『月の音』 2


「失礼しました」

職員室へ鍵を返し、廊下に出れば、ほんの十数分の間に、窓の外はすっかり薄闇の中に沈んでしまっていた。

「お疲れ様。それじゃ帰ろうか」
「はい」

廊下でを待っていた部長に、そう声をかけられ、一緒に生徒玄関へと向かう。
結局あの後。
自分が一番最後になったのに、部長に鍵を置きに行かせるのは、どうにも気が引けて仕方なかった。自分が鍵を置きに行くと言ったのだが、それは受け入れられず、しかし時間だけはどんどん迫っていて、なしくずしに一緒に職員室へ行く事となったのである。

並んで歩きながら、くすくすと笑いながら部長が言った。

「に、しても君も律儀な子だね」
「えっと………すみません」

結果として、せっかくの親切を無にした事になるのだろうか。
は自分の意固地さをここに至って反省しつつ、あわてて小さく謝る。

「ぃや、謝らなくっていいよ。むしろ褒めてるんだからね」
「はぁ………」

そんなの反応がツボにはまったのだろうか、更に笑いを深める部長に、釈然としないながらも一応返事をしておく。
なんとなくではあるが面白がられている様に感じるのは、の気のせいではないだろう、多分。
そうこうしている内にも、、生徒玄関にたどり着き、靴を履き替えて玄関に出たところで彼に訊ねられた。

さんは、電車? それともバス?
 良かったら駅まで一緒に――って、ちょっと待って」

が1人で夜道を歩く事を気遣っての言葉だったのだろう、が、途中で何かに気付いた様にその言葉が切られた。
彼が見ているのはの後ろである。
それにつられる様に、が振り向けば………

「やっぱり、氷室先生だ。ラッキー!」

折りしも職員専用の玄関から出てきたのは、長身の男性の人影――すなわち彼らの顧問で。
氷室先生、と手を振る部長に気付いた彼が、こちらを見た。

「望月、………そこで何をしている?」
「今から帰るところですよ」

いつもの調子でじろりと二人を一瞥する顧問に、これまたいつもの調子で部長が答える。
彼――望月部長の様に、氷室を前にしてこれほどいつも通りの人間を、は他には知らない。吹奏楽部の部長は伊達ではないらしい。
そんな彼が「さんもおいで」とを促しながら、氷室に歩み寄る。
が、彼のその次の言葉に、驚き、声もなく固まってしまった。

「氷室先生、もし良かったら彼女を送ってあげてくれませんか?」

自慢ではないが、いまだにこの顧問かつ担任の一瞥に、反射的に緊張してしまうである。
その思いもよらぬ申し出に、酸素の足りない金魚の様にパクパクと口を動かす事しか出来ない。

「こんな時間まで頑張って練習してたんですよ」

そんなの様子に気付いているのかいないのか、ニコニコと部長が続ける。
そして、更に信じられない事には、彼が答えた。

「問題ない。彼女の家は私の帰路にある」

――えっ?!
今度こそは、完全に動きを止めた。
申し出も申し出だったが、よもや、彼がそれを受け入れるとは思っていなかったのである。
そして当の部長は、と言えば。
「それじゃお願いします」と氷室に答えると、おろおろしているにニッコリ笑って手を振ると、さっさと行ってしまったのである。

「付いてきなさい」
「えっ?! あ、はい!!」

反射的に返事をし、駐車場へ向かう氷室の背中を追う。

「あ、あの! 駅まで送ってもらえれば良いので、部長も一緒に――っ」
「私の車は2シーターだ」
「へ?」
「つまり3人は乗れない」

そのの問いに足を止め、簡潔に答えた上で、常の授業と同様に「他に質問はあるか?」と言うまなざしがを見下ろす。
そう、いつもを緊張させるあのまなざし、である。
ともなれば、出る言葉(もの)も出はしない。
かくして、は車上の人となった。


・◇◆◇・


はばたき市の市街を、一台の車が走り抜けていく。
ヴァイオリンを思わせる流線型のボディも美しく、腹の底に響く――だが決して不快ではないエンジン音を響かせるその車は、市街を走るにはいささか違和感があったかもしれない。
本来なら、サーキットやアウトバーンの様な高速道路で、初めてその性能を遺憾なく発揮できるはずの車種である。
車など父の運転するワゴン程度しか知らないでも、それは何となく分かった。

職員駐車場に停められたその車を見た時は、珍しい車だな、程度にしか思わなかった。
が、ブルーブラックの車体を月光にしっとりと光らせている車に、氷室がまっすぐに歩み寄り、「乗りなさい」と促されて初めてそれが彼の車だと知った。


「あの、道は………」

普段、バスが通るのとは違う道に、恐る恐るが訊ねる。
もしかしたら、が道案内をしなければならないのかもしれない――と、左右逆の助手席から、隣の氷室を見上げれば、簡潔な答えが返ってくる。

「君の住所は、承知している。提出された学籍簿の住所に間違いでなければ、だが」
「は、はい!大丈夫です!」
「よろしい」

もしかして――いや、もしかしなくても、そう言うからには、彼はクラス全員の住所を把握しているのだろう。
車内に響くのは、その車のエンジン音のみ。
こんな時、ラジオなりCDなり何か音楽でもあれば、もう少し雰囲気も変わるのかもしれない。しかし、氷室本人はその気にならないのか、それとも元々車では音楽を聴かないのか、そんな素振りも見せない。

――氷室先生なら、車でもクラシックとか聴いてるんじゃないかな、と思ってたけどな。
  ちょっと意外かも………。

何とはなしにそう思う。
車内の沈黙と静けさは、どこかを落ち着かなくさせる。
ゆったりと体を受け止めてくれるシートの座り心地とは裏腹に。
それでも、何とかシートに体を落ち着けた時、彼が口を開いた。


「間もなく文化祭だ。 練習ははかどっているか?」
「はい。ええと………」

唐突な問いである。
反射的に返事をしながらも、その後が続かない。
練習と言われれば、部活動についての事だろう。
間もなく、と言うにはまだ少し文化祭まで日がある気もするが………。
見当はつく。
が、何をもってして「はかどる」とすれば良いのだろう。
無論毎日練習はしているが、どの程度自分が上達しているのかは、自身にはよく分からない。

「………頑張ります」

と、なれば、結局そうとしか答えられなくて。

「………私は中途半端が大嫌いだ。 今からでも出来る限りの事をしなさい」
「はい………」

そのの答えをどう捉えたのだろうか。
少しの間の後、氷室から帰ってきた返事は端的で、そしてこれ以上はないハッキリとしたものであった。


車は市街を抜け、住宅街へと滑る様に走っていく。
その後を追う様に、東の空にゆっくりと明るい月が姿を現す。
車窓に差し込むその明るい光にが空を見上げれば、白く輝く銀盤が空にかかっている。
やはり、夏に比べると空気が澄んで来ているのだろうか。
その光は金色というよりも、むしろ銀色に透きとおっている様に感じられる。

「仲秋の明月、だな」
「えっ?」
「正確には、明日が十五夜――中秋の名月だ」

不意にかけられた声にその声の主に向き直れば、しかし、その声の主は相変わらずしっかりと前方を見据えている。
運転中なのだから、それは当たり前なのかもしれないが………どうして月を見ている事が分かったんだろうと少し不思議に思う。
そのの視線を少し違った意味に受け止めたのか、更なる解説が追加される。

「十五夜は旧暦で八月十五日の月を指す。が、必ずしも満月とは限らない。
 実際の暦――太陰暦だが、と月齢との間には、数値にして平均1.02のズレがあるからだ。
 昨年の十五夜は十月一日だったが、満月はその翌日の二日だった。
 そもそも暦で言うところの十五夜は、新月から数えて14日目の月の事を指すのに対し、
 満月とは、地球の中心から見て太陽の方向と180度反対の方向に来た月を言う。
 そして新月から満月になるのに平均14.8日かかる。
 何故、ここで平均としての数値が提示されるか、と言えば、月の公転軌道が楕円形である事に起因した公転速度の変化が――」

淡々と、まるで百科事典か教科書を読み上げているかの様な解説が、よどみなくその唇から語られる。
月の公転………ケプラーの法則………
いきなり始まった地学の講義に、が目を白黒させているのに気付くと、小さなため息と共にその解説も切り上げられた。

「――要するに、満月と十五夜が一致する事は珍しい、という事だ。
 今年は、完全に一致している。
 そういう意味では一見の価値があるかもしれない」
「はぁ………そうなんですね」

そこまで要約されて、やっとにも氷室が長々と解説した意味が分かった。
十五夜が満月じゃない事がある、なんて知らなかった。
再び空を見上げれば、満月と見まごう銀の月が静かに輝いている。

「だから、こんなに………特別に綺麗なのかもしれませんね」
「――月は変わりはしない。
 十五夜であろうと、満月であろうと、それは見ている側の感じ方の問題だろう」

そして、満ちようとするその月は。
車がの家にたどり着くまでの短い間、静かにその後を付いてきていた。













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2003.06.19.

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素材提供:Angelic〜天使の時間〜















予定通り、本編の続きです(^^)
あぁ、先生!お久しぶりです〜!!(〃∇〃)オイ
今回は「初めてのドライブ」………じゃなくて、初めての先生の車
そしてゲーム中にも登場する下校イベントがモチーフです。

季節は全然違うのですが、月のお話など………(^^;
実は、今回調べて初めて知ったのですが、十五夜は必ずしも満月ではないのですね〜
ゲームの時間、2002年についていえば9月21日が十五夜で満月です。
(ちなみ2003年の十五夜は9月11日となる様です)
そして厳密に言えば、「仲秋の明月」と「中秋の名月」は意味が違うのです。
文中でも、氷室先生は両方を使っておりますが、これは間違いではなく
一応その意味の違いを踏まえての事です。
紛らわしいので一応ここでお断りを。(^_^;A

それにしても、月には色々な呼び名があったり、それにまつわる風習があったり………
古代から日本人がいかに月を愛していたのかが偲ばれますね


こんな処まで読んで頂いてありがとうございました。(^^)