『鳴らない鈴』2 片付けを終え食堂に向かった生徒を見送ってから、彼は練習室の戸締りを確認、消灯して、合宿所内の教職員用の個室へと向かった。 本来なら施錠したい処ではあるが………先ほどの女生徒、 の様に個人的に練習をする者も中には、いる。 そして練習室自体が、中庭をはさんで教職員用にあてがわれている個室と面している事もあって、彼としては珍しくこの例外を認めていた。 ――思った以上に指導が長引いてしまった。 最初は確かに、珍しく時間になっても食堂に現れない生徒を探していただけだったはずだ。 それが結局指導にすりかわってしまったのは、ひとえに彼女の練習に対する意欲に感心したからに他ならない。 だが、いささかそれが長引いてしまった感は否めない。 つい、指導に熱が入ってしまった事を省みながら、彼、氷室零一は不思議な ・・◇◆◇・・
目の前で、鈍い光沢の鈴が揺れていた。 それはいつ頃の事だったろうか。 枝に重そうに雪をのせた松の青さが目に付く、手入れの行き届いた庭。 手を引かれて抜けた先には、年を経て飴色に光る4枚戸の玄関。 その大きな戸を引いて中に入れば、奥からゆっくりとあの人――祖母が出てきた。 ご無沙汰をしていますと不義理を謝るのは、母だろうか。 確か、その家は父が――これは後から聞いた話だが、若くして飛び出した家のはずだった。 「お帰りなさい。――あぁ、ずいぶん大きくなって。良くおいでだね」 「……こんにちは」 その声に、少なからず自分に向けられたモノを感じ、教えられた通りに挨拶をした。 初めて会った着物姿の祖母は、まるでこの古い家の一部の様だ、と子供心に思ったのを覚えている。 その年は、父も母も精力的に演奏活動を――つまり、彼らの仕事に励んでいたのだろう。 小学校に上がる前の私は、月に何度か、幾日かづつをその古い日本家屋で、祖母とともにすごしていた。 「零一さん、お菓子を頂きましょう」 「はい」 祖母はまだ子どもの私に、きちんと敬称をつけて呼んだ。 当時の私にとって、それは、一人前に扱われている様でどこか面映く、しかし嬉しいものでもあった。 が、そうして子どもを大人扱いする反面、まるで子どもの様な好奇心や悪戯心を持ち合わせた人で――私たちは、至極うまくいっていた。 祖母に呼ばれて、その部屋を訪ねる。 穏やかな春の午後の日差しが差し込む縁側で、着物姿の祖母が菓子器と茶道具を用意して待っている。 「さぁ、早くおいでなさい。とっても美味しそうなんだから」 「今行きます」 祖母は私を振り返って、ワクワクと待ちきれないという様に笑った。 彼女が好んで腰を落ち着けているこの部屋は、手入れの行き届いた庭に面して、日当たりの良い部屋だった。 初めてこの部屋に入った時は驚いたのを覚えている。 家を外から見た時や、玄関を入った時は、自分にはあまり馴染みのない純和風の佇まいだったのが、この部屋は違った。 いわゆるシノワズリー、東洋趣味とでもいうのだろうか。 部屋の中央には色鮮やかな 「さっきね、淡海屋さんを覗いたらね、春のお菓子があってね」 それでどうしても、食べたくなってしまったのよ。と笑う祖母が差し出す菓子器に鎮座しているのは、春の花をかたどった色合いも優しい和菓子。 「零一さんには、洋菓子の方がいいかしらとも思ったんだけど………、ほら、綺麗でしょう?」 初めて見る菓子に、戸惑いつつ返事をためらっている私を祖母は不思議そうに覗き込んだ。 「――初めて食べるの?」 おずおずと頷く私を見て、祖母は得たりと破顔した。 「それは良かった。和菓子にした甲斐があったってもんだよ」 そして、私の手に菓子器をのせると、こうするんだよ――とその手を添えながら、黒文字で菓子を割り、食べる事を教えてくれた。 その菓子は、ほんのりと甘く素朴な味がした。 そして、また、私はその部屋で自由にピアノに触れる事も許されていた。 自宅には、父と母、それぞれのピアノがあったが、それは彼らにとっての仕事道具――いや、体の一部の様なものであり、まだ幼い私が自由に触れられるものではなかった。 気の向けば、父が使っていたというそのピアノの前に座り、耳から覚えた曲を指でたどり、ただ感じるままに音を鳴らし――時間を限られる事もなく、レッスンの様に指導を受けるワケでもなく、ただピアノと戯れる時間は私にとってはその家での大きな楽しみだった。 そんな時、祖母は大抵同じ部屋にいた。 繕い物をしたり、植物の世話をしていたり、あるいは本を読んだり………。 幼い子どものたどたどしい曲や、曲にすらなっていない音の羅列。 それらは決して快いばかりではないはずだが、どんな音を出そうと、祖母は一度としてそれを禁じた事はなかった。 春の菓子を食べ、夏には庭に引き込まれた流れに蛍を見、秋にはその紅葉の紅さを知り。 都会のマンション暮らしでは気付かなかった風物や、気配を、 そしてそれだけではなく、掃除から洗濯、料理まで家の中の細々とした事まで、 彼女が教えうる事は何でも、さも楽しげに、そして嬉しそうに私に教えてくれた。 そんな彼女の帯の前で、いつも鈴が揺れていた。 きりりと結んだ帯は、ちょうど当時の私の目線の高さにあった。 その日、私は泣いていたのだ。 理由は覚えていない。 就学前の児童が親元から離れているのだ。 いくら気の合う祖母が一緒にいても、おそらく淋しくなった事もあったのだろう。 ともかく、祖母に見つからない様に隠れて泣いていた。 が、それも子どものする事だ。 しばらくして、姿の見えない私を心配して探しに来た祖母にあっけなく見つかった。 「零一さん、こんな処にいたのかい?」 必死に頬を拭って、何気ない振りをしても、そう簡単に涙は止まってくれない。 それにもう目は真っ赤だ。 が、祖母はそれ以上何も言わず、黙って私を膝に抱き寄せた。 そしてずっと頭を撫でていた。 ――おそらく祖母は、親元から離れているのに泣きもせず駄々もこねず、我侭も言えない私を不憫に思っていたのだろう。 聞き分けよく、手のかからない子ども。 しかし、それは多忙で留守がちな親を持つ子どもの、精一杯の虚勢でしかなかった。 「零一、零一………」 優しく名前を呼び、頭を撫でる祖母の膝から、私はしばらく顔を上げる事ができなかった。 そして、やっと顔が上げられる様になった時には、今度はまともに祖母の顔が見られなかった。 視線は祖母の帯の上までで、それ以上、上には上げられない。 自然、帯の辺りを凝視する事になり………、私は苦しまぎれに尋ねた。 「それ………」 「ん? なんだい?」 「………鈴」 「あぁ、これかい」 ―― そのがま口ごと受け取った鈴は、その表面に花鳥が刻まれ、古い物らしく鈍く銀色に光っていた。 「こうやって根付けをつけておけば、財布が帯の中でどっかにいっちまったりしないだろ。 だからさ」 言われれば確かに。 常にその鈴は祖母の帯の前で揺れていた様に思う。 だが、しかしその音を聞いた覚えはなかった。 そっと持ち上げて、その鈴を二、三度振ってみる。 が、何の音もしなかった。 「あぁ、それはね――鳴らないのさ」 不思議そうな私の様子に、祖母が苦笑をもらした。 鳴らないのならば、鈴ではない。 更に訝しげな顔をする私に、祖母は笑みを深めた。 「でも、――――の時には鳴るのさ」 その笑みは、何かを懐かしむ様でもあり、愛しむ様でもあった。 そして、祖母は何度かその音を聞いたとも語った。 一体、それがどんな時にどんな音を鳴らすのか。 確かにそれを聞いたはずだったのに、私は思い出せなかった。 ・・◇◆◇・・
ふと、彼はスコアの見直しの作業の手をとめて時計を見上げた。 つい先ほどまで複数の楽器の音色が聞こえていたはずの向かいの練習室も、既に灯りが消えている。 どの位の時間、その思い出に沈んでいたものか――は、彼の唇から漏れた、諦めの吐息から推して知るべし、である。 が、しかしそのため息は、どこか安堵の滲む穏やかなものでもあった。 それは、鳴らない鈴が思い出させた懐かしい面影ゆえか………。 その面影の人は、もう20年近く前、彼が就学して間もなく彼岸の人となっている。 彼は席を立ち、今夜最後の仕事であるところの、合宿所内の戸締りの確認と見回りのために、部屋を後にしたのだった。 |
>BACK >>GSトップへ 素材提供:Angelic〜天使の時間〜様 まず最初に………今回は、ドリームの意味がありません。すみません〜(T▽T) そして、ほぼオリジナルです。 今後、氷室先生の家族構成についても、公式設定が発表されてくるかもしれませんが、 このシリーズの中では、この様に考えています。 どうぞご了承ください。 先生って、ご両親ともピアニストってんで、かなりおばあちゃん子だった様な気がするのです。 わたしの中では、先生に「柄つきタワシ」なる物の存在を教えたのは彼女だと言う事になっていたり……(^_^;A タイトルはそのまんま(すぎ?)でしたね(^_^;A 時間はゆるゆると進んで参ります。 こんな処まで読んで頂いてありがとうございました。(^^) |