ジャンボ、ハバリ!―てるおさんのアフリカのページ
●「ジャンボ、ハバリ」とは中東部のアフリカで広く使われているスワヒリ語で「こんにちは、ごきげんいかが?」という意味の挨拶です。
小学生のころから通って(?)たてるおさんのアフリカへの思いなんかを書きます!

 僕が初めてアフリカへ行ったのは1976年12月30日、小学6年生の冬休みのことでした。
 昔からアフリカの特に自然や野生動物が大好きで一人旅をしてたパパが、この時初めてママと僕を
「そろそろよかろう」と東アフリカのケニアとタンザニアへ連れて行ってくれたのです。それまでほとんど外国に行った事がなかった僕は日本とまるで何から何まで違うアフリカの姿を見て世界がひっくり返るような気分でした!
一面草、草、草、そこにまた一面シマウマや、象、ヌー、インパラなんかの動物、動物、動物・・・。 日本て何て小さいのだろうって思った。

 次に翌年の暮、今度はパパやママと一緒に入った東アフリカの好きな人たちの同好会で自主的に組んだツアーグループの最初の企画旅行でまたケニアに行った。 この時は大自然も素晴らしかったが、ナイロビに住んでたパパの友人の豪邸に招待された時、そこで知り合った日本人にケニアの最多数の部族「キクユ族」の言葉を少し教えてもらい、アフリカの文化面や社会面にも少しだけ興味を持ちました。この時手書きで作った「キクユ語」と日本語の簡単なハンドブックが後で色々と役にたちました。

その翌年、中2で今度はケニアに親子3人の旅行をしました。このときはまずセイシェルズ諸島・・高中正義もその名前がついた音楽を発表している、気持ちのいい南洋の島々です・・にまず行き、そこでトロピカルアイランドを楽しみ、その後ケニアでサファリをする予定でした。ところが初めて見るセイシェルズの海の美しさに感動した僕はついはめを外してか、海水浴などし過ぎ、風邪をひいて熱をだし、寝込んでしまったのです。そして少しよくなってケニアに行ったのですが、今度はそこでまた風邪が悪化し、ロッジで寝込んでしまいました。そして真っ赤な発疹が顔といわず体といわず、あちこちに出始めたのです。そして予定を早めに切り上げてマサイマラのロッジを予約して、車に揺られてそこまで辿りついた僕は、やれやれと思って、パパとママと一緒にロッジのレストランでお昼を食べ始めました。ところが食べるうちなんだか、寒くてゾクゾクしてきました。そのことをパパに言ったら、「悪寒かもしれない」といって熱を測りました。するとなんと9度以上の熱があり、「こりゃいかん」ということで、ロッジをすぐキャンセルしてナイロビの病院で診察してもらう手はずを整えて車でそこに行きました。このドライヴはほんとしんどかった〜! とにかくそうして急遽「私立ナイロビ病院」に入院することになりました。診察の後車椅子で最高の個室に運ばれそこに1週間入院しました。診察の結果僕は風邪で体力が弱っていたところで、ケニア入国後に「インフェクシャスモノノクレオシス」という白血球が増加する熱病にかかっていたことが分かりました。これはケニアでは別に珍しい病気ではなく、幸い特効薬もあり、直ぐに治る、という話でした。日本でも第二次大戦中は南方戦線でこれにかかった兵士が沢山いたそうで、そのことに詳しいお医者さんがパパに後で「ケニアだったからよかったけど日本でかかっていたら却ってあぶなかったかも」と言われたそうです。とにかくこの病院での1週間は高熱と発疹にうなされる悲惨な日々であると同時に、極めて贅沢で面白い日々でした。日本でなら決して味わえない綺麗な部屋で食事は制限つきではありますが、メニューの中から好きなものを選べますし、その献立もかなりゴージャスなものが多かったです。まるで一流ホテルのサービスみたいでした。パパの友達でケニアに住んでいる人や旅行中の人たちが色々訪ねてきてくれましたし、現地の商社の駐在員の人が漫画を山のように貸してくれましたので、入院中は退屈しませんでした(笑)。お医者さんはルオー族(キクユ族についで多数派の部族)の人で、看護婦さんはキクユ族の人が多かったのですが、皆とても親切で、当時スワヒリ語やキクユ語はおろか英語すらろくに話せなかった僕が彼らの親切でなんとか直感的なジェスチャー等の「肌のコミュニケーション」をとることができたのはこの病院の医療関係者の人々の人間性によるところが大きいです。皆必死に僕の治療や看護をしてくれましたので、今でもケニアの医療に対して僕は好意的です。医療設備や医薬品の不足等勿論難点は色々あるものの、最近日本の医療がその世界最高水準をキープしながらも色々と問題の多いことに較べると、皮肉な話ですが、僕はケニアの医療が好きです、それに命を救われたわけですし・・。 またこの入院生活で、キクユ語の実践的な訓練も少しだけできましたし、語彙も増やす事ができました。そして前述の食事チョイスの他、当時日本では殆ど見られなかった医師が外部から通ってくるオープンシステムとか、英国の慣習に習ってしょっちゅう出される紅茶サービスとか、毎朝お尻に打たれる馬ののような大〜きくてとっても痛い注射とか、いろいろ面白いことがあって、あとから思えばよい体験、思い出になりました、その時は死ぬような思いでしたけど・・。 退院後、ナイロビの日本料理屋さんで交渉の上、夜しかやらないしゃぶしゃぶを特別に昼間注文してやってもらい、「退院祝い」をしてもらいました。ほんと色々な人のお世話になった旅行でした。

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