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ぐるり気ままに 文学紀行

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――< 海外編 >――

――< 日本編 >――


福岡県・柳川市 「思ひ出」 北原白秋
3年前、私はあるメールマガジンに「学校の記憶」と題して、小学校1年生から高 校3年生までの12年間のエピソードを、短いエッセイにして12回連載しました。 小学校2年の巻は、以下のように始まる図書室の話でした。

  古い映画に出てくるような木造2階建てのどっしりした校舎が、私の通った
  小学校。玄関を入ると左に職員室、正面には大きな階段があって、そこを
  上った2階には広い畳敷きの部屋と図書室があった。

  図書室があると知ったのは、2年生の時。しかし当時、図書室の利用は3
  年生からと決められていて、階段を上がることは禁じられていた。今では
  想像もできないが、昭和32年の田舎の小学校2年生の現実とは、そんな
  ものだった。(以下略)

さて3年生になり、図書室に出入りできるようになった私は何を読んだか。今でも はっきり覚えているのは『赤い鳥』という雑誌を見つけたときの、わくわく震える ような喜びです。『赤い鳥』は大正時代の児童雑誌なので、いま思えば復刻版だっ たのでしょう。色鮮やかな美しい表紙絵が各号を飾り、童謡や童話の挿絵もうっと りするほど美しかったのです。

特に私が好んで読んだのは小川未明の童話。「赤いろうそくと人魚」など不思議な 想像の世界に引き込まれたものです。そして「赤い鳥小鳥」「雨」「お祭り」「砂 山」など北原白秋の童謡の数々も、言葉の不思議な魅力をたたえていたように思い ます。白秋の名を知ったのは、たぶんこのころでしょう。中学生になって、北 原白秋が私と同じ福岡県の、しかも柳川出身の人だと知りました。

柳川といえば、私の生家から南へ10キロメートルほど下った町です。北の方面へ数 キロメートル行けば久留米市です。電車に乗ってどちらへ行っても、駅5つの距離。 子どものころは大きなお祭りがあるたび、両方の町へ出かけましたが、久留米市が どんどん発展していくのに対し、柳川市の方はむかしながらの風情を残す静かな町 のままでした。2つの町は子供心にも対照的に見えました。

有明海が近い柳川は漁業がさかんです。私が小学生だった昭和30年代は、柳川から 行商のおばさんたちがやってきて、「魚いらんかんも〜」と勝手口から声をかけ、 干物などの海産物や魚のすり身で作った丸天・角天などを売っていました。同じ筑 後地方なので方言は共通しているのに、行商のおばさんたちの話す柳川弁は、語尾 や抑揚が柔らかく、上品でした。そのわけを母に問うと、柳川はむかし殿様がおら れた町だから、と答えました。

明治44年に出版された白秋の詩集『思ひ出』の序文「わが生ひ立ち」には次のよう な文章があります。

 「私の郷里柳河は水郷である。さうして静かな廃市の一つである。
  自然の風物はいかにも南国的であるが、既に柳河の町を貫通する
  数知れぬ溝渠(ほりわり)のにほいには、日に日に廃れてゆく
  旧い封建時代の白壁が今なほ懐かしい影を映す。」
 「水郷柳河はさながら水に浮いた灰色の柩(ひつぎ)である。」

明治18年1月25日生れの白秋の生家は、現在の柳川市沖端(おきのはた)町に ありました。白秋の父は酒造を本業としていました。白秋16歳のとき、沖端の大火で酒蔵が ことごとく焼け、これを機に北原家は家運が傾き、24歳(明治42年)のとき生家が破産します。 焼失した酒蔵の焼け跡や庭園の約1ヘクタールは、その後偶然にも作家檀一雄の父方の 祖父の所有となります。明治44年生れの檀は、 少年時代、白秋の育った全く同じ場所の祖父の家で、少年時代の一時期を送っています。

久留米市や柳川市を含む筑後平野は、筑後川が運んだ土砂によって形成された沖積平野です。 沼地の多かったこの土地に、先人たちは人工水路を張り巡らして灌漑し、筑後平野を全国でも有 数の穀倉地帯に育て上げました。柳川市内を縦横に流れる掘割はその名残りですが、 単に灌漑用だけではなく、掘割に面した家には船着場があり、庭からすぐに舟に乗 り、往来したり物資を運んだりしました。掘割は生活と密着した水路でもあったのです。

故郷柳川を「廃市」「水に浮いた灰色の柩」と呼んだ白秋でしたが、その後柳河は 柳川と字を変え、白秋の生家を保存・公開し、川下りや毎年1月の白秋生誕祭、11 月の白秋祭を催すなど、廃市にはならずに情緒豊かな水郷として多くの観光客を集 めています。同じ福岡県生まれの作家福永武彦は戦後、柳川を舞台にした小説『廃 市』を書いています。

『思ひ出』の中の詩には、柳川弁ともいうべき独特の言葉が出てきます。たとえば 「TONKA JOHN(トンカジョン)」「TINKA JOHN(チンカジョン)」。白秋は詩につ けた注で、「阿蘭陀訛か」と書いていますが、筑後地方では「じょん」と言えば 「良い子」を意味します。トンカジョンは大きい坊や、チンカジョンは小さい坊や、 つまり弟のことでした。おりこうさんにしていると、「じょんじょん」と大人から 頭をなでられたものです。

私は田舎で生まれ育ったせいか、方言は普段の話し言葉だから詩に書く言葉とは違 うと思い込んでいました。中学生時代から詩を書いていた私は、高校生のとき『思 ひ出』を読んで、「チンカジョン」や「わしわし」(油蝉の方言)やBANKO(バン コ=縁台のこと)がそのまま使われていることに、新鮮な驚きを感じたものです。 当時の私は、辞書の中から詩らしい言葉を見つけて使うことに熱中していたからです。 『思ひ出』は方言を巧みに使った郷土色豊かな詩集でしたが、その感覚的で色彩感に 富んだ表現は、当時、新しい時代の到来を感じさせるモダンな詩として驚きをもって 受け止められたようです。

柳川へ行くには福岡市天神、または大牟田市から西鉄特急電車を利用するのが便利。白秋生 家見学と川下りはもちろん、旧立花藩主の別邸として建築された御花(おはな)の見 学もお勧めです。冬には鴨もやってくる御花の広大な庭園を眺め、旅の仕上げに柳 川名物の「うなぎのセイロ蒸し」をいただくのが、里帰りのついでに寄る柳川訪問 の、私の一番の楽しみなのです。(2005年2月24日)
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熊本県・水俣市 「苦海浄土」 石牟礼道子
1971年3月、就職して間もない私は連休を利用して熊本へ旅立ちました。目的は国 鉄水俣駅ちかくのチッソ工場前にあるという、テントです。当時、全国に吹き荒れ た学園闘争はようやく下火にさしかかっていましたが、私の勤め先だった九州大学 教養部では、連日のように昼時には正門前の広場でアジ演説が飛びかい、ゲバ棒を 持った覆面ヘルメット姿が集結したり、ときおり対立する派の衝突で流血騒ぎが起 きていました。

勤め先が大学という環境で、また私自身が学生と同じ年代ということもあり、私の 高校生時代からずっと続いている学生運動には、心情的なシンパシーを抱いていま した。過激な学生運動にはついていけなくても、何か私にも出来ることはないのだ ろうか。そんな切羽詰った気持をゆさぶったのが、大きな社会問題となっていた水 俣病の存在でした。

原因不明の「奇病」といわれていた頃、テレビで患者さんを見たときの衝撃は忘れ られません。まもなくチッソ工場の廃液に含まれる水銀が病気の原因であることが 突き止められ、水俣病は公害として認知され、激しさを増していた学生運動のうね りの中で市民運動の「水俣病を告発する会」が旗揚げしました。しかし組織に加わ ってまで行動する強い意思のない私は、ただ遠くからその活動をながめていました。

テレビでは連日のように「水俣病」をめぐるニュースが流れ、各地の公害反対集会 では「怨」の字を染め抜いた幟旗が林立して、異様な雰囲気に包まれていました。 2年前の1969年(昭和44)に出版された水俣市在住の石牟礼道子さんの『苦海浄土』 の衝撃的な内容が、いやがうえにも運動をかき立てていたように思います。

 うち達は猫といっしょじゃばってん、死んだ死なんは問題じゃなか。
 大勢で見物に来て、親兄弟にも見せとうなか恥かしか有様ば立って
 みろ、座ってみろ、歩いてみろちゅうて、かあっとなっとるのを、
 写真に撮って、奇病になってどんな御気持ですか、ちよそ行き
 言葉で云われてピカピカ光るマイクさしつけられて・・・
             (石牟礼道子著『苦界浄土』より引用)

方言丸出しに綴られる言葉の数々は、読み終えた私に、何としても水俣へ行って、 自分の目で確かめずにはいられない、そんな気持を起こさせたのでした。22歳の私 は久留米から列車に乗り、鹿児島本線を南下して水俣駅で下車。駅前からまっすぐ 続く道の先には、チッソの工場がすぐに見えました。あいにくの雨の中を歩いてい くと、工場正門横にテント小屋がありました。ここで患者さんや「告発する会」の メンバーなどが座り込みを続けていることをニュースで知っていたのです。

テントに着くと、中は思ったよりずっと広くて、ふた間続きのちょっとした小屋で した。入口近くに数人がいましたが、出入り自由らしくて私に特に気を使う人もあ りません。靴を脱いでさっさと上がり、奥のほうへ引き寄せられました。薄暗いテ ントの中に1ヵ所だけ天井からぼおっと光が差し、その中に男性が一人いて、あぐ らをかいて熱心に色鉛筆で地図に色をつけています。鹿児島県トカラ列島の島々に 通っていたナオさんとの出会いでした。彼の手にあったのは無人島となった臥蛇 (がじゃ)島の詳細な手製の地図で、塗り終わった1枚はすぐに私のものになりま した。

1時間ほどしてテントに石牟礼道子さんが顔を出し、じきに帰られました。その後 雨があがったので、テントにいた胎児性水俣病患者の高校生くらいの少年に、チッ ソ工場を外から案内してもらい、水俣湾に注ぐ排水口や湾ぞいの集落などを見て回 りました。言葉も歩き方も少し不自由な少年でしたが、初対面の私と歩き回りなが ら、臆することなく自分の不安や希望などを熱心に話してくれたのでした。

『苦海浄土』は出版されるや、折からの公害反対闘争のシンボル的な本となり、そ の年の第1回大宅壮一ノンフィクション賞に選ばれましたが、石牟礼さんは辞退。 その後石牟礼さんは水俣病告発集会などでの社会的な発言もありましたが、それは 政治的というより、自分の生れ育った地に加えられた近代産業の狂気の所業に対す る「呪術的な声」という性格のものでした。これは次のような文章でも明らかです。

 僻村といえども、われわれの風土や、そこに生きる生命の根源に
 対して加えられた、そしてなお加えられつつある近代産業の所業
 は、どのような人格としてとらえられねばならないか。(中略)
 私の故郷にいまだ立ち迷っている死霊や生霊の言葉を階級の原語
 と心得ている私は、私のアニミズムとプレアニミズムを調合して、
 近代への呪術師とならねばならぬ。(『苦海浄土』より引用)

昭和47年に『苦海浄土』が講談社文庫になった際、渡辺京二氏は解説の中で、この 本は「聞き書きでも、ルポルタージュでもない」と明かしています。患者さんの心 の中を文字に翻訳したらああなった、と本人が語ったというのです。聞き書きと信 じて読んだ私は驚きましたが、渡辺氏は、僻村の表現手段を持たぬ下層民の呪いの 気持を、翻訳して言語化した「文学作品」として読まねばならない、と解説で強調 しています。詩人としての石牟礼さんの資質が書かせたと本、といえましょう。

その後私は出版された『潮の日録』など、石牟礼道子さんの本を好んで読んできま した。その感受性豊かな土俗性の濃い表現が、不思議と私を引きつけたからです。 近年水俣市では「水俣病」という負のイメージを返上すべく努力が続けられ、海は 浄化され、最近ではゴミの分別を徹底して行なうリサイクルのモデル的な市として 生まれ変わっています。

『苦海浄土』で衝撃的に登場した石牟礼道子さんは、特異な言語表現を持つ作家と してその後も活動。昨年は水俣病を材にした新作能「不知火」を完成させ、水俣奉 納公演が行なわれました。作家として新たな境地を開いた意欲的な試みのように私 には思えました。ところが一方、古くから石牟礼さんを知る人たちから、まだ法的 救済も解決していない、苦しんでいる患者さんもいるのにと、強い反発の声を聞き ました。『苦海浄土』の世界のいまだ持つ生々しさと厳しさを、改めて感じさせら れた出来事でした。(2005年1月19日)
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広島県・尾道市 「清兵衛と瓢箪」 志賀直哉
「清兵衛と瓢箪」という可愛らしい小説を最初に読んだのは、確か中学校の教科 書だったと記憶します。40数年も前のことですから、現在ではもう教科書には載 っていないのかもしれません。国語の教科書に小説などの作品が載ると、最後の ところに必ずその作家のほかの作品名が掲載されていました。それを図書館で探 して読むのは、私の楽しみでもありました。

私はさっそく志賀直哉の作品集を借りて「小僧の神様」「剃刀」「范の犯罪」 「城の崎にて」などの短編を読み、やがて私小説ともいわれる「大津順吉」や 「暗夜行路」などの長い作品にも挑戦しました。しかし「暗夜行路」は中学生の 私には難解な小説で、ふうふういいながら結局半分読んだくらいで投げ出してし まいました。

私が高校生のころ80代の志賀直哉はまだ健在で「小説の神様」と呼ばれ、自選集 や回想集なども出版されていました。今では遠い過去の作家となりましたが、当 時の私にとってはとても身近な存在だったのです。ある人が小説を書く勉強のた めに、志賀直哉の小説を書き写したと書いているのを読んで、私もやってみよう と高校生の終わりころ「暗夜行路」を原稿用紙に毎晩書き写しました。60枚ほど 書いたところで挫折しましたが、良い経験になったことは確かです。

作品をあれこれ読むうちに、志賀直哉が尾道に住んでいたことがあり、「清兵衛 と瓢箪」や「暗夜行路」の舞台にもなっていることを知って、いつか尾道へ行っ てみたいと思うようになりました。そのころ読んだ林芙美子の「風琴と魚の町」 にも、尾道の町の様子が活写されています。海も山も川も遠くにしかない、だだ っ広い平野のど真ん中に生まれ育った私は、坂の町がどんなものか知りたいと思 い、窓から海の見える暮らしに憧れました。

何としても尾道に行ってみたい私は、18歳のとき尾道から通える大学を受験しま した。受かれば尾道に住めるからです。受験を口実にした尾道ひとり旅で、千光 寺へ行ったり、文学のこみちを歩いたり、海岸通りを歩いてみたりしましたが、 尾道は思っていたよりずっと小さな町でした。歩きながら、ここに暮らして私も 小説を書きたい、そんな夢がわいてきましたが、受験は失敗に終わり、尾道とも それきり縁がなくなりました。

数年前岡山へ行く用事があり、時間を作って尾道まで足を延ばしました。35年ぶ りの再訪でしたが、新幹線の新尾道駅ができ、川のように見える尾道水道には新 尾道大橋が架かって、時代の流れを感じました。しかしロープウェイは昔のまま にあり、展望台から歩いて下る坂道には急斜面に昔のままに家が建っていて、見 下ろす民家の屋根のごちゃごちゃした風景もそのままでした。坂の町であること が市街地開発の広がりを妨げたのかもしれません。

千光寺山の中腹の坂道を歩き回ると、その途中に「おのみち文学の館」があり、 林芙美子の遺品などを展示した林芙美子記念室が併設されています。少し歩いた 場所に、中村憲吉旧居そして志賀直哉旧居があります。志賀直哉が父との不和か ら東京を離れ、友人が住みやすいとほめていた尾道へ移り住んだのは大正元年 (1912年)11月のことでした。

志賀直哉の旧居といっても、3軒が1つ屋根でつながった長屋の一番奥の部屋で、 当時のままに保存され見ることができます。入口のすぐ横が台所で、三畳のむこ うに六畳の間があるだけのつつましい住まいです。六畳の部屋は海に面して何も さえぎる物がなく、日当たりも風景も良い部屋です。「清兵衛と瓢箪」はここで 書かれ、瀬戸内旅行での見聞が素材になったといわれています。

12歳の小学生である清兵衛は瓢箪が大好きで、「瓢箪作り」に凝っています。大 人の間で評判の古瓢には目もくれず、ある日ごく普通の皮つきの瓢箪に惚れ込ん で10銭で買い、口を切り、種を出し、くさみを抜き、父親の飲み残しの酒で磨い て見事な瓢箪にしあげ、片時も離しません。学校で先生に見つかって叱られたあ げくに瓢箪は取り上げられ、父親からも殴られ、これまで作った瓢箪も全部父親 がたたき割ってしまいます。さて取り上げられた瓢箪はどうなったか。それを知 る由もない清兵衛は、今度は絵に熱中していますが、そろそろ父親の小言が始ま ります。子どもの才能に無知・無理解な親や先生を、風刺を込めて描いています。

私の本棚には、いつか読もうと後回しになった古典や近・現代文学の本たちが、 静かに出番を待っています。年を経て時間ができた最近になって、日本の作家の 作品を折に触れて読んでいますが、日本語で表現される作品の多彩さと奥深さを、 今さらのように感じています。日本語の持つ表現世界とでもいえばいいのか、作 家や歌人や詩人が日本語を十全に操り、剛直にも柔軟にも文章を構築しながら自 分の思想や感情を文字化する。それが作家独自の文体ともあいまって、読者の私 に伝わってきます。

漢字とかなの混じる日本語の表現形態には、表音文字のアルファベットなどで書 かれる表現世界とは違う何かがあると思います。表意文字それぞれが持つ意味、 文字を視覚でとらえイメージできる言葉の豊かさ。それが読者の内面と切り結ぶ とき、文字を介して書き手と読者が直接交感できる性質を備えている。文章を読 むという行為は、読み手の想像力を喚起し増幅する作用も含んでいる。そこには 映像を見ることとは違う「読む楽しみ」が存在する。読書を通して日本語という 言葉の豊かさを、しみじみ感じています。

「清兵衛と瓢箪」は原稿用紙で10枚の作品です。志賀直哉の小説には、ほかにも 原稿用紙10枚前後の短編が数多くあります。そのどれもが作品としての動かしが たい世界、小宇宙を有していて、100枚の小説にも劣らない豊かな内容と、きり りと引き締まった味わいを持っています。それは日本語という言葉が持つ表現力 の豊かさがあってこそ、成り立つ世界であることを知らしめていると私は思って います。

最後に志賀直哉が77歳のとき書いた言葉をご紹介します。

  人間といふものが出来て何十万年になるか知らないが、その間に数へき
  れない人間が生れ、生き、死んで行った。私もその一人として生れ、今、
  生きてゐるのだが、例へて云へば悠々流れる大河の水の一滴のやうな存
  在で、しかも、一滴の水である私は後にも前にもこの私だけで、何万年
  遡っても私はゐず、何万年経っても、再び私は生れては来ないのだ。過
  去未来を通じ、永劫に私といふ者は現在の私一人なのである。
     (小学館「日本の作家9 志賀直哉」より引用 )   (2004年12月20日)
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東京都・本郷界隈ほか 「一葉の日記」 樋口一葉
私が「糊口」という言葉を知ったのは、もう30年ほど前のことです。何かの本 を読んでいて、こういう引用文に出合いました。

  人つねの産なければ常のこゝろなし。手をふところにして月花に
  あくがれぬとも、塩噌なくして天寿をおわらるべきものならず。
  かつや文学は糊口の為になすべき物ならず。おもひの馳するまゝ、
  こゝろの趣くまゝにこそ筆は取らめ。いでや、是より糊口的文学
  の道をかへて、うきよを算盤の玉の汗に商ひという事はじめばや。

それは明治の小説家樋口一葉の日記の一部でした。糊口とは口過ぎ、つまり暮 らしを立てることと知りました。引用文は、一葉が文学は糊口のためにするも のではないと悟り、生活のため商売を始めようとする決意が記された部分でし た。

樋口一葉は17歳のとき父を亡くし、戸主となって母と妹を扶養する立場に立た されていたのです。この日記を書いた当時の一葉はわずか21歳。何と早熟なと 驚き、私は一葉の作品より一葉その人への関心が強まったのです。

それ以来、ちびりちびりと読み進む「一葉日記」は私の愛読書となり、いつか 一葉の評伝を書きたいと思うようになりました。以後約20年間、仕事の関係で 東京へ出張する機会をつかまえては、一葉の生きた場所と作品の舞台を捜し求 めて、主に文京区本郷界隈や台東区に現存する一葉ゆかりの地などを歩き回り ました。

一葉が5歳から9歳まで住んだ本郷の二階建の家は、隣が浄土宗法真寺で、向か いには赤門がありました。地下鉄丸の内線本郷3丁目で下車。東京大学を目指 して歩くとまもなく右手に赤門が見えてきます。その真向かいに法真寺の入口 があります。中に入ると境内の奥に本堂があり、濡れ縁に観音様が鎮座してお られます。境内は一葉の遊び場で、一葉が最も裕福な少女時代を送ったのはこ の本郷の家でした。

法真寺の裏手の本郷4丁目と5丁目の境を小石川方面に坂道を下って、途中でも う一段低い通りに降りて(本郷菊坂町)小さな路地を入ると、一葉と母妹3人 が住んだことのある場所があります。そこには一葉も使ったであろう井戸が今 も保存してあり、当時を偲ぶことができます。ここに住んだのは父が亡くなっ たあとです。3人で力をあわせて仕立物や洗い張りをして暮らしを立てていま したが、物を書けばお金になることを知り、一葉は大胆にも生活のために小説 を書こうと決心します。

再び元の坂道に出て少し下ると、右手道路わきに一葉一家が幾度となく着物や 帯を持って走った伊勢屋質店が当時のままの姿で建っています。現在は営業し ていません。その坂道を下りきって白山通りに出て歩道を右手にしばらく歩く と、一葉終焉の地を示す記念碑があります。ここ(丸山福山町)に転居したの は荒物屋の商売が失敗したのちでした。

丸山福山町の借家は、『文学界』同人などが集まる文学サロンになり、一葉は その女主人でした。この家で一葉は「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」な ど矢継ぎ早に発表し、作家としての名声を得ます。しかし女が書いたというこ とだけで作品の真意を理解せず褒めそやす人々を、一葉は冷ややかな目でなが めて、そっぽを向いています。

一葉の遺品や資料などまとめて見るには、一葉記念館がお勧めです。地下鉄日 比谷線三ノ輪駅下車。大通りをまっすぐ5分ほど南下し、左折するとまもなく 台東区立一葉記念館があります。ここには一葉の着物、櫛、机(複製)、硯、 自筆原稿、書簡、一葉旧宅模型など多くの遺品があります。そこから歩いて 3分足らずの場所には、一葉旧居あとの石碑があります。当時ここは吉原遊郭 に隣接する貧民街で、一葉は通りに面した二軒長屋の表口で荒物屋を開店し ます。冒頭に引用した、糊口のために商売を始めた場所です。

一葉の日記には、書くことへの真摯なまでの努力と執念が記されています。そ の日記は明治の中期を生きた一人の女性の、女であるが故の悩みや、狭い生活 体験の中でも貪欲に知識を吸収し、深く思考する態度を見ることができます。 数々の体験が日記という豊かな土壌となり、その土壌の上に花開いたのが名作 の数々と言えましょう。一葉はまもなく肺結核に冒され、明治23年11月23日に 亡くなりました。現在では勤労感謝の日にあたります。

この日一葉記念館では、毎年の行事として館内が無料開放され、記念講演や一 葉作品の朗読会などが行われているそうです。11月1日には新五千円札に一葉 の肖像が登場したばかりですから、来週の「一葉祭」はきっとにぎわうことで しょう。お近くの方はぜひ足を運ばれてはいかがでしょうか。私も行ってみた いのですが、遠すぎて無理です。(2004年11月18日)
■一葉記念館 http://www.taitocity.net/taito/ichiyo/
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鹿児島県・屋久島 「浮雲」「屋久島紀行」 林芙美子
林芙美子の代表的小説である「浮雲」は、第二次世界大戦中、日本軍が進駐 していた仏印(ベトナム)へタイピストとして渡った主人公ゆき子と、農林研 究所員富岡との出会いが、南国の恵まれた環境を背景に冒頭に濃厚に描かれ ています。敗戦直後の混乱した東京で二人は再会しますが、ベトナム・東京 ・伊香保・屋久島と舞台を移しながら、主人公ゆき子の流転の人生を描いた スケールの大きい小説です。

私がこの小説を初めて読んだのは、20代の独身のとき。今思えば男女の心理 の葛藤や機微もよく理解できなかったし、横領まがいの大金を手にして屋久 島へ富岡とともに渡ったあげく、ゆき子が死に至るまでの最後の部分がどう しようもなく暗かった、そんな印象をずっと持っていました。

それから30年経った数年前、ベトナムへ行くことになったとき、私の脳裏に 「浮雲」の一節が不意によみがえって来たのです。それはベトナムを占領し ていたフランス人たちが、戦争中でもあるにかかわらず、ゆったりと生活を 楽しんでいるようすをゆき子が垣間見て、贅沢を敵として戦争に邁進する日 本人に疑問を感じるところです。なぜかその部分だけは映画でも見たように、 鮮やかに私の記憶に刻まれていたのでした。

ベトナムへの途上、私は文庫版の「浮雲」を携えて飛行機に乗りました。 機上で読み進むと、あの印象的な部分はこう書いてありました。

   悠々とした景色のなかに、戦争という大芝居も含まれていた。その風景
   の中にレースのような淡さで、仏蘭西人はひそかにのんびりと暮らして
   いたし、安南人は、夜になると、坂の街を、ボンソアと呼びあっていた
   ものだ。(略)自然と人間がたわむれない筈はないのだ。湖水、教会堂、
   凄艶な緋寒桜、爆竹の音、むせるような高原の匂い、・・・

   ランビァン高原の仏蘭西人の住宅からもれる、人の声や音楽、色彩や
   匂いが、高価な香水のように、くうっと、ゆき子の心を掠めた。林檎の
   唄や、雨のブルースのような貧弱な環境ではないのだ。のびのびとして、
   歴史の流れにゆっくり腰をすえている民族の力強さが、ゆき子には根深
   いものだと思えた。(引用:新潮文庫『浮雲』, 安南=ベトナム)

敗戦後の東京の非情な現実の中で落ちぶれ、ゆき子と富岡は自分たちが侵略 者と意識することもなくベトナムで過ごした楽園のような生活を幾度となく 思い出しては、「罰があたったンだよ」と言い交わします。またベトナムの 高地民族のことが「山地の蛮人」と表現されるなど、この小説の書かれた戦 後間もない頃の日本人の意識には、まだ植民地支配の影響が根強かったこと が感じられます。

南方から引き揚げ、無一文から出発したゆき子は男を裏切ったりだましたり しながらも、富岡との腐れ縁から抜けられず、ついには屋久島の営林署に職 を得た富岡と一緒に、東京から夜汽車で南下します。やっとついた鹿児島で は雨に降られて足止めされ、ゆき子は発熱して寝込み、4日後朝9時にやっと 照国丸で出港。種子島に寄港し、翌朝屋久島の宮之浦沖に着き、目的地の 安房の沖合には朝10時頃着きます。

安房にはまだ港がなく、沖に停泊した本船から小さなはしけに乗り移り、雨 の中を揺られて入江の砂地に上陸。すぐ横の安房川に架かった大きな吊橋を 渡りきって、安房旅館に着きます。ここで地元の人からゆき子は「屋久島は 月のうち、三十五日は雨という位でございます」と聞かされます。安房の営 林署の官舎で、ゆき子はますます重篤な病人になり、降り続く雨の音の中で みとる人もなく息絶えます。

「浮雲」は昭和24年秋から月刊雑誌に書きつがれた小説ですが、連載途中の 昭和25年春、林芙美子は取材のため屋久島を訪れました。このときの船旅や 屋久島での見聞、安房の印象や人々のようすなどは小説に生かされています。 また小説とは別に、エッセイ「屋久島紀行」も書いています。エッセイには 芙美子が営林署のトロッコに乗って、屋久杉伐採の基地だった小杉谷を目指 したこと、しかし体調が悪く雨にも降られて途中の山小屋で降りたことなど が書かれています。

安房では芙美子の足跡をたどることができます。芙美子が宿泊した安房旅館 は、建て替わって現在は屋久島ロイヤルホテル。大きな吊橋はコンクリート 製に架け替えられ、その橋に立って河口を見ると、はしけの到着した船着場 が現在もあります。海側へ向かって少し歩くと、屋久杉の貯木場があります。 芙美子が来た当時はここに営林署があり、目の前がトロッコの発着所でした。 現在は森林の管理事務所となっていますが、貯木場には土埋木の屋久杉が置 かれていました。

「屋久島紀行」には雨にまつわる印象だけでなく、聞き取りした屋久島の自 然や歴史や風土についても書かれています。また、バスを借上げ黒砂糖工場 を見学したとき、珍しいバスを裸足で追ってくる子どもたちの生き生きした 顔を絵になるといい、働き者の裸足の娘たちの姿に感動して「桜島で幼時を 送った私も、石ころ道を裸足でそだった」と書き留めています。

さらにトロッコから見た渓谷、ランプがともる家々、静寂な夜の印象、まだ 汽車や自転車すら知らない人々の住む屋久島の風物が、芙美子の温かい目線 で余すところなく描かれています。芙美子が訪れた昭和25年、奄美諸島や沖 縄はまだ米軍統治下にあり、屋久島は日本最南端、つまり国境の島でした。

降り続く雨、海上の密林、最果ての国境の島。屋久島は流浪の末に行き着く 主人公の最後の地として、芙美子の心を捉えたのでしょう。屋久島を「浮雲」 の結末の舞台に選び、小説を完成させた芙美子は、数ヵ月後の昭和26年6月 28日、心臓麻痺のため急逝しました。心臓に持病があり、過労が原因との説 もあります。47歳でした。(2004年10月17日)
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福島県いわき市 「洟をたらした神」 吉野せい
福島県いわき市は14市町村が合併して誕生した大きな市です。東京23区の ほぼ倍の広さをもち、長く面積日本一の市でしたが、2003年4月静岡市に 抜かれて面積日本一の座を返上したそうです。福島県の東南端に位置し、 東側は太平洋に面しています。九州は福岡県に生まれ育った私にとって、 いわき市は何の縁もゆかりもない未知の土地でした。 そんないわき市との出合いは1冊の本でした。手元の吉野せい著『洟をた らした神』表紙を開けると<S.50.4.28>と、本を購入した日付があります。 私は生まれて間もない子どもがいる25歳、1975年の春でした。

吉野せいは1899年、福島県の太平洋に面した小名浜に網元若松家の娘とし て出生。高等小学校を卒業後、検定試験を受けて教員資格を取り、17歳 から2年間勿来や小名浜で教師をしました。当時から文芸雑誌に詩や小説 を書き福島県平(たいら)で牧師をしていた詩人山村暮鳥を師とあおぎ、 物書きになりたいという決意を胸に秘めていました。しかし暮鳥はせいの 才能を認めつつも書き急がないよう諭し、励まします。

大正初めに石城郡平町(現いわき市)の日本聖公会平講義所(教会)に着任 した山村暮鳥は、布教と同時に青年会を組織し、文学活動に異彩を放ちま す。暮鳥の播いた詩の種は確実に根付き、大正から昭和初期にかけてこの 地域では三野混沌(せいの夫)、高瀬勝男、松本純一、片寄耿二、猪狩満直 など多くの詩人を排出し、東京ではいわき出身の草野心平、波立一、中野 大二郎が詩を書いていました。

教師を辞めて考古学者八代義定の書斎に通うチャンスを得たせいは、その 蔵書を猛然と読み、勉強します。その書斎には若い農民吉野義也も通って いましたが、ある日八代はせいと義也を引き合わせ、二人は結婚します。 義也26歳、せい22歳でした。農家の三男坊という家督にあずかれない義也 は、好間村菊竹山麓の藪を1人で開墾しながら詩を書いていた青年でした。 小作でしかも開拓農民の道を選んだせいは、新しい生活は創作にもプラス になると信じ、希望に胸ふくらませました。

しかし結婚と同時に入った開拓生活は苦闘続きで、たちまちせいの創作の 夢を打ち砕きます。畑に出てもしゃがんで詩を書きだす夫、生活力のない 夫に見切りをつけたせいは、以後五十年、生活のため、6人の子育てのため 狂ったように畑をはいずり回り、生活上の実権を握ります。夫(筆名・三野 混沌)が子どもの数ほどの詩集を出したのと対照的に、生活防衛にまわり 書く時間など持てないせいは創作を断念し、2人の間には確執が深まります。

1970年、夫が亡くなり、農作業も息子に譲ってやっと時間ができたせいは、 夫の友人草野心平のすすめで筆を取り、1971年、山村暮鳥と夫との清冽な 出会いと別れを書いた評伝『暮鳥と混沌』を上梓。続いて開拓時代の50年 の出来事を綴った16の文章は『洟をたらした神』と題して世に出ました。 75歳でした。串田孫一は、吉野せいの文章を「刃こぼれなどどこにもない 斧で、一度ですぱっと木を割ったような、狂いのない切れ味」と序文に記 しています。

勤めていた私は仕事が終わって子どもを保育園から引き取 り、子どもが寝入ったあとは自由時間。思い切り読書に打ち込める幸運を得ました。 そのはじめの頃に吉野せいと出会ったのです。最初に読んだ『暮鳥と混沌』、その感動 のうちに読んだ『洟をたらした神』。その文章は漠然と文学をやりたいと 考えていた私には衝撃的ですらありました。

特に1930年、貧しさのため生後八ヶ月の次女梨花を亡くした前後のことを 書いた作品「梨花(りか)」。自分の子どもも小さかった私は、読みつつ 涙がとめどなく落ちてくるのをどうしようもありませんでした。吉野せい の技巧やまやかしのない的確な表現は、随筆や小説や記録文学という範疇 に収まらない、他に比類のない日本語表現の一つの頂点をなしていると私 は考えています。

商業的に量産される文学に反発しながらも、方向が定まらず思い悩んでい た私に、吉野せいの文章は書くとは何か、何を書くのか、その厳しさと方 向を教えてくれたのでした。なぜ70歳を過ぎてあの鋼(はがね)のような 文章が書けるのか。その文体の生成の秘密をさぐろうと吉野せいの作品を 読み続け、私なりに到達した結論を評論「土着と反逆」にまとめましたが、 その間仕事と幼児を抱えた私に、現地福島まで行く時間もお金もありませ んでした。

ところが評論を書いたことがきっかけで、『洟をたらした神』を読んでか らちょうど10年後の1985年、福島県いわき市に行く機会を得ました。いわ き市の方の案内で、亡き吉野せいと三野混沌が開拓した菊竹山麓に到着。 せいと混沌が住んだ旧屋も残り、農業を継がれた四男誠之さんに家の中に 招かれ、梨をふるまっていただきましたが、梨作りはせいと混沌の命の糧 の作物であったことなど思うにつけ、胸が一杯になったことを今でもあり ありと思い出します。

さらに数年経った1991年暮れ、私は東京出張の折、夜の上野駅から足を延 ばしていわき市に一泊。翌朝ひとりで菊竹山麓へタクシーで向かいました。 跡を継いだ息子さん夫婦が、農業に見切りをつけて他所に移られたと聞い ていて、あの開拓地をもう一度見たかったからです。道路から、梨畑跡の 中を細い道が続きます。荒れた地面からグイと腕を出すように、枯れて幹 の裂けた梨の老樹が数本立ちはだかり、無人の家の戸口には色あせた回覧 板が風に吹かれていました。

畑の隅には「天日燦(さん)として焼くが如し いでて働かざるべからず」 と混沌の詩を刻んだ碑が、どっしりした台座の上にあります。その碑 に至る道も生い茂った草木に阻まれ、近づけません。私は服にからみつく 雑草の実に困惑しつつ、他人の土地に無断で入る非礼を詫びるすべもなく、 冬枯れの開拓地跡に立ちつくしました。苦闘の末開墾した土地は、人の住 まなくなったとたん、急速に70年前の元の姿に戻っていくようでした。

あれからさらに13年、もうあの開拓地も混沌の詩碑もうっそうとした藪に 覆われてしまったのでしょうか。あの日私は自然の持つ復元力に圧倒され、 この開拓地で50年の土着を貫いた吉野せいとその作品を思い、混沌の膨大 な詩篇を思い、無常というものを感じました。同時にこれで良かったのか もしれないと、さみしく『洟をたらした神』の舞台を去ったのでした。(2004年9月19日)
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