が、帝国陸軍の日常が、フィリピンの人々のみせた態度が、戦火と飢餓が、俘虜収容所の暴力支配が、敗軍の将同志の内輪ボメが、戦後の闘病生活が、この偉大な思索を産んだのでしょうか。

氏の、表面的に捉えることのできない、思索の迷宮は迷って楽しい場所。先入観を持たずに読むことはむつかしい。何度も読むと見えてくることば。

戦後最大の智慧(当社比)を是非冒険してみてください。

ここに紹介する本は、残念なことに多くが絶版です。古本屋さんで探せるように出版社、サイズ、背表紙の色などをデータとして添えます。

また、持っていないけれど存在を知っている本はグレイで、持っているけどまだ読んでいない本は水色で表しています。

1)  戦場で:学徒出陣という不安な中で、帝国陸軍といういびつに回る腐食した歯車の中で、彼はたくましく生活しました。「部外者」(=陸士を出た陸軍エリー トの卵としての実包ではなく、不足した下級将校の穴埋めの一時雇われ・・・アルバイトみたいなもの・・・)として組織内の「戦い」を戦い通しました(ここ がいちばん尊敬してる部分)。回っている組織にいきなり組み込まれた部外者としてうまくやっていくために、軍隊とそれを構成する人々を部外者の目で「偵 察」し「作戦」したのでしょう。それができなかった若者たちは、「トッツカレ」、戦後生き残れていれば黙ってしまうか軍隊に対する恨みつらみのみを書きつ づることになったのでしょう。最初からなじんでしまった若者たちは、そこに日常しか感じなかったでしょう。

ある異常体験者の偏見 文藝春秋社(単行本、背:黄緑、タイトル:薄黄の明朝体)

文春文庫(文庫、背:白、タイトル:黒い明朝体)

山本七平ライブラリー7(A5、背:クリーム、タイトル:黒い明朝体)

なんにもないのに、続けられるあてがないのに戦争を始めた、いわば「着陸するところがないのに離陸してしまった飛行機」に等しかった日本の、離陸してしまうおつむの構造を、自らの戦争体験に照らし合わせて考察する本。

イ メージ/観念だけでナンでもできてしまうという魔法物語のようなことを本気で信じていられる人々、「数字なんか気にしてたら負けるのがわかっちゃうからい くさはデケンよ」みたいな、やってもダメだとわかってしまっていたのにあえてやってしまった神経はどこから来るのか。こういった神経の持ち主がいなければ 戦争は起きなかったのではないか?しかし、全てを反省したはずの今でも、観念だけで物事を引っ張って他人を引きずり込もうとする者たちが相変わらず幅を利 かせているのはなぜなのか。そのままにしていいものなのか。

英米への反感と日本人のプライドという、漠然としたイメージ を判断基準に勝利の予想を断定され、はじめられた戦争に巻き込まれ、それらイメージによる断定で死ぬ目にあった氏の、言葉面の響きのよいのイメージだけで 全てを決定させようとする危険で迷惑な行動規範を持つものへの怒りがにじみます。

綴られる戦中と降伏後の飢餓による人間の行動の描写はすさまじく、ここを読むだけで彼らになんと言われようと飽食したいまの戦後に生まれてよかったと思わせて貰えます。そして、その地獄をこうして書き残せる人が生き延びることができたということに感謝します。

私の中の日本軍 文春文庫(上・下巻、文庫、背:白、タイトル:黒い明朝体)

山本七平ライブラリー2(A5、背:クリーム、タイトル:黒い明朝体)

戦場体験をしたものから見て、明らかに創作である戦場記が「事実」として発表され、事実として受け止められてしまい、しかもその創作をもとに現実の人間が断罪されてしまうという危機感から書かれた本。

陸軍、戦場、収容所の生活とそこから作りだされる心理状態と興奮状態の軍と興奮状態の銃後との媚びあい。それらが生み出す現象を、今現在の出来事に照らして綴ります。

日本陸軍を動かしてきた精神的「力」(あるいは空気)と、それに迎合したマスコミとに代表される、この日本人の悪しき本質は結局敗戦を挟んで生き残ってしまった。

「女性は常に戦争に反対であったなどという神話は、私には通じない。戦争をその心底において本当に嫌悪しているのは戦場に連れて行かれる兵士であって、絶対に戦場にやられる気遣いのない人々ではない。

 そしてあらゆる問題の解決において、最も有害な存在は、無責任な応援団であろう。」

「戦 争体験を忘れるな」の「忘れない」とは、なにを指して忘れないようにしなくてはいけないのか。戦争の原因、戦争を始め、つづけるために人々の目を覆い、欺 き、狂わせてきたことどもの本質を見つけ、教訓として忘れるなということではないのか。感傷的に戦争のイメージだけを忘れるなということでは過ちは繰り返 されるであろうという危機感はもっともで、感傷と摩擦から逃れるためだけの懺悔に安易に走ったのでは意味がなく(しかも、我々に懺悔を強いる人間は、その 懺悔は自分の罪ではないと思っているところが始末が悪い)、そのうちにその懺悔に対する感傷的反感から反動が来てベクトルが裏返るだけで覆い隠された原因 の解消にはならず、結局教訓は生かされないでしょう。

虚報で見殺し・・・新聞のインタビューには気をつけましょうね。寂しくてもインタビュアーのおだてに調子に乗ってはいけません。マスコミは真実より面子と利益が優先ですからウソもウソとはめったに認めません。認めてもコッソリと認めたことがわからないように認めます。

ところで、この本、ジャングルの飢餓生活と死体描写と虫の描写が読んでいてトローマになりそうで、初めて読んだあと、しばらくは食べ物がそばにないと不安な気持ちになってしまうくらい臨在感の強いものでした。

戦場で氏の持っていたピストルはコルトのM1917らしい。

一下級将校の見た帝国陸軍 文春文庫(文庫、背:白、タイトル:黒い明朝体)

山本七平ライブラリー7「ある異常体験者の偏見」所収(A5、背:クリーム、タイトル:黒い明朝体)

朝日新聞社(単行本)

記 録フィルムでも有名な「学徒出陣」から、「欠、欠、欠」、砲兵の日常、病室、予備士官、18年8月になってやっと始まったジャングルを想定した対米戦闘教 育〔ただし中味は誰も知らない)、輸送船、バシー海峡、フィリピン、アジアなんてない、「差」、ゲリラ、野砲、色、重砲、「グンバァ?」、馬、「思考停 止」、決心変更、古狸、狂う、「片づける」、員数、『今、目前にある小さな「仲間うちの摩擦」を避ける』、気魄という演技、味方を出し抜く技、軍票、分 哨、戦場、死体、戦友、タテマエ、使わず了いの観測所、砲の破壊/放棄、屈辱の座と自決、射線から直角に身を外す、「観測機にきこえる」、マラリア、食い ぶち、『「メン」「コテ」「ドウ」』、山砲弾の分解、「犠牲となって生きる」指示、八人の目、飢餓の中の人間、降伏、アメリカ人、ワイ歌、時計、俘虜生 活、ゲイジュツ、秩序と暴力と自治、苦悩のない閣下たち、環境が変わると消せる過去、画家と「絵空事」、出家ってなに?、戦犯、米英人捕虜の行き方、言葉 を奪う、統帥権、戦費、武藤章と「死の支配力」、組織の名誉のために罪を肩代わりせよ、ハーフトラックの燃費、ガソリン二重取り、神頼み、宇都宮参謀長の 救いの言葉と、氏の帝国陸軍体験をスケッチしつつ考察する、たぶん、氏の中でもこうした体験に一区切りを付けようと思った体験記。読んでると非常にせつな い。

我が陸軍の首脳が、優秀なはずの首脳が、アメリカにたいして持っていた知識は全て彼らの頭の中でつくりあげた「虚構」で、その 虚構が虚構であったとわかっても、自分に都合の悪い情報は存在してはいけないことになっていると規定してしまっているがゆえに虚構しか見えないフリで通す しかなくなっている。そしてその物の見方は軍人に限らず今も日本言論界では主流であるという怒り。〔これは、自衛隊に反対する人々が自衛隊という言葉だけ 否定することに熱心でその内容と本質にはまったく無関心であるということとかにも現れています)怒りだらけです。

なかで も「空気の研究」にもでてくる発令者の心理的転回、『今の今まで「絶対やってはならん」と言いつづけ教えつづけ主張しつづけたことを、なぜ、不意に一転し て「やれ」といえるのか』の原点はここからはじまっています。『「砲兵は測地に基づく統一使用で集中的に活用しなければ無力である」と口がすっぱくなるほ ど言っておいて、なぜ、観測器材を失い、砲弾をろくに持てぬ砲兵に、人力曳行で三百キロの転進を命じたのか。地獄の行進に耐え抜いて現地に到達したとて 「無力」ではないか。無力と自ら断言した、無力にきまっているそのことを、なぜ、やらせた。』。氏の本でここまで怒っている文章はちょっとめずらしく、砲 兵なのに砲兵らしくない死を遂げねばならなかった戦友たちのことを思って突き上げてきてしまったのでしょう。今まで冷静に第三者みたいにつづいてきた文章 がいきなり人間らしくなってこの本ではいちばん印象に残りました。

また、この本に出てくる「私物命令」というものを良く考えると、「従軍慰安婦」問題の責任者というものも世間で信じられているようなところにはいないということが見えてくると思います。

日本はなぜ敗れるのか 角川oneテーマ21(新書、背:紺、タイトル:白抜き明朝体) 時 間とともに形を変えてしまう記憶。回想では当時のリアルな感情は再現できていない。そういう意味で貴重なフィリピンの戦中戦後を綴った「読者前提(やらせ や媚び)ではない」記録である小松真一氏の「虜人日記」(今ちくま文庫で読めます)に注目、自身の体験とともに小松氏の挙げた「日本が負けた原因二十一 箇」を、解説します。意外な指摘がおもしろい。

比島で砂糖キビから石油を作るからお国のためにいってくれといわれて研究も仕事も投げ出して現地に行ってみればどこにも施設も 資材もな〜んにもない。砂糖だけで作れるわけもないのに砂糖しかない。思いつきで誰かが言った言葉だけがあったわけで、それに怒って帰ろうとすると(怒る ところが小松氏の正直なところで、好感が持てます)、呼んだ以上手ぶらで返しては世間体が悪いからカラ出張しててくれ、仕事はなくても給料は出るし、いい だろうと留め置かれ、あたら優秀な技術者が敗戦までの時間を空費するというこの不条理は、だれに責任があるのか、だれにも責任はなかったのはなぜなの か、っていうか、反省とかいっても声だけで、反省とかいうひと自体が声だけで、お役所とか政治家とかまったく直ってなさそう。

2) イザヤ・ベンダサン(Iswah Ben Dasan):1970年、反安保敗北色のシラケムードのなか、ソ連中共の息のかかった少数派左傾文化人の声だけ大きく響くプチ文革状態の日本に突然現れ た謎の日本通ユダヤ人ベンダサン。そのデビュー作「日本人とユダヤ人」は口コミで広まって自称文化人たちの反感とは裏腹にベストセラーに。そして、「ベン ダサンとは何者?」という話題が一時盛り上がったみたいです。ブームに乗らないのが信条のウチの父親も山本七平の話題になると、「ベンダサンなんだろ?」 ということだけ知ってました。

外国人という部外者の目を通した日本という文化の分析という思索の冒険をするときに、そのための 人格を立てて、そのためのペンネームを用意するといういわば「遊び」をユーモアのない人たちはそこだけを目くじら立てて追及したりしますが、これがいけな いことならばボルヘスやレム、ノーマン・スピンラッドも否定されてしまう。

あるいは、氏の学んだ論語の「子曰く、人能く道を弘む。道人を弘むるに非ざるなり」(衛霊公第十五407:「論語の読み方」より)を守ろうとしたのかもしれません。いずれにせよ、火事で全てを失った山本書店はベンダサンに救われました。

尊敬する会社の先輩が、「人間、認めたくないホントのこといわれるとマジ怒るよね」といってましたが、反ベンダサンの方々もまさしくそういうことなのでしょう。

文 体を見れば翻訳文では出てこないような言い回しがたくさんあるし、部外者なのにときおり日本人としての怒りがのぞいたりと、日本のネイティブが書いてるの は自明ですが、これはそういう問題ではなく、ゴルゴ13のように自分を第三者の目で見つめ、分析するという試みであることに意味があるわけです。正直、読 んでて指摘がぼくに図星で痛かったりするんですが。

日本人とユダヤ人 山本書店(不明)角川文庫(文庫、背:クリーム(ソフィア文庫)orピンクor白 、タイトル:黒い明朝体)

角川文庫(文庫、背:茶 、タイトル:白抜きの明朝体)

角川oneテーマ21(新書、背:紺、タイトル:白抜き明朝体)

山本七平ライブラリー13(A5、背:クリーム、タイトル:黒い明朝体)

「身の安全を考えれば、」「自分の精神を黒幕でつつみ、そこに大きくカトリック教徒と書いて生きているわけである。」。内なるゲットーに自分の精神を押し込めて、隠れユダヤ人として非ユダヤ社会で生きてきた一族の末のイザヤ・ベンダサンが見た日本。

ユ ダヤ人であることを隠さなければ常に死の危険を伴う迫害を受けるのでゲットーにこもらねばならず、ゲットーから出て暮らすのであれば今度は「隠れ」になら ねばならない、いろんな意味で「砂漠」の民族からすれば、日本には常に自由があってうらやましいというところから書き始めて、名文句「日本人は、安全と水 は無料で手に入ると思い込んでいる」を通して読者の心を掴み、その他「お坊ちゃん」日本人と「ハダカでハイウエイに置き去りにされた」ユダヤ人のいろいろ な物ごとについての行き方を、どちらを否定するでもなくいろいろなうんちくをはさみ比較してみせます。

他と違うことが良 いことなのか悪いことなのか、日本を、また逆に外国の行き方を教条的に絶対視せず、ものごとそれぞれについて冷静に観察し、そのことの成り立ちを見据えた うえでその物ごとについての行き方を決めたら良いということでしょう。最悪なのはその事ごとに(空気を読んで)ムリに迎合する姿勢ということでしょう。

角川oneテ−マ21版では著者が「山本七平」に開き直っちゃってますが、これはよくない。「ユダヤ人(第三者)が見た日本」というテーマが消えてしまいます。わかっていても著者はベンダサンとすべきでした。

日本人と中国人 祥伝社NON SELECT(新書変形、背:白 、タイトル:黒い明朝体)

山本七平ライブラリー13「日本人とユダヤ人」所収(A5、背:クリーム、タイトル:黒い明朝体)

日本人のよその文化の捉えかたを鋭く突いた本。

日 本人の来方というものは、古来輸入した中国の思想を「中国」という日本人の頭で思い入れで改変、創作し、観念として現実の中国には関係なく規定し、権威と して絶対化、それに服従してきたという図式で全て解説できるとしています。改変しているのに「中国では〜であるので習わねばならない」と権威づけるので、 実際の中国に出会うと「それは本当の中国ではない!修正してやる!」として現実を妄想に合わせようとするか、「わたくしが間違ってたので今までを全部否定 します反省しろ!」のいずれかの逆ギレ状態になるという指摘は興味深い。(まるで、好きな女性がいて、その人の性格を妄想で作り上げて、ますます好きに なって、でもいざつきあってみたら実像がぜんぜん違うので怒って暴力を奮ったり、逆に冷めて大嫌いになって忘れようとしてしまう人のようにです。)「中 国」を「天皇」に置き換えてもそれは通用すると。

この図式で歴代幕府の来方や尊王思想、明治維新を解明してゆくと、けっこうピッタリ来ておもしろい。

日 本人が外国の文化をうけとるとき、なぜかそれを自分の考えの結果だと錯覚して考え無しにマネてしまうと同時に古いいままでのノウハウは断ち切ってしまう。 結果、なんでこの来方なのか誰も覚えていない。なんでその失敗があったか誰もわからない。それではだめで、その、受け取るものがどこから、なぜこうしてい るのかを見極めて受け入れないといけないと。われわれの今の行動は、なんのためにやっているのか自覚しなければいけないということでしょうか。

日本教徒 山本七平ライブラリー13(A5、背:クリーム、タイトル:黒い明朝体)
にっぽんの商人 山本七平ライブラリー13「日本教徒」所収(A5、背:クリーム、タイトル:黒い明朝体)
日本教について 文芸春秋(単行本

文春文庫(文庫、背:白、タイトル:黒い明朝体)


3)聖書:氏はクリス チャンでありますが、聖書というものも一歩引いた目でその来方をたどる試みに興味をもっています。これを聖書学というそうですが、このテーマに関係のある 海外の著作を日本に紹介するという事業もされていて、これはすばらしいことです。一部では有名な「死海文書」の研究書も紹介してたり。

山本七平の旧約聖書物語 徳間文庫(文庫、

ビジネス社(上・下、ノベルズ、背:白、タイトル:黒い明朝体


聖書の常識 講談社(単行本)

講談社文庫(文庫、背:赤みの砂色/上部は白、タイトル:黒の明朝体)

山本七平ライブラリー15(A5、背:クリーム、タイトル:黒い明朝体)

山本七平が冷めた言葉で解説する聖書の、本としての歴史とか言葉とか成り立ちとかのあれこれ。

創世記の、人間のできる順番の記述が2回あって、「最初のは六日目の最後につくった」で次のは「最初に人間の男をつくった」という矛盾のわけとか、「」言者ではなくて「」 言者だ、とか、唯一神は自分を複数形で語る、とか、聖書と考古学(これがいちばんエキサイティング)と考証とか、「全能」の意識の解釈だとか、子供向けの 「聖書物語」しか読んだことがないぼくにはけっこう新鮮でおもしろかったです。まあ、知識をひとりの解説だけにたよるのは危険なことなのだろうけれど、他 のひとのはなんかつまんないんですよね。

聖書の常識

聖書の真実

講談社+α文庫(文庫、背:上=白・下=水色、タイトル:ゴシック体) 「聖書の常識」に漫画がつきました。ちょっと加筆されてるらしい。というより文庫化に当たってシェイプアップされたみたい。

比較した、単行本版を収録したと思われる「山本七平ライブラリー」版まえがきに「文庫版」てあるのはなんでだろう・・・ライブラリー版には図版が豊富。文庫版は必要最低限。

聖書の旅 山本七平ライブラリー15「聖書の常識」所収(A5、背:クリーム、タイトル:黒い明朝体)

文春文庫(文庫、背:白、タイトル:黒い明朝体)

文芸春秋(単行本、黒っぽい表紙から回り込んだ夕暮れの写真の背、白抜き明朝体)

山本七平が、1980年代の、旧約聖書に出てくる地に実際にたち、聖書の歴史と聖書に出てくる歴史を解説しながらする紀行。淡々と、しかし思い入れをもって、でも決して過剰に押しつけがましくなく聖書の地を語ります。まったりと。

「パパ、ダビデはユダヤ人じゃないってホント?」などというイスラエル人の子供の質問とかが楽しい。

図解や挿し絵も多いです。

山本七平と行く聖書の旅 山本書店(単行本、背:薄いオレンジ) 氏がさまざまなところに寄稿した聖書の地についてや聖書の土地の案内のエッセイ集。まことに楽しそうに、活き活きと語られます。

そ のなかの、「いわば自分の未来を自らの手で断つことによって現在の自分だけがまだ当分生きのびうるならそれを選ぶ。死の恐怖の支配に人が屈し、その圧制に 膝を屈したとき人がその状態に陥ることは、不思議でもなければ珍しくもない。」という冒頭の「自由」とシナイのモーセについてのエッセイの一節は、地獄を 見た人が書いたと思って読むと凄みがあります。ちなみに、この「自由」はたぶん一般の認識の、ぼくたちが学校で教わった「自由」とは少々異なってると思い ます。これが山本七平の魅力なのです。怒られるかもしれませんが、「O嬢の物語」(ポーリーヌ・レアージュ作)の冒頭にジャン・ポーランが寄せた「奴隷状 態における幸福」という一文も併せて読んでみてください。奴隷と自由というものの認識が、「トム爺の小屋」のような単純明快なものではないということがわ かるでしょう。

禁忌の聖書学 新潮文庫(文庫、背:白、タイトル:黒い明朝体)

新潮社(不明)

紀 元73年、ローマ軍に攻められ、ヨタパタの町の洞穴に立てこもった狂信的ユダヤ戦士達はローマへの降伏を潔しとせず、降伏を提案して殺されそうになった指 揮官ヨセフスの提案で、くじでお互いを殺し合うということをし、ヨセフスともうひとりが残ったところで彼はもうひとりに降伏することを説得し、二人は生き 延びます。彼は敵将ウェスパシアヌスが皇帝になると予言し気に入られ、ウェスパシアヌスがネロのあとを襲って本当にローマ皇帝になるという幸運に助けら れ、フラフィウス・ヨセフスとしてユダヤの歴史をローマで綴ることになります。裏切り者が残ったおかげで歴史も残ったという皮肉と、智慧で生き抜いたヨセ フスという人物についてのおもしろさをいろいろな歴史上のエピソードを交え語った冒頭の「裏切者ヨセフスの役割」をはじめ、われわれ一般人があんまり知ら なかったり常識だと思っていたことがちょっと違ったりという話をなめらかに語る聖書のエッセイ集。

山本七平最後の著作ということになっています。

ぼくはこの本の「ヨブ記」の解説がとっても気 に入ってます。信心をして、正しく生きれば必ず報われるというならば、報われないものは不信心で正しくないことになってしまう、物ごとに負けたことが必ず 罪になってしまうという解説は、思わずハッとします。報いられるために正しく生きるのではないのだから。そして、「断ち切られたよう」な終りであるべきと いう氏の結びにホッとします。

絶対である神に、問いかけることはつねに許されてるという聖書の人物達の世界は、非常におもしろい。

最後につけくわえられるはずだった「復活」についての章を読んでみたかったです。

山本家のイエス伝 山本書店(単行本、背:薄いオレンジ)



講談社+α文庫(文庫、背:上=白・下=水色、タイトル:ゴシック体) 「山本家のイエス伝」を改題、文庫化。

4)智慧者たち:生きてゆくために編まれる思索は聖書の専売特許ではありません。

知恵者が知恵者を解説。おもしろいのです。

論語の読み方 山本七平ライブラリー10(A5、背:クリーム、タイトル:黒い明朝体)

NON BOOK(ノベルズ、

孔子の言行録であり、東洋の道徳の書である「論語」を孔子とその弟子達の一生とともにやさしく平易な言葉で解説した「入門のための入門」書。日本の儒者や 論語批判者が曲解してひろめた句の正しい意味とかにふれていておもしろい。さらに孔子がどんな人だったかとか弟子にどんな人たちがいたかとかも紹介されて て、どんどん読めます。

よく、「戦前は良かった、貧しくてもみんな正直で助け合ってた」というような回顧をされるかたの意見を目にしますが、この本を読むと、戦前が「良かった」理由の忘れ去られた一つがこの「論語」の教育のおかげであったということが言えそうです。

氏は幼いころに父親から論語を読まされたそうで、聖書と論語が、氏の全てを見つめる規範になっていると言っているのは興味深い。

法 律は社会の規範ではなく、論語とか聖書といった道徳を共通の規範としてみなが持つことで人々の対話と生活の安全というものが成り立つのだという氏の意見 は、「古いものは封建的で時代遅れ、民主主義的でない」という感情的なイメージだけの(内面にたぶん権威への反感--俺様の方が立派だと思いたい--と勉 強したくない気持ちが隠れている)主張よりも合理的にきこえますし、大切なことであると思えます。2004年のアメリカの大統領選挙でキリスト教的道徳を 掲げたブッシュ氏が国民に支持されて勝利したのもこの本を読むとなんとなくうなづけるような気がします。(アメリカとかの「開明的な」知識人や反米文化人 達が反感をもって言うような、ただ保守的で十字軍的な強いアメリカを求める風潮ということだけではないと思います。もっと生活に基づいた切実なポイントを 突いたという・・・)

また、次の一節、

『「子曰く、譬えば山をつくるが如し。未だ一簣を成さざるも、止むはわが止むなり。譬えば地を平らかにするが如し。一簣を覆すといえども、進むはわが往くなり」(子罕第九224)

  それを知っているのが君子だ。「孔子は言う、君子は何事も自らの責任とするが、小人は何事も他人の責任とする」「子曰く、君子は諸を己に求む。小人は諸を 人に求む」(衛霊公第十五399)と。「意思」の放棄は「社会が悪いから」ではなく、「止むはわが止む」なのである。』

 にはもっともだと感心し、そうでなければなあと痛感しました。もうぼくの人生いまさら取り返しつかなそうだけど。

おしまいに論語の参考書が多く挙げられているのも探してみようという気持ちにさせます。

ちなみに、ぼくはこの本でたくさん引用されてる中島敦の「弟子」という小説がとっても好き。子路という弟子が、すごく活き活きと描かれています。小説といっても、中島敦は文体は美しいし、その辺の半端な学者よりも漢籍に深いらしいのであなどれませんよ。

「孫子」の読み方 日経ビジネス人文庫(文庫、背:白に黄緑の帯、タイトル黒いゴシック体) 古典「孫子」を戦国や先の戦争や80年代の経済界の例を引いてわかりやすく解説。

孫子をそらんじていても実際の生活に応用できなければお話にならないわけで、この本ではその学問と実践のちがいの解説も非常に興味深いです。

戦争とは結局は敵も味方も他人であり、他人である人を読み動かして戦うものであり、「部下に対して、超人的な自発的努力や能力の発揮、さらに度はずれた勤勉さえ要求していないし、そんなことはあてに も」せず、「いわば部下が全部“新人類”であっても、必ず目的を達しうる」という孫子の見方行き方はアメリカのマニュアル的であります。今の日本はアメリ カのマニュアル式をバカにしがちですが、その来方は悪くいうと個人に投げっぱなしで、個人の能力頼りなので任せる人によって成果が違い、先が読めない。し かも責任を問いにくい。うまくいってればいいけれど、一旦おかしくなると原因を突き止めにくい。また、自分とは行き方が違う新人を「使えない」とかいって いじめたり干したりしがちなのはよくないことだと思います。あなたは投げ出されて一人でできた天才かもしれないけれど、新人全員があなたと同じ天才という わけではない。

また、兵法といいながらちゃんと経済観念も備えているところが孫子のすばらしいところです。兵隊の招集は 一銭五厘のハガキ代ではすまないという感覚。昭和の日本軍人官僚には完璧に欠けている感覚です。彼らは金がたりない分は面子で覆って、覆いきれない分はぶ ん殴って怒鳴って補えると思っていたようですから。

そして今の政治家や官僚にも金銭感覚の欠如=他人の金はオレの金だし特権だから使わないと損=という醜悪な伝統は生き残ってるので、それを滅ぼすためにぜひ彼らにも「孫子」を読んでほしいものです。

巻 末の守屋淳氏の解説は、この本を日本陸軍だけに当てはめていますが、現場(現実)を無視した実行不可能な(夢のような)命令(見方)とその強制(偏向)に たいして実態とかけ離れたお追従をして媚びるという図式は今の日本にも生き残っていて、企業のおかしくなる原因や、偏向・捏造報道、政治家や文化人の言動 に見ることができます。(あと、プラモ作る人のための実物の考証とかにもたまに見れるかな?自説を強化する為だけにでっちあげるムリくりな考証ね。都合の いいときだけ現存する実物が、証言が、といっておいて、都合が悪いと経年変化や年寄の記憶違い、「今日の常識でありえない」とかはては個人の性格への誹謗 中傷攻撃で片づけようとする・・・)

えらそうに書いてみましたが、ぼくが「兵は拙速を尊ぶ」の意味、取り違えてたのは内緒です。

乱世の帝王学  〜山本七平の武田信玄 徳間文庫(文庫、背:濃い赤灰色、タイトル:白抜きの明朝体)






小林秀雄の流儀 新潮文庫〔文庫、背:暗緑色、タイトル:白抜きの明朝体)

PHP文庫(文庫、背:黄緑の上下に白帯、タイトル:黒い明朝体

超一流の生活者、小林秀雄の、その生活の秘伝にあこがれ、盗みとることを試みた山本七平の小林秀雄の読み方。いつもちょっと冷ややかな文章が特徴の氏には珍しく、文章に恋人を語るかのような若々しい微熱を感じとれておもしろい。

こ の本を紹介する文は、どれもきまって、「人がもし、自分に関心のあることにしか目を向けず、言いたいことしか言わず、書きたいことだけを書いて現実に生活 していけたら、それはもっとも贅沢な生活だ。」ということばを組み込んでいますが、実際この、超一流の生活に憧れたことばなしで語るのはむつかしいです。

と ころで、内容についてですが、この本を読む前に最低でも小林秀雄「様々な意匠」「ドストエフスキイの生活」「悪霊について」「本居宣長」、ドストエフス キー「罪と罰」「悪霊」を読んで「知ってる前提」にしておかないと非常に理解しづらいかも。っていうか、前掲の本を全部読んだらもう一回読んでみるつも り。でも小林秀雄の本はさらにそれを理解するために別の本を読んで、と迷路に踏み込めそうな予感。

小林秀雄って、着目と指摘は凄いものがあると感じさせてくれるのに、すっげー文章わかりづらい・・・三回くらい読み返さないとわかんない・・・ぼくだけ?はずかしい・・・

新 潮45+の小林秀雄記念号への執筆依頼を受けたときに、今まで「小」も「林」も、「秀」も「雄」も文章に書いた覚えがなかったのになんで?というちょっと 嬉しそうなしかも熱い気持ちのちらっと見える文章が冒頭にあるのですが、これはもう、「本居宣長(もとをりのりなが)」のおかげに違いありません。それを 感じ取っていた新潮の人は凄いと思い、ぼくはこの着目を読んでいってみたい気がした。

帝王学 ―「貞観政要」の読み方 文春文庫(文庫、背:白、タイトル:黒い明朝体)

山本七平ライブラリー3(A5、背:クリーム、タイトル:黒い明朝体)

日本経済新聞社(単行本、背:朱色、タイトル黒い明朝体)

日経ビジネス人文庫(文庫、背:白に黄緑の帯、タイトル黒いゴシック体)

放漫経営で破綻した隋帝国のあとを受けて、「貞観の治」といわれる模範的な統治を行なった唐帝国二代目皇帝大宗が、繁栄を維持するためにどのようなことをしたか、その智慧「貞観政要」の、ためになるところを紹介してくれる本。

あ る「繁栄」を築き、それに伴う権力を手にしたとき、それを維持するというテクニックが必要になってきます。ここでいう「繁栄」とは、帝国であってもいい し、会社であってもいいし、その成功した一事業部でもいいし、文化でもいいし、ある研究の権威でもいい。帝国なら皇帝、会社なら社長会長を始めとした幹 部、事業部なら社員、文化なら国民、研究の権威ならその研究者にその繁栄により得た権力が発生し、その繁栄の維持の責任が求められます。権力を持つもの、 それは帝王。そして権力にはさまざまな錯覚(陥穽)もついてくるのです。

民主主義社会では我々国民が等しく帝王の座にあり、この帝王にはネロやカリギュラのような暴君が死でつぐなさわれた個人としての責任の所在がなく、ネロやカリギュラの死のような自業自得の破滅は即ち文化の破産であるという指摘はすばらしい。

帝 王のまわりには諌言するものと阿諛追従するものが存在し、民衆という帝王にはマスコミという阿諛追従者がつきまとい耳に心地いい追従をするという指摘は、 バブル経済の際のバブル経営者(その多くが今は破綻しています)を「平成の坂本龍馬のようだ」とか煽て(いい気にさせ)たインタビューや、「世界をリード するハイテク日本経済」などという見出し、「これからはマルチメディア」と銘打って実質パソコンで映画が見れるだけ、とか、ITバブルのときの「ドットコ ムつければ儲かる」とか、「ゆとり教育」とかの良く考えればそんなうまい話はねえよみたいなマスコミの「ブームの創作」行動によく現れていると思います。 更に阿諛追従(イエスマン)はもっと直接的に身を滅ぼすワナを持っています。巨大企業グループ会長の違法行為による逮捕とか、食品会社の生産現場の権力に よる手抜き作業見逃しから来た大量食中毒発生事件(これは現場に管理職が阿諛追従したためですね)とか。そして諌言(やりたくない、とか、めんどくさいと いった後ろ向き疑似諌言系はもちろん除いて)は無視される。カネや手柄にならないし。その危険な阿諛追従を見抜き、諌言を我が事として活かす知恵。その他 権力を持つことで陥りがちな誘惑や初心の欠如してくることの危険などを紹介。出版人としての同業者の失敗などを例にしてるのも親しみやすいです。

常に自省し、さらに「諌議大夫」とよばれる諌め役を専門に設けてまで自らを客観的に見ようという大宗の態度は、まさに帝王であります。

社 会の先生が「煬帝の悪事」みたいに言っていた大運河の建設は経済で考えればうなづけるし、工事はゼロから全部掘ったわけでなくて離れたとこの運河同士をつ なぐだけだったという指摘や、随から唐になるのに煬帝と李淵は別に敵対関係ではなかったらしいことなど、ぼく知りませんでした。はずかし。

渋沢栄一の思想と行動 近代の創造 PHP

5)日本文化の来かた: 日本はなぜ1945年に破滅したのか。行く手は破滅と知りながら踏みとどまれなかったのはなぜか。さらに、戦後日本を破滅させたと同じ思考回路を持つヒス テリックな人々が、ベクトルだけ変えてあいかわらず影響力を持ちえるのはなぜなのか。日本人の思考の由来を、否定ではなく、ついきあいかたとして考察する 一連の書物。でもたまに怒りが隠せてないけど。

「日本人とユダヤ人」でイザヤ・ベンダサンが指摘した日本人の政治上の「天才的」一大発明、「朝廷、幕府併存」というシステムを軸に来た、日本の今にいたる政治体制を考察してゆきます。

上の「智慧者たち」のコーナーの本も合わせ読むと非常におもしろいです。

「空気」の研究 文春文庫(文庫、背:白、タイトル:黒い明朝体)

山本七平ライブラリー1(A5、背:クリーム、タイトル:黒い明朝体)

「空気読め!」の「空気」ってどんな空気?というテーマで考えてゆく本。ぼくの頭にはちょっとむつかしいけどおもしろい本。

「空 気」の対象の言葉が「論理・データ」。人が物事を判断するときに、このどちらかによると思われるのですが、「論理・データ」によって決定すると「あの人は 冷たい」、「人情がない」などと周囲の空気が冷たくなりがちです。それは堪え難い。でも、時として、いい人でありたいと「空気」による判断に従うとひどい 結果がまっています。でもその時は、「空気がそうだったから仕方ない」で済んでしまう。そのことで被害者がでたとしても、責任者はだれだかわからない。 「空気」なんだから。こういう文化は鎖国して泰平の徳川時代以降培われてきたみたいで、これを突き詰めてゆくのが氏の著作のひとつのテーマであります。

あ る物事に感情移入して、高ぶってゆき、しかしそれを自覚せずしかも疑うことをしないと、判断はその事物に関係のない独りよがりのものになってしまうけれど それをわからない、わかってても水をかけると仲間との間に「あいつは空気読めない」とか「憶病」とか「つめたい」とかいわれて村八分にされるのが怖くて抜 け出せない状態になってしまう。たとえば、自分が世界一不幸だと思ってる人同士が数人集って慰めあってるうちにますます悲しくなってきて「いっしょに死の う」と言い出して実行しちゃう感じ?ここで、ひとりが自殺は意味のないことで後始末とかで経費がかかるしみんなが迷惑するから思いとどまるよう言っても、 「あなたはわたしたちの仲間じゃないの?!心がわからないの?(ジロリ)」で会話がおわってしまう感じ?そして、この空気で内心死にたくないひともいやと いえなくなる。ここでむつかしいのはどちら側にも空気が存在しうるらしいということで、空気の強いほう(この場合は「死のう」側)へ決断は向くということ でしょうか。いわば感情の多数決。日本では空気(感情)が条約(信義)より強い場合があります。フランス革命とかカウラ捕虜収容所の暴動とかその他「やっ ちまえ」式の暴動やチャールズマンソン事件とかのカルト犯罪はこれのいちばん極端かつ最悪な例でしょう。

あまり良いこと ではないと思うので、みんなが各自ちょっと冷静になって、ひと呼吸置いて考えてみてから決断するように心がけると良いのかなと荒れてる掲示板とか感傷的に 国際関係を報道するテレビ番組とかを見かけると思うのでした。それには常日ごろ感情と別にそういう観察を心がけないといけないのかなと。

偶像崇拝を禁止する宗教の禁止の理由に、この一歩間違うと破滅をさそう「空気」による決定をできるだけ排除するためということがあるというのは興味深い。イギリス人が冷たいとか、アイリッシュは温かいということも関係あるのかな?

たぶん、この本を読む前に、「日本型リーダーの条件」(↓)とか「日本人と中国人」(ベンダサン)とか読んでおくともっとわかりやすいかも。

「水=通常性」の研究 文春文庫『「空気」の研究』所収(文庫、背:白、タイトル:黒い明朝体)

山本七平ライブラリー1「空気の研究」所収(A5、背:クリーム、タイトル:黒い明朝体)

「ガ ンダムってリアルなロボだよね!」って夢見てるひとに、「あんなにでかかったら目立つし、アレじゃ今のアメリカ軍の砲兵火力でも敵を見ないうちに片づけら れる。」とか言っていやな顔をされる。ひとが夢見て盛り上がってるときに、その空気に「水を差す」。この「水」ってなに?というテーマの本。書かれた当時 の事例が興味深いです。で、「空気」の研究よりややっこしい。

「水」にも方向というものがあって、冷徹な真理の冷水と文化の水(=書中では酵素:以下酵素)というものがあるということでしょうか。

冷徹なほうはもう、物理的な真実です。「宝くじ買った!当たったらでっかい家を買うんだ!」「当たる確率は・・・0.000〜%。まず無理だね。いくら使った?」「・・・しょぼん」て感じ。

酵 素の方は、これが複雑で、ここで注がれる水は、かなり「空気」っぽい気がします。たとえば外国の童話が輸入されて、日本語に翻訳される際に「これはこのま まじゃ日本で売れない」と分かりにくい向こうのお化けは日本のものに、残酷な過程はなんとなくソフトに変えて、結末はハッピーエンドにしてしまい、それを 元に人気の日本人童話作家がもっとウケるようにリライトする、そしてそれがその童話の完訳と信じられてしまう、しかしもうそれは原作とは別の「類似の」作 品になってしまっていて、原作者のメッセージは消えてしまっている、みたいなニュアンスでしょうか。商売では正しいけど一種の文化的鎖国状態。

二 つの「水」の間には基準を絶対的な値でとるか、人情でとるかという違いがあるでしょう。我々日本人はどんな物事も人情という基準で(会社の経営から国際関 係とかまで!「会社の伝統と格がこの行き方を許さないのでカネはなくてもたとえ銭ドブでも借りてでも使え」とか、「世間ではリストラがはやりだからとにか くリストラしとけ」、とか、「雄大なイメージがあるので中国となかよく!」とか)判断してしまいがちですが、人情で判断していいのは子供向け童話くらいな ものではないのかなと思いました。山一証券と日産自動車の違い?かたや格に固執してどうにもならなくなって全員失業、退職金も出るかどうかで社長が泣いて みせて、かたや周りに「冷たい」「鬼」とか言われながらも冷静に処理し、会社は残って退職金は出た、みたいな違い。

人情 は無謬ではないのに、人情を無謬として基準にするという日本ならではの行き方に警告を発する書。空気に、これまた空気が前提の水をどう差してゆけばいいの か、これが戦後あつものに懲りて個々人に共通の規範を持つことを放棄した我々日本人の背負った課題だということでしょうか。

日本的根本主義(ファンダメンタリズム)について 文春文庫『「空気」の研究』所収(文庫、背:白、タイトル:黒い明朝体)

山本七平ライブラリー1「空気の研究」所収(A5、背:クリーム、タイトル:黒い明朝体)

「人間はサルから進化した説をしってて支持してるなら、どうして同じサルから進化した天皇を現人神と崇めることができるのかがわからない。」捕虜収容所で聞かされたアメリカ人の疑問でつかまれます。ここだけでも非常におもしろい。

し かしそのアメリカにも相反する矛盾した二つの「常識」がなんの不思議もなく一つの人格の中に収まることができているみたいに見える。これはどう染みついた のか?宗教改革からピューリタン革命までたどって、アメリカ人の(当時これからくるであろうと思われたカーター政権の)我々から見て矛盾が一杯だがしかし そうなる歴史的理由のある根本主義の考察と、我々日本人のもつ「合理的なところだけ採り入れ、その合理がどの不合理にもとづいて出てきたものかを見ないの でその不合理に出くわしたときに破綻するけれどその原因を自覚しない=合理的に見えて実は空気がそうだからという理由で採り入れてる=考えなし」という日 本流根本主義をどう克服するかという問題提起。

宗教改革がじつは保守回帰で、改革が絶対化されるとそれが保守になるという指摘はおもしろい。

なぜ一部のアメリカでは進化論を教育することの正当性が裁判にまでなったのか、根源まで掘り下げて新しいものを迎える姿勢を見せているのはどちらなのか。あるいは誰も「現人神」なんて信じてないのに口にしていたのか。などと浅く受け取ってしまったけどたぶんもっと深い。

日本人とアメリカ人 祥伝社NON SELECT(新書変形、背:白 、タイトル:黒い明朝体)

山本七平ライブラリー13「日本人とユダヤ人」所収(A5、背:クリーム、タイトル:黒い明朝体)


「空気」の思想史

――自著を語る

山本七平ライブラリー1「空気の研究」所収(A5、背:クリーム、タイトル:黒い明朝体) 『「空気」の研究』を書きながら、書いたあとに思ったことをまとめた文。理屈より感情が優先され、やってもダメなのがわかっていることに敢えて突き進むという面白いけど場合によっては迷惑な日本人の行動様式のルーツをたどります。

中国の思想を都合よく誤読することで、感情論を理屈に置き換えてきた日本の思想を紹介。そんな滅茶なことをやっても日本文明が文化破産をせずここまで来れたのはなぜなのか。

明治憲法という組織における天皇の役割が、軍人の個人個人の感情の中の天皇に優先される、そしてそれが明治憲法から見れば天皇への反逆行為であるにもかかわらず問題にならずかえってその「忠誠心」を同情されるという指摘は非常におもしろい。

そ して、空気に拘束されないための日本人らしいやり方としての徳川の世からつづく「水を差す」というやりかた。戦前の世論にマスコミが水を差してくれれば、 という意見は興味深い。確かにいわれてみれば、新聞やテレビに「水を差す」記事は少なく、「報道」というより「感想文」や「記事広告」の方があってるよう な記事は多いし、そっちが大衆に支持される傾向にあるようですね。判断を新聞にゆだねとけば楽だし。しかし変化が前提の現代に、「変化させない東照神君の 行き方」という規範のあった時代の「水を差す」やり方はそのままでは通用しないのではないかという指摘でおわっています。今なら、しがらみとか少ないイン ターネットが水を差す役割を担えるかな?いまこの時代まで山本七平氏には健在であってほしかった。

日本型リーダーの条件 講談社文庫(文庫、背:薄茶色、上に白帯、タイトル:黒い明朝体) 日本人の部下がちゃんとついてくるのはどのようなリーダーだろうかということを、律令、下克上、論語、学者などを紹介しながら日本の経済と政治のシステムをたどりつつ「権力」として解説します。

血より家名ありきで子供がないから養子に家を継がせるという考えがあるのは日本だけ、とか、「人望」や「人徳」といった定義の消滅した言葉で管理職が評価されるという指摘は興味深い。

日本的リーダーは、部下を信頼する姿勢を見せ、その能力を評価してやり、「顔を立ててやる」という伝統をうまく利用できることが求められるというのは、ああ、そうかもなあと思わされました。

さるひとに聞いたら、日本へ進出したアメリカの会社は「日本人の働かせかた」というマニュアルを作ってて、まさしく上と同じことが書いてあったそうな。戦争負けるはずだよね。

人間集団における

人望の研究

祥伝社ノン・ポシェット/黄金文庫(文庫、背:白+上に赤帯、タイトル:黒いゴシック体)
「あたりまえ」の研究 山本七平ライブラリー1「空気の研究」所収(A5、背:クリーム、タイトル:黒い明朝体)
徳川家康 山本七平ライブラリー6(A5、背:クリーム、タイトル:黒い明朝体)

プレジデント社(単行本、和紙っぽい背、タイトル:大きな黒い斜体の細明朝体)

ちくま文庫

戦国武将として無敵だったのは毛利元就だったが天下を平らげたのは徳川家康だった。では家康とはどのような人で、どのような信条で戦国の世を生きていったのかを探ってゆく本。

山本七平は、ある人物について見るとき、その人が、内面に何者にも左右されない確固とした信条を持ち、それに忠実に生きているかをまずその人への評価の第一条件にしています。

信条のある人間は共産党であろうが武藤章であろうが高評価、反対に、人気取りのためなら自分をそれに合わせてコロコロ変えるネロ帝や美濃部元東京都知事のような人間は危険視し、軽蔑しています。
そういう視点で読むのもおもしろいと思います。
昭和天皇の研究 祥伝社ノン・ポシェット/黄金文庫(文庫、背:白+上に赤帯、タイトル:黒いゴシック体)

NON BOOK(ノベルズ、

昭和天皇とはどのような人物で、その人格はどのような規範で構成され、昭和初期という流れの中でどのように行動していたのかを探る本。

維 新で成った近代日本=明治憲法を頑なに守ることが自らの使命と考え行動した人物として書かれます。憲法上の機関としての天皇という姿勢を守るわけですが、 この、機関という構造を「現人神」で覆い隠した軍部は部外者にその真実を「天皇機関説」として指摘されることを大いに嫌がったという指摘は面白い。そし て、意外にも天皇が憲法に違反するのは、2・26事件で断固鎮圧を要求したときと終戦の御聖断のとき、軍部と逆のベクトルのときだけだったという記述には 大いに驚かされました。

明治憲法というものがよく読んでみればまず内閣-議会という機関ありきであり、天皇はそれを勅す るだけの文化的な象徴であったのを、陸軍はまず2・26事件で武力で議会を乗っ取り、天皇の御親政-独裁の傀儡としての天皇-という国家を作ろうとして、 その憲法違反に激怒した天皇、ロボットでも御輿でもなく憲法に忠実な人格としての天皇に驚愕し呪詛し、やり方を変えて議会を乗っ取る方法で日本を破滅させ たという視点がすばらしい。

議会は予算を止めることで軍をコントロールできたはずであり、軍はそれを一番恐れたという指摘は興味深い。よって近衛の言い訳は言い訳にすぎず、彼には軍を止める意思はなかったと。

ワ ガママ放題の揚げ句全部放り出して亡命したドイツ皇帝ヴィルヘルム二世を皇帝の悪い見本として教育された天皇が単身マッカーサーに会いに行くというくだり は非常に尊敬をもって描かれています。「自分は全責任を負ってhangされてもいいからわが国民の生活は助けてくれ」という魂からでた、そしてマッカー サーを沈黙させた言葉は、その辺の人気取りだけ得意な政治家にはいえますまい。

裕仁天皇の昭和史 祥伝社NON SELECT(新書変形、背: 、タイトル:赤い明朝体) 「昭和天皇の研究」のタイトル替え。
宗教からの呼びかけ 山本書店(単行本、水色っぽい背、タイトル:黒フチの白い明朝体)
日本的革命の哲学 PHP文庫(文庫、背:黄緑の上下に白帯、タイトル:黒い明朝体
現人神の創作者たち 文芸春秋社(函入り/背:薄いオレンジ、タイトル:黒い明朝体、中見/背:薄い布地のオレンジ、タイトル金箔押しの明朝体)

山本七平ライブラリー12(A5、背:クリーム、タイトル:黒い明朝体)

ちくま文庫(上・下、文庫、背:クリーム、タイトル:黒い明朝体)

戦 前を支配していた尊王思想、戦後生まれのぼくにはわからない、戦前の、その得体のしれない、逆らうことのできない「呪縛」の正体とは?それは何時興り、ど のような形で戦前の「空気」に溶け込んでいったのか、また、戦後の今も、尊王思想からベクトルだけ「反戦前主義」に変わって「空気」中にあり続け、人々を 呪縛するのか。この本は、尊王思想という呪縛によって戦争に引っぱり出され、「廃人」化して戻された山本七平が、戦後二十年、ひとりでその呪縛の元を探し 続けたという探求の、最初の一段落です。だから「創作者たち」で、この後には「育成者たち」と「完成者たち」が続くはずなのですが、彼にはそれを本にする 時間も気もなかったみたいです。

徳川家が長い戦国時代を平らげて、平和な世を作ったとき、条文である法律のほかに、武士達を思想において教化し、無害化しよう という必要から目をつけられたのが戦国の前からあった朱子学で、しかしその内容を理解せずに、統治に都合のいい部分だけ見て採用したために、代を経るごと に教化という目的がねじれ曲がってゆくさまを、お留め儒者の林家や、市井の崎門学派の行き方を軸に解説します。朱子学的な「正統」を、日本をそのように改 革するのではなく(それは幕府に潰れろという=当時は首が落ちるを意味しますからね)、現状に都合よく当てはめるために、朱子学がどのように解釈されてゆ き、朱子学必須であるはずの四書五経のうちの「孟子」だけがどのように無視されてゆき、最初の目的が忘れられて、ただ天皇家の一統ということだけが大切な こととして残されてゆく、感情に沿うものだけ残され、無い分は創られてゆくという流れが、赤穂浪士事件における、儒学の原則的にはおかしくても感情的には 共感できるから正しいとされてゆく当時の評価に見ることができる日本的な血によって増幅され、次の「育成者」(=たぶん明治維新)に繋がってゆくというと ころでこの本は終わっています。

山本七平はこの後に「育成者たち」が続くといっていま すが、たぶん生きていてもこれを書く事はなかったし、その気もなかったでしょう。なぜなら、育成者たちは思想家ではなくもはや扇動家たちの物語で、それを 書くことは明治維新の立役者達の、非常にデリケートな部分を含むタブー絡みの批判になるだろうから。序に、維新のことは維新以後、明治以前のことは戦後、 きれいに消されてしまったと書いている通り、消されて(しかも美化され伝説化されて)いることを批評することは難しい。信者に向かってその神を批判するよ うなものだからです。明治維新の志士たちについて書かれた狂信的な文学などを見ると、志士への批判は命の危険さえありそうです。この本の、赤穂浪士を批判 した者が当時袋だたきにされ、命の危険さえあり、儒学に則って赤穂のヒステリー殿様と四十七士を批判した佐藤直方も皆にそっぽを向かれたという記述は、そ のことについての読者への黙示の案内のような気もします。

中国の、唯一人の皇帝が自ら 「義」に沿った統治をするのが理想で、それを正しく受け継いでゆくのが正統とする儒学のテーマは、天皇のほかに幕府や摂政や院が並び立って代理で統治する という日本のシステムに最初から外れているわけですが、徳川幕府を興した徳川家康は思想をつまびらかに知恵として残さなかったし、残したとしてもあら探し をされると面倒くさいので矛盾は無視して輸入の権威を利用したのでしょう。思想など実権者である幕府からすればその程度のものだったようです。それが世代 を重ねて、更にどうでもいいものになってゆき、なんで朱子学だったのかが忘れられて独り歩きしたときに、誰にも止められない呪縛となるのでしょう。儒学の 必要の意味の原点が忘れ去られたという点は、君臨側だったのに、自ら幕府を否定しにかかる水戸光圀に見える気がします。幕府が無くなって困るのは自分なの に。また、維新の志士たちが、天皇の元の「平等な」公論を理想としたのに、維新が成って「公約どおり」「公論」だから武士階級が廃止されたことに驚き怒り 慌てるさまにも同様の、自分たちが担いできた尊王とはなんだったのかを忘れた軽薄さが見えます。

また、儒学は中国渡りの 学問という点で、国粋的にはおもしろくないわけで、でもそれで食っているので、自我の強い学者的には万世一系という「お国自慢」をもちだして自尊心を満足 させたかったのでしょう。佐藤直方のような原則に忠実な学者は一般人にはつまらないわけで、一般ウケするハデな、自尊心を満足させてわかりやすいほうが人 気は出るわけです。

そして、これら一般の人々は、正義とか法とかに関係なく、自分が反感を抱くものを悪く言うことを好む傾向にあるようです。

野心家はその反感を正統づけるイデオロギーを見つけ出し、主張し、法を否定するなど大見えを切り、人気を取ることで人々を引きつけ、自分の権勢拡大をするのです。それは革命に繋がります。




「派閥」の研究 文春文庫(文庫、背:白、タイトル:黒い明朝体
比較文化論の試み 講談社学術文庫(文庫、背:濃い青、タイトル:白い明朝体) 「こ の世の全てはすべてをことばであらわすことができ、逆にことばで表せないものは認めることができないし危険である」という、ことばに命をはってきたセム族 (ユダヤ・アラブ)の思想が元となっている西洋文化と接するときに、ことばで表すことを諦めがちな、というか好まない我々日本人は彼らに自分たちの行き方 を語る(説明する)ことができず、結果としてそれはこちらの独りよがりの押しつけとなり、交渉などの大きな壁となってる。ことばだけではなく、善悪という 概念とか、そういった日本古来の考え方とちがった概念を、検証せずに輸入して日本的思想を強引に表面だけ西洋化を急いだというのは、これは鎖国の延長にす ぎない、それではこれから困るのないのではないかというおもしろい指摘の本。

映画「アラビアのロレンス」とかそういう目で見ると興味深い。

日本資本主義の精神

なぜ一生懸命働くのか

光文社文庫(文庫、背:くすんだオレンジ、タイトル:黒いゴシック)

PHP文庫(文庫、背:黄緑の上下に白帯、タイトル:黒い明朝体


勤勉の哲学 山本七平ライブラリー11「これからの日本人」所収(A5、背:クリーム、タイトル:黒い明朝体

PHP研究所

PHP文庫(文庫、背:黄緑の上下に白帯、タイトル:黒い明朝体

戦 乱の時代が終わり、人々の生活がやっと安定しつつあった江戸時代初期に、世の在り方について思索した元戦国武士の僧、鈴木正三がたどりついた思想と、世が 安定したときに、やはり同じように思索した商家出身の石田梅岩の思想を引きつつ、解説し、それらの思想が今の日本人の、外国人から見える「勤勉さ」に繋 がっていると語ります。そして、この、意識されざる日本独自の思想が、意識せずにその思想の通りに行動している我々の未来にどうかかわってゆくのかをそれ ぞれが考えてゆき、把握してゆくことを勧めます。いわゆる黙示ということでしょうか。

PHP版のふりがなは気まぐれで、よみづらい・・・

関ヶ原から大阪まで死線をくぐり、いくさ がなくなって暇になった命知らず共の無頼共をはじめとした、太平への移行に乗り切れない人々の戸惑いが世にあふれたのを目の当たりにしたであろう正三と、 バブル直後の浪費と虚無感からくる世の荒廃の気配のなか、自らも就職してすぐに奉公先が潰れた梅岩と、見えない行く先に正しい道を見だそうと悩んで悩みに 向かい合って考えて決着をつけ行き着く先は、ふたりとも世の中のせいにしないというところは興味深いし、共感してしまいますが、この本の指すところはそこ よりもっと深い部分にあって、感情だけで共感することへの危険に触れている点はもっとよく読まないとわからないかもしれない・・・

巻 末の猪瀬直樹氏の気合の入った解説も大変に興味深い。猪瀬氏はおしまいのほうで、山本氏が、梅岩、正三とも、彼らに、彼らの思想がその時点での一つの経過 であって、どう変わってゆくのかという認識がなく、彼らの思想は常に世が不変であるという前提でしか認識されていなかったところに限界があり、それを都合 のいい部分だけ受け継ぐということで来た現在の我々も、結局その本質を把握できていないので、いくら海外の思想を取り込んだつもりになってもそれはしょせ ん、その思想を今の自分たちに都合よく適合させているにすぎないと指摘していることに、そうではなく、不変の中で工夫することが革命となることは、西洋 の、人の意思とは切り離された不変の神の元の尺度の中で人々は社会を変革させてきたことで明らかであると反論されていますが、これはどうもアカデミックに すぎるように感じられます。ぼくが感じた変革の「思想」とは、ある底辺にある有能な野心家(たち)が、人々の実生活の不満の負のエネルギーを利用して、自 らがのしあがるときにそれをあとから正当と理由づける錦の御旗であって、それら野心家はうまく民衆の支持を受ける思想を探しだし、そのエネルギーを利用し 逆に自らも世に利用されることで世の中を動かすことができるわけで、過去の例でも改革の中で一方的にまじめな、自らに忠実な思想的リーダーは誰も最終的な 実権を握れていない(カルヴァンにしても)ということでもこれは明らかです。正三や梅岩、その他の影響力を持った思想家たちはそれら野心家のためのツール を提供しているのだとおもいます。

書名は「勤勉の哲学」というより、「日本戦国後の秩序思想の起こりと、その世界的に見て特殊な性格について」としたほうが入りやすいかも。

危機の日本人 角川oneテーマ21(新書、背:紺、タイトル:白抜き明朝体) 室町〜徳川初期の不思議な本、「人鏡論」をおもしろく読むための本。というわけで「危機の日本人」という構えた書名はちょっと違う気がします。

「人 鏡論」は当時の日本人が日本人を他人事として観察して書いてあるところにそのおもしろさがあり、当時の人もおもしろがったらしくベストセラーであったとい うことですが、ぼくたちがそのおもしろさを一層感じるにはその前提に当時の西洋人、韓国人が日本人をどういう目で見たのかが判っているとなおいい。という ことで半分はそうした文化のギャップの紹介に費やされ、のこりを「人鏡論」の筋の解説、さらにのこりをその後の「人鏡論」のまま来てしまった日本の説明に あて、今の日本に当ててみています。ちゃんとハマるからおもしろい。こういう見方で自らを把握してゆく試みは、意義深いことだと思います。

終 わりの方で、アメリカとの関係の在り方、「御威光国」に自らなって四隣を支配し、実力でアメリカを否定できるのならよいが、そんなことができないのは先の 戦争でいやというほどわかっている。それなら、目をつぶってもそこに存在するアメリカという存在とどう折り合ってゆくのか、なぜ折り合ってゆくのかを、不 満の煮え切らないゼスチュアでなくちゃんとはっきり考えるべきであると述べている点はすばらしい。

昭和の大失策の遠因についての記述は、なぜにあの戦争が起きてしまったのか、おこらないようにするためにどうすればいいのかの大切なヒントになると思います。

日本人とは何か

(上・下)

PHP研究所(単行本、背:紫がかった薄いグレイ、タイトル:紺色の明朝体

PHP文庫(文庫、背:黄緑の上下に白帯、タイトル:黒い明朝体

祥伝社NON SELECT(全一冊 新書変形、背: 、タイトル:赤い明朝体)


山本七平の日本の歴史

(上・下)

ビジネス社(新書、背:



日本人の人生観 講談社学術文庫(文庫、背:濃い青、タイトル:白抜きの明朝体) 人生を歴史の一部として捉え、記録する試みを語る本。
空想紀行 講談社(単行本、背:ベージュ、タイトル:黒い明朝・各文字それぞれ蛍光オレンジの○に入る 十八世紀のはじめ、自称台湾生まれの日本人のオランダ人、ジョージ・サルマナザールというひとが空想の、自称事実のトンデモ台湾誌を書いてベストセラーに。この全部ホラでできた本がなぜ当時のヨーロッパに「事実」として受け入れられたのかを検証する本。

6)洪思翊中将の処刑:組織が犯す罪とは何か。その罪は責任者ひとりのものなのか、法という言葉が作る穽を利用するものが現れるとどうなるのか。利用されるとどうなるのか。別に帝国陸軍に限らず、社会人なら誰でも嵌められる可能性のある、恐ろしいテーマ。

洪思翊中将の処刑 山本七平ライブラリー8(A5、背:クリーム、タイトル:黒い明朝体)

文芸春秋社(単行本)

ちくま文庫(上・下、文庫、背:クリーム、タイトル:黒い明朝体)

戦犯として処刑された韓国出身の帝国陸軍中将洪(こう)思翊(しよく)。正義とはなんなのかというテーマを、終戦と同時に日本人ではなくなった=戦勝国国民となったゆえに連合国も慎重に行なったといわれるこの人物の裁判記録を紐解いています。

ま ず、洪思翊という人はどのような人だったのから。かれは普通の血筋の朝鮮人であり、併合前に日本の幼年学校へ送られ、在学中に併合があり、しかし学業を続 け、以来三十数年を陸軍ですごし、おのれの能力によって中将まで昇ったという優秀な人物であって、部下や上司の日本人からは常に尊敬を受ける人物であっ て、それはかれの、内に秘めた、一本筋の通った自己への強力かつ厳格な規範からくるものであったと書いてあります。もちろんそうでしょう。戦前の朝鮮人の 社会的身分からすれば、ただ優秀なだけでは、陸軍中将にはなれますまい。人間としての洪中将への畏敬がにじみます。

そして、戦争も旗色が悪くなってから南方で起きた韓国人軍属の暴動の教訓から、在フィリピンの韓国人を鎮めるための人徳担当として軍の兵站司令官として運命の赴任をし、終戦後兵站部の下にあった捕虜収容所の「残虐行為」責任を「全て」負わされ、絞首刑になってしまいます。

つ ぎに、裁判の経過を追いながら、条約、法というものへの日米の認識からくるギャップと、問題点、盲点を指摘、解説してゆきます。これが非常に判りやすい。 ここで注目すべきなのは、この戦犯裁判はソ連の粛正裁判などとちがい、ちゃんと弁護人が被告の無罪のために最善を尽くしているということで、結局有能さと 政治という点で検察側が勝利してしまうものの、法の前の平等のために骨身を惜しまない全力を感じられる弁護は、読んでいて頭が下がる思いです。ただし、ア メリカの裁判というものは、人間が個人の好き嫌いで裁いた場合の、感情に左右された判断の偏りが発生するおそれを排除するために作られた、民主主義下の公 正システム=法という基準の前に、どちらがより正当であるかを証明しあうという認識であるようなので、正当と正義はちがうものであって、ドラマのような、 裁判に正義を求めるのは間違いなのかなと思いました。これは二・二六事件の時に出動命令で出動した行為で軍法会議にかけられた士官が、法廷で士官学校で教 わった通りに素直に答えてたら有罪にされちゃって、獄中で「裁判というのは、制度であって正義じゃないんだな」と悟ったようなことを書いていましたから、 たぶん旧軍でも法務関係者はそういう認識は持っていたかもしれません。

そして、貴重な、捕虜、海軍中佐ヘイズの収容所での日記の引用解説に多くページをさいている点は資料としてありがたい。

裁 判は検察側の勝利に終わり、洪中将は処刑されます。自分の裁判の間中一切黙秘を続けた中将は、乞うて詩編を読んでもらって従容と死に就きます。あまりに りっぱです。まさに儒教における武人象を完遂したわけで、収容所でバイブルを捨てろと言われて捨てなかった片山師とともに、尊敬の心が沸き起こります。

し かし、尊敬はするものの、真実の上の公正ということをいうなら、彼の職掌上の罪は実質直轄の一つの収容所の捕虜民間人を飢えさせ、病気の手当てを十分して やれなかった不可抗力による「職務怠慢」というだけであって、暴力担当は海軍と大本営直轄の四航軍指揮下の捕虜収容所であったらしく、洪中将は「それは海 軍の管轄だわたしに管理責任はない」「そっちは四航軍の以下同・・・」などと主張すればもっとフィリピンの捕虜虐待伝説の真実は明らかに、しかも陸軍悪玉 伝説はすこしは緩和されたはずなのに、沈黙して背負ってしまったために、子孫に誤解を受けて、残虐日本陸軍などとレッテルを貼られてしまうことになってし まった。

アメリカは押しつけるというけれど、アメリカはこっちの内輪の反感だけじゃその態度を変えることはないし、反感 だけじゃなにも進まない。逆を言えば、これだけ判りやすい国なんだから、こちらの主導権をとる方法はいくらでもあるはず。感傷で生きてる文化人にはムリか も知れないけれど、アメリカと商売して生活してる日本人ビジネスマンはちゃんといるわけで、うまく対等につきあう方法は彼らに学べばいいと思うのですが。 (外務省は波風立てないように媚びてるだけだから参考外)

長い目で日本のためを考えるなら、いやな人だと思われようがな んだろうが気にぜずに堂々とそのへんを主張すべきではなかったかと思います。大本営や海軍と泥仕合をやるくらいドロドロと傷付けあって道連れにして膿を出 してしまえばよかった。鎖国を続けるならともかく、異文明と付きあって行く気があるなら、為政者の身内に甘いナアナアのあいまいさは文化ではなく膿であり ます。語らないのが美学だというなら、洪中将がしたように、自分の罪でない罪を背負って黙って殺されても文句は言ってはいけない。洪中将のように立派にふ るまうのは常人にはムリですから、罪でない罪は背負わないに限ります。罪をかばえば、罪はあいまいにとけて生き残り、子孫に背負わされる。かっこよさでは 食えないです。などと書くと、天国の山本七平さんに呆れられるかも知れませんけれど・・・

ぼくたちの時代の、当時への「時間による審判」は、はたして、後の世の「時代の審判」に耐えるように、公正になされるでしょうか。

7)ふりかえって:山本七平自身の来かた。静かに振返ります。

人生について PHP文庫(文庫、背:濃いクリーム色に白帯、タイトル:黒い明朝体) 静 かにふりかえる生い立ちと、父、母、きょうだい、内村鑑三、大逆事件、受けた教育、軍隊、歯科外出、カバン持ち、ジャングル、ナイロン、収容所、クリスマ ス、闘病、奪われた十年間、ストレプトマイシン、出版界の先達、たべもの、静かなくらし。まったりとして、読んでてたのしくなる。中ほどの食べ物のエッセ イも、生魚の認識から収容所のビール密造、聖書とユダヤの酒と料理と禁忌など、楽しいエピソード満載です。このあいだ、学研から「戦場の衣食住」という素 敵な本がでましたが、その本の元になったと思われる「軍隊調理法送付の件陸軍一般へ通牒」の解説が興味深かったです。ちなみに、イスラエル料理を食べに行 きましたが、ヒツジと、ふやかしてからすりつぶした豆がメインで、おもしろかったです。

両親を尊敬していたことがわかります。氏は死の間際まで意地になって自分でトイレまで歩いたそうですが、母親を手本としたのでしょう。

大 正、昭和初期の風俗が珍しい。ものの値段とか、歯医者さんの足踏式の「タービン」など。明治のひとは楊枝と塩と番茶で歯を手入れしてたらしい。このエッセ イ集は、たぶん、氏の人生の最大のトローマである「食べる」という行為がメインテーマで(まあ食は生き物の宿命ですが、氏の場合は特に)、これに使われる 器官である「歯」についてとてもたくさんふれています。『「・・・栄養をとって体力を回復しても、歯は回復しないだろうな。おそらく体内のカルシウムを消 費しつくしたんだろう。妊娠するとそうなるんだが、似たような現象かも知れないな」「やれ、やれ、妊娠ですか」と私は笑ったものの、なんともいえずさびし い気がした。』。さびしい気持ちになりました。ちゃんと歯を磨きましょう。

日露戦争に従軍した氏の父上が「勝利した」戦争の体験をまったく語らなかったわけとかが興味深いです。

昭和東京ものがたり 読売新聞社 上・下巻 トレペ様のカバー 背:上巻=薄青灰色 下巻=薄灰緑色 タイトル:

山本七平ライブラリー16(A5、背:クリーム、タイトル:黒い明朝体)


無所属の時間 PHP文庫(文庫、背:黄緑の上下に白帯、タイトル:黒い明朝体 西日本新聞に連載したコラム集+その他に発表したエッセイ集。
人が今、生活している、今この時は、今この時代に属しています。それは今、この時代の社会的な時勢の中であり、流行の中であり、この時代のみのしがらみの 中であります。今この時の「時間」の中に所属していて、生きている限りこの時間との関係なしを意識せずに生きたり考えたりすることは難しい。
復員後、原因不明の胃痙攣でひっくり返ったときの、周囲からの「胃がんだな、七平さんはもう助からないな」という勝手な思い込みから「ほぼあの世の人」と しての態度で接された時、その時間に属さない、しがらみのない人間になったという、大変面白い視点からこの本の名前は付けられました。しがらみ抜きで自分 を考える、大変面白い試みではないでしょうか。

聖書や捕虜収容所での体験、70年代の時勢の記述など、大変興味深い内容です。
タレント政治家の話をネロ帝に例をとって解説した話は、時代を超えて通用すると思うので、まさに無所属の時間ですな。

静かなる細き声 山本七平ライブラリー16(A5、背:クリーム、タイトル:黒い明朝体)
山本七平

ガンとかく闘えり

山本れい子/山本良樹 著

KKベストセラーズ(単行本、)

山本書店(単行本、背:濃い青 タイトル:薄黄のゴシック体)増補改訂版

死 の前年まで精力的に活躍していた氏の、ガンの発症から亡くなるまでの一年間を共に闘った家族が綴ります。苦痛にはらはらし、愛情にホッとします。偉大で厳 しい父上を持った息子さんの苦労は大変なものでしょう。でも歯を食いしばって対等な価値を持とうとする姿に感動します。しかも、当時今これを書いてるぼく よりはるかに若い。頭がさがります。ぼくなんて、自分の平凡な親父すら超えられない。孔子に匙投げられそう。

家族に愛されて幸せな終りだったといえましょう。

また、ツアーをつれて聖地をガイドすることがとっても楽しみだったというところに、氏の人間らしいひとなつっこさが出ててほのぼのとします。

病床で氏がテープに残したつれづれも興味深い。

死の前日に語ったという本田勝一氏についての「・・・純粋なんだったんだろうなあ・・・」というコメントは、「汝の敵を愛せよ」で、ほほえましいと同時に、やっぱり共産主義とともにライバルだったんだなあと思った。

KK 版と山本書店版では掲載されている写真がちがうのですが、KK版は立ち読みで泣きそうになって慌てて置いて逃げて、次きたときにはなくなってたので買って ないのは今思うと残念です。生前最後の写真の顔はあの細い目がぎょろっとしていてキリスト様の絵のようですが、これはやはり昔の画家が死に臨んだひとの顔 をよく見ていたということなのでしょう。これが偶像の危険というものでしょうか。

ペイン・クリニックというのは、ブルーバックスで80年代に読んだ気がするのですが、早く普及してほしいものです。痛いのいや。

8〕対談:いろいろな人との対話。

夏彦・七平の十八番づくし

私は人生のアルバイト

中公文庫(文庫、背:赤身の薄いオレンジ、タイトル:黒い明朝体) 山本夏彦氏との山本同士の対談。月刊「正論」の連載らしい。

時事雑談集。昭和五十年代の世相から戦前の内輪受け話まで肩が凝らない雑談。犬とか馬とか脱線しての話もおもしろい。

序 文に山本七平氏が千年後にこの本が発掘されたらと書いてますが、20年経っただけの今読んでも十分当時はヘンだったと思えます。ソ連も、社会党も、北朝鮮 を豊かな正義の天国と言ってまかりとおる自称正義感あふれる文化人たちも健在だったもんね。今なかったことにしてだまってるみたいだけど。

意地悪は死なず 中公文庫(文庫、背: 山本夏彦氏との対談。上の本の企画のつづき。

昭和五十年代から「流行の多様化」に市場が悩んでいたことがわかります。ゲームや音楽業界も、こういうの見てて、おんなじ悩み抱えてるので、これは一つのジャンルの市場が必ずたどる永遠のテーマなのかな?

「正義」がすきな人たちの行動の観察について語った「何よりも正義を愛す」の回はいろいろ非常におもしろくてためになりました。これ、いまも正義を売るのが好きな人々の普遍の習性かも。

あ と、本のタイトルの章でふれてる戦前のカラー製版についての情報が、印刷業界のはしの端っこにちょこんといる身のぼくには興味深かったです。ここ十年でも かなり変わったなあ。DTPのおかげで、製版で「意地悪」をしても食える人は減ったかも。「写真分解」も死語になりつつあるし、イスラエル製の超高い画像 修正機械もパソコン一式と十万円ちょっとのフォトショップになってデザイナー側にいっちゃったし。別の工程で増えたかも知れないけど。




日本人のものの考え方と行動

――陸軍と海軍

山本七平ライブラリー7「ある異常体験者の偏見」所収(A5、背:クリーム、タイトル:黒い明朝体) 吉田満氏との対談。陸軍と海軍について。お互いの気質の違いとか。あんまり批判的な話題はありません。

ペリリューレポートを見た話とかはおもしろい。

国民は戦前から帝国海軍の漸減作戦については知っていて、いつやるのかと思っていたという話が耳新しかったです。




0)持っていない、分類できない:まだまだ探さなきゃいけない本はたぶんいっぱい。

時評「にっぽん人」 読売新聞社
一つの教訓・ユダヤの興亡 講談社
日本の正統と理想主義 山本七平ライブラリー12「現人神の創作者たち」所収(A5、背:クリーム、タイトル:黒い明朝体)
「指導者の帝王学」 PHP研究所



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