2.アフガニスタン最前線ペシャワールへ。(インド・パキスタン)

Attack.1 From Delhi to Peshawar 1,2338.8km

(2003年10月26日〜2003年11月30日)

 

 

 

<26.Oct.2003 Day-8>

From Delhi to Panipat 96.2km

「出発前のチャリダー、特に海外の見知らぬ街へ向かって走りはじめるチャリダーは、リングに上がる前のボクサーの精神状態に近いと思いませんか?」

やっぱり、日中30度近くあるところで70kgの荷物しょって何時間も走るってのは大変なことだと思い出した。

途中、これじゃ予定通り着かないんじゃないかと思うくらいばてたものの、最後の一本はすべて立ちこぎ!無事予定のパーニーパットへ到着。この初日に予定通りつけたということが僕への自信つまりすべてである。

夜、高級なチキンカリーしかないところで贅沢な夜飯をとったあと、出張エンジニアをしているインド人とホテルの部屋で会談したあと、蚊に悩まされながらツーリング初日を終了。

<27.Oct.2003 Day-9>

From Panipat to Karnal 39.3km

本日の行程はたいした距離ではないため、ゆっくり朝ストレッチしたあと出発。朝パーニーパット周辺は大渋滞。そんななかマドンナを聞きながら走る妙。ガソリンスタンドの近くで1本めの休憩を取ったら、トラック野郎がわんさか集まってきてしまい、いい失敗弾となる。2本目の休憩では気前の良い兄さんがバナナシェイクを作ったくれたものの、2Lくらいアホみたいな量が出てきて、アホみたいに飲み干す妙。なんとなくホテルがあるのはこっちかなぁという「臭い」だけで走り、ホテルアカッシュディープを発見。ここの従業員のお兄さん方はほんといい人ばっかだった。夜飯はホテルでカレー。また、生水の摂取を開始した。

<28.Oct.2003 Day-10>

From Karnal to Ambala 85.9km

ホテルを出る前「もしまたこのルートでカーナルに戻ってくるなら、絶対寄ってくれよなっ!」と熱いエールをもらい出発。ほんといい人ばっかだった。

筋肉を作るためにもフルパワーで走行する。もちろん腹が減る。昼大量のベジタブルヌードル(日本でいう焼きそば)を食らい、猛烈に走る。今回の失敗の一つとして、自転車のサドルと自分のケツが合わないせいか、むちゃくちゃケツが痛い。目眩がするほどケツが痛くなるのだが、目眩を忘れるくらいに吹っ飛ばす。まだ筋肉が出来ていないせいか、道がずっと登っているように感じる。しかも体温は走れば走るほど上昇する。

4本走って無事アンバラの街に到着。たまたま覗いてみたHOTEL KWALITYは一泊950Rsと非常に高いホテルだったが、えらくしっかりしており気に入った。アンバラで当初は3泊の予定ではあったが、筋肉を創るためにも2泊にしようと考えていたので、結局1泊400Rsで折り合いがついた。最後の「精いっぱいサービスしますんで!」というインドではあんまり聞いたことの無い台詞が効いたのかもしれない。

ゆっくりしたあと、ジュースを買いに行こうとしたり、タバコを買いに行こうとしたりすると「あんたはチャリダーで疲れているんだから、部屋でゆっくりしてなさいよっ!」と言われ、一歩も外へ出ることができず。しかも飯もルームサービスですべて部屋からの電話一本で用が足りてしまう素晴らしいホテルだった。

夜、なんだか日本に行ったことのあるという、このホテルの夜勤ビジャイさんと会談。むちゃくちゃ日本語が上手かった。コーヒーをごちそうになり「明日その時の写真をもってくるんで楽しみにしてくださいよ」と言われ、明日を楽しみに就寝。

<29.Oct.2003 Day-11>

Stay Ambala

ゆっくり起床し洗濯を行なう。こっそりホテルを抜け出し、チェック(トラベラーズチェック)を両替しに行ったら結局銀行を4件もまわるはめになってしまった。やはりどこの街でも両替可能とは考えてはいけないんだろうか。

ホテルへ戻る手前で、インド軍の中古服を扱う店(中田商店みたいなとこ)の兄さんからお茶によばれる。結局チャイを5杯くらいおごってもらい、合計3時間くらいお話して、入れ替わり立ち代わり10人くらいの人たちと会談した。バイクの後ろに乗っけてもらい、連れてってもらったチャイ屋のサモーサー(じゃがいもを揚げたスナック)がむちゃくちゃ美味かった。とにかくパキスタンの悪口でえらく盛り上がっていた。

夜、急に「どかじゃーん」という音がし、何かと思ったらこのホテルで結婚披露宴が始まるとの事。日本でも同じだが皆さんおめかししてました。その後約束どおりビジャイさんが、日本に遊びに行ったときの写真を持って部屋に来てくれた。どういう経緯があったのかは不明だが、「いとうさんとさとうさん一家」と仲良くなったらしく、鎌倉やらディズニーランドやら後楽園やら西部園やらいろいろと連れていってもらったらしく、本当に楽しかったらしい。やはり、その「いとうさんとさとうさん一家」がしっかりとおもてなしをしたんだなぁ。そしてやっぱりおもてなしって重要なんだなぁとつくづく思った。そしてインドに来て始めてだが、このホテルの名前の入ったペンを10本もらう。今まで20本以上インド人にせがまれてあげてばっかりだったが・・。

そのあと今度は、先ほどホテルの廊下で一緒に結婚式を見ていたコーシュクさんが僕のお部屋に来る。彼はコルカタ(カルカッタ)の出身で、プロカメラマンをやっており、ネパールや韓国やタイなど仏教国をまわっているらしい。僕の持っていたアナログカメラを見て「あぁ、オリンパスのμ-Uね、F値が2.8の・・」と非常にカメラには詳しい兄さんだった。また彼はブッダガヤというところに何年間かおり、ヒンドゥー教徒から仏教徒になったという、なかなかおもしろい経歴を持った兄さんだった。メアドを交換する。

<30.Oct.2003 Day-12>

From Ambala to Kannna 102.2km

う〜ん、非常にいいホテルだった。ホテルをチェックアウトする際、夜勤をやっていたビジャイさんから「是非とも日本でも紹介してください」と言われ、名刺をもらった。ただどう紹介したらようわからんので、意味はないかもしれませんが住所記載します。Address;Hotel Kwality Nicholson Road,Guru Nanak Marg,Ambala Cantt-133001-Haryana Tel;0171-2643080

良いことがあれば悪いことも起きるのがこの世の常。出発しようとすると、地図を取り付けるホルダーの部品が無くなっていることに気づく。2本目を走っている時に、右側のペダルのトゥクリップ(ペダルに紐を取り付け、ペダルを押すだけではなく、引っ張る力も加えられるようにするもの。今回はトゥクリップを通常のプラスチック製では半年持たないと判断し、ジェラルミン製にした)を踏みつけてしまったせいか、曲がってしまっているのを発見した。昼飯をしっかりと食べ(チーズトマトカリー+チャパティ+生野菜サラダ)その曲がっている部分を直そうとペンチで「くいっ」と曲げたらあっさりと折れてしまった・・。至急インシュロック(ケーブルタイ)で補強し出発。この時自転車によってたかって集まって見ていた10人くらいの人達の視線は冷たかった・・。気を取り直して走り始めるとなんか動きが変?である。すぐに自転車を止めて(これはいい判断だった)見たところ、思いっきり釘が刺さってパンクしている。今日は今回自転車こぎ初めて一番長丁場の「1日120km」を目標していたのにどんどん時間が無くなってくる。大至急荷物をすべて取り外し、タイヤを外し、チューブ交換。ちなみにこの時に集まってみていたインド人の数は30人くらい。えてしてRoni Sizeを聞いている時ってのはあんまり良くないことが起きる気がする。100km走った所で5本目の休憩をとりコーラを飲むがもう夕方4時。(5時半には暗くなる)休憩を取ったレストランをよく見てみると「Beer Bar」と書いてある。聞くと200Rsで泊まれるらしい。あと25kmはあったものの、明日挽回できる距離であり、何しろパキスタンに入ってしまったら、いちいちお金払って許可証を取らないとお酒が飲めないイスラム国家なので酒は飲めなくなるだろうと思い、最後のビールもいいだろうということで宿泊を決定。

夜、ビール(King Fisher)とチキンチリ(これは80Rsと高かったがマジ美味かった。玉ねぎの甘さと玉ねぎを甘くした太陽に感謝)で一人最後の晩餐をしてコロッと寝る。

<31.Oct.2003 Day-13>

From Kannna to Jalandar 95.8km

朝適当にオムレツを作ってもらう。外では「コケコッコー!」と勢いよくニワトリたちが走り回っている。そういえば昨日チキンチリを作ってもらうよう頼んだ時「Fleshな奴を持っていくからよぉ。何時頃部屋に持ってけばいいかぃ?」と言っていたことを思い出す。

一本目の休憩。チャイとチョココロネで5Rs。今回は国道沿いのレストラン(ドライブインみたいなところ)で休憩をとらず、キオスク的なチャイ屋でよく休憩を取った。やはり僕の胃腸は、国道沿いのレストランにあるような300mlのコーラやファンタといった炭酸ジュースを、1時間に1本飲めるほど強くないので、チャイとミネラルウォター作戦をとり成功したと考えている。

昼は昨日と同じくトマトチーズカリー+チャパティをとる。やはりトマトが入ると多少辛さが紛れる。(僕は辛いの好きですが弱いのです)3本目の休憩で火器(外で食事を作る時用のコンロ)のガソリンを購入する。ただ、本来であればレギュラーガソリンが欲しかったものの軽油しかなかったため、やむなく軽油を1.5Lスタンドで入れてもらう。(30Rs)

目標のジャランダーに着くが結構大きな街で、ウィンピー(デリーにもあるハンバーガー屋)もある。適当に臭いをかいでホテルを探すがどこも高い。結局バススタンドの裏手にあるRaju Guest Houseに宿泊を決定するが(150Rs)窓に扉無く蚊が入り放題。外をぷらついた後、夜飯を適当にホテルで食い(ダールとローティと漬物で10Rs)(時期なのか場所なのかわからんが、カレーを食うとだいたい漬物みたいな感じで生の大根が何切れか付いてきた。結構野菜を感じて美味かったりする)部屋に戻るとホテルのオーナーの息子がやってきてチャイごちそうになり会談。このくらいのレベルの英語力だと英会話が成り立つ。

さぁ寝ようかなと思うと、この自転車を止めてあるホテルの隣の公営駐輪場からチリンチリン音がする。ホテルの廊下から見てみると、なんだかその公営の駐輪場で受付をやっている兄さんが僕の自転車を乗り回している。最初は「大丈夫ロックしなくていいよっ」と言っていたものの、自転車を乗り回せないようにするため、自転車を壁と括り付けるように鍵をして就寝。

<1.Nov.2003 Day-14>

From Jalandar to Amritsar 97.0km

朝5時半と早めに起きる。というのも昨日の駐輪場の兄さんが「鍵してもいいけど、スクーターとかも入ってくるから明日朝早くどかしてよ」といわれていたため、意地になって駐輪場が開く朝6時前に目を覚ましたのだ。そして出発の用意をしたものの、外は真っ暗!駐輪場にも誰もいない。結局7時半に出発。出発の際、このホテルのおやじから名刺をもらう。頑固でうるさそうな感じだった(実際うるさかった)けど愛敬のあるいいおやじだった。

今回始めて早朝から(といっても8時だが)走る。すがすがしくていいもんだ。ただし6時に朝飯を食うとさっそく急激に腹が減ってくる。1本目の休憩で大量のベジタブルヌードルを食らう。これにて胃拡張確定。2本目は友川かずきの「渋谷アピアドキュメント」を聞きながら走る。これまで常に音楽を聴きながらチャリンコをこいでいるが、最も耳と心に響いた。朝早く出発したので、昼くらいにはアムリットサルに到着しようと考えていたものの、結局昼1時を過ぎてしまっている。昼飯を食わずに走ると目の前がチカチカしてハンガーノック。買い置きしておいたバナナやらクッキーやらを周りの目を気にせず貪り食う。なんか気になるなぁと思ったら、ペットで買っているらしいサルがこっちをうらやましそうに見てた・・。

今まで全速力(といっても時速20〜25km)で走っていたが、省エネ走行(時速15〜20km)に変更。だいぶ筋肉が付いてきていることが確信できた。無事歩き方(地球の歩き方)にも乗っているTourist Guest Houseに到着。(シングルトイレ無し100Rs)

早速洗濯をしようと思ったら水が出ない。街をぷらつく。今回初めて実家にテルする。(70Rs/3分)そしてホテルのフロントの兄さんに聞いて、インターネットカフェがあるというLawalens Roadに行ってみる。が、10件くらい周ったものの、日本語が読み書き出来る所は一軒もなかった。しかも、「i-way」というネットカフェで、XPが入っていたので大丈夫だろうと思い、25Rs払って会員になったものの、結局日本語読み書きソフトもインストールすることできず失敗。

そして屋台で大量のフライドライスを食った後、中国にいる冒険の伴侶I氏に電話をかける。(250Rs/12分)ちょうど中国に彼女が遊びに来ていた時で一挙両得?だった。しかも、ここまでなんのために急ぎ足で予定を3日程度繰り上げて走って来たかというと、イスラムダイアリー的にいうと、11月6日からラマダン(断食月)が始まるので、この熱さでは日中食べないと走れない、つまりラマダンでの走行は辛いだろうと思い、急ぎ足で来ていた。が、冒険の伴侶から「パキスタンはもうラマダンに入ったらしいよ」という話を聞く。がっかりだがそれはそれで楽しみな感じって感じだ。

とりあえず、クッキーやらカップラーメンやら袋ラーメンやらを大量に買い込み、ラマダン向けの臨戦体制に入った。が、胃拡張のため夜起きてクッキー丸々一袋食ってしまった・・。

<2.Nov.2003 Day-15>

Say Amritsar

明け方寒く、今回初めてシュラフを使いはじめた。日中は30℃近くなるっていうのに。

朝起きてホテルの前の屋台でチャパティ+ダール+チャイ食って8Rs。久々の?シャワーを浴び、洗濯をし、爪切りをし、自転車に油を注したり、空気を入れたり、ネジの増し締めしたりして午前中を費やす。ただ、リアキャリアの上部付け根右側ネジがバカになってしまっている。荷物が左右に振れ過ぎたせいだろうか。とりあえず、インシュロックとSUSの針金できっちり補強はしたものの不安が残る。

ここアムリットサルはシーク教徒(かっこよくターバンを巻いているインド人の人達)の聖地であり、有名な「ゴールデンテンプル」を見に行く。(サイクリリキシャ15Rs。ちょっとあげすぎ)寺院の中に入るためには髪の毛を全部覆わなくてはならない。入り口の前でバンダナを15Rsで購入する。なかなかお気に召した、うん。裸足になって中に入るとなんだか無料で寺院を案内してくれる兄さんに会い、いろいろと寺院の中を見物をする。この寺院は30トンの金(ゴールド)を使って建てたそうな。また、この寺院の中には、誰しも無料でランチセットを食べれる所があるのだが、その食べ終わったお盆を500人くらいで150ホーン位の騒音を出して戦争のように洗っているのが印象的だった。また、ヒンドゥー教の人がシーク教の寺院を見て結構熱心にお参りしているのを見て「結局スタイルと思想ってのは違うんだろうな、たぶん、この創始者がみたら結構がっくるくるんだろうな」なんて思ったりしてみた。ここで連泊しようかと思ってもいたが、やっぱり明日出発することに決定してみた。

ゴールデンテンプルからホテルまでは歩いて帰る。途中で寄ったジュース屋の生絞りオレンジジュースが美味かった。新聞とポテチとジュースかってホテルでゆっくり新聞みながら休日を過ごす。

<3.Nov.2003 Day-16>

From Amritsar to Lahore 61.5km

朝昨日も食ったホテルの前の屋台でチャパティダールを食って出発。1本目はミルクを自転車に積んで走ってる兄さんと併走する。走りながら「ミルク飲む?」といわれても困る。「どっからきた?」といった原始・旅レベルのヒンドゥー語はなんとなく分かってきたようだ。1本目道端で休憩しているとどこからともなく兄さんが現れる。なんだかこのあたり一体の牧場主らしい。ラマダン中なのでパキスタンに入ると飯が食えなくなるため、国境手前でインド最後の昼飯をとる。(生サラダセットが美味かった。ただしキュウリとトマトと大根だけで味付け一切無し!)

初めての自転車陸路国境越えである。できるだけ時間をかけずにいきたがったが、ネパールからインド経由でパキスタンにバスで直行するというネパール人が「なんだか全部英語でわかんないんだけど・・。出国カードの書き方教えてくれれば助かるなぁ・・。」と言われ、四苦八苦身振り手振りで彼(といってもおじさんだった)の手伝いをする。出国手続きは簡単に終わったが、税関が面倒だった。腹立つ兄さんで、結局荷物を全部自転車から外し、中を見せるはめになった。しかも「おらおら、急いで急いで!」と言われ少々いらっとした。何も考えずオキュペイションにセールスマンと書いたのが間違いだった。

それに対してパキスタン側の入国は簡単だった。なんか入国審査で聞かれたら適当にサイトシーイングを連呼しようと思っていたが「あんた日本人?シャンプー持ってる?日本製の?俺一度日本製のシャンプーで頭洗ってみたいんだなぁ」と粋な方だった。税関はフリーパス。パキスタン側に入ると一気に状況と風景が変わる。国境を越えたところで、とりあえずジュースを買って一服。すると雑貨屋の兄さんから「まぁ飲んでもいいけどさ。ラマダン中なんだけどな・・」と言われた。このインドのデリーからパキスタンのペシャワールまでは何百年も前に作った「GTロード」と呼ばれる道路らしいのだが(詳しく言えばパキスタンのペシャワールからインドのコルカタ(カルカッタ)までがムガル帝国時代に造られた「GTロード」と言われているらしい)、パキスタン側に入ると一気に道がでこぼこ。人も車も少なくなった。ただ、沿道の子どもや若者が皆といっていいほど声をかけてくれるようになった。偏見があったのかもしれない。良い人たちなんだろうと思う。

ラホールのホテルはRegal Internet Innというところを国境の雑貨屋の兄さんに勧められていたので、そこに決定した。ホテルにインターネットカフェがあり、また日本語が打てるところがだったので高いがここにしたのだが、ドミトリーは100Rs、ダブルは300Rsもする。

夜5時くらいになるとゴングがなったかのように屋台に人が集まり飯を食い始めた。もちろんラマダンだと日中は禁煙なのだが、みんな美味そうにタバコを吸っている。このためにやってるのかもしらん。

<4.Nov.2003 Day-17>

Stay Lahore

昨晩は寝ている間にえらく蚊に刺されてしまった。となりで寝ていた欧米人も同じく蚊に刺されていたらしく「ぼりぼり」という音が隣から聞こえていた。

昨晩街を歩いていた時、電気屋でメモステ用のフロッピィディスクアダプターを発見していたが、チェックやキャッシュ(米ドルの現金)を崩すのはもったいないと思い、シティバンクに行ってみた。ATMで何回かトライしてみたものの、ぜんぜんうまくいかない。支店の中に入り、カードを渡し確認してもらったところ「磁気カードがおかしくなっているか、設定が変なんじゃない?カードとしては使えるはずだよ」との事。

ラマダン中なので外でタバコを吸いづらいため、ホテルに一旦戻りよく考えてみると、この「郵貯ワールドキャッシュシティバンクカード」は、「CITI BANK」のマークがある海外のATMで、日本の郵便局に入っているお金を自由に引き出すことができるのだが、日本出発前にいくら使えるかの設定が必要なことを思い出した。そういやしてないわ、おれ。

よくよく考え、結局クレジットカードを使うことにした。6,000Rs、日本円で12,000円くらいである。たぶん日本で買うより倍くらいする。ただ、これがあれば、この掲示板に写真を張り付けることができるのでちょっとうれしい。今回この写真をアップロードするために、USB接続のメモステマウスを持っていったが、今のところ一度もネットカフェでUSB接続とやらを見たことがない。

なんとなく観光しようと思い、ラホールフォートへ行ってみる。オートリキシャーに「ラホールフォートまで40Rsでいい?」と聞くとあっさりOK。あっさり出発すると、あっさりエンジントラブルおこし、10分修理のため停車。あっさり修理が終わると無事走り出し、リキシャーは無事ラホールホテルに着いた。「いやいや、ラホールフォートに行きたいんだけど・・」近くに居たパキスタン人を巻き込み、ガイドブックを見せ、ラホールフォートに行くまで30分近くかかった。

やっとこさラホールフォートに着くと、案の定「ラホールホテルまでが40ルピーだよ、80ルピーよこせ」といってきた。時間も無いため、80ルピー払ってリキシャを降り、アナログカメラを取り出し、このおやじとリキシャを写真に収め、リキシャのナンバープレートのナンバーをなんとなく手帳に書き写したところ、リキシャのおやじが追っかけてきて「あぁ、サンキュー」といって、20ルピーを僕に渡した。たぶん、現地料金が60ルピー位なんでしょう。

さて、ラホールフォートはデリーで見たラールキラーとほぼ変わらんかった。まぁ、作った王様が同じなんで当たり前なんだろうけど。やっぱりお城は中に入らず、外から眺めるくらいがよい。鼻水たらしたガキンチョを写真に収める。

ラホールフォートを出て、隣りにあるバードシャヒーモスクへと足を運ぶ。なんだか世界最大級の何十万人がお祈り出来る所だそうだ。ただ、単なるスクウェアというか、だだっぴろい敷地なだけで、特にこれといって見るところはない。階段に座りこみ、適当にポンビキとくだらない話をした後、お祈りを聞いているうちに30分くらいよだれを垂らして寝てしまった。これは精神的に気持ちよい。

夕食はチキンサンドイッチ食ってさらにハンバーガー(マヨネーズ文化がパキスタンにあり最高)食ってネットやって就寝。結局写真を送ろうかと思ったものの、よく見たらネットカフェのパソコンにフロッピーディスクドライブとCDドライブが外れておりインストール出来ないというオチだった。

<5.Nov.2003 Day-18>

From Lahore to Gujranwala 75.6km

昨晩ホテルの近くのベーカリーで買ったパンを食い出発。このホテルには何人か日本人がいたけど(日本人の溜まり場らしい)特に意図していたわけではないがまったく話をしなかった。チェックアウトする際、500ルピー札で支払ったところ、非常に困られてしまった。大きな札しか持っていなかったため、出発前に近くの銀行に行き、1,000ルピー札の両替を試みた。結局1,000ルピー札1枚を100ルピー札10枚に両替してもらうことしかできなかったが。インドでは今回それほど細かいお金に困る(釣り銭が無くて店が困る)ということはほとんどなかったが、パキスタンでは結構苦労した。恐らく、インドでは5ルピー硬貨を増やしたからではないかと個人的に思う。また、パキスタンでは5ルピー硬貨自体がなく、また、10と50ルピー札を増やせばいいんじゃなかろうかと思う。

スマッシングパンプキンズを聞きながらやっとこさ出発。迷わずいい感じで混雑したラホールの街を抜け出せると思ったところ、道端に吐瀉物あり。きたねぇなぁ・・と思いながらそこを通り過ぎようとすると上から吐瀉物が降ってきて僕の腕やらにひっかかった。いや〜ん!、なんだかおばちゃんがバス上から吐瀉しているではないですか?!こればっかりは参った。ガイドブックを手に持ちながら走っていたのでガイドブックにもひっかかっている、う〜・・。取りあえず水で洗い落とし応急処置をして出発すると、今度はなんだかスズキ(バイクに荷台をつけた乗り物)に乗っていた学生が、自転車をこいでいる僕の頭からサングラスをさくっと取り上げ、奴の頭にかけはじめた。「ガルル」とさすがに気が滅入っていた僕は、持っていたナイフで刺さないまでもおとなげなく吠え、サングラスを取り返した。ちょこっと参りつつ、一本目の休憩をこそこそと隠れてとり、見つからないようにクッキーを食い、たばこを吸う。

ここパキスタンは非常に警官の数が多く、また日本では考えられんほど民衆の間で恐れられている。走り始めたら問答無用で警官に捕まり、なんか言われんのかと思ったら「君はちゃんと車道の左側を走った方がいい、だって危ないから」とくだらんことを言われる。(その後もせっかく気持ちよく走っているところをポリスに止められるということが何回かあった)3本目を走った後、やっぱり道路は暑く、冷たい飲み物が欲しいし、また昼飯抜きなので腹が減る。甘く考えていたが、やっぱりラマダン中の走りってのは辛い。しかも、別にレストランが無いというわけじゃなくて、宗教上日中レストランを開けていないという状況がえらく辛い。

ただし、いい人(パキスタンでは特に年食った人)が非常に多い。休憩していたところ「長老」という感じのお爺と話していると「So, What can I do 4 U」と自然に僕という日本人に向かって言葉が出てくる。4本目を走りつつ、街に入る国道とバイパスらしき道との分かれ道があり、ちょこっとそこらへんの兄さんにホテルのある場所を聞いてみると、30人位集まってきて「この道を真っ直ぐ行って、5〜6km行ったらこれをそこらへんに居る人に見せればホテル探せるよっ!」と言われ、ウルドゥ語で「僕はホテルを探してます」と書いてもらった紙を渡される。そのとおりに走り始めると、今度はなんだか6ヶ国語話せるというチャリンコ乗ったお爺と出会い、おしゃべりしながら並走する。結局この日はDREAM HOTELというところに決定。(250Rs)着いて速効水シャワーだったものの体を洗い、洗濯をし、パニアやガイドブックなどに付着した吐瀉物を濡れタオルで拭き取る。やっと匂いから開放された喜びとともに、夕食はフライドチキンとナンみたいなパンのセットをホテルのフロントのおじさんが買ってきてくれて食う。その箱には「Real Italian」と書かれていたもののむちゃくちゃマサーラーテイストだった・・。

<6.Nov.2003 Day-19>

From Gujranwala to Jhelm 110.4km

早く出発しようと思ったものの、部屋からホテルの外へ荷物を降ろし、用意が終わったのは10時。「さ、出発しよ!」と思ったら20人くらいのパキスタン人に囲まれインタビューを受ける。なんだかジャーナリストをやっとるという人から「なんか困っていることは無いかね?」と聞かれ「ラマダンは辛いよ、マジ腹減るって。チャリダーには辛いっすよ」と答えると牛乳2パック(200ml紙パック入れ)を頂く。「別にムスリム(イスラム教徒)じゃないから気にせず飲んでいいんだよ」と言われ、その場で飲んだ。こりゃ美味かった〜。

結局30分近くインタビューを受けたあと出発。結構今日長丁場の予定なんだよなぁと思いながら走り始めると、今度はバイクで走っていたおじさんから「なになに日本人かい、ほんとちょこっとでいいからお話しませう!」と言われ、結局自転車をこぐ足を止め対談。しかも「1分でいいから!」という話が結局10分以上話し込む。すると後ろから「う〜」とパトカーがやってきて、ハエのようにそこに居た人たちが消えてどっかいってしまった。う〜ん、ポリス強し。

2本目を走り腹が減ったので、もりもりラホールで買ったパンを食っているといきなり外人が目の前に現れた。びっくりしたことにチャリダーで西ドイツから走ってきたドイチュ人カップル(夫婦?)だった。(確かに西ドイツと言っていた。いつから走っているんだろう・・?)

このおにぃさんとおねぇさんより「このフロントキャリアの使い方ならたぶん問題はないわね」とお褒め頂いた。また、「お、オルトリーブの最新のパニアじゃん。いいねぇ。おれのよりも新しいやつじゃん。日本でも売ってんのかいな?」ときかれ、「売ってないから1ヶ月かけてドイチュから輸入したんですよぉ」というと「はは、だろうね」とバックの本場ドイチュ人の誇りが見えた。

ちょうど僕がカステラみたいなパンをもぐもぐ食っていた最中だったので、話せば話すほど「ぽっぽぽっぽ」パンかすを吹き飛ばすのがドイチュ人にウケてよかった。

デリーから走り始めて来て、やっとここに来ておんなじ様な風景が変わり、勾配がでてきた。

そして走り始めるとやっぱり暑いし、ちょこちょこお菓子とパンを食うだけではなかなか力が出てこない。ちょっと休もうと思っても、隠れてパンとかお菓子を食える場所をまず探さねばならないが、3本目の休憩では開き直り、堂々と公園で休むことにした。すると案の定ガキンチョがうじゃうじゃ集まってきた。「なんでこの人はラマダン中なのに水飲んだりお菓子食べたりしてるんだろう??」これは休むところの話ではない。すると先生みたいな人が出てきて事態を収拾してくれた。聞くとやっぱりこの公園の隣にある学校の先生らしい。ただ、僕が言うのもなんだが英語の先生の割には英語になってなかった気がするのだが。

せっかくの出会い・チャンス系は逃すのももったいないと思いつつ、あっちこっちでくっちゃべってるうちに夜遅くなってきた。17時半には暗くなってしまうのだが(故17時半以降初めて飯が食えるのです)すでに17時近い。このたび初めてライトを取り出し、再び走り始めることにした。道は舗装してあるがやはりでこぼこはある。外灯はゼロに近い。街の中に入っても街灯はなく黒い物体(人間)が何となくあるってのが判るくらいである。この中で自分のライトのみを頼りに走ること、これほど充実するものはない。見たことも行ったこともガイドブックにものっていない街に向け、危険の感覚と自由の感覚が一体となった最高の状態で真っ暗闇の中を時速20kmで突き進む。この日はジュレムという街にあるRIT INNというホテルを見つけ宿泊。(200Rs)ホテルのレストランで4人前くらいエッグフライドライス、チキンスープ、サラダ、ダヒー(砂糖無しのヨーグルト)を食す。フライドライスにマサーラーテイスト無くまさしくチャーハンあなたそのものである。

<7.Nov.2003 Day-20>

From Jhelm to Islamabad 130.6km

ペシャワールまでの1stアタックにおいてこの日がハイライトであると今の時点で考えている。 そして、昨晩食い過ぎたせいか若干下痢気味になっている。

1本目Boon Boon SatelitesのOut Loud 、2本目FBSのOn The Floor At The Boutique 、3本目Chemical BrosのStockholm Live 、4本目ナンバーガールの渋谷ロックトランスフォーム状態を聞きながら、標高が300メーターになったり600メーターになったりする渓谷沿いを暑さと空腹に絶えながら走る。

そして、4本目を走りはじめた瞬間、この旅初めてダウンした。走ろうとしてもペダルこげない。急遽、石でできたガードレールみたいなところの上に横になって休む。右手側に寝返り打てば道路に落ちるだけだが、 左手側に寝返り打てば、二度と這い上がってこれないような崖である。今になって考えると、なんでこんなところでうとうと寝たんだろうと思う。

5本目、気合いを入れ直してよく走った。6本目、Sisiter BlissのImpressionistを聞きながらこれも充実した走りだった。ただ、いいペースだ!と思いながら時計を見つつ(すでに夕暮れが見えていた)走っていると「あぁ、あなたとお話がしたい!」というパキスタン人あらわる。僕には時間がないが断れない・・。この青年はパキスタンステートオイルつまり、ガソリンスタンドの店長さんで、スタンドの事務所に入れてもらいチャイをごちそうになった。とにかく、ここパキスタンには日本人、というよりも日本に対するアメリカンドリーム(なんか変な言い回しだなぁ)みたいのものがある。おそらくかつて日本に不法入国してお金かせいで帰ってきたパキスタン人が相当いるんだろうと思うのだが、極度なまでに日本に対する憧れがあり「日本のビザおりないんだけど、日本に行きたいんだよぉ。なんとかしてくれないかぃ?」と言われるケースが多々あった。

「スペシャルサンクス」と繰り返し言われながらそのスタンドを後にしたが、結局陽が落ちてしまった。7本目を走りイスラマバードハイウェイという自動車道路らしき所に入ったところで休憩し、ライトを用意する。橋の上で写真を撮る余裕すらある。

8本目はRoni SizeのLive Formsを聞きながら走る。これは楽しかった。片道1車線ずつ分しかないような細い道で、時折大型トラックがビュンビュン猛スピードで走っている。道はやや下りになっておりスピードが出るが、辺りは暗く、自分の持っているライトではなんとなく道がでこぼこしているくらいしか判らない。でこぼこに捕まるとその重さのためハンドルが取られ左右にぶれる。ハンドルを握る手に必要以上の期待を込めた力が入っているため、両腕がしびれている。70kgの荷物と50kgの体重を載せた自転車という塊が時速30kmのスピードで走っており、自分は音速以上、光速以上のスピード感を感じている。道が狭いくせに、対向車線の大型トラックは常に追い越しをしようとし、反対側車線もしくは反対側車線以上はみ出して、真っ暗闇の中こちらに向かって突進している。

ビザの期限という問題はあるが、別に僕はこの道路の側の空き地にテントを張って朝まで待つという方法がある。今日イスラマバードに到着する必要はない。ただ、イスラマバードに今日行けるという可能性もあり僕はその可能性を信じただけだ。自分はイスラマバードまで走ろうと決めた。僕は自由とそのちょうど裏側にある危険の感覚とを150%表裏べろべろ自己欺瞞無く舐めまわしている。大学までいって、半年かけて3年勤めた一部上場企業を辞めた。親からも見放され、その他多くのものを失った(とされる)が、決してそれが理由で旅に出たのではなく、そうさせた期待および可能性が決して間違いではなく、今その期待および可能性を150%堪能している、そう感じることができた・・。 いい気味だ。日本語が合っているかどうかは別として。

充実とは今その瞬間を決して自己欺瞞なく、つまり自分に嘘をつくことなく、また自分を信じることができ、その自分の可能性だけを信じている状況のことだろうと解釈した。むしろ、自分で考えた判断を自己欺瞞なく、100%信じることができること、これって幸せっていうんちゃうかしら?なんて思ったりしてみた。

頭上に飛行機が飛んでいる。どうやらイスラマバードの空港近くに来たようだ。道もいかにも国際空港と首都を結ぶらしい感じになっている。8本目の休憩を取り、9本目μ-ziqのLunatic Harnessを聞きながらホテルに到着したのは21時近かった。

このホテルの近くの食堂のチキンマサーラーが最高に美味かった、美味かった・・。

<8.Nov.2003 Day-21>

Stay Islamabad

昨日の激闘もありゆっくりと起床。

このイスラマバードでの作戦会議を開く、もちろん一人だが。

1つはアフガニスタンのビザを取得すること。今現在アフガニスタンのビザはパキスタン内において、クエッタ、ペシャワールでは発行してくれない状況になっており、ここイスラマのアフガニスタン大使館だけにアフガンビザ取得の可能性がある。

2つめは、アフガニスタンで食べる所飲める所、食べ物飲み物が全くないという想定の中、やっぱりクッキーとチョコだけでは走れるけど辛いというラマダン中の現状をどうするか。

とりあえず、やってるかどうかわからんが、ホテルから1時間30分かけてアメックス(アメリカンエクスプレス)まで歩いてみる。たまたまやっておりチェックの両替はできたが、やはり使えない1,000ルピー札だ。両替するため銀行に行ってみると大量の人、いろいろと他の銀行を探しているうちにどこも窓口が閉まってしまった。(基本的にラマダン中のパキスタンにおいて、銀行は午前中しかやっていなかった)新聞と昼飯のサンドイッチを買いつつホテルへ歩いて戻る。

うれしいホットシャワーを浴び、洗濯をする。たいていポテチ食いながらペプシ飲んで新聞(もちろん英語)を読んでいると寝てしまう。これ最高。

やはりこのイスラム圏でチャリンコ乗っているときはともかく、街を歩いているとき短パンってのはあまりにも目立ち過ぎる。ホテルの近くの仕立て屋さんでカミール・シャルワースというパキスタニ(パキスタン人)がよく来ている服を作ってもらう。

昨晩いった食堂の味が忘れられず、またチキンマサーラーを食べに行ってしまう。ほんとマジ美味い。

<9.Nov.2003 Day-22>

Stay Islamabad

朝ゆっくり起きて地図を読みモラルする。今回は非常に自己欺瞞無く良い意味で走る哲学者である。

PDA(クリエ)+モデムカードを使い、ホテルの部屋の電話線にモデムケーブル&モデムセイバーを突っ込んでネット接続を試みたが、どうしてもタイムアウトしてしまう。

ぷらぷらとでかける。(外へ出たらなんも食えないのでパンとバナナの昼飯をホテルで食ってから!)このイスラマで一番栄えているという「アッパラマーケット」は昨日行ったところ閑散としていたが、今日は賑わいを見せいている。そして電話屋を発見し、今だ使えていないシティバンクに電話してみたりする。(50Rs/分)

てくてく歩き、ガイドブックにのっていたTourist Campsiteという、1泊10Rsの外国人専用テント場に行ってみる。管理人さんが何いっているかよく解らなかったが、たぶん「コールド」を繰り返していたのでおそらく冬期は閉鎖なのだろう。しかも、自転車含めて150Rsもするらしく、ホテルとそう変わらない。ただ、一台だけ荷物を積んだいかにものチャリンコがあったが、本人は不在で詳細は不明。

昨晩仕立てを頼んだカミール・シャルワースを受け取り、早速ホテルで着替えてみる。これは楽だ。ポケットをズボンに作ったもらったのもグッド。ホテルのフロントのおじさん(この人は陽気でまたいい人だった)からも「お、いいの着てんじゃない、似合うよ」と言ってもらえた。3連チャンで同じ店に行く。(僕はあまり食うものにこだわらないとはいえ、同じレストランに行くことは珍しい)今日はビーフマサーラーにしてみた。(基本的にチキンやビーフをヨーグルトにつけタンドゥーリしたものをややマサーラー、カレー味でさらに煮込んだものにブレッド(チャパティやナン)をつけて食べる)これまたほんと美味いけどやっぱりチキンのほうが美味かった。ネットカフェに行ったが、日本語は読めるものの、書き込めないためMSNからグローバルIMEをダウンロードしたが、5時間以上かかりそうだったので、ダウンロードしたままで(ネットカフェの兄さんに電源を落とさないようお願いして)ホテルに帰った。ここのネットカフェの兄さんもほんといい人だった。日本語が使えるようにするためにあれやこれやしてくれて感謝。

<10.Nov.2003 Day-23>

Stay Islamabad

やっと月曜日になった。アフガンビザ取得のため活動開始。

10時にアフガニスタン大使館へいくと、1人日本人がいた。とりあえず、申請書を書き係員に渡すが、「要!日本大使館のレター」の一点張り。イスラマにある日本大使館はレター出さないと聞いていたが、とりあえず日本大使館へ行ってみると答えてその場を離れた。

すると、そこにいた日本人が後から付いてきた。彼は先週の金曜日に申請をし、今日の朝費用を払い、14時にまた来るようにと言われているらしく、なんもすることがなかったらしい。とりあえず2人は公園で時間をつぶす。どうせ行ってもダメだろうということで結局日本大使館には行かず、12時前に再度アフガニスタン大使館に行き「大使館は問題無いと言っていた。あんたに任せるって言ってたよ」と適当な言葉を並べ、とりあえず申請書とパスポート、写真2枚、パスポートとパキスタンビザのコピーを受け取ってもらうことができた。できるかどうかわからんけどトライしてみるので、明日朝9時にまた来いとの事。

彼はまだ暇だったらしく(イスラマから何キロかあるラワールピンディの宿におり、戻るに戻れない)公園で彼と飯を食う。といっても非常に人目があり、公園にいる人達から見つからないようクッキーとパンを食べるのに1時間くらいかかった。彼は関西の出らしく、バイトで溜めた金で6ヶ月パキスタンを中心に、アフガン含めて旅するという。海外旅行初めてでアフガンに行くってのはすごい。彼と別れた。

イスラマもしくはペシャワールで最長3週間くらいはビザ取得にかかるだろうと想定していたが、なんだかすんなりいきそうだ。食料の買い込みに走る。

ただ、食欲は旺盛、熱もないのだが、1日5回以上トイレしている。

夜はもちろん同じ店にいく。ウルドゥ後で書かれたメニューしかなかったし、おやじが「チキンじゃんじゃん」となんだかわからんが言ってるので、それを頼んでみた。これがまた最高に上手く、チキンと生姜がうまくマッチした今思い出すだけでよだれが出そうな美味さだった。チキンジンジャーだったんだなぁ。

ネットカフェに行く。昨晩ダウンロードしたグローバルIMEはダウンロードできていたが、ウィンドウズのアップデートが必要との事。結局日本語での書き込みはできなかった。しかし、幸いフロッピードライブとCDドライブが活きていたので(まずめずらしい。イスラマでも4、5件ネットカフェをまわったが、日本語読める所は皆無、フロッピーとCDドライブが両方付いている所もまずなかった。どうやってウィンドウズをインストールしたんだろう)メモリースティック用フロッピーディスクアダプターをインストールし、この掲示板に写真をアップすることができた。

<11.Nov.2003 Day-24>

Stay Islamabad

朝9時にアフガニスタン大使館に行ってみるが、結局「大使館のレターが無いと駄目だ!」の一点張りだった。う〜ん、やっぱりすんなりとはいかないか、と思ってあぁだこぉだ30分くらい粘っていると、旅行代理店らしき兄さんが書類をその係員に渡して去っていた。「ほらほらこのレターが必要なのよ」と言われ、オランダ人のオランダ大使館からのレターを見せつけられた。書類の中にはパキスタンルピーが大量に入っており「別にドル払いじゃなくていいんだ」と思っていると「あんたドルのキャッシュ持っているかねぇ?」と尋ねられた。しめしめ。結局その書類の中に入っていた3,500ルピーを僕の持っていた70ドルで交換した。(アメックスでチェックを両替した時1ドル57.8ルピーだったで8ドル分くらい損はしている)そして、僕のビザ申請費用30ドルも受け取ってもらった。結局その係員は代理店らしき兄さんが渡した、余ったパキスタンルピーとその10ドルを懐にいれたんだろうと思う。

14時再出頭。きっちりアフガニスタンのビザのスタンプが押されたパスポートを受け取る。「Have a good journey」と言われ、最後に係員と握手した。

さっそくビザのコピーをとる。もうこれでイスラマバードに要る必要はない。ただし、夜はまったく外出できないアフガニスタンをラマダン中走る場合、あてにしている国道沿いのレストラン(雑魚寝レストラン)が営業しているかどうか分からん昼間に到着して、レストランが営業開始する夕暮れまで待たなくてはならない。また、ホテルがあったところで、夕食前に到着してもラマダン中なので、夜になってから外出してレストランまで行かなくてはならないリスクがある。昼間食えないだけでも辛い。また、イスラム過激派の声明どおり、サウジのリヤドやアフガンのザブール等でラマダン中にここぞとばかりテロが起きている。よって、ラマダン明けにアフガンに入ることにした。ただし、状況はころころ変わるため、「Finaly Base Camp」ペシャワールでラマダン明けの24日まで待機することを決めた。

新聞を読むと、アフガニスタンの7つの州では政府+ISAF+アメリカ軍とタリバン+旧勢力軍とがまったく同勢力で均衡しており、どちらも治安を維持できていない混乱状況と書いてある。

この日もアフガニスタンで日中なんも食べれないことを想定し、食料を以下の通りイスラマで用意した。また、下痢も止まらないので、念のため下痢止めを購入した。(タイで間違えて糖尿病の薬を買ってしまったことがあるので、今回はちゃんと店員に辞書をみせた)抗生物質2回分+通常の下痢止め2回分+経口補助薬1袋で50Rsを購入。

ミネラルウォーター8L・食パン2巾・蜂蜜ジャム250g・ピーナッツバタークリーム410g・カップラーメン2つ・袋ラーメン2袋・スパゲッティ900g・ツナ缶2缶・トマトソース1袋・チキンスープ5袋・塩400g・砂糖400g・ネスカフェコーヒー2杯分・クッキー4箱・ピーナッツせんべい2つ・飴1袋

行きつけの雑貨屋で水を買おうとしたらまったく切らしているとの事。すると「ちょっと待って」と言って僕を雑貨屋の中に座らせてどこかに行ってしまった。数分後「はぁはぁ」言いながら段ボールケースまるまる1箱をどこか問屋から買ってきてくれた。

これで3、4日は生きて行ける。米に関しては何回か米袋の中にアリンコやへんな虫が入っているのを見たので買わなかった。また、予断だが雑貨屋をよく見ると味の素がどこでも売られていた。しかし袋を見ると、ウルドゥー語的な「AHJINOHMOTO」なり「味源」とか「味元」とか微妙に名前がずれており、「東元」とかもうなんだかさっぱりずれているものもあった。ほとんど中国製かタイ製。

今日もまた同じレストランに行きたかったが、明日出発を決めた以上下痢を治すため、夕飯はリンゴとバナナだけにした。

このホテル「アル・ウマール」があるG-7のホールセールマッケット一帯にはほんといい人ばっかりだった。ホテルのおじさん。雑貨屋の笑顔が素敵な兄さん。食堂のチキンじゃんじゃんのおじさん。ネットカフェの兄さん。(最後の日はパソコンの調子が悪く、一緒になってプロキシの設定を弄くってた)カミール作った仕立て屋の兄さん。ネットカフェでパソコンやっているといつもじゃまするガキンチョ。みなさんほんとよくしてもらった。ちょっぴりここを出ると思うとさびしい気がした。

<12.Nov.2003 Day-25>

From Islamabad to Taxila 49.0km

久々の出発が嬉しい。入念にストレッチする。(今回はちゃんと走る前と着いた後に10分くらいかけてストレッチしておる)ホテルをチェックアウトする際、通話代20Rsを請求される。やはりクリエ+モデムカードを使ってダイヤルは出来ていたようだ。ただやっぱりネットカフェでソフトをダウンロードしている時でも、速くて0.5KBくらいなので、一般回線を使ってネットするってのは難しいのかもしれない。どうしてもタイムアウトしてしまう。雑貨屋さんなど集まってきて出発を見送ってくれる。ほんとえぇ人達だった。

1本目走るとだいぶ自転車が左右にぶれてしまう。水と食料を増やした分、おそらくパニアの左右の荷重がまちまちでバランスが取れていないらしい。かるいアップダウンを繰り返す。1本目の休憩でここは誰もこないだろうという森の中に入り込んで休憩するが、どこからともなく人が集まってくる。

2本目を走り、初の自炊を試みる。ビザを取得した時点でもう特に急ぐ必要はなかったが、なんとなく最前線のペシャワールにいたいという気分だけでイスラマを出てしまった。このイスラマバードからペシャワールまでの3日間だけが、アフガニスタンに入る前のチャリンコ走行最終機会なので、いろいろと実験しておきたかったわけだ。火器(MSRウィスパーインターナショナル)を使い火をおこしてみるとえらい「すす」だらけ。あっというまにコヘルが真っ黒になってしまった。火も赤くノズルもシュルシュルいっており、どうやら軽油(ディーゼルガソリン)ではその能力をわずかしか発揮できないようだ。ただ、ようやく沸かしたお湯でインド日清食品製カップラーメン「マストマサーラ味」と食パンをくったら美味かったぁ。原始的な喜び。

風景が良い。なんだか遺跡なんだかただ採掘場なんだか解らないところを走り、いたるところで発破の音が聞こえる。

午前中に到着する予定だったが、14時頃タキシラに到着。PTDC(パキスタン政府観光振興公社)経営のホテルに300Rsだして宿泊する。500Rsを300Rsにまけてもらったのだが、夜飯をこのホテルで食うことが条件だった。

このタキシラはなんだかガンダーラ的にすごいところらしくタキシラ博物館は政府直轄になっている。(さっぱり本人その凄さわからず)とりあえず、博物館が16時までと書いてあったのでいってみると、本日は14時に閉館したとのこと。ありがちな話である。なんかわからんが工事をしていた。

せっかくペシャワールまで2日の行程を3日にしてわざわざ見に来たのに残念、と思い、その他遺跡系を見に行く。ビールマウンドという、ガイドブックによると紀元前6世紀の都市遺跡らしいのだが、ところところ、「これから家でも建てようとしてそのままになってんのかなぁ」というくらいしかわからず。ガキンチョが写真撮って、とポーズしており、ワラを集めていたお兄ちゃんと妹を写真に収めた。また、30〜40分歩いてダルマラージカというストゥーパ(仏舎利)を見に行く。アショカ王の時代のうんたらかんたららしいが、入り口や門もなく、ほぼ無管理にされていた、歴史的にかなり重要なんだろうけど。

このダルマラージカまで歩いていると、なんだか排水処理施設があり、思わず職歴上外から眺めていると、そこの場長さんが僕をその施設の中に入れて案内してくれた。「たぶん日本だったらこのプラントでも1千万くらいはすると思うよ」というとえらく場長さんはびっくらこいていた。

ホテルに戻り(ダブルのしっかりした部屋だった)、リパッキングする。使い勝手も考えつつ、ほぼ完全にフロントおよびリアの各左右のパニアの重さを同じくらいにすることができた。

夜飯はホテルでエッグフライドライスとチキンスティックを食べる。腹減ってただけかもしれないが、別にまずくはなかったが、頼んでから出てくるまで40〜50分くらいかかったのには困った。このレストランにはロンドンとイスラマバードと北京と東京の時刻を示した4つの掛け時計が壁に掛けられており、それぞれロンドンは16時、イスラマバードは20時、北京は23時、東京は0時を示していた。グリニッジなロンドンは別として、それぞれにいる皆さんは今頃何やってんのかなぁと考えてみたりしてみた。また、みんなに同じ時間が与えられてて、その時間をどう使っていくかなんだなぁ、と食事が出てくるまで考えた。

さらに自転車の調整をして0時頃ミルクティを頼もうとしたら、ホテルの人間は誰もいなかった。昨晩頑張ってリンゴとバナナで我慢したせいか下痢は止まっている。

<13.Nov.2003 Day-26>

From Taxila to Attock 78.5km

朝フレンチフライとミルクティを作ってもらい食パンと一緒に食らう。

このイスラマからはだいたいずっと気持ちの良い下りだった。イスラマでは標高600メーターくらいあったのが300メーターくらいまで下がってきている。昨晩リパッキングをしたおかげで重いことは重いが左右にぶれることなくかなり走りやすくなった。

また、これまでザック(パタゴニアのストームフロント)を背負ってそのザックの中にCDやMDウォークマンを入れ、肩の部分に100円ショップで買ったウレタンのカメラケースを付けて、その中にスピーカーを入れることにより、音楽聞きながら自転車をこいでいたのだが、アフガンを目指すにあたり、これはあまりにもものものし過ぎると考えていた。また、あまりにも音楽がよく聞こえ過ぎてしまい、BGMになっていないという課題もあり、フロントキャリアのセンター上部に付けているマウンテンスミスのザックにスピーカーを取り付けて走ってみた。そこそこ音は聞こえる。問題なさそうだ。また、いままでせっかくクリエを持ってきていたが動画をほとんど撮っていなかったため、走りながらちょこちょこと動画をとる。頭上を戦闘機が普通に飛んでおり、あたりまえだが早い。

3本目を走りおわる頃、インダス川に架かっている橋を通過した。圧倒的なスケールを持ったインダス川は想像以上に透き通った水色をしており、またちょうどこのインダス側沿いに誰かが作ったお城があり、その圧倒的なスケールをさらに鼓舞していた。とりあえず河原まで降りてみようと思い、何とか自転車で着水。するとちょうど魚つりをしていた集団(原始的にトラックのタイヤのチューブを船にして漁をしていた)50人くらいに囲まれてしまった。

ゆっくりとこの風景に身を任せようと思っていたのだが、あんまりにもうざい。ここでだいぶパキスタン人やアフガニスタン人(このあたりにくると明らかに眼が青く髪の毛が茶色い中央アジア出身者が目立っていた)がみえてきた。CDプレイヤーとかカメラとかショウミーダラーとかしか言わないガキンチョやおじさんがおり、なんとなく危ない奴といい人の見分けが付けれるようになった。

ペシャまで一度テント泊をしようと考えており、そのステージとしてこのインダス川のほとりは最高だと思っていたのだがどうも危険だ、というかうざい。なかにはいいおじさんが「泊まれる友人の家があるからそこに泊まりなよ」と言ってくれたが、子供を家に帰さなくてはいけないので1時間後になるという。結局夕方5時近くに僕は「ごめんなさい、やっぱりペシャまでいきますわ」とその場を離れた・・。

あてはない。ただ、20kmくらいいけばちょこっと大きな街があるのでそこならホテルはあるかもしれない。その可能性と自分を信じ走ってみよう。もし街に無ければペシャまで3、4時間かけて走ろう、と決めた。早速走り始めるとと暗くなってきた。ライトを取りつけ再び走り始めると、なんだか国道沿いのレストランのおじさんが「ハロー」といいながら手を振っている。「お、ホテルがあるっぽい」と思い、そのおじさんに聞くと、単なるレストランで、ホテルではないとの事。ただ、ここで飯食えば別に泊まってもいいよ、とおっしゃった、ありがたや。

ちょうど陽が落ちたところだったが、別室に連れて行かれ、ゴングが鳴ったかのようにビルヤーニ(ピラフ)、挽肉とじゃがいもの煮込み、ナン、ダヒー、柿とか洋なしとかバナナとかアプリコットとかいっぱい入った果物が次から次へとやってくる。8人から10人くらい一緒になって飯を食ったんだろうか。当然この人たちは日中何も食ってないってこともありもりもり食べている。僕も当然腹が減っており、バカみたいに食う。みんな無口。ただほーーーんとこの挽肉とじゃがいもの煮込みは涙と鼻水が止まらなくなるほど美味かった!!食後はチャーイも次々と出てくる。どうやらこのレストランの従業員さんたちと一緒になって飯を食べたようだ。うーん、最高。

物置みたいな場所を提供していただき、自転車をその中にいれてもらえることができた。ただ、従業員らが暇つぶしに次から次へとその物置にやってきて話をしにくるので、結局物置を出て、調理場みたいなところでチャイ飲みながら夜11時くらいまでよくわからん話をした。ウサマビンラディンを自称する兄さん(ほんとそっくりだった。実際本人かも知らん)からタバコだかクスリだかわからんものをもらいつつ、チャイをごちそうになりつつ時間が過ぎていく。しかもこんだけ食って飲んで夕食代は20Rs(40円)でいいとのこと。ありがたやありがたや。

<14.Nov.2003 Day-27>

From Attock to Peshawar 81.7km

(・・せっかく書き込んだのに消えてしまい、また書き込み直してます。)

朝3時半にたたき起こされる。「まだ寝てんの?早く起きないと飯無くなっちゃうよ!」と、夜明け前に朝飯を食うと山登りを彷彿させる。ただ、昨晩食った挽肉とジャガイモの煮込みが出てきてまた朝から涙出るほど美味かった!!チャイを飲んで朝飯代を払おうとすると受け取ってもらえない。う〜ん、お兄さん、日本に来たら携帯に電話してください。

出発しようとすると前後ともパンクしている。昨日インダスの大きな石だらけのところを走ったせいか、この物置に自転車をいれる際、荷物を付けたままで階段にタイヤをぶつけたせいだろうか。10人位を目の前にして、とりあえず新品のチューブに交換する。今思うとこの風景は「うるるん〜」っぽい。半野宿させてもらったこのレストランを7時に出発。むちゃ寒い。しかもちょこっと走ったところでホテルを発見する。こんなもんである。1本目走り、橋の上で写真撮影する。クリエにはリモコンはないけどタイマーで静止画もとれる。1人タイマーで写真を撮ろうとすると、いつのまにかアフガン人が写真に入ろうとしている。2本目を走り終え休憩していると今度は学生に囲まれた。話しながらどんどん人が集まってくるが、1人の学生いわく「危ないからもうこの場所離れた方がいいよ」という。「あそこにいる人かい?」と聞くと「そう、早く行った方がいいよ」といい、どこかへその学生は行ってしまった。なんとなく分かってきた。たんに金が無く貧しいが悪い人という訳ではない。

3本目、この第1アタック最後の1本である。ニルヴァーナを聞いて走った。少なくともこの3日間でもっとも充実した走りが出来た。(この感覚はわからないと思うけど)「じゃぁなんで会社に入ったの?」「なんか会社でこれっていうのを見つけられなかったの?」というこれらの問いに対して、なんとなく自分なりの答えをやっと見つけた、気がする。

「僕は自分が考える以上にその存在が孤独だった。」

なんだかんだいって23年間いた千葉から札幌にその生活を移した際、札幌は遠すぎた。遠くはないが通常ベースで受け止める以上に「自分で遠くさせてしまって」いた。確かに、大学4年の際にインド自転車やって僕はもうサラリーマンとしておとなしくやっていくつもりだった。会社(仕事)は会社(仕事)でそれなりに楽しみも見つけたし、大変なこと、やりたくないことも経験した。おそらく(僕のいた事務所において)一番笑いながら仕事していたのは端からみて間違いなく僕だった。少なくとも物理的に広大な北海道をエリア分けで営業を担当した以上、自由に好き勝手にやりたいことができた。ただ、会社、仕事、会社の同僚、関係会社の人たち、会社の後の飲み、一人暮らし、すべて結局最後に感じるのは「何やったって最後は僕一人」。その孤独感は埋められることなく、ますます僕は僕を孤独にし02年9月にその怪物的な孤独感が爆発したと考えている。そして10月にアフガン自転車案が浮上した。「行ったら帰ってこれないかもしれない」という可能性と「アフガンチャリンコで走ったら危険と自由と冒険の感覚を間違いなく堪能できる」という可能性とが僕をその怪物的な孤独感から開放したのだと思う。僕は今僕自身をこの「怪物的な孤独感(その孤独感を助長させる怪物的な孤独感)」という言葉で表現することができると思うのだが・・。

ペシャの街は分かりづらかったがなんとかたどり着き、サダルロードのKHANIS HOTEL(200Rs)に泊まることにした。ラマダンが開けるまで(24日迄)長丁場なのでできるだけ安いところにしたかったが、このアフガニスタンと隣接している、また部族の支配に任せ政府が関与できない部族領域地域が近くにあるペシャワールは危険の臭いがしたため、ちょっといいホテルにした。というよりも、右3件隣と左5件隣にパン屋があったのがラマダン中における生活において一番重要だろうと思ったからである。

さすがに眠く昼寝をした後、適当に夜飯を食い(やはり昨日は美味かった)、ネットカフェを調査し(結局日本語見れず、日本語ソフトをダウンロードしたもののインストールできず)、チャイを飲んで寝る。ここまでほぼ晴れ続きできたが、ペシャワールは曇りがちの天気だった。

<15.Nov.2003 Day-28>

Stay at Peshawar

日中おおっぴらに飯も食えず飲み物も飲めずタバコも吸えない。レストランも開いてないとなると行動も制約されるし何よりシャリバテ起こして走れなくなる。

ニュースを拾うと宣言どおりイスラム過激派のテロ活動が過激である。ラマダンが明けるまでとりあえずアフガンへの最終ペースキャンプ地ぺシャワールに滞在する事にしたが、だからといってまったく何もすることがない。よって特に記録に残しておくことあるわけではない。

なんか昨晩はいろんな夢を見た。

風呂(といっても蛇口と手桶があるだけ)に入って洗濯する。むちゃくちゃただの水で後悔した、寒いよぉ・・。

とりあえず街を歩く。イスラミアロードにあるJen's Complexというスーパーにはフィックスドプライスでいろんなものがあって楽しい。(この書き方は地球の歩き方みたいだ!)さくらんぼとかみかんが入った缶詰を買う。歩く。携帯屋を見てまわる。話を聞くとアフガンでもSIMカードのみ販売やっているらしい。また、Mobilinkというパキスタンの通信会社はSIMカードを今半額の2,500Rs(5,000円)キャンペーンをやっとるらしく、あちこちでポスターが貼ってある。最重要検討項目にあげてみた。歩く。軍事施設が多く圧倒的に警官の多いこの街を歩いていたらあからさまに「中国人はこの道路には入っちゃだめ!」と怒られた。「いやいや、日本人だっちゅうの」とうんざり言うと「あらま、ウェルカム」と握手を求められた。たぶん、ヒゲがうんざりだらしくなく伸び、また2ヶ月床屋に行ってないせいかなぁと反省する。ホテルに戻り新聞読んで昼寝する。やはり12月10日ロヤジルガ(アフガニスタン国民大会議)前後はなんかありそうだ。適当に夕飯食いに行くと鶏肉とたまごの野菜炒めチック(チキンアジェンシーと言ってた気がする)で美味かった。パキスタンはへんな意味で西欧化してる気がするけど、食に関してはノープロブレム。ネットカフェ2軒探してトライするも日本語読み書きできず。

<16.Nov.2003 Day-29>

Stay Peshawar

朝っぱらのアザーン(よい子のみなさ〜ん、さ、お祈りの時間が始まりますよ〜という呼びかけ。あちこちのモスク(礼拝堂)から大音量で1日何回もお祈りタイム前に流れる)にもいちいち起きずに寝てられるようになった!起きるとまたする事なし。かってきた世界地図を広げ眺める。アフガニスタン東部で話されるパシュトゥ語の勉強をしつつ(今回持ってきた「パシュトゥ重要単語1,500」はアルファベット順に書かれているので、使える単語を抜粋する必要あり)英語の勉強をしているといつのまにか寝てしまう。(英語の新聞を読んだり、今回持ってきたZ会の「CORE1,800」のCDテキストを聞いているうちに寝てしまうというのが気持ちのよい日課になっている)チャリンコのメンテナンスを行う。2日前にパンクしたチューブの修理(パッチ貼り)を行う。どうやらフロントチューブは2個所パンクしていたようだ。「やっぱりここにきて天気悪いしなぁ」と天気のせいにし、外を見ると久々にぴっちり晴れていた。パッチ貼りをしつつ、再度タイヤを外し、チューブ側ではなくタイヤ側にトゲやクギなどささってないか確認する。なお、すべてチャリンコメンテはホテルの部屋で行っており、この時パンク個所を探す為バケツに水を入れチューブに空気を入れて穴開き個所を探したが、この時ちょうどいいやと思ってバケツの下に引いた絨毯はお祈り用の絨毯だと後で気づく。チェーン、プーリー、スプロケットなどを綿棒やウエスを使って掃除して油を差す。そして、サドルのシートピラーにグリスを塗りつつ、ヘッドの増し締めをしようとすると「パキッツ」とヘッドキャップが取れてしまった・・。

「うぁ〜、これでもチャリンコの旅は終わりじゃんよ〜!」と嘆くと、外からちょうど17時のアザーンが聞こえてきた。「やっぱりここんところ天気が悪かったから」と天気のせいにすると、外はどしゃぶりの雨に変わっていた。アザーンを聞きつつ、「あとは神頼みか・・」と思ったものの、そういうわけにゃいかん。今までほとんどいじくったことのないヘッド部分が何をしているのか、何の為にこの部品が使われているかを今になって研究した。一人旅しているくせに、この展開、開き直りはとてもスピーディだ。なんとなく取れてしまった部分を付け直すことができほっとする。ただ荷物つけて走ってみないとわからんが・・。

雨が降っていた為ホテルのレストランで飯を食う。ちょっと高めで100Rsくらいかかってしまう。しかも「もう一枚ナーンを頂戴」と頼もうとしたらウェイターが一生懸命お祈りしておりちょっと声かけられない。やっとこさお祈り終了しナンを頼むと、調理場から「チーン」という電子的な音が聞こえてきた。ここペシャワールは物が豊富で電化製品など輸入品も多い街だがせめて聞こえないようにしてほしかった・・。ホテルの目の前にネットカフェがある場所を発見し、日本語読み書きできることが判明、ちょっとうれしかった。

<17.Nov.2003 Day-30>

Stay Peshawar

昼間部屋の窓を開けっ放しにしていたせいか、昨晩は蚊ではなく蝿がうるさくて寝れないという屈辱的な睡眠をとる。午前中は語学の勉強と決めていたがどうもとっかかるまえいろいろと地図を見たりこれからの計画を練ったりでとっつきがわるい。

どうもインド、パキスタン人は中国人に対して嫌悪感は持っていないが、へんなライバル心みたいのを持っている気がする。街を歩くと20人に1人くらいから「チーニィ!」とか「チン!」と罵声を浴びるような状況になっており、あんまりうざいので髭を剃ることにした。ジレットの髭剃り27Rs、ニベアの髭剃りクリーム70Rs(こんな量使い切れないよ〜)を購入する。ちょこっと剃ったらだいぶ印象が変わった気がした。昨日に続き、ペダル、ボトルゲージ、ブレーキ、キャリア、スプロケット、エンドバー、クランクの増し締めをし、再度昨日壊してしまったヘッド部をさらに調整する。なんとかいけそうな気がする。再度外に出ようとすると夕立になってしまったため、再度ホテルでディレーラー調整など行う。

とりあえず、キントレをすることにした。(上半身・下半身1日交互で徐々に1回ずつセット数を増やし今現在続いている。ただ、なんだか重くそしてあいまいな筋肉がついてしまった気がする)適当にそこらの店でシーフカバブ(羊肉の串焼き)とナンを食べる(12Rs)。ネットカフェでこの掲示板の更新を開始する。いろいろとパキスタンのタバコをあたってみたが、今吸っている「Press」というタバコが(1箱20本入れ10Rs)、ラオスでお気に入りだったタバコのテイストに近くお気に入りである。

<18.Nov.2003 Day-31>

Stay Peshawar

語学をやりつつ、トラベラーズチェックを替えに行く。4軒きれいで大きな銀行を回ったが全部両替不可。「ステートライフビル近くの何とかチャンチャン銀行に行け」としか言われない。とりあえずステートライフビル近くの「Standard Chartered Bank」に行ってみると両替はできたが10%の手数料を取られがっくりする。しかも、チェック2枚しか変えてないのに、10枚つづりのパーチェイス(購入証明書)を取られてしまった。う〜ん、こんだけ異国人が多い街の新市街なのに・・。

いろいろと携帯屋をあたってみる。チェックが使いづらいということが分かったため、クレジットカードで買おうとしたがどこも無理。一件だけなんとかしてあげようというところがあり、明日また10時に行くことになった。

夜アフガンライスという乾しぶどうとにんじんにチャーシュー(牛肉だったけど)みたいのがどーんとのったピラフを食べる。腹いっぱいになりながら掲示板をネットカフェで更新。

<19.Nov.2003 Day-32>

Stay Peshawar

携帯屋に行ってみる。いろいろとカードが使えるようにと店員さんが、Mobilinkという通信会社の正規代理店に行ったり、カードが使える絨毯屋に行ったり、近くの銀行に行ってみたものの全部だめ。結局またStandard Charterer Bankに行き、キャッシングを試みる事になった。支店の中に入り相談すると、中だと手数料300Rs(600円)かかるけど、外のATMなら手数料は無料だよ〜ん、とのこと。実際やってみるとあっさり現金を引き出す事ができた。なんだ、昨日1時間もかかってしかも10%の手数料払ってパーチェイスまで渡してチェック両替したのがバカみたいだ。

なんとか現金を工面して、携帯を購入する。なんでもよかったが、携帯が入っている「箱」のデザインが気に入り、ノキアの3350という型式の携帯を買う。フィンランド人らしき若い男女2人が1枚のTシャツを着て立っているというだけだがなぜか健康的で気に入ったのだ!携帯が4,000RsとSIMカードが2,500Rsとスクラッチカード1,000Rsで約15,000円。一生懸命英語の説明書を見て勉強すると本当に勉強になる。いじくっているうちに画面の表示(文字)をウルドゥ語にしてしまい、全部表示がにょろにょろ文字になってしまい何がなんだかさっぱりわからなくなりあせる。なんとなく覚えている電話番号をかけているとと東京都北区在住の冒険旅人H氏につながる。1年ぶりくらいの電話「パキスタンにいるの、それはありだよねぇ」という氏のらしきお言葉を頂く。日本へは50Rs/分、着信は無料。

夜適当に飯を食いに行き(本当に飯に関して僕は適当だ)魚のマサーラー揚げみたいのとナンを食う。「1ヶ月ぶりに魚食ったなぁ」と思うと同時に、あっというまに日本を出てから1ヶ月たったことに気づく。

<20.Nov.2003 Day-33>

Stay Peshawar

夜いろいろと考える事が増え、遅寝遅起きになってきた。

アフガニスタンで使われているダリ語とパシュトゥ語を勉強しているが、「不定詞」しか取り組んでいないことに気がつく。「食べる」ではなく「たべ」とか「た」しか覚えていなければおそらく解ってくれないだろう、勉強し直す。近くの文房具屋にノート40Rsとボールペン20Rsを買いに行く。小学生のころから「勉強するぞ!」と気合いを入れるとまず文房具を買う癖は今になっても直っていない。

毎回ネットカフェで都度MSNから「JAMONDO」という日本語読み書きソフト5.02MBを2時間とかかけてダウンロードするのがばかばかしく、また2時間もやれば40,50Rsくらいなってしまう。CDドライブは無くともフロッピーディスクドライブがついているところはまぁあるのでフロッピーを10枚入り150Rsで買う事にした。

なんぼか髭剃ったがやはり街を歩いている15人に1人くらいから「お、中国人はっけ〜ん」みたいに言われ続けていたため床屋に行く。シャンプーなし40Rs。帰って風呂に入ると昨日今日と天気がよかったせいか、ホットシャワーになっていて嬉しい。(シャワーといっても蛇口しかないんだけど!)

適当に夜飯食いに行く。じゃがいもとチキンの煮込み+ナンが30Rsでや安かったものの足りず、甘いものかったら50Rsかかってしまう。やっとこさペシャワールまでの掲示板更新終了。

<21.Nov.2003 Day-34>

Stay Peshawar

だらだらととっつきが遅くなかなか語学の勉強が進まない。最後のヒポコンデリアらしくそれもいいかなぁと悲観的に楽観する。特に、夕方ホテルの部屋で「はぁはぁ」いいながらキントレやっていると、あたかもシルベスタスタローンのように欺瞞っぽい自分の姿があり思わず笑ってしまう。

ホテルの隣にある骨董品屋に行く。ここペシャワールから国境のトルハムまで行くには、パーミッション(通行許可証)と銃を持った護衛が必要であり、その通行許可証にはカーナンバーを記載するらしい。(つまり自転車は無理)また、このやたら警官と軍人の多いペシャワールのある北西辺境州、特に部族支配地域を自転車で通過するのはまず厳しいだろうと(そうとう面倒なことになるだろうと)考えていた。ランディコータルというパキスタン-アフガニスタンの国境から10kmの街にある英語学校の先生をやっている兄さんと街で知り合いメアド、携帯の番号を教えてもらい、なんかあったらお願いすることにはなっていたが、国境まではこのホテルの隣にある骨董品屋に許可証の取得と護衛の手配とタクシーの手配をお願いして、タクシーの上にチャリンコのっけていく手はずをつけていた。この国境に行くまでの手配を政府の観光案内所、旅行代理店に頼むと2,000Rsくらいだが、このサダルロードで声をかけてくる兄さんに頼めば安くできるが安全の保証はしませんとロンリープラネット(海外のガイドブック)に書いてあった。この骨董品屋の兄さんは1,200Rsで行ってくれるらしいので、800Rsくらいは買い物してもいいかなぁとは思って中二階にある骨董品屋に行ってみたのだ。

よくわからないナイフ300Rsを買う。骨董品屋にはこの兄さんではなく長老がおり、この長老は泣かせるいい味をもっていた。「わしはカブール出身だが、26日に何年ぶりかでカブールに帰ろうと思ってるんじゃよ。だから帰って家族と会うためにお金が必要なんじゃ・・。やっと故郷へ帰れるっていうのに金がないんじゃ・・。しかもたぶんわしはもうペシャには戻ってこない予定じゃ、今しか買えんのだよぅ。そしてわしはいまマラリアをわずらっておる、ほらこんなに手が熱いじゃろ?」と右目がつぶれている長老のお言葉に負け、なんだかわからんミナール(パキスタン軍人の勲章というかメダル、らしい)と単なる石っころ(1,000年前の時代にインド亜大陸で使われていたコインらしいが・・)を買ってしまう。僕はこういうのに弱い。

昨晩下痢したため夕飯ぬき。毎日ネットカフェに通っていると、ミルクティをサービスで出してもらえるようになった。

<22.Nov.2003 Day-35>

Stay Peshawar

朝9時前には起きたが、朝4時くらいまで考えことしてた。昼寝を禁止することにした。朝4時というと日本時間で朝8時である。

なぜか、ここにきてナンバーガールをよく聴くようになった。街を歩けば気がつくとナンバーガールをくちづさんでおる。やっぱり非常に眠い。

本屋に行くとやはりここはアフガンへの要所、アフガニスタン関係の書物は多い。2時間くらい立ち読みをする。再度リパッキング開始。水を4.5Lとクッキー3箱購入。塩、砂糖など多すぎる為(一般家庭でもこんだけあれば半年はもつだろう!)「SALT」、「SUGAR」と袋に書きホテルに置いていくことにした。

夕飯に行こうとするとまた隣の骨董品屋の長老に会う。(昼間も会っていた)暇つぶしに中二階にある物置のような店に行き時間をつぶす。ここには「GREAT MUJAHID OF ISLAM」とオサマビンラディンの顔がプリントされているTシャツが有り、これはテロ対策(?)にありかなぁと思いつつなんも買わずに店を出る。この長老は「FUCK」という単語をよく使う気さくなじいさんである。

<23.Nov.2003 Day-36>

Stay Peshawar

やっぱり遅寝遅起。

やはり、米軍のヌーリスタン(ジャララバードの北)一掃作戦や、イード(ラマダン明けのお祭り。やっとラマダン終わりましたねぇ、じゃあ家族や友人集めて豪勢に食べましょっか!のお祭り)中のカブールが危険な気しつつも、25日に1回目のアタックをするため計画を練り直す。ノート5ページ分に使いそうなダリ語とパシュトゥーン語はまとめることができた。

クッキー6箱、キットカット12個(缶入り!リュックの中に缶ごと入れ、背中から撃たれた時もしこれで助かったらNestleに感謝のはがきを送る予定)、甘い食パン2斤を購入しパッキングする。最悪まったくアフガンでパン、クッキーなど手に入らないとしてもなんとかやっていけると思う。

骨董品屋の爺さんも26日にカブールへ行くと言っていた。骨董費屋の兄さんに25日出発の話をすると、やはり26日からイード祭が始まるため、25日は実家へ帰るの人が多く、トライバルエリアへの護衛も帰省するので25日以降であれば護衛自体がいないかもしれないとの事。200Rs先に渡し、24日中にパーミッションと25日のセキュリティエージェントの手配をしてもらう事になった。

入国がまずすんなりいくはずもなく、入れるかどうか分からずまた入ったらほんとどうなるか分からないが、いよいよもって緊張感がいい感じに高揚する。自分が自分であってほっとする。パキスタンのビザも12月17日には1回目がきれてしまう為、25日のアタックが失敗に終われば、12月1日に再度アタックを予定し、それでもだめであれば一度パキスタンからインドへ出国するかイスラマで面倒なヴィザの延長申請をしなければならない。

アフガンに入国できた場合、携帯(SIMカード)購入する予定だが、夜電気が足りずみんなローソク持って歩いている国でまず充電ができないだろうと考えており、基本的には携帯は電源を切っておく予定。

とにかく、自分とその可能性を最大限に信じる事、これだけだなぁ。

<24.Nov.2003 Day-37>

Stay Peshawar

昨晩はやっぱり寝れんかった。一人おびただしい緊張感に包まれ、迫りくる圧倒的な恐怖感と戦った。とりあえず、新聞を読みながら朝食のパンを食べる。イード祭がいつから始まるかが(24日以降で最初にお月様が見えたら日から始まるらしい)焦点になっている。最終パッキングをし、なんとか収まりそうな実感を得る。お昼頃、突如骨董品やの兄さんがホテルにあらわる。「やっぱ今日許可証とっても、明日からお祭りの為護衛が帰ってしまうので、明日の出発は無理かもしれない。今日出発ならまだ護衛がいるかもしれないぞ」との連絡。ただ、12時を過ぎており今から出発したとして、国境に着くのが14時過ぎ、そこから走り始めて目標のジャララバードまでは80kmあり最低4時間はかかる。それは厳しいと思いつつ、国境からジャララまではタクシーにチャリンコ乗っけていくことにし、急遽30分で荷物と心の整理をしアフガンに向けて出発することにした。

乱暴にタクシーの上へ荷物とチャリンコを乗せ、ひもと荷締ベルトで固定する。そして、ポリティカルエージェンシーという役所まで行ってみると、結局この日は早閉まいしてた・・。よかったのか、わるかったのか・・。明日はもう閉まっているかもしれないが、もう一度チャレンジしてみて、もしだめなら次の月曜日の12月1日に再度トライすることにした。

たぶん出発は長引くだろうと思いホテルをNEW MEHRANいう200Rsから80Rsの宿に変えた。寝不足のせいかどっと疲れが出て、昼寝をする。昼寝後荷物の再チェックを行い、空気を入れたりと用意を徹底する。最後の夜飯かもしらんということで、豪勢な中華レストラン「HONG KONG」に行きチキンフライドライスとジャスミンティ(ほとんど味はしなかったが香りだけはジャスミンティだった)で晩餐する。

<25.Nov.2003 Day-38>

Stay Peshawar

今日からアタック開始と入れ込んでいたので、まったく昨晩は寝付けなかった。が、ここ数日間は迫りくる圧倒的な恐怖心との攻防戦を夜半繰り広げていたが、やっと昨晩その恐怖心に打ち勝つ(受け入れる)ことができた、ような気がする。8時の待ち合わせになってもタクシードライバーはやってこないが、心地よく10時頃までうたた寝をする。10時ころ現れ聞いてみると、「結局今日も役所は閉まっている」との事。「ただ、ひょっとしたら本庁はやっているかもしらん」ということで、本庁まで行ってみたが、やっぱりもうお祭り(れっきとした休日として)で休みに入っていた。

ホテルに戻り、出発は1週間延期になってしまったものの、なんとなく出発にあたって納得の行く心構えはできていたのでそうがっかりはしなかったが疲れていた。そして、また1週間延びるとなると、2週間以上自転車をこいでいないことになる。せっかく作り上げたツーリングモードを崩したくないためどっか行こうと思い、とりあえず1週間分のお金を下ろしにいく。

ラマダンが明けたらしく、街を歩くと映画館も開いているし、街頭にタバコ屋もいるし、人々が歩きながらタバコを吸っている。そう、別にこの人たちは夜しか飯を食わず夜飯を食ったあとしかタバコを吸わない人たちではないんだと思い出した。屋台の中華スープ屋さんも日中から営業をしており、思わずむっちゃくっちゃコショウが効いて飛びっきり辛く、汗だらだら流してチキンスープを食ったらマジで美味かった。

疲れ果て、昼寝をして起きるとびっしょり寝汗かいておる。微熱もあるようだ。そしてアフガニライス+生野菜サラダ+ダール+ダヒー+カスタードプリンと豪勢な夜飯をとり、赤信号が出てホテルに戻る。完全にお腹を壊したようだ・・。

<26.Nov.2003 Day-39>

Stay Peshawar

失敗した事に、このホテルの部屋にあるベットからスプリング感を直に痛感する事ができた。寝ている途中に腰の痛みを感じて何回も起き、胃から炎が出るイメージだった。僕は函館で定宿にしていたビジネスホテルのベッドを思い出し、4年前のインド自転車で行ったカンプールの宿を思い出した。腰と胃が痛すぎてゴジラのように火を吹くイメージ。ベッドというかベッドと壁の隙間に挟まって昼間で寝るとなんとか熱は引いたようだ。ただ、この日はこの旅を開始して初めて、一歩も外に出ずホテルの部屋で過ごした。結局腰をおろそかにすると胃にくるんだろうなぁと思い、腰の大切さ(もともと僕は高校時代から腰をだめにしているヘルニア予備軍である)を痛感し、個人マットとテントマットと新聞を敷いてホテルの床に寝る事にした。

<27.Nov.2003 Day-40>

Stay Peshawar

床に寝たのが効いたようだ、ずいぶんよくなった!念のため午前中はオフにしてホテルでゆっくりとすごし、昼から動き出した。「さぁ、最高の・・」と歩き出すと「ババ爺」と呼ばれる(旅行人の掲示板にもそう呼ばれていた)爺さんに出会う。とりあえずチャイを飲みに行き(おごってもらい)話を聞く。ババ爺は日本人が書いた紙きれを持っておりそれを見せてもらうと「悪い人じゃありません、この人が連れていくツアーは結構高い、けどそれだけ楽しめるよ!」と書いてあった。1,000Rsくらいするのかなぁと思い聞くと、400Rsで半日いろいろと連れていってくれるようだ。とりあえず「ババ爺」はお祈りに行く時間なので、30分後同じ場所で待ち合わせをし、ホテルへカメラをとりに帰った。

ペシャワールから西へ向かうバスに乗り、アフガン人のみ集まっているというアフガンバザールに連れてってもらう。アフガンの両替屋やアフガン式レストランなど見る事ができ、アフガンでの行動イメージを湧かせる事ができてよかった。そしてそこからカイバル峠が見える・・。

またバスに乗り、許可証をチェックするトライバルエリア最前線のバザールに行く。なんだかわからんがロシア製のライフルを持たせてもらい、写真を撮る。このあたりは無法地帯らしい。最後にアフガニスタンの難民キャンプを見に行く。木や泥で作った家が固まっており、聞くと50,000人の難民がここに住んでいるらしい。東京ドームを満員にすることができるくらい地雷や内戦におびえ住む事ができなくなって逃げてきた人がいるってのは、一人のアーティストがそのライブに50,000人のファンを集めるのとは違う。思ったのは、棺桶を作っている人が多かったなぁという事と、ガキンチョはたとえ貧しくても遊ぶことしかないんだなぁという事。こりゃ楽しかった。しかも、この「ババ爺」はなんだかえらく身振りそぶりが大袈裟で楽しい。まぁ、生きるか死ぬかしている難民キャンプに連れていって「ほらいい写真が撮れるでしょう〜、どんどん撮りなさいっ!」ってのもどうかとは思うが・・。

やはり休日の為か新市街ほとんどの店が閉まっている。まだ腹が100%回復していなかったので、味付けがきつくない中華料理屋「HONG KONG」にいく。

「明日はちょこっと冒険してやるか、最高の冒険の前に!ちょこっとお腹をすかせとこうじゃないか!?」と手帳に書いてある。

<28.Nov.2003 Day-41>

From Peshawar to Charsadda 47.8km

微妙に起床。体力は70%くらいまで回復してきたようだ。アフガンにチャリンコで行くのも、朝起きて会社行くのも、週末彼女とご飯食べに行くのもすべて「可能性」という意味においてそれぞれまったく違いはない。それらにどう必死であるかなんだなぁ。

久しぶりに走り出す。とりあえず、チャールサダーというところに遺跡があるらしいので、そこまで行ってみることにした。がたがた道の市街をなんとなく抜け、1本目の休憩。フロントパニアの取り付け位置の調整やエンドバーの位置の調整をする。やっぱり走ってみるのが一番早い。大学生の兄さんとお話をする。2本目走っていると大きな川に出会う。大きな川に出る前に右折する予定だったのが、いつのまにか通り過ぎてしまったようだ。ちょうど川沿いの河原にレストランがあり昼飯にする。目の前のカブール川とその向こうにそびえる何千メートル級の山がみえる風向明媚なレストランで、魚のマサーラー揚げとナンを酢のタレにつけて食べる。お魚くんは別としてナンが美味かった!やはり都心よりも地方の方がローティ(ブレッド)はうまい。3本目はじっくりと走る事ができた。フロントフォークのヘッドが心配だったがなんとかこれなら行けそうだ。

ほんとにホテルなんてあるのかなぁという街の中心部の交差点にVENUS HOELという宿を発見。100Rs。部屋に入った瞬間、ペシャ大の薬学部の学生がやってくる。ちょうど大学もお休みで実家に戻ってきたらしい。お話していると16時を過ぎ、日が暮れてしまいつつあった。お話後目的であった「バーラーヒッサール」という遺跡に行ってみる事にした。ほんとこんなのを頼りに辿り着ける事ができた人はいるんだろうか、というガイドブックのコメントを見ながら1時間くらい歩いて到着した。(50kmでもチャリンコ走ってから行動するってのはなかなか大変なことですよ)とりあえず着いたものの、もう暗くなりかけてきていた。紀元前にアレクサンダー大王がこの街の攻撃に手をやいたという都市遺跡らしいのだが、ただの山と丘だった。夜行動するには危なさそうな場所だったのでとりあえず写真を撮って(そこらへんにいた小学生に何度も「写真を撮ってくれ」と要求されてほとんどその写真だけ)その場を離れる。帰りはよくわからん長老(「いやぁ、日本語と英語ってのは難しいのぉ」を繰り返していた)と一緒に歩きながらジュースを買って帰る。

帰ってジュースを飲もうとストローを差すと、どうやっても切り口(というか斜めになってるほう)が口にあたる。10分くらいう〜んと考え悪戦苦闘すると(何やっているんだろう)ストローの両側とも切り口が斜めになっており、「別に問題はないかぁ」と納得する。

やっぱりボリュームは別として、動的な方が好きなんだなぁ、ダイナミックに行こうと感じとり就寝。

<29.Nov.2003 Day-42>

Fron Charsadda to Peshawar 80.3km

ひっさびっさにぐっすり寝たぁって感じ。このホテルは1階がレストランになっており、そして部屋にはカーテンがなく廊下から丸見え。そして起きるとすぐコックやらウェイターが部屋に入ってきた。お話をしつつ部屋でチャーイとナンを食べる。ウォークマンが気に入ったらしく、朝からこの人たちは石野卓球でダンスしておった。

さ、出発しようと思ったらやっぱり「もういっぱいチャイ飲んでけ」といわれ10時に出発。そのまま来た道を戻らず、くるっと30kmくらい遠回りをして帰る事にした。2本目を走ると劇的に風光明媚である。川と山が見えるだけでこんなにも気持ちえぇもんなんだなぁ。クリエで動画をとったけど、がたがた道だったので映像もがたがたで残念。そして、本気で腹が減ったがまったく店がない。おそらくこのへんにゃ遺跡もないし、どこかへ通じる幹線道路ってわけでもないんで日本人が来たことは始めてじゃなかろうか。まったく地図が意味をなさないので適当に走っており、ここがどこだかさっぱりわからん。やっと、街にでたものの、1分間立ち止まったらここまでで最高のスピードと量である100人くらいが「ぞろぞろっ」と集まってきた。こりゃ困ってまた走り出す。「ほんと腹減ったよ〜!なんか食わせてくれよ〜!」と叫びながら走っていると、手招きしている長老を発見!レストランかどうかわからんが、なんか作ってくれそうだ。人んちの物置だか、Prayer's Placeなのかわからん場所で飯を食わせてもらう。牛肉と大根の煮物とほうれん草のお浸しみたいのが出てきてしごく日本的だった。さっぱりどこだかわからんところで、さっぱり意味わからず「じゃぁ、英語の映画を見ようじゃないか!」ということになり、5人くらいでアメリカのアクションものの映画を見る。(セクシーシーンのところで何人かいた子どもは外に出されました)しばし歓談したあとグリーンティをいただき(ここペシャ周辺では紅茶よりも緑茶に砂糖入れて飲む方が多い)出発。やっぱりお金は受け取ってもらえず・・。とにかく、Smileしかありません。

ペシャに到着。また戻ってきてしまったとがっかり。僕はやっぱり定住思考がなく、農耕民族でなさそうだ。

また別のホテルにしようと思ったが、同じNEW MEHRANホテルに戻る。20Rs高いグランドフロアーの100Rsの部屋にしたらベッドもしっかりしていて腰痛を引き起こさなそうだし、ちゃんと携帯の充電もできた、よしよし。

吉野屋の牛肉でさえ尊敬してしまうむちゃくちゃ固いスジ肉の煮込みとナンを食って(むっちゃくちゃあごが疲れた)ネットして就寝。

<30.Nov.2003 Day-43>

Stay Peshawar

走ったおかげ?で快適な睡眠が取れる。朝食に買っておいた食パンを食べようと思ったら緑色のカビが生えておる。やっぱり1週間が限界らしい。

10時から買い出しスタート。ミネラルウォーター、ジュース、新聞を買ってホテルで読んでいると停電になる。新聞は後回しにして再度買い出しへ。スーパー「Jan'S」でクッキーとアフガンツーリング中そこらへんの道端で休憩を取る時が多いと考え「ござ」みたいのを65Rsで買う。また昼食用のサンドイッチとアフガンツーリング中用の食パン2斤、マーマレイド味っぽい食パン2斤を購入。

ホテルに戻るが停電したままでやる気が無く、パッキングできずうたた寝してしまう・・。目覚めると電気が点いている。パッキングを済まし出かける。「ババ爺」のいるところを通ったが彼はおらず、また昨日ホテルを探している際に会った「プリンスカーン」氏というあやしいツーリストガイドの店を探したが見つからない。とりあえずネットカフェにいき、この掲示板の更新をしにいく。すると、そこに昨日会った「プリンスカーン」氏がなぜか暇そうに座っていた。(これまで何日間もこのネットカフェに来ていたが一度も見かけたことはなかったのに!)数時間かけて書き込み終了し(この間カーン氏はこのネットカフェを出たり入ったりあやしい行動を取っていた)このネットカフェのある建物の中にあったカーン氏の店に行く。話を聞くと900Rsでアフガン国境までのタクシーと護衛と許可証の取得をやってくれるらしい。このサダルロードにいた骨董品屋の兄さんに200Rsをすでに払ってはいたが、このカーン氏の方が信頼できそうだ。このカーン氏にすべてを託すことにした。チャイ屋さんにいき、カーンさんにチャイ(グリーンティ)をおごってもらいつつ、パシュトゥ語を教えてもらいつつ彼の話を詳しく聞く。なにやら恵まれない子供を世にアピールする雑誌(新聞)の編集長が本業らしい。ますますあやしいが単なるお人好しないい人系くさい。一緒にホテルまで行き、明日9時半にホテルに来てもらう約束をした。

適当にホテルの近くでナンとカバブ(ハンバーグ)14Rsを食い、足りないので屋台のフライドポテト(一握りを新聞紙に包んでくれる)5Rsを食い、ホテルに戻り最終のパッキングのつめを行う。すると、ホテルに電話があり受話器を取ると骨董品屋の兄さんからだった。「う〜ん、出発は水曜日にしたいなぁ」とうそぶいたが感づかれたらしく「明日ホテルに向かいに行く」と向こうも引かない。結局明日朝10時にこの骨董品屋の兄さんの店に行くと電話で伝えた。

明日9時半カーン氏がこなければこの骨董品屋の兄さんがホテルに来るに違いない。結構スリリングな展開になると思うが、たぶんカーン氏の方が強いと思い、もしこの骨董品屋の兄さんが先に来たらとにかくホテルに待機してカーン氏が来るのを待つことにした。アフガンに向けた最後の夜、手帳にはこう書いてある。「とにかく、アフガンに入ること。可能性の問題だ。とにかく、必死であるべきだ!」