掘立川   古来からの人工河川

掘立川(ほったてがわ)は、古来からの人工の河川です。米沢市内の、旧市内と呼ばれる、昔からの民家が密集している地区を流れています。やがて松川と合流します。

私は、掘立川のそばで成長したと言えます。幼稚園は、当時掘立川ぞいの文殊橋のそばにありました。私の家は、文殊橋を渡る方向ではないのですが、橋を渡って、幼稚園に通っている子は、園長先生から、「橋から下を覗くと、神様に引きずり込まれるよ」と、橋の上から、川を覗きこむ、いたずら小僧に注意していました。「ぼくも、あの赤い橋を渡って、通いたいなあ」と、あこがれたものでした。
小学校の西側200mほどのところにも、掘立川が流れていました。学校が終わると、家の近い子は、釣り道具を持ってきて、フナ釣りをしていました。私は、家が近くなかったので、釣り道具を取りに行く余裕は無かったため、めったに釣りはしませんでした。
高校も、掘立川のそばにありましたので、毎日橋を渡って通学しました。周防殿堰橋です。
大学も堀立川のそばにありましたので、窓から川を見ることができる教室がありました。とくに私の所属の科は、掘立川沿いの、建物でしたので良く目にしました。
大学3年生のときに、引越しをして、堀立川に接する家となりました。部屋の窓から、掘立川を眺めて暮らしていました。昔なら、部屋の窓から釣り竿を出せば、釣りができたのにと、考えたこともありました。

春の掘立川 (2001年) 下流から上流に並べてあります
松川との合流点です。
今回の、4月の撮影で、2度には分けましたが、文殊橋から、この合流点まで、歩きながら、ゆっくりと景色を眺めながら来ました。たどった道を、逆に並べます。
一部、すぐそばを歩けない場所はありましたが、ほとんどすぐそばをあるけます。極論をいえば、掘立川は、出発点から、最終まで、ほとんど、そばを歩けると言ってもかまわないほどです。
(2001.4.29 E950)
掘立川大橋のオタカポッポの欄干と、向こうに見えるのは、米沢クリーンセンターと、その敷地の桜。クリーンセンターは、昔、処理場と呼ばれ、まわりに、なかなかのにおいを撒き散らしていましたが、今では、何をしているのかわからないほど、匂いは漏れていません。近くにある、母校である中学校では、私が在学中は、けっこうな匂いがただよってきていて、特に、一番近くにあたる、音楽室にいると、きびしかった思い出があります。5月の天気の良い日に、中学校の屋上で、遠くに、「白馬の騎士」を見ながらの昼のお弁当は、楽しいものでしたが、風向きが問題でした。
(2001.4.29 E950)
芦付橋と書いて、「よしつけはし」。ただし、一般には「よしつけばし」と呼びますが。
母校の中学校がすぐそばにありましたので、よく、ここらへんをうろつきました。当時は、ここが国道13号線でしたので、当時としては、交通量が大変多いところでした。今では、13号線はもっと東になりましたが、交通量は当時より増えていると思います。右は後で作られた、芦付橋歩道橋。
ここらへんの、小さな川には、フナやドジョウがたくさんいました。いまでは、その小川すら、存在しません。
(2001.4.29 E950)
中田橋。乗用車が、一台通れる幅しかありません。これでも重要な生活道路でしょう。
(2001.4.29 E950)
榎橋から下流方向に歩いて、日中橋を見る。このあたりは、様変わりして、「あいつの家はどこだっけ」と、30年以上前の記憶をたどるが、思い出せない。
(2001.4.29 E950
榎橋と、その橋の名前の由来になった、エゾエノキの大木。県の記念物に指定されている大木だが、今年の大雪で、枝が大きく折れてしまった。4月の時点でまだ、処理されていなくて、痛々しい姿を見せている。
小学校、中学校のころ、ここらへんでよく遊びました。ここらへんは、もう田んぼの中だったのですが、この橋を渡り、西に行くと、国体用に作られた、上杉スタジアムと、プールに行く。
榎橋の欄干には、エゾエノキのレリーフが掲げてある。
(2001.4.29 E950)
春日橋は、いわゆるSATY街道の重要な橋だが、そのすぐそばは、砂利道で、住民の生活道路となる。私の小学校時代の雰囲気をわずかに残す。
この日は、チェーンソーの音も大きく、両岸の木を伐採していた。用水路の掃除に等しい。
春日橋上流より、北方向を見る。
(2001.4.28 E950)
徳町橋は、車が通れません。私が小学校の頃も、木造でしたが、やはり車が通れる橋ではありませんでした。
今も車が通れないのは、良いことかもしれません。
自転車で通る人が多い、生活の橋です。
(2001.4.28 E950)
掘立川中央橋を上流より見る。この左側、西岸にスロープ、右側、東岸には、階段があります。階段は不明ですが、スロープは、重機を入れるためのものでしょうか。よく、雪が多い年は、川に捨てられた雪で、川が止められて、氾濫するのを防ぐため、堀立川では、川の除雪をする時があります。その重機を入れるためでしょうか。
(2001.4.28 E950)
周防殿堰橋と水門。「周防殿」と書いて、「すおどの」と、子供の頃は呼んでいました。たしかに、ほかのみんなも、「すおどの」と、呼んでいました。と、言う気がします。しかし、今、あらためて、橋の欄干を見ると、「すわどのせきはし」と、書いてあるではありませんか、「えっ」と、びっくりしました。「すわどの…」とは、読めないと思うのですが。
この橋を毎日渡って、3年間高校に通いました。そのころと、橋だけは変わっていません。川は、両岸、護岸工事されてしまいましたが。
(2001.4.28 E950)
文殊橋。左の杉林が文殊堂の鎮守の杜です。
このそばに、我が母校、「○×幼稚園」があったのですが、今はもっと、北の方に移転しました。それでも、掘立川沿いなのが、おもしろいのですが。
ここらへんで、お盆に、灯篭流しが行われます。灯篭は、下流で、すべて回収できるように、準備して行っているのが、現代の灯篭流しです。
(2001.4.28 E950)
御守町橋。欄干には、漢字の「御守町橋」は、あったが、ひらかなの方は、なぜかなかった。
遠くに、NTTのタワーが見える。この時期は、タワーに鯉のぼりがたくさん泳ぐ。残念ながら、このサイズの写真では、確認できません。
(2001.4.28 E950)
桂橋。
下水道が整ったせいか、どぶ臭いにおいがしない。
これから、掘立川はきれいになって行くのだろうか。それでも、昔の景色には、戻らないのだが。
(2001.4.28 E950)
掘立川橋より、南を見る。
まっすぐ、左側に流れるのが、掘立川。右側から、蛭川が合流する。蛭川は、米沢の下水道整備にともない、生活雑排水も少なくなり、この雪解けのシーズンでも、流量はわずかになった。
ちょうど合流点で、釣り竿を出している人がいた。まだ釣りができると言う驚きがありました。
(2001.4.22 E950)
掘立川と、蛭川の合流点から、掘立川橋を見る。上の写真の逆方向です。道路は、国道121号で、まっすぐ行くと、喜多方街道へとつながる。この付近で育った人を2人知っていますが、子供の頃は、川でよく魚を捕まえたといっています。ほんの30年前の話ですよ。
(2001.4.22 E950)
上の、合流点から、掘立川の南を眺める。
生活に密着した川なので、桜の木も植えてあります。
(2001.4.22 E950)
無足橋(むそくはし)より、北方向。桜がきれいでした。
(2001.4.22 E950)
田町橋。旗は、交通安全週間の旗です。
(2001.4.22 E950)
桶清水橋。南方向を見る。
建物は、山形大学工学部のゲストハウス。
掘立川には、赤い橋を多く見ます。
(2001.4.22 E950)
馬頭橋と桶清水橋の中間より、桶清水橋方向、つまり北方向を見る。右の桜は、山形大学工学部。その桜の陰の、当時、応用化学棟で、実験に明け暮れていた頃は、川など眺める余裕はなかったのです。
(2001.4.22 E950)
馬頭橋。南方向を見る。向こうには、JR米坂線の掘立川橋りょうが見える。
この橋の、右奥が、山形大学工学部の寮。先輩、後輩の皆様は、毎日この橋を渡って、通学していました。覚えていますか。
(2001.4.22 E950)
手前が、猿在家橋(さるざいけはし)。そして、赤い橋は、川の水を、掘立川の上を通す、水を通す橋。ここから南は、もはや用水路の感があります。山の源流部と違った趣が、この掘立川にはあります。
(2001.4.22 E950)
猿在家橋を渡るのは、この撮影で2度目となりました。猿在家橋は、現在では、生活のための橋ではないようです。この掘立川遊水地の工事のために作った橋なのでしょうか。この遊水地は、今年の大雪で、雪捨て場となり、予想外の役目を果たしました。まだかなりの雪がのこっていました。
(2001.4.22 E950)
弥彦橋。
掘立川遊水地の南側にあります。
ここらへんの橋は、新しくて、茶色に塗装してあります。
(2001.4.28 E950)
第一笹野橋より、上流の、南方向を見る。
第一と言いながら、なぜか、第二が、存在しない。この橋より、西側は、砂利の農道となるが、自転車のひとが通っていた。
この上流から、掘立川は急に細くなり、護岸は、コンクリートではなくなるため、農業用の用水路のように見える。
(2001.4.28 E950)
原口橋。
ここらへんで、掘立川は杉林の中に入っていく。
(2001.4.28 E950)
稲荷橋と、一本橋の間にある、直江兼継公の石碑。松川の直江堤以外に、石碑があることを今回はじめて知りました。この石碑の存在は、どのくらいの米沢市民が知っているでしょう。
この稲荷橋と、豊掘橋は不思議な橋で、橋に続く道路がありません。特に稲荷橋に限っては、橋の両側を、コンクリートのU字溝でふさがれていて、人と自転車ぐらいしか通れません。通ったとしても、道路が無いので、意味は無いのですが。そのため、橋の上が、ゴミだらけで、使われている様子がありません。摩訶不思議な橋です。新しい橋なのですが、どこが金を出して工事したのでしょうか。
(2001.4.28 E950)
一本橋。欄干が、灯篭のようなデザインの橋は、米沢でもここだけのように思いますが、すべての橋の写真を撮っていないので、断言はできません。
(2001.4.28 E950)
豊掘橋。ごらんのように、道が無いのです。こちら側は、かろうじて砂利道とも思えますが、向こう側は、単なる杉林です。ここでも、しっかり、掘立川の表示があります。
(2001.4.28 E950)


この上流は、まだ撮影に行っていませんので、時間があれば、行ってきます。
いったいどこまで、掘立川なのでしょう。ここらへんは、2万5千分の1の地形図では、細い一本の水色の線なので、ほとんど用水路レベルなのです。
大門橋。
(2001.4.29 E950)
百目貫橋と書いて、「どうめぬきばし」。
護岸が、なかなかおもしろい工事となっています。何年か経つとどうなるのか楽しみです。
(2001.4.29 E950)
上笹野橋から、下流の百目貫橋方向を見る。
護岸工事中。
(2001.4.29 E950)
実川橋の工事と、護岸工事。この上流で、掘立川は急に、農業用水の用水路のようになる。しかし、掘立川は掘立川の威厳があり、ほかの用水路とは、かなりちがう。それが歴史というところか。
(2001.4.29 E950)
南原中学校裏のあたりは、名前の無い橋が、6、このように、用水路にかかる橋の状態で存在する。欄干のない橋もある。ちょっと見ると、この先のどんづまりで、掘立川はスタートかと、勘違いしそうだが....
(2001.4.29 E950)
李山橋と歩道橋。ここで、掘立川は、白布街道の下をくぐり、李山、大平方面へ、扇状地を斜めに突っ切る。ここが、直江公のすばらしいところと感動。なにしろ、自然の河川では、絶対にありえない、扇状地を斜めに流れる川を掘ったのです。たしかに、川は流れています、しかし、私が当時の人間だったら、はたしてこのルートを考えつくでしょうか。
(2001.4.29 E950)
市布橋より、上流を見る。
もう、完全な用水路となっていても、橋には名前がついているし、きちんと掘立川の名前がある。
(2001.4.29 E950)
宮之前橋から、上流を見る。名前のある橋と無い橋がいくつか続く。
(2001.5.1 E950)
東李山橋から、上流方向を見る。
この道路は、大平方面に抜ける道路です。この用水路をちゃんとした掘立川とわかる人は、どのくらいいるでしょう。
(2001.5.1 E950)
前野在家橋をとばして、堀立川の橋で、名前のある橋の中では、最上流の、猿尾堰橋より、堰方向を見る。ここは、2001年になって、改修された。
(2001.5.1 E950)
龍師火帝の碑。
直江公が、ここにまつったという。
右が松川、左が掘立川。
(2001.5.1 E950)
掘立川はここから始まる。手前は、旧水門。むこうが新水門。
左が松川。松川の大平橋の下流部で、松川の水を引き込んで、やがては下流でまた、松川と合流する。
直江公は、すばらしい河川工事をしたものです。ここにくると、感激もひとしおです。
(2001.5.1 E950)
今年は、松川と羽黒川をメインにしていっていますので、掘立川は、ほんのすこしだけ書かせてもらいます。
掘立川、4月末版
(2001.4.24)
(2001.4.28 追加)
(2001.5.4 追加


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