『月の音』 5 最後の拍を力強く刻んだタクトが、その動きを止める一瞬、全ての音が集約する。 無音という最後の音の余韻が、そのタクトの先端に集中しているのだ。 時間にしてみれば、ほんの数秒、わずかな間である。 だがしかし、そのわずかな動きに集中している人間にとっては、十分な長さを持つ。 その証拠に、ふと動きを取り戻し、下げられたその指揮棒に、ホッという吐息が音楽室内のそこかしこで漏れた。 「………結構。 発表まで残り3週間。現時点としては、まずまずと言っていいだろう。 例年にない、早い仕上がりだ」 指揮台に、タクト――指揮棒を置き、彼、氷室零一は言った。 その言葉に、演奏の緊張感がとけた部員たちから、ざわめきが上がる。 「が、あくまでも現時点では、だ。 我が吹奏楽部が目指すのは、あくまでも完全な調和――ハーモニーだ」 そんなざわめきを制するように、彼の言葉が続けられる。 途端にピタリと静まるのは、さすが吹奏楽部………と言うか、つきあいが長いだけはある。 そんな部員の様子を見渡し、きっぱりと挑戦的な言葉が言い渡される。 「――各自、更なる 以上だ」 そして、この日の全体練習は終わりを告げた。 室内は、1日の練習を終えた充実感、あるいは開放感といったものであふれている。 自身、早朝からの練習に決して疲れていないワケではないが、その感覚は同じだ。 何とか、合奏のテンポにも着いていけた。 一番心配だったソロの部分も、運良く、間違えずに吹くことが出来た。 (ソロについては、いまだに二回に一度はどこかしらミスしてしまうのだ。) そして、先ほどの総括である。 あれは、今までが聞いた中でも、最大級の賛辞だった。 それらの与えてくれる達成感は、多少の疲れすら心地よく感じさせてくれた。 楽器を丁寧に柔らかい布で拭い、ケースに納める。 楽譜を閉じて、ペンをペンケースに戻し………。 そんな達成感の中で、隣のパートの同級生と言葉を交わしながら、片づけをしていたの前に、長身の影が立った。 「」 不思議に思って振り仰げば、顧問である氷室零一がそこにいた。 いつもと何ら変わりのない、冷徹な視線がを見下ろす。 「はい、何でしょう?」 背が高い人間に真上から見下ろされると妙な威圧感を伴う。 隣の友人が体を固くするのを視界の隅にとらえつつ、は素直に返事をして立ち上がった。 「先ほどのソロだが……、成功率は何%だ?」 いつもながら、唐突な問いかけである。いや、あまりにも端的と言うべきか。 必要最低限な言葉を残して、その他の言葉を徹底的にそぎ落とした結果、こうなるのだろう。 そして、やはり………と言うべきか。 のソロ、その成功率が決して高くは無い事を、彼は見抜いていたのだ。 「えっと、多分………50%前後かと」 バツが悪そうに視線を落とし、おずおずと答えると、氷室の間に、わずかな沈黙が下りる。 「………100%だ」 「えっ?」 が、その沈黙は、小さなため息とその後に続けられた強い言葉――決して大きな声ではないが――によってすぐに打ち破られた。 思わずも再び氷室を見上げてしまう。 「当日までに100%にする様に。返事は?」 「はっ、はいっ!!」 反射的に背筋を伸ばし、大きな声で返事をするに、やっと彼が頷いた。 「よろしい。 あのパッセージの表現は、情感があってよろしい。 が、ミスをしては元も子も無い」 そして、淡々と続けられる言葉に、ふとは思った。 ――これって、もしかして………褒められてる、のかな? 相変わらず表情の少ない顧問その人の顔を、思わず、じっと見てしまう。 が、無論、そこに何かしらの表情の変化や答えがあるはずもなく、その答えは得られる事は無い。 ………ぃや、あった。 彼のその言葉になかなか返事をしないに、メガネの奥の目が、ほんの少し細められた。 「………?」 「は、はい!頑張ります!!」 その言葉に「よろしい」と頷いて彼は去っていった。 彼が去り、が席に座ると、隣で大きなため息がもれた。 「ちゃん、大変だったね。 ホント氷室先生って怖いもん」 「あはは………」 しみじみと、心からの同情がこめられたその言葉に、としては苦笑するしかない。 曖昧に笑って、片づけを再開する。 「細かいし、厳しいし、お小言ばっかりで、滅多に褒めてくれないし」 氷室が去ったのを確かめつつも、そういう声が小さくなるのは、やはりそれが彼女の本音だからなのだろうか。 が、その最後の言葉に何か引っかかるものを感じて、の片付けの手が止まった。 「え? でもさっき、褒めてくれてたじゃない?」 「えぇっ?いつ?」 「だから………まずまずだって」 ――さすがに自分の事を引き合いに出すのは、何となく気が引けてそう答えると、今度は相手の手が止まった。 「………あれって褒めてる内に入るの?」 「………えっと、入らない?」 真面目に聞き返されても、にも答えられはしない。 二人して顔を見合わせて、あははと笑う。 「普通、あれは褒めてる事にならないよ〜」と盛大なため息と苦笑いと共に帰ってきた答えに、もそれ以上の事は何も言えなかった。 ・・◇◆◇・・ はばたき駅から出るバスに乗って、が下りるバス亭までは20分ほどである。 駅までは友達と一緒に帰ることが多いが、そこから先、は大抵一人になる。 ある者は電車で、またある者は同様バスで――ただし路線は違うが――それぞれの家路を辿っていく。 一人になり、バスに乗ってその座席の一つに体を落ち着ければ、思い出した様にじんわりと疲れが顔を覗かせる。 その疲れに、ホッと小さなため息をこぼして、は座席の背もたれに体を預けた。 ――文化祭まで、後3週間かぁ。 先ほどの氷室の言葉が思い返される。 ――残り50%、何とかしなくっちゃ。 こればかりは、練習を重ねるしか、ない。 その期間が残り3週間、というのを短いと取るか、十分ととるか………。 そこまで考えて、ふとの脳裏を一人の面影がよぎった。 ――きっと氷室先生なら……… そう、彼だったなら。 きっと、十分だというに違いない。 それなら、おそらく本当に十分なのだろう。 実際にそう言われたわけでもないのに、何故か確信めいたものを感じ、 そしてその確信に随分救われた気がして、はクスリと小さく笑いをもらした。 今は確かに50%の成功率しかないけれど。 それを、5回に3回、3回に2回、と少しづつあげていけばいい。 バスを降り。 ふと空を見上げれば、ゆっくりと東から上り始める月が見える。 秋の空気に、冴え冴えとした光を投げかけるその月の姿はしかし、真円には少し欠け、の記憶を呼び覚ます。 その月の素性について詳細な解説を聞いたのは、ちょうど1ヶ月ほど前であったか………。 その姿は同じ。変わらず美しい。 だがしかし。 その姿が同じに見えても、満ちゆく月と欠けゆく月が決して同じではない様に。 もまた、 月の明るい秋の宵。 かすかに遠く、鈴の音が響いた。 |
>BACK >>GSトップへ 素材提供:Angelic〜天使の時間〜様 一月近くお待たせしてしまいました(^^; 月の音、これで何とか完結です。 続きからは次章の予定です。おつきあいありがとうございました。 月と音はどちらも大好きなモチーフです。 イメージがどんどん広がっていくというか……… この章では、めいっぱいモチーフの力を借りた気がします(^^; これからは、少しづつですが時間の流れも速くなっていく予定です。(ホントか?!) こんな処まで読んで頂いてありがとうございました。(^^) |