3.「Life!」命のような8日間。(パキスタン・アフガニスタン)
Attack.2 Afghanistan Expedition 196.1km
(2003年12月1日〜2003年12月11日)
<1.Dec.2003 Day-44>
Afghanistan expedition Day-1
昨晩、僕の父親の持つ多角的な分析能力(観察力)と母親の持つ独創的な思考能力(考察力)をこの旅においてすばらしい洞察力と判断力として展開できているなぁと思いながら寝た。
8時に起き、パンを食い用意はパッチリ。スリリングな展開を予想していたが9時40分カーン氏がホテルに登場する。そして荷物はそのままでカーン氏とホームデパートメントへバスで5分。3階の受け付けにはドイツ人、ノルウェー人、韓国人と「ラマダン明けまでずっと待ってました!」といわんばかりにツーリストがやってくる。(ほとんどパキスタンビザ、アフガンビザ、自分のパスポートの「コピー」を持ってきておらず追い返されていた。その辺、日本人旅行者の情報力には感心する)ただ、役所も祝日明けで今日から再開したらしく、「新年、あけましておめでとうございます」みたいな雰囲気で次から次へとパキスタン人がやってきて挨拶が始まり書類の受け付けもしばしば中断してしまう。「名前」と「トルハムまで」がタイプライターで打たれた許可証を入手。
カーン氏はタクシーの手配をするということで、30分後タクシーと一緒に再度ホテルへ来るとのこと。バスに乗って1人ホテルまで戻る。(この間骨董品屋の兄さんがホテルに来て鉢合わせするとごちゃごちゃしそうなので、ホテルの手前で降り、時間をかけて帰った)
待つこと40分、緊張の色は隠せない。この最終ベースキャンプ地「ペシャワール」に2週間位待ったが、どうにか念願のアフガニスタンへ入ることができそうだ。カーン氏は自転車を乗っけることができるよう車の上にキャリアが付いているタクシーを見つけてきてくれた。自転車、荷物をタクシーに詰め込みポリティカルオフィスへ行くこと5分。頼りなさそうだが人がよさそうである護衛(銃を持っている)のじいさんがタクシーに乗り込み出発。ここでカーン氏と別れる。
結局カーン氏に500Rs、タクシーの運転手に500Rs、護衛に180Rs(通常は125Rsらしい)を渡した、まぁこんなもんだろう。ガソリンを入れ、許可証をそこらへんでコピー2部とり、旅人のロマンであり歴史の要所でもある「カイバル峠」に向けて12時頃出発。タクシーはガンガン上っていく。聞いていたとおりロマンあふれる風景が広がる、やはり僕は山派だった。ランディコータルという街を抜け、国境の街トルハムへ。13時頃だろうか、国境に到着するとポーター(荷物持ち)の少年が恐ろしい勢いで荷物に群がる。そんじょそこらの力じゃ引き裂けることはないだろうカバンが引き裂けそうになるくらい、10人くらいの少年が荷物の取り合いしている。とりあえず荷物はタクシーの中に入れたままにし、パキスタンの出国手続きを行う。人は多かったが10分くらいで出国のスタンプを押してもらうことが出来た。そしてポーターに荷物を預け、300メーターくらい先の入国審査に向かう。その間にいたタクシー(カローラバン)に荷物を詰め込み、アフガニスタン入国の手続きを行う。これも5分くらいで(ビザも見ているとは思えないほど)適当に入国のスタンプを押してもらうことができた。スタンプを押してもらった後隣りの建物で入国に関する簡単なチェックイン(名前くらい)をし出発。結局かなり強力なポーターのガキンチョには合計50Rsを渡す。
タクシーは国境の街トルハムを出発!あぁ、あんだけわぁわぁいっていた憧れの、憧れのアフガニスタンに入国できた!そして、このタクシー運転手の選択を間違えたことに気が付いた。時速150kmくらいで吹っ飛ばすスピード狂の兄さんだった・・。(アフガニスタンは右側通行でした)目がとろ〜んとしており、アフガン音楽をガンガンかけて、音楽のリズムにあわせ指をパッチンパッチンしながら吹っ飛ばしている。しかも、どんどん加速しながら音楽に合わせ、挙句に両手を叩き始めたりする。走っている乗用車はほとんど日本の中古車で右ハンドルだった。この兄さんは「追い越し命」だったので「おいおい、前から車来てる、来てるよ〜」と、追い越しのストップをかけながら走った。生きた心地がせず、シートベルトをしようと思ったがここはアフガニスタンだと思い止めた。そして、アフガニスタンの風景は言葉では表せることができないものだった。「ハイキョ!カイキョ!クウキョ!スゴイヨホント!」と手帳にかいてある。冒険家関野吉晴がどこかの国を自転車で走りながら「月の〜砂漠を〜」と歌っていたのを思いだす風景だった!僕はもちろん月(MOON)に行ったことはないし自転車で走ったわけではないが、おそらくこんな感じだと思った。カーン氏にトルハムから80km先のジャララバードまではミニマム1,000Rs、マキシマム2,000Rsと聞いていたが、この急に黙り込んだりいきなり音楽に合わせて大喜びで指をパッチンパッチンさせるタクシードライバーにはガソリン代払ったのも含め合計1,400Rs渡した。途中ガソリンを入れたとき、車を降り前タイヤを見るとつるっつるっになってしまっていた。途中彼がご機嫌な時に何度も「テール、テール、2,000Rs!」といっていたのはおそらく「前タイヤ変えたいから2,000Rsよこせ!」ということだと思う、結局黙ってたらまたノリノリで指パッチンを始めたのでなんとか払わずにすんだ。
ジャララバードらしき所に到着。あまりにもこのタクシードライバーは気がどこかに飛んでおり、ホテルに着ける見込みが少なかったため、タクシーを降り、自転車に乗ってホテルを探そうとしたが、タクシーを見つけてさらに乗り換えることにした。タクシーは「カイバルゲストハウス」というところに停車。「1泊いくらかいな?」と聞くと(なんだおまえはウルドゥ語を話すのか英語を話すのかパシュトゥ語を話すのかダリ語を話すのかどっちなんだねといわれた。もうどの単語がどの言語かごちゃごちゃになっていた)1泊400Rs、この街で最高のホテルらしい。荷物を部屋に詰め込んだらもう16時近くなっていた。ちょこっとパンを食い(朝から興奮のあまり何も食べていなかった)アフガニスタンに慣れるため街を歩く。ペプシ、牛乳、タライ、電化製品、時計、服、レストランなんでもあった。おそらくほとんどパキスタン製)17時になるとほとんどの店がシャッターをおろしはじめた。やはり夜間は外出禁止らしい。人通りもなくなり急いでホテルに戻る。結局このジャララバードにあるという携帯屋は見つけられず。ホテルでゆっくりアフガニスタンを感じつつ夕食。アフガニライス、ナン、サラダ、肉だんご豆スープと贅沢な70Rs。やはり標高が高いせいかやや寒い。電気をつけっぱなしで寝た方がいいのかと思ったが、やっぱり目立たない方がいいだろうと思い、電気を消して22時頃就寝。明日からスタートだ!
<2.Dec.2003 Day-45>
Afghanistan expedition Day-2 75km?
朝はこのホテル(レストラン)では朝食サービスはやっていないらしく、そこらへんのレストランでチャイとナンを食べる。もう楽しみで楽しみでしょうがない。
今回のアフガニスタン自転車旅行の予定は最終的に以下のように考えていた。以下冒険の伴侶に出発前(11月30日)に送ったメール。
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はてさて、んでもって、また明日or明後日とアタックしたいと思います。
アフガン自転車。
いちおうだいたいこんな予定を考えてます。
12/1朝タクシーに乗ってアフガン入国。タクシー乗り換えてジャララ・アフガンホテル泊。街歩いてアフガンになれて、できればSIMカード購入。
12/2サロウビあたりまで80kmのラン。
12/3目標午前中カブール到着80kmのラン。ジャミルホテル泊。
12/4カブール予備。両替とネットカフェで発進とジャララでだめなら携帯購入。
12/5カリカーという街あたりまで80kmラン。
12/6シーバル峠(標高三千メートル!)付近まで80kmラン。
12/7目標のバーミヤンまで80kmラン。バハールホテル泊。大仏が見えるこのホテルか大仏が見えたところがゴールとしたい。
12/8走る予備だけど、できれば長居したくないのでカブールまでタクシー。(11H)
12/9カブールからジャララまでタクシー。(5H)
12/10ジャララから国境トルハムまで80kmラン。状況みてタクシーもあり。アフガン出国。
最低限こんだけやれれば満足すんだろうなぁという行程であります。走るのは400km5日間くらいなもんだけど、40,000キロ5年間分くらいの重みがあると思ってますわ。
ただ、小泉君も「おれはイラクに軍隊だすよ、まじで」といってるらしいので、状況がますます悪くなりつつあり、アフガン入ってから作戦立て直すことになると思いますが。
ポイントはこんなところですな。
1.ジャララからカブール:強盗殺人多く、現在ジャララ北部で米軍がアルカイダ討伐作戦を行っておる。走りはじめてすぐで強盗とかのチンピラにあってしまうとつらい。盗賊にあったらへたに現地人気取るよりは「なんだかわからんけど自転車こいでる日本の若者で〜す」と振り待ってコミュニケーション取りたいとは思うんだが。
2.カブール滞在:インターコンチとか大使館とかがいい標的になってるんで、あんまり滞在はできないと思うんだなぁ。せっかくだから、骨董品の一つくらい買いたいとは思うんだが。自転車でカブール走ったらそれこそ目立つと思うからなぁ。
3.カブールからバーミヤン:カブールの標高が千メートルとして、二千メートルくらいアップがあるんだなぁ。三千メートルの峠だったらゆきふっとるかもしらん。そんでもってこのバーミヤン周辺には地雷が多いんでそれも心配。地雷に関してはコミュニケーションがどうのという話ではないので轍のあるところしかいかないようにするしかないんだなぁ。途中ホテルやレストランがあるのか不明。
まぁ、自転車かついで入国すること自体、そうとう金つまないと無理だろうなぁと思うんだが。
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と、1番最初はトルハム〜カブール〜カンダハール〜クエッタと考え、出発前にはトルハム〜カブール〜ヘラートと考えていたものの、最終的にトルハム〜カブール〜バーミヤンまで行ければと考えていた。
そして荷物を降ろし出発。自転車に荷物を取り付けているとホテルの前には30人くらいの人だかりができたが、悪い雰囲気ではない。感動の1本目、長渕剛の「Live89」を聞きながら出発!5kmくらいだろうか、街を抜け、ケシ畑の中を走る。あぁ、アフガニスタンを自転車で走っている!そして最高の景色、来てよかったと切に思う。快走。トンネルを抜けると右手にカブール川が流れ、その川を牛がゆったりと暖かいお風呂にでも漬かるように歩いて渡っている絵には感動した。24kmくらい走り、地雷に気をつけながらガードレールの役割を果たしているだろう石の上に座り休憩。なんとなく、ここからダート道が始まりそうだ。アナログカメラで写真を撮り、PDA(クリエ)で写真&ムービーをとる。そして、ここからが本当の、「命」の様なツーリングだった。2本目からはSisiter Bliss「Impressionist」を聞きながら走る。良く考えると僕はダートらしいダートを今まで一度も走ったことがなかった。日本の砂利道や日本の林道、農道レベルしか(あたりまえだが)イメージできていなかった。そしてそれがあまかった。おそらくこの一体の岩山を削って平らにしただけだろう国道(カブール街道と呼ばれているらしい)は大きな石っころがころがるヤマメとかがいそうな川の上流の河原みたいな感じだった。しかも、砂も多く、何回も砂に足を取られて転びそうになり、足を着いた。せっかくのトゥクリップはまったく意味をなさなくなってしまった。結局時速が10kmくらいに落ち、16km走るのに2時間かかってしまった。ただ、こぎざみに右に左に大きな石(段差)をよけつつ、砂に足を取られふらふらとなりがなら走ることが出来たのは、3回北海道で雪道を経験したからではないかと思った。地雷に気をつけながら2本目の休憩。地雷があるかもしらんのであまり街道から離れたところで休憩はとれない。当然店もない。パンをバカ見たいに貪り食うと次々と車が立ち停まり「お〜どこまで行くんだい?」と声を掛けてくれる。3本目から道は登り下りを繰り返す。ダート道で登りだと砂にタイヤが取られまったく力が入らず自転車は進まない。下りでも砂に足を取られペダルをこがないと進まないし、まったく下りだからといって加速しない。
ここからダート(石&砂)道が始まる。雪道ではありません。
そして月の砂漠のような風景から渓谷という風景に変わってきた。右手側と左手側に500〜2,000メーターくらいのごつごつとしたいかめしい岩山がそびえ、その右下手側にカブール側が渓流といった雰囲気で勢いよく流れている。陽が落ちてきたということもありやや暗く、非常に雰囲気が悪い。このあたりから軍人に停車を命じられることが多くなる。
やや走った後、「おい!お茶でもどうよ!」と声がかかり休憩することにした。ここで「砂糖」=「サブー」といい、「もういっぱいですよ」=「バス」と言わないと次から次へと緑茶を注がれることを覚えた。10人くらいでお茶したが、ライフル銃はもとより、「ダダダダダッ」と撃てるだろう掃射銃が店に備え付けられおり(もちろんいつでも撃てるようびろ〜んと弾が付いている)、やはりこの地が安全ではないことを十分に確認する。1人英語ができる人がいたのでなんとなく会話しながらお茶していると、1人が国道を走っているトラック運転手を止め、走って駆け寄りお金をもらって戻ってきた。アルカイダらしい。アルカイダからお金をもらっているということはこの人もアルカイダのメンバーだったんだろうと思う。そしてお金を払って出ようとすると受け取ってもらえず、しかも、「だいじょぶか、お金あるかぃ?」と逆にお金をもらいそうになった。アルカイダからの資金提供??
4本目を走る。だいぶ走る車も少なくなる。砂ぼこりのなか軍人(現政府軍の軍人だか旧政府軍だかタリバン派ゲリラだかアルカイダ等のイスラム過激派組織なのか地方軍閥の軍人なのか見分けつかず)に停車させられることが多くなってくる。一般人もライフル銃を持ち歩いてはいるが、停車させられる度に「あぁ、ここで最後かしら?」と思いながら、「いや〜、ダート道ってのはつらいっすなぁ〜。でもこんなところをチャリンコで走るっては最高っすよ、まじで!」という笑顔で、「はぁはぁ」呼吸しながら「ハロォ〜!!」と勢いよく声をかけた。だいたい最初は恐い顔をしているが「サロウビ行ってその後カブールに行きたいんですよ〜、このチャリンコで!」と話しているうちに、最後は「そっか、がんばんなよ!」という笑顔を返してくれた。
人寂しい渓谷で休憩を取る。ぼちぼち陽が完全に暮れてしまう。走っているうちにばてないようパンを貪り食いつつ、1斤1日で食ってしまいやや後先の事を考え後悔しつつも出発する。5本目。夕暮れまであと1時間、10km走ればサロウビの街までたどり着けるだろう。ただ、なかなかダート道では進まず、要所要所で軍人に捕まり無視して撃たれるわけにはいかず、コミュニケートせざるをえない。自分の限界以上(27才という年齢に鞭打って!)よく走ったと思う。16時半あと30分で完全に真っ暗になるだろう。あたりまえだが外灯もなく民家や店らしいところはまったくないところで完全に陽が落ちたらそれこそ一巻の終わりだ。というところで急激な登り!スコップ持って道路の穴ぼこを直しているフリ(アフガニスタンで結構みました)をしている少年に自転車の後ろを押してもらい5Rs渡す。するとジュースやタバコ等を売っている雑貨屋を発見。とりあえず水が心配だったのでミネラルウォータをかって飲む。Go or Stayに迷い、雑貨屋のおやじさんに聞いてみるとあとサロウビまで10kmはまだあるらしい。「この雑貨屋の隣の空き地に寝させてもらってもいいだろうか?」と話をしてみるとOKのようだ。う〜ん、ひとまずどうにかなった・・。
自転車を雑貨屋の前に止めていたこともあり、お祈りするため立ち寄ったトラックドライバーが集まってくる。「よくここまで無事できたね〜」「じゃぁこっから先は安全なんすか?」「もっと危ないよ。インシャラー(あとは神のみぞ知る)」という会話ばっかりだった。さっき5Rs渡したガキンチョがいつのまにかおり、3人で音楽を聴きながら過ごす。長渕のLive95-96(きばいやんせ、Hold your last chance、Stay dream)を聞いたらほんと心にしみわった。ただ、途中から「セクシームジークがいいよ」と言われ、セクシーかどうかは別としてミシェルブランチを聞いた。2畳くらいの雑貨屋さんの中で、ランプを灯し、携帯コンロで夕食を作ってもらった。米にラードみたいな油と大根煮たものを入れ煮ること1時間。油おじやとナンという夕食を雑貨屋のおやじさんとガキンチョと僕の3人でとった。手でご飯を食べたためぼろぼろとごはんをこぼしながら・・。そして際限無く食った。ほんと僕の胃はどうなっているんだろうといわんばかりに!そして、雑貨屋の中にあるペプシや乾燥させたグリーンピース豆やらいろいろとサーブしてもらった。そしてこの雑貨屋のおやじさんはあまりにも店のジュースや豆やタバコを食い過ぎだったと思う。最初はこの鍵のかからない雑貨屋に僕ひとりで寝る予定だったが、結局この雑貨屋のおやじさんとガキンチョと(おそらくこの雑貨屋さんの息子ではなかったとは思う)と僕の3人で2畳くらいのスペースに川の字になって寝た。外は至極当然星がきれいであり、カブール側のせせらぎを聞きながらツーリング初日が終了。
雑貨屋のおやじさん。
<3.Dec.2003 Day-46>
Afghanistan expedition Day-3 20Km?
腰は痛いがよくこの場所で寝れたもんだ。朝8〜9時頃までこの国道には戦車や装甲車を乗せたトラックばかりが走っていた。これだとおそらく時間と距離を稼ぐために早朝走ることも厳しそうだ。もう一人ガキンチョが加わり、近所?に住んでいるらしいおじさんからナンと甘いパンのようなナンを食べた後、さらにクリームに砂糖をまぶしてナンを食べる。そして沸かしてくれたチャーイを飲むと至極渋い味がした。こんなもんなのかなぁと思うと、雑貨屋のおやじさんも鼻をつまんで飲まなくなってしまった。せっかくのチャーイだったが、どうやらこの携帯コンロのガソリンがコップの中に入っていたらしい。そしてこのガキンチョはイラン製らしい「バンバン」というカステラみたいなお菓子を次から次へとバンバン食っていた。
自転車をみるとあんな悪路を走ったもののパンクしてないし、キャリアも無事のようだ。さ、出発しようと思ったが、昨晩この雑貨屋のおやじさんが「家に帰るまでの道のりに使わしてくれ、明日の朝返すから!」と気に入っていて自転車用のライトとヘッドランプを返してもらってないことに気がつく。非常にお世話になったがライトがないと今度は僕が夜走ることになったとき死んでしまうため、ヘッドライトだけ返してもらった。
1本目、長渕剛ライブ95アコースティックを聞きながら走り始める。やっぱり渓谷の雰囲気は悪く、また道は登りになっていた。おそらくこの道では陽が暮れる前にサロウビへは着かなかったであろうと、昨晩の判断が正しものだったと感じた。10km位走るとトンネルが見えた。あるインターネットの情報で「サロウビあたりのトンネルを超えると道は舗装路になる」とあったので、「よかったぁ、あとはすんなり走れるでしょ」と安心した瞬間、軍人に捕まり、お茶をごちそうになることになった。ここはカブール街道と北に向かう道路との分かれ道の所だったが、お茶をごちそうになりながら話を聞くと、この人たちはアルカイダの人たちらしく、この北へ向かう道を進むトラックを指差し、「この人たちもアルカイダだよ〜」と何回か教えてくれた。このサロウビから北に向かったところにアルカイダのアジトがあるらしい。また、この今僕が走ってきた渓谷で、日本人の女性が何年か前に銃で撃ち殺されたらしい。出発前結構情報は集めたつもりだったが、こんな情報は聞いたことがなく、おそらくこの人達もしくは知り合いが撃ち殺したんだろうなぁと思いつつ「あんた短パンはまずいよ、ってゆうかカブールに行ったら笑われちゃうよ」と言われ、カブールの服屋さんの住所を教えてもらい、また「とりあえず君は風呂に入った方がいい」と言われ(そうとうホコリにまみれていたらしい)サロウビにあるらしいシャワー屋さんの場所を教えてもらう。
2本目走りはじめるとサロウビらしい街が見えてきた。ただ、結局舗装路にはならず、ダート道が続く。早速シャリバテしそうな感じがあり、目の前チカチカしてきていたが、なんとか頑張って走る。ただ、この街にホテルらしい所はまったく見当たらなかった。多少下ったところでこれから登りになりそうな雰囲気があり、多少パンとクッキーを詰め込む。
3本目、案の定「バカみたいな」峠というか登りだった。いっぱい荷物を積んだトラックも時速3〜5kmくらいでしか走ることができないくらいの登りだった。道も悪くふらついてしまい自転車に乗って走ることができず、ちょこっと走り、止まって、自転車を押して、また止まって・・の繰り返しだった。結局頂上まで標高1,000メーターから1,200メーターくらいまでいっきに登った。非常に腹が減ったがところどころに「ここに地雷ありますよマーク」(赤いペンキが塗ってあったり、石っころが積み重ねてある)があり、うかつに休憩できない。なんとか走っているとガソリンスタンドがあり、そこで休憩を取りパンを食べようとしたところ、そこにいた人から「こっからはソルジャーがいっぱいいるからマジで危ないよ〜。陽が暮れるまでにカブールへ着かないとと死んじゃうよ〜」と脅され、結局休憩をとらずに走りはじめる。ちょうど山脈の稜線のようなところになり、ところどころに飛行機を打ち落とすような(湾岸戦争とかで飛行機に向かってぱかぱかミサイルを撃っていたやつ)大砲が見受けられ、ところどころに基地らしいものもみえる。「確かにこりゃぁ危険だなぁ」と思いながら走っていると「おーい!何だおまえ?」と基地にいる軍人から呼び止められてしまった。「うはぁ・・、こりゃぁ・・、もう・・、だめかな?!」と思いつつ、最高の笑顔で挨拶をする。「@#*%$!」
バカみたいな峠。
結局なんだかんだいつのまにか話の流れで、その基地というかアジトに入れてもらい、チャイをのみ、昼飯(昨晩食べたような油おじやと生の大根)を食っていた。この日はずっと峠と戦っていたため、もう15時近くになっていた。果たして危ないといわれているソルジャーがいるところを差し迫る夕暮れと戦いながら、泊まれるところも分からないまま走るのと、ソルジャー対ソルジャーの戦いが始まったら巻き添えを食うんかもしれないけど逆に安全かあ?と迷いつつ、結局このアジトに泊まらせてもらうよう考えお願いすると、なんとなくOKをもらった。
自転車をそのアジトにいれると写真大会で盛り上がった。デジガメってのはすごい。ただし「俺達はなんだかんだいってもタリバン派のムジャヒディン(イスラム聖戦士、過激派ゲリラさん)だから、カブールについても新政権の軍人にこの写真は絶対にみせんなよ」と脅された。ほとんどファルシー語だったが、タリバン、ムジャヒディン、カブール、カルザイという単語は確実に聞き取れた。
16時くらいから夕食の支度が始まる。なんだか僕のタバコや灰皿やスニーカーを何年も前からそこにあったように、かってにこの人達が使っている。ふとんと電気こんろがあるだけの10畳くらいの倉庫に4人のムジャヒディンが暮らしているようだ。途中停電になり電気こんろが使用不可になったため、離れた場所にある物置のようなところにある釜を使って、そこらへんから枯れ草を集めてきて再度煮込みはじめる。ご飯を煮込んでいる間ちょうど夕方のお祈りタイムになった。彼らにとって神聖な時間であるのは間違いなく、彼らがお祈りをしている間、なんとなく目つぶって座禅くんで待つ。「Thank you,Good man!」という声が聞こえ目を開ける。ただし、ブッディストという概念がないのだろう、「ラーイ、ラーイ〜」とアッラーへのお祈りの練習をさせられる。夕食は油ごはんとナン。やっぱり手(というか指)で食べるとぼろぼろおっことす。1人が「しょうがねぇなぁ」という感じで、笑いながらスプーンを渡してくれた。(この青年は戦闘時に地雷で片腕と残った腕の指2本を無くしていたためスプーンを持ち歩いていた)
夕食後は4人でずっとトランプをやっているのを見ていたが、さっぱりどんなルールなのかわからなかった。20時くらいだろうか、場所を作ってもらい就寝。天井には足の大きさほどある大砲の弾がやまほど積まれており、落っこちてきたらまずだめだろうなぁと思いつつ、また、もし米軍が討伐作戦とか始めちゃったらどんなニュースになるんだろうと思いながら・・。そして日本政府やアメリカ政府ってのは何をやっとるんだろうかと考えた。
泊めてくれたタリバンソルジャーさん達。天井にぎっしり今にも落っこちてきそうなロケット弾あり。
<4.Dec.2003 Day-47>Afghanistan expedition Day-4 40km?
ふとんの脇にライフル銃が転がっていることに気が付きながら目を覚ます。ぼーっとしていると、なんだかナンを持ってきてくれた人が来てから雰囲気がせわしくなる。「おい、トイレにいってこい、カブール行くんだろ?」と言われトイレ(野原です)から戻ってきて、出発しようとするとクリエ(PDA)が無くなっている。う〜ん、こりゃ困った。ゴネて殺されたらしゃれにならんしなぁ、と思いつつ、アナログカメラ(オリンパスミューU)を出し「これがアナログカメラですわ」と紹介し、写真を撮り、外にある自転車からクッキーを持ってきて「これ食べてくださいな」と渡すと、クリエが出てきた。なんというか駆け引きが冒険とイコールになっており、「ビジネス」という単語と、「マインドユアオウンビジネス」というセリフが「大きなお世話ですよ!」だった気がしたこと、を思い出した。ナンとチャイとクッキー(これがクッキーってやつかぁみたいな雰囲気で彼らは食べていた)で朝食をとる。やっぱりタリバンファイターのアジトに泊まるサイクリストっての貴重価値高いが、サイクリストを泊めるタリバンファイターの方がリスク高かったんだろうと思う。
9時頃出発。「秋山卓人が、アフガニスタンで、タリバンファイターと出会った〜」なんて、しゃれになってないウルルン滞在紀である。走り始めるとそこそこ舗装部分も出始め、かつ下りになっておりやや走るのが楽だ。ただし、戦車もそこらへんでごろごろ転がっているようなところで、ソルジャーから停車を命じられることも多かった。その度に最高の笑顔と自己欺瞞ない自信を前面突き出し、全身全霊を尽くした表現によってコミュニケーションを実施し、歴史を創造していく。1本目の休憩を取る。案の定、アナログカメラはカバンから無くなっていた。ビジネスが成功した気になったが、クリエの入っていたケースも無くなっており、これまでのデータが入ったメモリースティックとモデムカードもアフガニスタンに吸収されてしまった。命には代えられないが・・。
休憩をしているとゴメコナムしたくなってきてしまった。ただ、地雷マークがあちこちにある・・。どうしよう・・。結局足跡がうっすら残るところまで行き、国道から丸見えのところでトラックドライバーに見られながらヤケクソでゴメコナムした。
もうホコリまみれ。人間の限界を超えている顔。
2本目を走るとAJCだったかS〜なんちゃらという地雷除去チームの人たちが多く、また英語を話せる人が多かったためちょこちょこと立ち止まり、お話をする。ほんのつかの間の舗装路を下り快走するとまた地雷除去チームの人とお話することになり、お茶をごちそうになる。(アフガニスタンでは先に砂糖を入れた後お茶を注ぎしかもかき回さないので、だいたい3杯くらい1回にお茶を飲んだ。これはよい水分補給となり、ほとんど持参したミネラルウォーターを飲むことが無かった)「このままずっと舗装路続くのかいな?」と聞くと、「んなことねぇよ、しかもこっからずっとウーパル(登り)だよ・・」と聞きがっくり。3本目、じっくり登りを時速10km(これでも必死!)で走る。また地雷除去チームの人と話しをしているとすぐそこにレストランがあるとのこと。腹が減ってたのでこりゃちょうどよかった!サロウビの街を抜かし、100km走って初めてドライブインらしきところを発見する。ナンとライス(ピラフ)とカリフラワーのトマトソース煮込み(路上でカリフラワーを売っているのをよく見た)と牛肉のトマトソース煮込みを食べる。チャーイも4杯くらい飲んだ。なんだかわからないが、ねずみ小僧そっくりな兄さんに、残り少なくなった僕のライターとタバコ(88Mild、韓国製!確かパルパルっていう名前だったこのタバコを韓国ツーリング時に吸っていた気がする)を交換する。4本目を走り休憩をとりながら学生さんと話をしているとあとカブールまで8kmらしい。(ほとんど道行く人に聞いたキロ数はあてにならなかった)
とにかく、この時点ではすでに、目標のバーミヤンはどっかに飛んでいた。完全にお腹いっぱいで横になりたいくらいアフガニスタンツーリングを堪能しており、スタートとかゴールとかの概念を通り越していた。そして5本目こっからがハイライトといえる斜度20%はあるだろう、スキー場の上級コースくらいある登り道を走りはじめる。幸い舗装部分もところどころにはあったが、走り、止まり、水をのみ(あまりにもガタガタ道なので走りながら飲むこと不可能)、押して歩き、また走り、止まり、水をのみ、押して歩きの繰り返し。トラックも歩いた方が早いくらいの速さで登っていく。そんななかちょうど結婚式途中らしい一団があり、デジタルビデオカメラで「どっから来たんですか?やりますねぇあんた」と収録される、それどころじゃないってのに・・・。この峠の途中に「ようこそカブールへ!byオマル氏」の看板があった。気が遠くなりそうになりながら、必死×必死で峠を完全燃焼し(ほんとよくやるわ、27才!)気が付くと15時くらいになっていた。う〜ん、8kmとはいえ先が見えない、と思っていると建設中のガソリンスタンドの兄さんに声をかけられる。ちょうどよさそうな飯場があったのでそこに泊まらせてもらってもいいかと聞くとウェルカムらしい。とりあえず中に入れてもらいお茶をごちそうになり、荷物も中に入れてゆっくりさせてもらう。
ようこそカブールへbyオマル氏。
夕方、買い出しに近くのバザールにでかける。カブールの方向へ車で5分くらいだったが、ちょうどここのバザールで渓谷が終わっている感じだった。7upとクッキーとオレンジを買ってもらう。夕食(もちろんラード煮込みご飯!)が出来るまで、日本から持ってきていたダリ語(ファルシー、アフガニスタン的ペルシャ語)の本が好評だった。この本はマンガチックになっていて、また単語集も付いていたので、アフガニスタンには酒飲みが多いことなどいろいろと会話することができた。左官屋さんや運転手や孤児など10人くらいが集まる飯場だったが、唯一カタコト英語ができるアリドースト氏にいろいろと親切にしてもらい、車でアフガニスタンのFMを聞いたり、川の水を飲んだり(いいのかほんと?)アフガニスタン時間を楽しむ。
そして夕食をまたバカみたいに終わりなく食べる。みかんには塩をかけて食べていた。20時には消灯になった。消灯してからも「カブールで中国娘が50$で買えるよ」とか話をききながら、10人くらいで寝ていると修学旅行のような錯覚を覚えた。
スタンドの飯場。
<5.Dec.2003 Day-48>
Afghanistan expedition Day-5 30km?
朝食にナンとお茶を取った後、ここのガソリンスタンドのオーナーが卵を持ってやって来て、目玉焼きを作り、目玉焼きでナンを食べるとこれがまた美味い。
今日こそカブールに到着し(予定では160kmを2日間で走る予定だったが、どんなに必死に頑張っても4日かかっていた!)カブールに2日間滞在した後、もうパキスタンへタクシーで帰国する予定を考えていた。
カブールからペシャワール出発前の最終目的地(ゴール)バーミヤンまであと240km走ったら、なんとかビザの延長こそ首都カブールでできるかもしれないが、今持っている15日間のビザでは間に合わないだろう。今のところ自転車のタイヤやキャリアは問題はないが、さすがのダート道なのでそろそろ限界を感じる。僕自身は今のところピンピンしているが、いろいろと汚い素手で食事を取っているし、ぼちぼち限界は出てくるだろう。アフガニスタンには満腹状態であり、アフガニスタンをチャリンコで走ったらむっちゃくっちゃ面白いだろうと思ってきたら、ほんとに面白すぎた。日本出発前の予定ではトルハムから西部のヘラートまで1,000kmのツーリングを考えていたが、こんなのをやったらたぶん気が狂ってしまうだろうと痛感した。何より、リアルな「危険」の感覚を心の奥底から感じたし、その「危険」と向き合うためには運と体力が必要だった。
ちょうどアリドースト氏が国境の街トルハムに行く予定があるらしく、パキスタンへの帰りはタクシーを考えていたので、一緒に乗っけてもらう約束をした。お世話になりつつ、この2日間いろいろと「もの」が無くなっていくのでアフガニスタンでは「もの」の強さを感じていたが、また2日後の次の日曜日に来ることを約束し、何も渡さなかった。
1本目、昨日の買出しにきたバザールを通りつつ、何故かそこに、昨日昼飯をとったレストランにいたねずみ小僧がいた。雑貨屋でリンゴをもらう。そのバザールのあるチェックポイントを通過すると、道は完全に舗装路になり、ISAF(国際治安維持支援部隊)やUN(国連)の車や基地が多くなる。ただ、「首都カブールはISAF+現政府軍が治安を維持しているのでテロさえ気をつければ日中は安全である」と事前に情報をみていたが、ISAF軍はかならずジープを2、3台コンボイして走っており、その最後尾車両の荷台には白人が仁王立ちになって掃射銃を構えており、まさかISAF軍が銃を撃ってくるとは思わなかったものの、目が合うたびになんかいやな感じだった。
バグラム米軍基地の近くを走ると、旅客機が飛んでいるのが見えた。カブール空港が近いらしい。やっとこさ首都カブールまでもうすぐだ!と思い休憩を取る。気の効く&英語が出来るガキンチョがおり、お茶とお茶菓子とかりんとうみたいなやつやらいろいろとサーブしてくれた。まったくアフガニ(アフガニスタンの通貨)を持っていなかったため、10$だけここで両替してもらう。2本目、最後のラン。1本目の休憩で話をしていた少年(笑ってごまかしながら話すという僕にそっくりなタイプだった!)の兄さんがカブールの中心地まで行くらしく、一緒に併走する。途中まで道を教えてもらい、無事首都カブールへ無血入城!中心街には人が多く集まっていた。勢いで自転車またぎながら人だかりの中40$を両替する。(1$=45アフガニ)スピンザルホテルが知名度もあり高い建物だったので目印することができた。その向かいにあるPLAZAホテルは宿泊拒否された。そのまた交差点をはさんだ向かいにあるPARKホテルに決定。250アフガニ。ただし、やはり首都は首都で厳戒態勢の名残があり、牢屋みたいな部屋に荷物を入れるために、カバンの中身すべてを30分以上かけて、爆弾など入ってないかチェックをうけ、やっと中に入ることが出来た。雰囲気は悪く、荷物を部屋まで上げるのに手伝ってくれたポン引きの青年に100アフガニ、偽警官(だと思う)に200アフガニ、荷物をすべてチェックしたホテルの青年に150アフガニを渡した。
到着の余韻を味わいたかった。また、ゴメコナムしたかったが、1時間以上かけて荷物を再度詰め込み、荷物に鍵をしてからさらっとパンを食ってからカブールの街にでる。タバコを買いつつ(もちろん88マイルド)、ホテルでは停電するだろうと思いロウソクを買いつつ(ホテルの近くで5RS)、携帯屋に行ってチェックをしつつ(SIMカードのみでは110$らしい。すぐにカブールも出る予定だったので結局買わなかった。また、パキスタンのMobilinkのスクラッチカードの看板があり聞いてみると、Mobilinkがそのままローミングして使えるという話だったので、トライしてみたがなぜか出来なかった)、ホテルのすぐ近くのネットカフェに行ったがあっというまに停電し、終了。17時近かったのでホテルに戻ることにした。
夜飯はホテルでシークカバブをナンに挟んで食ったらマジ美味かった。そのレストランにいた兄さんと30分くらい話をしたが、やはりアメリカ話が多かった。彼は今のアフガニスタンの状況、つまり「アメリカがアフガニスタンを占領しているかのような状況」が、日本でもアフガニスタンと同じように戦後からずっと続いているというイメージを持っていた。なんで日本ではアフガニスタンと同じようにアメリカに対する反感が少ないんだろうと考えた。
夜、「ここまで終わって(1stゴールとして)」というタイトルで以下のように手帳につづった。
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「冒険」というよりも「Fanatic Adventure」という言葉で表したい。
take advantageを意識はしたが、むしろ自分を100%信じ、そしてそれを100%表現することができたのではないかと思う。(表現は今までない、1人だから?)
前回インドでゴールに関するモラル(カード)を完成させてはいるが、ゴールはアフガニスタンにのみこまれた。5日間166kmの行程だが27年間を凝縮しても足りないくらい(ありえない)ヴォリュームだった。
つまり、ゴールしたというよりも完成させたという達成感がある。
テレビや本、写真では感じることの出来ない風景「絶景」の中を
歩くだけでも不可能に近いきちがいじみた峠や信じられないダート道を走り、
雑貨屋のおやじ、アルカイダ、タリバンファイター、スタンドの兄さん、タクシードライバー、トラックドライバーといったアフガニスタンのリアルな顔をかけねなしで100%対話した、このじこぎまんない事実のみが真実であり充実だ!
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<6.Dec.2003 Day-49>
Afghanistan expedition Day-6
夜トイレに行ったらサンダルが凍ったようになっておりむちゃくちゃ寒かった。(標高は1,800メーター近くなっていた。よく自転車で1,000メーター近く登ってきたもんだ)ホテルの青年が朝飯にチャイとナンを運んできてくれる。(この青年は1時間置きに「お〜い、ちゃんといるか〜」とか部屋にいる僕に声をかけ、ずっとホテルの廊下をうろうろチェックしておりちゃんと働いてた)狙い定めた冒険は終了したがここはアフガニスタン、遠足ではないが、パキスタンに戻るまでがエクスペディション(遠征)である。アフガンに入ってからずっとコンタクトつけっぱなしだったので午前中は眼鏡ですごし、4日ぶりの耳掃除。荷物の再チェック、持ち金のチェックとパキスタンに戻るまでに必要な金の計算、傷がついてしまったサングラスの交換(黒から黄色へ)、クリエの充電、これまでにとったフォト&ムービーのチェック、途中またしても割れてしまったトゥクリップの改善、空気入れ(あんな悪路にも1回もパンクしなかった!)、その他簡単に(もろいヘッド部以外)増し締めを行う。ただし、リアキャリア右側下部のハブに最も近い部分のメスネジ側がバカになっており、まったくオスネジが意味の無い状態になってしまっていた。あのダート道を荷物70kg+体重50kgを乗っけて走ればそりゃイカレルだろう。針金で応急処置し、かつ、手持ちの板金をむりくり針金で固定し、キャリアの自転車への取付方法を3点支持から4点支持にして補強する。おそらくアルミのチャリンコはクロモリのチャリンコに比べ、メスネジ側という点がウィークポイントだと思う、すぐに削れてしまう。
なんだかんだやっていたら昼になってしまった。ホテルでランチ(脂っこいライスとナンと煮物)を食ったらマジ美味かった!このホテルはトイレこそ最悪に汚かったが食い物はまったくもって美味かった。外出。
とりあえず60$両替。(1$=47アフガニ)ただし、10アフガニ札100枚もらってもこんなに持ち歩けない。900アフガニを1,000パキスタンルピーに再度両替する。(だいたいの両替レートでは1$=47アフガニ、1$=57パキスタンルピーだったが、ここアフガニスタンではアフガニとパキルピーが同じようにだいたい使えた。ミネラルウォーター1.5Lが25アフガニであり、25パキスタンルピーだった。ほとんどの店でパキスタンルピーは受け取ってもらえたので、パキスタンルピーをもっと持っていけばよかったと感じた)いろいろと両替屋と話をし、「チャリンコでジャララから来たんですよ」と話すと「お〜、あんたはチャピオンだ!」とか「グレイテスト!」とか「ストロンゲスト!」とか「信じられん!」と言われた。そして念のため甘いパンのようなナン2枚20Rsとミネラルウォーター3Lとクッキーなどを購入する。そして、電気屋(カメラ屋)にて、ロシア製がほとんどだった中、オリンパスのTrip505というアナログカメラがあり、乾電池含めて50$で購入する。
ホテルに一旦戻った後、義務に近いかもしれないが、お土産屋が集まるチキンストリートへ行く。そして義務に近いがネックレス2つを観光客らしく購入、220Rs。このチキンストリートにはISAF軍(たぶんドイツの旗の刺繍が肩に付いていた)が多かった。何しに来てるんだろう。チキンストリート近くにはスーパー等もあり、なんとなく新市街的な感じがした。ここで「WWN」というネットカフェがあり、たまたま日本語読み書きソフト「JAMONDO」がデスクトップにダウンロードされていたので、インストールしてすぐに日本語の読み書きが出来た。そしてCD,FDドライブが生きていたのでフロッピーディスクアダプターをインストールし、この掲示板に写真をアップロード出来た。また、ペシャワールで買った空のフロッピーに写真20枚くらいとムービー3本くらいをコピーした。ただし、1時間3$と高い。じっくりメールしたかったが、もう17時を過ぎ外は真っ暗になっていた。さすがにホテルに戻る。
夜ホテルでカバブとナンを食べる。街を歩いているときも数回目撃したが、とにかくケンカが多い。なんだかこのレストランの従業員同士がケンカしていた。
昨晩と今日でアフガニスタンの日記をまとめていたが、22時頃電気が消される。ロウソクを灯して続行していたが、ホテルの青年がやってきてその灯も強制的に消され就寝。やはり危険の感覚あり。
<7.Dec.2003 Day-50>
Afghanistan expedition Day-7 30km
なんかこのホテルの青年がしゃべっていたが、9時にどうのこうのしかわからない。とりあえず、下のレストランに行き(結局カブールではこのホテルのレストランしか行かなかった)カバブとナンとチャイをとる。しつこいけどほんとここのカバブは美味かった。パンを追加投入し、薬を飲みつつ(このカブールにおいては飯を食べた後、ビタミン剤をお菓子のように食べていた。ここで気が抜けるのがはっきりいって恐かったこの小さな巨人!)、用意をして出発。ただし、ゴメコナムしたいけど、このホテルのトイレ(共同)にいくとなぜか鍵がかかっている。そこに居た少年に話してもまったく会話にならず。「下、下」と指を差しているので、どっかトイレに連れていってくれるのだろうと思い、しょうがなく要求された2$を渡す。すると少年は僕の靴を磨きはじめた!「なんだよ〜、靴磨きかよ〜。違うよ、僕はトイレに行きたいんだよ〜!」レストランに行くと、このホテルに着いたとき荷物を上げるのを手伝ってくれたポン引きの青年がおり、聞くと2階にもトイレがあるらしい。2階に行き、ホテルの青年に場所を聞いて入ると、たんなる斜度1%くらいの床があり、そのもっとも低い部分の壁に、10センチくらいの穴があいている。たしかにこの穴の先にゴが詰まっている。なんとかなってよかった。
そして荷降ろしをし、出発前には数十人の人だかりができていた。おそらく英語を話せる人間は日本よりも多い。「ジャララからカブールまで来たんですよ」とまた話をすると「グレート!」と返される。相当チャレンジングなことをしたんだと実感する。また、インドから走ってきたという、隣ではない国から来たという印象がやはり強烈だったのだろうと思う。
今日は30km程度走り、3日前泊めてもらった建設中のスタンドに戻って1泊させてもらい、明日そこからいっきに車に自転車を乗っけてアフガンを出国する予定だ。
道を間違えないようカブール川沿いのバザールの中を突っ切る。あまりにも人が多すぎチャリンコをこげず、人込みの中自転車を押して歩く。カブール街道に戻り、首都カブールの風景をパチリ写真に収める。
1本目ケミカルブラザーズを聞きながら走る。やはりISAF、UNが多い。チャイをおごってもらったところに寄ろうかと思ったが、結局わからず通過する。そのうち、なんだかカブールにある学校まで毎日チャリンコで1時間かけて通っているという学生と併走する。なかなかいいやつで、「うちで飯食っていくかい?」といわれたが、14時にスタンドへ行く約束に遅くなると思い断ってしまった。
並走した青年とそこらへんのガキンチョ。
ねずみ小僧がいたチェックポイント(検問所という言い方が一番近い)兼バザールに到着。結局ここらへんにレストランがなかったので(首都から30kmなのに!)物売りからパンと雑貨屋でジュースを買って食う。この雑貨屋のガキンチョにクリエを見られたのがまずかった。「クリエだけはデータ(メモリースティック)が入っているから勘弁して〜」と思い、ペシャワールで買った携帯を見せ、その後なんとか携帯を返してもらう。イラン製のお菓子「バンバン」と「リンゴ」を2つもらい出発する。アフガニスタンの人々は、とにかく旅人には非常にやさしく、とにかくケンカや言い合いが好きで(4日前泊めさせてもらったタリバンファイターの基地では、トランプをやっている間、一人(一番年長のファイター)がズルをしたらしく口論になり、一人(片腕の少年)が銃を取りだし、かつ映画のように安全装置を「カチャコンッ!」と外したときにはさすがに焦った)そして、物や金に対する執着が半端ではないという印象がある。「金」はまだしも「物」が天下の周り物になっているのは長年の内戦や混乱がそうさせているというよりは、民族的な血が影響しているのだろうと思った。
時間調整のため最後に渓谷の風景の写真や動画を取り、最後の最後のアフガニスタン自転車ツーリングを堪能する。最後はSister Bliss Headliner#02。ウィニング?ランだ。ガソリンスタンドを行き過ぎたらどうしようと思ったら、「Oh,Takuto〜!」という声が聞こえてきた。いかにもムスリム的な抱き合う挨拶を交わし、自転車と荷物をスタンドの飯場に入れる。とりあえずチャイをごちそうになるが、とりあえず足が臭い。たまたまそこに居たトラックドライバーが「ん?おれか?」という感じで自分の足を「くんくん」している。またダリ語の本を出し、「僕の叔父はスパイス屋をやっているんだよ」「へぇ、そうですか」というできそうでできない会話をする。外に出る。そしてアリドースト氏に話をするとなんだかちょっと様子が変わったようだ。「俺ビザ欲しい、日本の!」と語り始めた。考えたあげく「無理だとは思うけど、日本大使館に一緒に行くのは問題無いよ」と説明し、明日カブールの日本大使館に行くことになった。
あな恐ろしや渓谷の入り口にて。
建設中のスタンドで使う石を運んだり、車を移動したり(無免許運転です!)、霜がおりないよう車にシートをかけたりしてあっというまに夜になった。夕食はナンとクリームに砂糖をまぶしたものだけだった。ナンも買い置きが無いらしく、腹がむちゃくちゃ減ってはいたが遠慮して食えず。唯一英語が話せるアリドースト氏は飯場をでたり入ったりしながら、また雑貨屋でクッキーとペプシを買ってきてくれた。「For my viza!」完全に日本に行く気になっている。
CDを見せたり、手を切ってしまった少年にばんそうこうをあげたりしながら夜を過ごす。トイレに行くと(もちろん野原というか岩山)こんなにも明るいのかと思うほどの月明かりでライトは不要。
夜詳しくアリドースト氏の話を聞く。「私はあなたのソルジャーとしてパキスタン、インドに付いていく。そして一緒に日本にわたり、6ヶ月、1年でもいい働かせて欲しい!私の感謝をTakutoは感じているでしょ?!」ときた。「日本人」という鏡を取りはらうと、僕は単なるプータローの自転車ヒッピーであって、外交官でもないし、どっかの企業に勤めているというわけでもないので至極難しい話だと思いますよ、ということを自分のモラル含めて説明するのにえらく時間がかかり、僕も口論好きなアフガン人になっていることに気が付いた。結局、明日大使館にはいかず、日本に帰ってから、どのようにしたら日本で働くことが出来るのかについて資料を送ることになった。
その後はこのスタンドがいつ頃完成するのか、必要なものがもっとあるんではないか、この天井のレンガはいくつあるんだ、というたぶんどうでもいいようなことに関してえんえんとどなりちらしながら口論していた。たぶん、口論というかこれが普通の会話だとは思うが・・。さっぱり何をいっているのかわからなかったが、うとうとと、ランプの灯ひとつを男10人くらいが囲んでいる風景を見ながら、飛び交うダリ語に囲まれ過ごすアフガニスタンの夜というのはなかなかロマンが溢れていた。
<8.Dec.2003 Day-51>
Afghanistan expedition Day-8
朝起きるとすぐにアリドースト氏から「お金はどこ?」と聞かれた。事前に調べた情報を集めると、おそらく首都カブールから国境の街トルハムまで3,000Rsくらいだろうと踏んでいたが、結局このアリドースト氏に40$+2,500Rsを渡した。(4,500Rs分くらい)このアリドースト氏がカブールまで車で行ってタクシーを見つけてきてくれるとの事。最初はこのアリドースト氏がマイカーでトルハムまで行く用事があるので、その車に乗っけてくれるのかと思ったら違かったらしい。また、このアリドースト氏の運転手タージ氏がトルハムに一緒に行くといっていたので、タクシーを1台手配してタージ氏が運転するとこの時点では思っていた。なんとなく、このアフガニスタン流の駆け引きの中で、アリドースト氏はなんとか僕を使って日本へのビザを取ってやろうと考えていたのに対して、タージ氏はそんなビザなんかに目がくらんでしまうより、今のスタンドをちゃんと完成させつつ、客人のTakutoをアフガニスタンから出国させてあげたほうがよいとアリドースト氏に意見していた気がしていた。
ナンはやはり昨晩全部食ってしまったらしく、何も食わずに1時間ちょっとぽけーっとする。そして昨晩の続き「天井のレンガはいくつあるんだろう」というお題に対して熱弁を交わしていた。
まったく、無事パキスタンに戻れる気がせず、アフガニスタンを感じている。
アリドースト氏の車が戻ってきて、タクシーも1台一緒にやってきた。荷物をタクシーに乗っけるとタージ氏が助手席に座った。なるほど、このタージ氏が国境の街トルハムに行く予定があって、一緒に乗って行けばただでいけるという考えだったのだ。そしてたぶん往復できる金額だと思う。
とにかく、この1週間で感じた風習にのっとり、後腐れが残らないよう「カブールで一番高かったカメラなんだから!」と説明し、昨日買ったオリンパスのカメラをアリドースト氏に渡す。さすがに45$のカメラっていったら、アフガニスタンの知事の給料が1ヶ月で15$と情報を得ていたので、日本人に対する考え方やこの人自身の考え方に支障が生じるのではないかと思ったが、「Japanese people is good peaple」とは一切いわれておらず、「Takuto,you are good man!」といわれていたので、自分なりにコミュニケーションを取ったつもりです!
8時半出発。「ほんと、よくこんなところ走ったなぁ!」という感慨にふけりながらチャリンコで走ってきた道をタクシーは走る。道はガタガタだがやっぱり車から見るとたいしたことはなさそうにみえ、多少ケツは痛いが問題無くタクシーは走っていく。ただ、このタクシー運転手もクレイジーではないがスピード狂だった・・。あっというまに10時半サロウビに到着。11時半頃ジャララバードに到着し昼飯となる。
この帰路における数時間、とにかく必死に走ってきたカブール街道を眺めながら、ただひたすら「歴史を創造すること」、「歴史を維持すること」、「歴史を表現すること」について考えていた・・。そしてなんとなくアフガニスタンにおいてあまりにも首を突っ込んだ冒険をしたため、タクシーにのって移動しているとなんとなく「慣れ」が生じてしまっている自分に気が付いた。おそらく8日間というアフガニスタン滞在期間の選択(アフガニスタンという場所が、最後の、最終の頂上に向けてのアタックであるという、エクスペディション性を持った短期間の決戦)が、今後において相当「効いてくる」、宝石のような「歴史」、もっといえば間違いなく「正の遺産」にさせるだろうと実感した・・。
カメラをあげたのが相当インパクトあったのか、タージ氏が「カメラ、カメラ」と言っている。おそらくこの人が鍵だろうと思い(アリドースト氏はなんとしてでも、悪いことしてでも僕を使って日本に行きたいという勢いがあった)、日本から持ってきてまったく使っていない電卓を渡す。
国境の街トルハムに到着。アリドースト氏とそのオーナーさんは、もともとこのトルハムにある日本車市場、つまり、中古車(事故車や盗難車もあると思う)のパーツをさばく(トルハムで部品を買い付けてカブールで売る)仕事をしているらしい。その日本車バザールでタージ氏は降り、アフガン出国のイミグレに行くとまたポーターに囲まれる。あっというまに、出入国が済み、部族支配地域の通行許可証をもらい、かってに護衛が付いてきて、ペシャワールのサダルロードまで700Rsでタクシーに乗ることにした。ただ、ここのポーターのガキンチョはほんとに強力で180Rsを払ってしまった。
カイバル峠のロマンある風景に対して往きの時点では感動を示したが、やはりアフガニスタンで感じた緊張感を感じることはできず、あっというまに(15時くらい)サダルロードに到着。SHAZAD HOTELはダブルしか空きが無く150Rs。ホテルにつくと韓国人のツーリストがおり、これからカブールにいくらしく、情報を提供する。ただ、「危険でした?アフガンは?」と聞かれた時、僕は不思議な感覚で充満した。
ふ〜。やっとAfghan expeditionが終わった・・。1週間ぶりに歯を磨き、10日ぶりくらいでシャワーを浴びた!なんとなく、ホテルの隣にあるコニカの看板がある写真屋に行き、フロッピーに収めた写真19枚(10Rs/Pict)を現像した。また、幸いなことにメモステのコピーもできるらしく、CD-Rにコピーをとった。(140Rs/枚)
そして就寝前、以下のように手帳に書き記した。
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無事、AEXP完成。(あくまでもexpedition、遠征と考えたい)
単独、デポなし、ABC、FBCおいて頂上を極めた、味わえた!
そしてこれからも常に(時間が経ったとしても)危険の感覚は
失わないようにしたい。そして(自分の)可能性を信じて
とにかく必死でありたい。
そうすればこのような素晴らしい歴史(正の遺産)が創造されるのだから。
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<9.Dec.2003 Day-52>
Stay Peshawar
アフガニスタンから戻ってきたんだからゆっくり寝ようと思うと、早く起きてしまうもんだ。昨日買ったパンを食って(乾しブドウばっかりで美味くなかった)洗濯をする。フリースやカミールシャルワースやらかさばるものも含めバケツ使って洗濯してたら、結局洗濯だけで2時間近くかかってしまった・・。これなら1枚10Rs位払っても洗濯してもらう価値はある、疲れたぁ。
お出かけする。スタンダードチャーター銀行に行き、ATMでお金をキャッシングしようとしたら故障中。サダルロードにあるカイバルレストランに行き、チキンティッカ、ナン、チャイをたしなむ。そして、だいぶくたびれてしまったチャリンコをメンテナンスするため、ウエス(ぞうきん)を探したがちょうどいいころあいのものがない。結局35Rs出してランニングシャツを購入。また、キャリア補強用として、ゴムヒモ(100メーター近くはあるに違いない!)を50Rsで購入。また、そういや日本でいつもおでかけするときは、トートバックを使ってたなぁと思い出しつつ、パキスタン軍の中古コートの生地で作ったトートバックを購入する。(30Rs)
新聞を買いつつホテルに戻り、お菓子を食べながらアフガニスタンの冒険を反芻するといつのまにか寝てしまった。
夕飯前、再度銀行に行ってみるとATMが復活していた。チェックの使えないこの街でキャッシングする。(なお、後日ビザカードのホームページをみて、前にキャッシングした結果を見た。キャッシングしてから45日後くらいの1回払いで、新聞などに公表されている両替レートの3〜4%増しくらいだった。つまり、50$以上1回に両替する場合、両替レートのよいアメックスなどを抜かせばそれほど銀行でチェックを両替するのと変わらないことがわかった)そして、カメラ屋さんに行き、失ったアナログカメラ「オリンパスミューU」を再購入する。アナログカメラに関しては出発前6〜8万円くらいの予算を見ていたし、(当初はニコン1眼レフのイオスキッスかリコー高級コンパクトカメラGR-1Vがほしかった)生活防水を備え、セルフタイマーが付いており、リモコンも付いていてコンパクトってのは旅にもってこいと熟考して買ったものなんで(しかもフィルムがあと6本残っている)奮発してみた。また、屋台の10Rsショップ(日本の100円ショップで売られているものと同じ中国製製品が、こっちでは10Rs(約20円)売っていた。)で失ったライトの代わりに小さいライトを買ってみた。
夕飯を食べ、ネットカフェに行き、この掲示板の更新を試みたが、今までの書き込みをすべてコピーして、自分のメールアドレスへ送る作業に手間取り、結局3日分くらいしか進まず。
ホテルに戻ると、斜め向かいの部屋に滞在していたパキスタン人サラリーマン「アジフ君」(26才)とお話することになる。今日は早起きしたので早く寝ようと思っていたものの、なんだかんだと話が長引き2時近くまでお話してしまった。
<10.Dec.2003 Day-53>
Stay Peshawar
やっぱり遅寝で早起き。さくっとパンを食って(ほんとこの乾しぶどうパンは美味くない!)チャリンコの整備にかかる。キャリア部のチェック、増し締め、針金使った補強、ガムテ&ゴムひも張り。その他ボトルゲージ・エンドバー・クランク・スプロケット・サドルの増し締め。そして、アフガニスタンの悪路でガタガタになったヘッド部の増し締めをしようとしたら、ヘッドを押さえているステム部分のネジが「パキッ!」と折れてしまった!ヘッドのキャップ部を壊してしまっていたため、ヘッドキャップ部に力を入れられない分、ステム部を強く締めすぎていたからだろうか、それともアフガニスタンのダート道がハードだったんだろうか。とにかく今回の旅においてヘッドがどうも鬼門である。ちょうどヘッドに挟まったまま折れてしまったネジの半分をとるために、ペンチ2本を使って押して出すのも引いて出すもの無理。油を注してみたが無理。モンキースパナで叩いてみたりしてみたが無理。ステム部分は2本のネジで締めているが1本だけでも大丈夫かな?と思ったら、1本だけじゃぐ〜らぐら。こりゃ困った。せっかくアフガンから無事戻ってこれたと思ったけど、自転車の冒険はこれでおしまいか?そういうわけにはいかない。なんとか力づくでネジを取り出すことに成功。ふ〜。予備のネジと交換する。
メンテ再開。チェーン・スプロケット・プーリー部分を歯ブラシとウエス(ランニングシャツ)使ってアフガニスタンの砂ボコリを除去。恐らくアフガニスタンの砂は細かかった気がするので、砂が入り込んでしまったであろうヘッド部とシートポストのグリスアップを行う。駆動部分に砂が入ると大きなダメージになる。
やっとこさメンテが終了し、記憶が新しいうちにということで、昼間からネットカフェに行き、アフガニスタン分の掲示板の更新を行う。結局14時に入って出たのが21時・・。トイレもがまんして熱筆してたら7時間もかかってしまった・・。
ホテルに戻り、飯を食いに行きつつ、またホテルに戻り、昨日買ったカメラのチェック、パニアの増し締めを行う。(今回使用しているオルトリーブのパニアに使われているトルクスレンチ(6角ではなく星型をしたレンチ)用のレンチを持ってきていない。通常の6角レンチをごまかしながら使って増し締めしている)
ちょうど、3日間の滞在予定でイスラマバードからペシャワールに来ている、斜め向かいの部屋にいたサラリーマンアジフ君は23時近くまで地元のディーラーさん達と部屋でミーティングをしていたらしい。(彼はニチバンという日本企業(包帯とかを留めるテープを作っている)のパキスタン総代理店に勤めている青年だった)ミーティング終了後、僕の部屋に来て、また長々とお話する。後半はアッラーに関するお話というか「イスラム教っていいよ、マジで」という説得に近かったが、なんだか解るような解らないようなだった。結局「完全に理解できていないので、日本に帰ってから日本語訳のコーラン買って見てみるよ」と説明したら納得してくれたが、こう言わないかぎり朝まで続きそうな感じだった。
<11.Dec.2003 Day-54>
Stay Peshawar
さすがに一昨日、昨日と夜遅くまで起きていたため非常に眠い。(アジフ君は朝から出かけていったようだったが・・。)昼まで寝る。
アフガンから3日経ったが熱出した下痢もなく、体はピンピンしていたため、明日から出発する気マンマン。とりあえずイスラマバードへ3日かけて戻り、所用を済ませた後、当初の予定外だがカラコルムハイウェイを中心としたパキスタン北部山岳地域まで足を伸ばしツーリングする予定だ。とりあえず、スーパーにいってクッキー、トレペ、パン、ミネラルウォーターを購入。そして無事アフガンから帰国しましたよ〜と、自宅へ電話を入れる。今日千葉は雨らしく、母上殿は昨日メールで送ったアフガニスタンの掲示板書き込み分をずっと読んでいたらしい。「あんた作家にでもなれば?」と言われたが、その気なしです。
昨日、ネットカフェにて熱筆しているとき、アフガニスタン入国の手配(国境トルハムまでのパーミッション及びタクシーの手配)をしてもらった「プリンス・カーン氏」とたまたま再開していた。「おかげさんで無事アフガンに入れて、いい冒険ができましたよ〜」と話をしたら、「なんとかかんとかワールドオルガニゼイション」という小冊子を発行している編集長の肩書きも持つ彼から「是非ともあんたの冒険を記事にしたい!明日インタビューできる時間はあるかい?」と言われ、14時にインタビューされる予定になっていた。(仕事に近くなってきたなぁ)昼飯を食い、14時に間に合うようカーン氏の事務所へ行こうとしたら、アフガン出発前にアフガニバザールまで連れてってくれた通称「ババ爺」に遭遇した。「お!ちょっとお茶しようや」と言われたが「14時にアポがあるんで・・」と断ると「そんなんかまわんだろう?お茶くらいする時間あるべやぁ」と強引にお茶に誘われる。話を聞くと最近あまり日本人に会ってないらしく、あまりお金が入ってないようだった。「日本人がわんさか溜まっているホテル「ツーリストインモーテル」にいってワシのことを宣伝してきてくれんかのぉ・・」と言われるが、とりあえずこの掲示板にあなたのことは書き込むことだけ説明してその場を離れた。
カーン氏の事務所にてインタビューを受ける。パキスタン人がよくかぶっている帽子をかぶらされ、カーン氏と肩を組んでいる写真を撮られつつ「パキスタンディッシュの中でチキン・カラーヒーが一番好きですねぇ」とか「日本人はあまり口にださないけど、パキスタン人はすらっと「What can I do for you」と言えるところがすばらしいと思います」と、いかにもなインタビュー用回答を使ってしまう・・。3日前にカメラ屋でプリントアウトした写真の内2枚を原稿用として彼に渡す。結局このカーン氏は、旅行代理店業というのは単なるほんとのおせっかいやきなだけでやっているらしく、「第三世界には恵まれない子どもがいっぱいいますよ」と世界に紹介するのが本業らしい。本当かどうかわからんが、僕の記事が載った小冊子を日本に送ってくれることになった。
カーン氏が僕のチャリンコを見たいというので、ホテルまで一緒に行くことになった。事務所からホテルまで歩いて5分くらいだが、カーン氏は何人もの人と挨拶を交わすのでなかなかたどり着かない。途中偉そうなおっさんとまたまた挨拶しており、ついでに僕も挨拶して名刺をもらうと、このペシャワール発の英字新聞「フロンティアポスト」のExective Editorとなっている。どうやらこのカーン氏は単なる怪しいおっさんではないようだ。ホテルの部屋で僕の自転車及び装備を見せつつ、「どうお茶でも?」と誘われたが、用意があるのでお断りした。
リスタートに向け、洗濯物を取り込み、再度パッキングを行う。自転車に乗りながら水が飲めるように自転車にペットボトルゲージをつけているが、カブールからの移動中ペットボトルを無くしてしまったらしい。パキスタンにも500mlのペプシなどのペットボトルはあるが細くてボトルゲージから抜けてしまう。結局ボトルゲージを広げ、1,000mlの7upのボトルを取り付けることにした。また、アフガニスタン冒険中は常時8Lの水を用意していたが、半分を捨てることにした。買い出しに出かけ、こっちに来たら無いだろうと思っていたガムテープを発見し購入する。100Rsと高かったがこれは価値がある。また、携帯のプリペイドカードの残りが少なかったので、携帯を買った店に行き、1,000Rs分を買ってチャージしてもらう。「どう?携帯はちゃんと使えているかい?」とさすがに20日近く同じ街に滞在していると、知っている顔が非常に多いことに気づく。ホテルに戻り、さっそくガムテをヘッドキャップ等に張りつけ、また今回ノントラブルで頑張っているスピーカーのコードを補強するため、コードをガムテでぐるぐる巻にする。もちろん、あまったガムテはかさばるので、すべて一度はがして芯無しで巻き直す。
ペシャワール最後の夕食はホンコンレストランのフライドライス。アフガニスタンでまったく買う暇のなかったポストカードをここで購入し、ネットカフェに行き就寝。