バラナシ編

3月8日。夜、電車はバラナシに向けて出発。このジャンシー(からだったかなぁ?)−バラナシ間は、初心者の僕らは車中1泊するということもあり、一等列車、つまり鍵のかかる個室の寝台車を取った。そこそこ立派な4人1組の個室には、僕ら3人の他に1人のインド人ビジネスマンがいた。

「じゃ〜ん」夜半、僕は気持ちが悪くなった後、水が欲しくなり、眠くなった。「ついに来たな〜」と思いトイレに駆け込むとひどり下痢。僕はもともと胃腸が弱いということもあるし、下痢をしないと今では海外に来た気さえしないくらいに慣れてしまってはいるが、このときは僕にとって初めての体験であり、むちゃくちゃ辛かった。10分〜20分に1回はトイレに行かざるを得ない。何回トイレに行ったがわからないが、そのうちカバンからの出し入れが面倒になり、トレペを枕にして寝た。イーシャンに「とうとうやってしまいました」と告げると、イーシャンはまた寝てしまった。

3月9日。同室だったインド人ビジネスマンがアラーハーバードで降りた。このときほど、水とペプシを欲したことはない。下痢は止まらず、熱は38℃あり、あたまはくらくらしていた。イーシャンとミッチャンはやさしかった。濡れタオルを作って頭を冷やしたりしてくれた。

11時頃バラナシカント駅に到着。バラナシこそ今回の旅のハイライトというか、もっとも期待を寄せていた、ヒンドゥー教の一大聖地である。遠藤周作の『深い河』の舞台でもある。ヒンドゥー教の聖者はここを目指して歩き、途中で辿り着けず死んでしまうものもいるし、ここで死ねたら本望と、ここで死ぬまで喜捨だけで(乞食して)生きている聖者も多い。インドの喧騒と混沌の頂点みたいなところである。民衆と客引きでごったがえしている駅前で、リキシャを拾い、ガンガー(ガンジス川)近くのゴードウリヤー交差点まで30Rs。イーシャンとミッチャンは僕に気を使ってくれて、ホテルビジャイインターナショナルという、僕らの予算オーバーだったけど、しっかり休めそうなホテルをセレクトしてくれた。

イーシャンとミッチャン二人は、どちらか1人はホテルの部屋に残って僕に付き合ってくれ、交代でパトロールするかのようにバラナシの街を見て回り、みかんはバナナや水などを買ってきてくれた。1日中寝るかトイレ行くかを繰り返し朦朧とする中、二人の話をベッドから聞いていると、二人はダシャシュワメートガートと呼ばれるメインの沐浴場を見てきたようだ。日記帳には「自分が宇宙的に悔しかった」とそのユニバーサルな歴史が書き記されている。

3月10日。たぶん朝起きた。熱を計ったら37℃以下になっており、下痢はそのままだが、気分的にだいぶよくなってきたようだ。ホテルガンジスのレストランで朝食を食べた後、昼まで僕は念のため部屋で謹慎し、イーシャンとミッチャンは街を見て回り、ビールを飲んできたらしい。

昼になり、僕は外を歩けるくらいまで回復したので、人混みをかき分け、念願のダシャシュワメードガートを見に行く。想像以上にガンガーはでかい。そこらへんのガート(川へと降りる階段みたいなところ。これがヒンドゥー教徒にとって神聖なところなのです)に座り、ミッチャンは手紙を書いた。するとボートこぎのおっさんが現れ、1時間60Rsでボートに乗ることになった。

人だらけのバラナシ。

ガンガーをボートはゆっくりと進んでいく。マニカルニカガートが見えた。僕らがその前を通過するとき、ちょうど人を焼いていた。そう、マニカルニカガートってのは写真は撮っちゃいけないけど、オープンな火葬場なのです。匂いがした。人の形が見えた。頭が焼けているところが見えた。この彼(彼女)の灰はガンガーに流されるのだ。インドの9割を占めるヒンドゥー教徒は、このガンガーに帰ることこそが理想なのだ。

雨期になったら水かさが増して無くなってしまうらしい、ガンガーの向こう岸へ到着。貝殻が落ちており、拾い上げると誰かの骨だった。ボートのおっさんいわく、それはヒトのヒザの骨らしい。この岸には頭蓋骨も落っこちていた。この世の全てを受け入れるガンガーはゆったりと流れる。

3月11日。ガンガーから登ってくる日の出を見るため早起きした。そして、ガンガーから太陽のような太陽が見えた。素直にガンガーの虜になった僕らは、またしてもボートに乗る。葉っぱの上に花とローソクをのっけてガンガーに流すと、グッドラックらしい。5才くらいの兄弟に5Rs渡し、ヒンドゥー的灯籠流しをする。

ガンガーから朝日を拝む。

ガンガーにどっぷりと影響を受け、あっけなく世界観を変えられた僕らは、あっけなく現実世界に戻り、駅近くのエアインディアに行き、帰りのチケットのリコンファームをする。このときイーシャンのエアチケットはぼろぼろで、10cm中9cmくらい破けた状態になっており、「あと1cm破けてたら使い物にならなかったよ」と言われた曖昧な記憶がある。このときセロテで補強してもらったんだっけかな?ここで2人組の日本人の女の子に会ったが、この子たちにはネパールで再び再会した気がする。「風邪薬持ってますか?」と聞かれたらしいが、日記帳にその回答が書き込まれておらず、どうしたかは思い出せない。

僕ら3人は『深い河』の舞台にもなっている、ホテルドパリに行き、ちょっとリッチな昼メシを食す。ビシュナワートロードをぷらぷら歩きながら観光した後、ガンガーに向かうと、そこらへんにいたガキンチョから、色つき水風船を投げつけられた。そう、ヒンドゥー教徒が春の到来を喜び、色の付いた粉や水をかけ合うお祭り「ホーリー」の日が近いのだ。

1度は僕もガンガーで沐浴してみたいと考えていたし、ちょうど風呂にも数日入っていなかったので、洗濯と風呂と沐浴を兼ね、ガンガーに入った。ガンガーは気分的に暖かかく、包み込まれるようだった。

(左)ガンガーで体を洗う僕。(右)自称ストロングマン。

3月12日。残念ながら、ここらへんから、日記帳の書き込みが薄くなってしまっている。この日も早起きして、マニカルニカガートを見に行く。このバラナシにいる物売りの子供達は、とにかく元気でパワホーだった気がする。この日は終日ぷらぷら買い物をして歩き、ショールを買ったり、アメやビスケットを買ったり、くだらんおもちゃを買ったりと歩き回った。ちなみに、工場排水や生活排水や死体や遺灰すべてをそのまま受け入れる、どんよりと濁ったガンガーに、日本で言えばどぶ川に沐浴したら、あんだけ苦しんだ下痢があっという間に、すっかり治ってしまった。さすが。

3月13日。この日は休日といか祭日「ホーリー」である。ガイドブックには、粉をかけ合ってえらい目に遭うし、女の子は外国人観光客でも平気で胸を掴まれる、とガイドブックに書いてあったこともあり、昼過ぎまでホテルに缶詰になる。ホテルの従業員が「ハッピーホーリー!」部屋にやってきて、顔に赤い粉を塗られた。この日の昼飯はホテルのルームサービスを頼んだが、正露丸入りお好み焼きみたいなのがでてきて、まずくて臭くて全然食えず。

夕方クルータパジャマを着用し、正装して外に出ると、大方お祭り騒ぎは収まったようで、戦いを終えた人々が、服を赤や紫で染めて歩いていた。バラナシ最後の夜は、ヌードルスープとビールで乾杯。