4.聖地カラコルムハイウェイにて。(パキスタン)

Attack.3 Karakoram Highway Project 850.5km

(2003年12月12日〜2004年1月1日)

<12.Dec.203 Day-55>

From Peshawar to Attock 84.7km

リスタート!朝ドーナッツを食って出発。さすがに、ホテルの4階から合計100kgの荷降ろしは辛いもんだ。

とりあえず予定としては、このペシャワールから首都イスラマバードまで往きに走って来た道を戻り、首都にて所用を済ませた後、カラコルムハイウェイを中心としたパキスタン北部山岳地域を2週間近くツーリングする予定だ。

1本目。なかなか快走できる。太ももに力がみなぎっており、これは全身を使った表現なんだなぁと思う。2本目も快走したが、途中雨が降りそうだなあ、と思っていたらほんとに雨が降ってきてしまった。今回は出発前に集めた情報より、ほとんど雨対策をしていなかっただけに、フロントセンターに取り付けているマウンテンスミスのザックとリアセンターに取り付けているジャックフルフスキンのザックにレインカバーをつけたり、スピーカーにビニール袋を取り付けていたりしたら20分近くかかってしまった。そして走り始めたらなんか落っことした音がしていや〜予感。

とりあえず昼飯がてら休憩するとフロントキャリアの金枠が折れてしまっている!う〜、やはりアフガニスタンのダート道が相当ダメージだったらしい・・。フロントキャリアは「A」の形を逆さにした本体部分に「□」の形をした金枠をネジで取り付け、その金枠部分にパニア(自転車用カバン)を取り付けてあるが、この「□」の上の部分がぽきっと折れてしまっている。とりあえず昼飯を食い、ボルトと針金で簡単に補強した後出発。

この昼飯を食べているときに、その場にいたおじさんが「もうちょっと行ったノウシェラの街に溶接屋があるよ」と言っていたのでそれを期待していたが、金曜日のせいか(基本的にイスラム国家では金曜日は休日です)ほとんどのそれらしき店がしまっている。ビクビクしながら雨の中を走っていると「バチバチッ」と溶接をしている光が見えた!さっそく折れてしまった部分を荒々しく溶接してもらうことができた。

3本目を走り休憩を取っていると本降りになってきてしまった。とりあえず橋の下にてヤギ100頭と一緒にメェメェ雨宿りする。

結局雨は止まず、走り始める。Golden Spoon Hotelをあたってみたが(いいネーミングだなぁ)今はホテル業をやっていないらしい。2回目のインダス川を左手に眺めながら通過すると、Indus View Hotel & Restaurantを発見。1晩800Rsと高かったが、壊れてしまったキャリアをチェックしたいし、何より風呂に入りたいというのもあり妥協してしまった。

早速チャリンコをそのまま風呂場にいれシャワーリングし、油を注す。雨で寒くて風邪引いたんだろうか、エッグフライドライスを食ってカッコントウを飲んで寝る。案の定風呂には入らず・・。

<13.Dec.2003 Day-56>

From Attock to Taxila 71.8km

昨晩寝る前、締め切ってあるはずの部屋で、カーテンや干してあったレインカバーが急に「ガサガサッ」とはためいて一瞬恐かったがぐっすり寝た。目玉焼きとトーストを食べて出発、と思ったらチェーンが錆びている。再度油を注し出発。

1本目は快走したが、雨のため休憩することができず、立ったままタバコを一服。2本目を走ると雨が強くなってきた、早めの昼飯をとることにした。

ここのレストランのおじさんは非常に人のよさそうなおじさんだった。(ただし21才らしい)雰囲気が違うなぁと思っているとパフトゥ語ではなくウルドゥ語をしゃべっている。聞くとインダス川(インコウと言ってた)を越えると州が変わり言語も変わってくるらしい。

3本目もだらだら上り坂を走る。どしゃぶりになってしまったため、ハサンアブダールにあるホテルのレストランでチャーイを飲み休憩する。ここのウェイター君は気さくな青年だった。ここで泊まってもいいかなぁと思ったものの、なんだか修学旅行生で部屋はうまっているらしい。

雨はいやだ〜、とやる気を無くしつつ走る。ヘッドもガタガタいっている。結局17時頃タキシラのPTDC経営ホテルに到着。「今なら650Rsにして差し上げましょう」といわれたが、「1ヶ月前300Rsで泊まらせてもらったんだけど・・」と言うと300Rsになった。ただ、ここのホテルは650Rsくらいの価値はある。

雨で自転車を筆頭に泥んちょになっていたので、昨日同様自転車をシャワーする。また、完全防水であるオルトリーブのパニアもシャワーで丸洗いする、これはすばらしい。そして最後に自分がシャワーを浴びるという愛車精神は素敵である。また、ヘッドの増し締めをする。やはりしっかりとヘッドキャップを締めてからステム部を締めないとあっというまに緩んでしまうようだ。

夕飯はチキンカラーヒーとチャパティ。州を超えるとパン(ローティ)もナーンからチャパティに変わり、薄っぺらくなってきた。

<14.Dec.2003 Day-57>

From Taxila to Islamabad 44.6km

朝食はフレンチフライとチャイ。ほんとにここのフレンチフライ(フライドポテト)はじゃがいもの天ぷらに近い。案の定チェーンには錆びが発生しており油を注す。今回持ってきた油も半分くらいになってしまった。

とりあえずチェックアウトタイムを念のため聞いてみると12時らしい。前回泊まったときはすでに閉館時間だった、タキシラ博物館に行ってみる。受付に行くと、パキスタン人は10Rsくらいなのに、外国人は200Rsかかるらしい。修繕費用に当てるといったって20倍は高い。また、ちょうど博物館は改装中らしく3つあるうちの2つは見れないらしい。まぁせっかく来たんだからいいかぁ、と思い中に入ってみる。

案の定、10分かからず見終わってしまった!外に出ると売店に地元の女子中学生みたいなのがハエのように群がっている。なんだかすごいなぁと思って見ていると、一瞬にしてハエのように一斉にバスに戻っていった。そこには大量のポテチの袋とか紙パックのジュースのゴミだらけになっている・・。う〜ん、どうでしょう。

あっという間にホテルへ戻ってきたせいか「お、何か問題でもあったんか?」と聞かれる。今日は、4日前にペシャであったアジフ君宅に行く予定になっていたので、とりあえずアジフ君の携帯に「15時頃着くと思うよ」とメールして出発、すごい時代だなぁ。

1本目さくっと走り飯をくったあと、2本目でイスラマバードに到着し、アジフ君に電話すると10分で迎えにきてくれた。

この26才のサラリーマン「アジフ君」はPIMSといわれるイスラマバード総合病院や研究棟やら療養所なんかが入っている複合施設内の一角のアパートに住んでおった。8条2部屋キッチン付きの部屋で叔父さんと一緒に住んでおり、この叔父さんがこの総合病院で働いているらしい。とりあえずお茶した後、荷物を部屋の中に入れ、アジフ君が特製の(?)夕食を作ってくれることになり、買い出しにでかける。

野菜などを買いつつ肉屋にいってチキンを買う。肉屋にいくとニワトリ君が30羽くらいおり、その内の1羽が無残にも肉屋の親父に捕まってしまい、そのまま分銅式の秤に乗せられる。何も生きたまま重さを計らなくてもいいのに・・。そしてそのニワトリくんは「コケーッ、コケーッ!」と最後の抵抗を見せつつ、洗濯機みたいな自動屠殺機にぽーんと投げ込まれた。最初は「コケーッ、コケーッ」(もう、やめて〜!)と騒いでいたが、時間が経つにつれ「コケーッ」、「コケッ」、「コ・・」と静かになっていく経緯が非常にかわいそうだった。

そしてさばいたばかりの「フレッシュ」なチキンを使って作ってくれたアジフ君特製の「チキンハンディ」は残念ながらむちゃくちゃ美味かった。

その晩は日本で働いて生活するとこんな感じでっせ、というを話しをした。ただやっぱり英語は勉強したいなぁ、とくに話す方、と痛感したが、そういや日本語を話すのも苦手だったことも痛感しつつ、アジフ君宅で就寝。

<15.Dec.2003 Day-57>

Stay Islamabad

朝6時過ぎに起きるとアジフ君は一生懸命アイロンをかけている。もういいでしょ、ってくらいアイロンをかけている。やっとアイロンがけが終わり、目玉焼きとトーストという朝食を頂く。「いやぁ、今日は朝9時にカラチ支店の同僚を迎えにイスラマバード空港に行かなくちゃいけないんだけど、こりゃぁ遅刻だわ」とつぶやいている。そりゃあんだけ愛情込めてアイロンかけたら遅刻するだろうなぁと納得。

とりあえずお世話になったアジフ君と別れ、1ヶ月前に泊まったアルウマールホテルへと向い、荷物を部屋の中に入れる。ここ3日間かなりのハイスピードで走り、この筋肉に宿る自分の思想と歴史を表現したせいか筋肉痛になっているようだ。とりあえずゆっくり昼間で寝る。

昨晩アジフ君と話をし、パキスタン人が日本のビザを取得するには何が必要なのか教えて欲しいと言われていたので、とりあえずネットカフェに行き調べてみる。外務省のホームページを調べると結構丁寧に何が必要かとかが書いてあった。もちろん英語で書かれているバージョンもあったので、アジフ君にこのアドレスを紹介しつつ、おそらく今勤めている会社の上司を通じて、メーカーのニチバンに、日本で働けるようセッティングしてもらうのが一番合法的でいいと思うよ、とメールを送る。んでもって、彼は日本の友人を作りたがっていたのでこの掲示板をご覧になった方、できれば暇つぶしに彼にメールを送ってほしいです。アドレスはajifnawazj@yahoo.comであります。ハンサムガイなので女性大歓迎であります。

そして、待ち焦がれていた(1ヶ月前にこのホテルに泊まったとき足繁く通っていた)レストランに行く。「チキンマサーラーくれ」と店のおやじにいうと「お、ぼうず知ってるじゃねぁか?」という顔をしてニヤリ。そしてほんとに美味い。なんで鶏肉がこんなにも美味くなるんだろう?!

昼飯後、荷物は部屋に置き、チャリンコで首都イスラマバードの街を走りだす。とりあえずアメックスにいき、これから北部地域に繰り出すため、年末年始を考慮して多めに両替をする。その後試しに日本大使館に行ってみた。ビザコーナーに行ってみると、先ほどネットで見た「とりあえずこれだけは用意しなさい」の紙が貼ってあった。今回このパキスタンにて「おれ日本で働きたい、連れてってちょ」と言われることが多かったので、この「ビザをとるためには何が必要か」が書かれている紙を日本でプリントアウトして持ってきておけばよかったと思った。

なかなか首都を荷物無しの自転車で走るってのもいいもんだ。サブウェイを発見したのでとりあえずコーヒーを飲んで休憩。50Rsもしたので、本物のコーヒーだろうと思ったら、やっぱりただのコーヒー牛乳だった。休憩後、シティバンクにいってみる。今回出発前のバタバタで保留設定をし忘れたため、父上殿に出発後保留設定をしてもらっていた。ただ、試しに使ってみたものの「PINコードが違います」と出てきてしまう。たいてい僕は1度何かに暗証番号を使ったら、他には決して同じ暗証番号を使わない主義なので、本当に忘れてしまったくさい。しかもシティバンクのカードを作るとき3つくらい暗証番号を設定した気がするけど記憶に無し。こりゃ困ったが幸いクレジットカードの方が使えそうなので、まぁいいやと思って出た。

昨晩アジフ君に会ったとき「そういや君はギルギットに行くっていってたけど、この2日間で大雪が降ったらしいよ」と言われていた。毎年1月くらいから積雪があるとは聞いていたが、今年はちょっと早いらしい。道路が雪で覆われてしまうと自転車で走るのはちょっと厳しいので、情報を集めにPTDC(パキスタンツーリストデペロップカンパニー)に行く。が、ぜんぜん場所が分からない。道ゆく人に聞くと皆さんそれぞれ違ったことをおっしゃる。

結局ホテルに戻り、今後の計画を立て、夕食に出かける。ここのチキンマサーラーは最高だが、他の客が食ってるものも美味そうなんで頼んでみると、チーズが入った料理だった。えてして、こちらのチーズは癖があってあんまり美味しくないのでがっかりしたものの、これがまた美味かった。ほんとこの店のシェフは天才的である。

夜ネットする。10分に1回ライターを借りに来たおじさんと話をし、そのおじさんから写真を見せてもらった。このおじさんのいとこは日本で働いていたが、工場がつぶれて戻ってきたらしい。また、MBA-ITをとって、イギリスで働いているいとこもいるらしく、こっちの人はやっぱり自国にとらわれず、どっか行って働くことにほんとに抵抗ない、遊牧民的な人達なんだなぁと思ったりする。

<16.Dec.2003 Day-59>

Stay Islamabad

やっぱり単純な肉体的疲労が溜まっているようだ。とりあえず朝飯食って洗濯をする。今回はこきざみに洗濯を行っておる。

フロントにチャイをお願いし、気合いを入れて手紙を書き始める。「アフガニスタンから無事戻ってきましたよ〜」という手紙を勤めていた会社関係に書くのに2時間以上かかってしまった・・。たかだかポストカードなんて4、5行なのに、なんでこんなに疲れるんだろう。書き終わってからそういやチャイがきてないことに気が付く。

本日もチキンマサーラーを頂く。こっちでは「サラダ」と称する場合、たいてい生ダイコンと生ニンジンと生タマネギを切ったのがポーンと出されて終わりなのだが、ここではちゃんと塩とこしょうを一緒に出してくれる。「おれってけっこうサービスいいっしょ?」とウェイターのおやじがニヤリ。

チャリンコにのってGPO(中央郵便局)にいく。1枚32Rs。このパキスタンでは珍しいことに女性が働いておった。

ぐるぐると街中をチャリンコで快走する。このイスラマバードという街は、何年か前にパキスタン西部にあるカラチから遷都されてできた街で、なんとかというギリシア人都市建築家によって、計画的に作られた街だそうだ。札幌でいう「南4条西5丁目の中通り」みたいな感じで「G-7-1」と分けられている。もし簡単にビザの延長ができるなら、と思い「Foreign Register Office」を探すがわからず。「7-3、7-4・・」と探しているうち、なんとなくスーパーマリオのBGMをくちずさみながらチャリンコで走るが海とかのBGMを忘れてしまう年になったことに気が付く。

ちょっと高級そうなベーカリーにいくと、どこかの商社の奥さんらしき日本人がいた。その隣の雑貨屋に行くと、どこかの多国籍企業の奥さんらしき欧米人がいた。器用に現地の服装を身につけていたが、やっぱり連れてこられた奥さんの方が大変だろうと思った。

とりあえずホテルに戻り、レストランに行き、チキンジャルフレージーという鶏肉と卵の組み合わせがまた最高に美味い。ここはパキスタン1、いや南アジア1番のレストランだと涙する。その後ネットカフェに行き、ちょっとチャットやって就寝。

<17.Dec.2003 Day-60>

From Islamabad to Taxila 38.0km

朝、昨日のパン屋で買ったドーナッツを食べる。こちらのドーナッツは砂糖漬けになっているパターンが多かったが、ここのパン屋のドーナッツは大陸的で普通のドーナッツだった。

そして、このパキスタン北部への冒険、出発に際し、昨日ネットカフェで冒険の伴侶に送ったメールの内容は以下の通り。

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さて、明日からこんな感じで冒険を考えております。

「KKH(カラコルムハイウェイ)/スワート」

17日 イスラマバード to ハサンアブサール 60km

18日 ハサンアブサール to アボッタバード 80km

19日 アボッタバード to ベシャム1

20日 to ベシャム2 120km(19日および20日でベシャムを目指す)

21日 ベシャム泊(ゆつくりする)

22日 ベシャム to ミンゴラ60km

23日 ミンゴラ泊(近くの遺跡を観光する)

24日 ミンゴラ to マルダン60km

25日 マルダン泊(近くの遺跡を観光する)

26日 マルダン to ハリプール80km

27日 ハリプール to イスラマバード60km

28日 予備(イスラマバード or ラワールピンディ泊)

29日 予備(イスラマバード or ラワールピンディ泊)

30日 予備(イスラマバード or ラワールピンディ泊)

31日 イスラマバード or ラワールピンディ泊

1月1日 イスラマバード or ラワールピンディ泊

ハサンアブサールというところからベシャムというところまでがKKH(カラコルムハイウェイ)と呼ばれるところなんだなぁ。ここは、ワールドワイドなチャリダーの中で聖地化されているところでもあります。ちなみに、あのガンになって途中で冒険をストップした阪口エミ子氏(今はシール・エミ子氏)はキルギス・中国を通ってこのKKHを南下してきて、このアボッタバードというところでガンを見つけて急遽日本に帰国したわけなんですな。

んでもって、このパキスタンの北部、特にカラコルムハイウェイあたりは、日本でいう軽井沢みたいなところで、パキスタン人にとっても観光地なんですな。さらに、このミンゴラと呼ばれるあたりはなんちゅうか、日本でいう日光とか那須みたいなところで、これまた夏になると結構パキスタン人があつまるところらしいのですな。

当初はカラコルムハイウェイを700km位走ろうかと考えたんだが、やっぱりたんなるピストンになってしまうんですな。タクシーやバスで帰ってくるのもいいけど面倒だし、どうもピストンってのは好かんので、このスワートというところをぐるっと回ってかえる計画にしたわけであります。まぁ地図がなければさっぱり意味わからんとは思うけど・・。

え〜、なんでメールしたかというと、このアボッタバードを超えたところで標高1,600mくらい、ベシャムというところからミンゴラというところへ超える峠が2,000mくらいあるらしいんですなぁ。ペシャであったおっさんたちやら情報を調べると、だいたい1月くらいから根雪になるらしいのですが、今年はもうすでに、じゃんじゃん雪が降っているらしいのですよ。

そんなわけで、なんとなく、危険の匂いがしたんで、おおざっぱな計画をメールしたわけでございます。

予備日をあえていれているのは、雪の中チャリンコを押して歩くだけの日があるかもしれんと踏んだからであります。暑いのは苦手ですが、寒いのも苦手です。

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さぁ、出発だ!KKH+スワートへの冒険始まりだ!と思ったら雑貨屋さん+洋服屋さんのコンビに捕まってしまう。チャイとケーキをごちそうになり歓談する。よく聞いてみるとこの人たちは主にパフトゥ語が話されるNWFP州出身らしい。このNWFP州は「おもてなし」を「売り」にしている州でもあり、なかなか親切な人が多かった。おそらくこのホテルやレストランや雑貨屋さんがあるこのコミュニティには、このNWFP州出身の人が多かったので、親切な人が多かったのではないかと考えている。

ぼちぼち寒くなってきたので、短パンからコーデュロイの長ズボンに変更してみたが、それでも休憩中はやっぱり寒い。2本走り、マルガラ峠頂上のレストランで昼飯にする。3本目を走り、三度PTDC経営であるタキシラのホテルに到着。ホテルの兄さんも「あんたのために300Rsの部屋を用意して待ってたよ」とおっしゃる。

ここのホテルは2階に部屋があり、またゆっくりと部屋の外でくつろげるような椅子がおいてありグッドである。しばらくそこでゆっくりしていると、アザーンが聞こえてくる。(たいていの街では1日5回のお祈りの際、どこにいてもお経が聞こえるようにあちこちにスピーカーが設置してある)ゆっくり聞いていると、たいていのところではお経(?)がテープで録音されたものを使っていたが、ここでは生ライブらしく、「えへん、えへん、あ、あ、かっ〜、ぺっ!」という汚い音まで街中に響いてきて笑えた。

とりあえず、まだ見ていない遺跡のうち「シルカップ」に行こうと外に出る。と、すぐに石原裕次郎みたいなおっさんにつかまりチャイを飲むことになる。この裕次郎は適当にここらへんで壷や皿を作って、日本に売り飛ばしているらしい。何度も「ガンダーラは儲かるよ、ほんと」と言っていた。結局裕次郎軍団と話をしているうちに陽が暮れてしまい、結局遺跡を見に行くことなくホテルに戻る。そしてなんとなく裕次郎軍団のうち一人が日本語を勉強中らしく、そこそこ日本語を話せていたことに触発されたのか、ウルドゥ語の勉強をする。

夕食はホテルにて。チキンガーリックという、鶏肉のササミのニンニク風味あんかけご飯を食した。奇妙な組み合わせだがなかなかこれがまた美味かった。

ホテルの部屋でチャイを飲みつつ(これほど贅沢なことはありませぬ)ガンダーラに触発されたのか、ゴダイゴを聞きながら就寝。

<18.Dec.2003 Day-61>

From Taxila to Abbottabad 76.1km

またしてもじゃがいものてんぷらのようなフレンチフライを食す。登りが予想されているので早めに出発。

あっさりとハリプールロードにたどり着くことができ、1本目、2本目と小さな登り下りを繰り返し、ハリプールを越したところで昼食。ここから登りが予想されていたため肉(ゴーシュト)を頼んだが、牛肉がスジだらけで硬すぎてまったく食えず・・。ビーフシチューを頼んだけど、メインの牛肉が固くて食えない惨めさをご想像頂きたい。3本目からじっくりと登りが続く。ミントロワイヤルを聞きながら走る。やっぱり、音楽を聴きながら走る場合、ビッグビートってのがよい。ちょうどビッグビートのBPMとペダルをこぐRPMがあっているんだと思う。そんな意味でミントロワイヤルがビッグビート最盛期の最後だったのだと思う。

ここらへんから正式にカラコルムハイウェイが始まる。

じっくり走ってきたが、5本目の途中、あまりに斜度が急になり、ふと立ち止まる。「ほんとなんでこんな辛いこと好き好んでやっているんだろう?」と自問自答しつつ、こんなときのチャリダーってのはほんといい顔している。峠を登り切るとだいぶ風景もそれらしくなってきた!夕暮れぎりぎりアボッタバードの街に到着。タキシラの標高が500メーターでここアボッタバードの標高は1,200メーターなんで700メーター上がってきたわけだ。やっぱ寒い。

AZAN HOTELは400Rsと高かったがだいぶ疲れてたのでしょうがない。とりあえず到着後、近くのシェルのガソリンスタンドに併設されているコンビニみたいなお店に行き、ミネラルウォーターやクッキーを買うとともに、CDがあったのでCDも2枚購入する。(1枚60Rs)そういや僕は、この3年間2週間あけてCDを買わないってことはなかったのに、2ヶ月近くも新しいCDを買ってなかったではないか?

夜飯をホテルで食べようとすると誰もいない。部屋の鍵ももらってなかったので、鍵をもらい外に食べに行こうとすると、へんなおじさんが「それは俺のカギだ!」と何故か怒っている。携帯でがちゃがちゃとひっきりなしに連絡を取っており、なんかへんな人だなぁと思っていると、僕の隣の部屋に女性が入っていき、それに続くようにそのおじさんもその部屋に入っていった。なるほどねぇ。結局レストランで1時間くらい待ったのち、やっと食事に至りつくことができた。このアボッタバードという街はいかにもという観光地であり、熱海を想像させる。そして、温泉街ならいろんな楽しみがあるんだろうなぁと思いながら就寝。

<19.Dec.2003 Day-62>

Stay Abbottabad

次の目標地点であるベシャムまで120kmくらいあるが、途中1,650メーターまでの登りがあり、途中の街にホテルがあるかどうかは不明。よって早めの出発を試みる。

が、フロントの主人がおらず、チェックアウトができない。従業員に聞いて昨日の晩飯代を払おうとしても「俺はボスじゃないからわからんよ。ただ、近くのシェルのスタンドにはおいしいコーヒーがあるから問題無いんじゃない(笑)」と返される。大きな問題である。

結局シェルに行き、おいしいコーヒーと新聞とクッキーを買って待つことにした。ホテルの屋上に行くことができたので、屋上でゆっくりしてみたりする。

結局フロントの主人が来たのは昼の12時。「今日出発するより、明日の朝早く出発した方がいいと思うよ」と言われる。僕もそう思います。結局連泊することになる。部屋に戻ると隣の部屋からチュパチュパと音が聞こえ、外出する。

昼飯を食い、お金を払おうとすると「100Rsだよ」と言われる。いかにも観光地的な観光客向けの対応で、僕は結構そういう熱海とか登別みたいなところが好きである。歩く。金物屋で金物屋のおやじとお茶をする。なんか買わなくちゃと思い、なんかで使えそうなホースバンドを購入。歩く。パン屋でパンを購入し、アフガニスタンで電卓を失っていたので、露店に売られていた中国製の電卓を50Rsで購入。ちょこっとネットカフェにいってみるが日本語使えず日本語ソフトのダウンロードもできず。

よくわからないが、ちょうどこの山というか丘の中腹が繁華街になっていたので、丘の上の方に行ってみたくなり、1時間近く歩く。恐らくシムラーヒルといわれているであろう場所で腰を下ろす。ちょうど街全体(山の斜面にそれぞれ家を建てているのでこの街すべての家がみえる!)が見えてすばらしい。また、遠くには頂上付近にだけ白く雪をのっけた山がみえる。ちょうど絵的にいいときに来たんだろうなぁと思う。30分くらいゆっくりし、アフガニスタンから戻ってきて初めてゆっくりした気がした。

夕飯を食べてホテルに戻りゆっくりと考えごとをする。やっぱり避暑地ってのは基本的にすることが無いので、いろいろと考えごとできるからいいんだろうなぁと思う。

<20.Dec.2003 Day-63>

From Abbottabad to Battal 80km?

今日こそは早めに出発するぞ、と部屋を出るとちゃんとフロントの主人がいた。ほんとこの人は笑いかた含めてジャックニコルソンにそっくりだった。

1本目、アボッタバードの街を抜ける。結構広い街だ。通勤・通学中らしき人であふれる道路を駆け抜ける。1、2本目は登り下りを繰り返しそこそこ走れる。3本目、マンシェラの街まで300メーターくらい下ると、景色は非常に高原的になった。風光明媚でちょこちょこと止まって写真を撮るが、どうも電線が邪魔である。

ふと、小学校2、3年生くらいの夏休みを思い出した。ちょうど夏休みの宿題で1枚絵を書かなくてはならず、父上殿と二人で江戸川の矢切の渡しをスケッチしにいった。自宅へ戻り、そのスケッチに例のビリジァンとかが入っている12色くらいの水彩絵の具を使って色を付けていたが、どうもスケッチした時に入っていた電線を書くのが難しい。なかなか作品は進まず、田舎へ行く日が近かったこともあり、非常にあせり悩んでおった。そして、どっかに出かけて家に戻ってみると、母上殿が見かねたのか僕の作品に手を加えている。そして、電線部分は空色で塗りつぶされてしまっている!「あぁ!なんていうことを!もうぼくちん田舎になんかいかないもん!」と泣いた記憶がある。確かに当時10歳の僕の感覚では、あの絵の中には間違いなく電線が必要だった。そしてその電線をどうやって水彩絵の具で描くかが焦点だった・・。結局僕は電線にこだわることを止めたし、田舎にも行った。そして田舎に行った時、母上殿が叔父上殿に「この子は出発前に大泣きしてたんですよ」と説明していた際、非常に恥ずかしかったのを覚えている・・。

なんかやっぱり変だ、と思い、フロントパニアを外してみると、溶接した部分がまた折れてしまっている・・。どうしようもないらしい、これは癖になりそうだ。とりあえずそこらへんに落ちていた棒っきれを針金で括り付け出発。

昼飯を食い、このあたりからぐんぐんと高度をあげていく。隣を流れているドール川がかなり下に見える。

川と青年とカラコルムハイウェイな写真。

5本目の休憩を取った時点で16時。(この日はさっそく昨日買ったインドCDを聞いていたが、この休憩を取ったとき集まった人は「ヒンドゥソング」ではなく「ウルドゥソング」を聞いているねぇ、と言っていた)斜度はきつく、ヤギ1頭を連れているおじさん2人組みと時速4〜5kmのバトルを繰り広げる。歩いても変わらんスピードということだ。

結局この日は標高1,400メーターまであげ、面度臭くなったので17時くらいテントを張りはじめる。するとどこからともなくガキンチョ20人くらいが群がり、最終的に長老1人に強制連行される。強制連行された場所はなんだか学校みたいなところで、とりあえず荷物と自転車を中に入れた後、本日折れてしまったキャリアの修復をする。その後、次から次へとチャパティ、ゴハン、ミカン、ラッカセイ等がわんさか運ばれてくる。そして入れ替わり立ち代わり5人くらいの兄さん達が部屋を出たり入ったりしている。ほぼ英会話は成り立たなかったが「ワンダフル」「ビユーティフル」くらいの単語だけでむちゃくちゃ笑わせてくれる痛快な兄さん達だった。「このミルクティは俺の1人の母ちゃんが作ってくれたからほんとワンダフルよ」「んでもってこっちのグリーンティはもう一人の母ちゃんが作ってくれたからこれもビューティフルよ!」っという感じだった。また、次から次へと家にあるもんを見せ、カメラやらサンダルやらくびかざりやらバービーチャン人形やらひっきりなしに笑いをとろうとする素敵な人たちだった。最終的にはパシュトゥミュージックを聞きながら就寝。

<21.Dec.2003 Day-64>

From Battal to Besham 82.9km

7時過ぎに起きるとこの家に呼んで泊めてくれた長老があらわれチャイとナンを用意してくれた。もう一度よく聞いてみると、8人兄弟+5人姉妹で1人の母さん家族、そしてもう一人の方の母さん(イスラム国家では4人まで合法だったっけか)にも家族があるらしく、またこの兄弟姉妹の子どももすべてこの家に住んでいるらしく、学校か病院かと思っていたものの、結局ただの家だったということがわかった。

そして出発。1本走り、このKKH(カラコルムハイウェイ、中国とパキスタンを結ぶ大脈動なので中パ街道とも言われているらしい)を走った中で最高の1,650メーター付近に到着する。案の定その近くにグリーンホテルというホテルはあったが・・。

空が青い。

そして、いっきに1,650メーターから下り、バドグラムの街に到着。この地点で標高900メーターくらい。さらに下ると再びインダス川の本流が見え、ターコットの街に到着、昼飯にする。500メーターくらいまで下がってくると、せっかく登ったのになんだかもったいない気さえする。4本目を登り下りながら走る。ただ、困ったことにここらへんのガキンチョは次から次へと僕めがけて石を投げつけてくる・・。そしてカラコルムハイウェイの距離程に到着。北京まで5,425Kmと書いてある。う〜ん、すばらしい、そして、考え深い。

カラコルムハイウェイ距離標。

5本目を走り、夕暮れぎりぎりにベシャムの街に到着。ABASIN HOTEL150Rs。ホットシャワーがあったのでシャワーを浴びホテルで飯を食って就寝。

<22.Dec.2003 Day-65>

Stay Besham

とりあえず、キャリアの溶接部分がまた折れてしまったままになっており、今回日本から大量の針金を持ってきたつもりだったが、それもかなり少なくなってきていたため、針金を探しに歩く。針金は2メーターで8Rs、固定するための釘は8本で2Rsだった。ぐるっと街を歩いてみると溶接できる店を2軒発見したが、街自体が停電中のため(そういやホテルも停電してた)溶接どころの話ではなかった。

ホテルに戻りキャリアを再チェックしていると、金枠の合計4個所が折れているのが判明した。やっぱり金枠を取り付けるという方法自体に無理があるのかもしれない。しっかりと日本で溶接してからくればよかったと後悔する。う〜ん、どうしようと考えているうちに寝てしまった。

起きると16時になっている。とりあえず買ってきた針金と釘を使って補強する。

夕飯を食っているとサミ君(23歳)とお話することになる。お話が続いていたが結局レストランが閉店してしまったため、サミ君が働いている薬局に場所を移し、しばし「サダムが捕まった」話などを続ける。また、カラコルムハイウェイを離れミンゴラに向かう、明日から走る予定の道は、非常にコンディションが悪いと教えてもらう。

そしてホテルに戻り部屋でチャイを飲む。避暑地でチャイ飲みながら部屋でゆっくりなんて最高です。

<23.Dec.2003 Day-66>

Stay Besham

結局昨晩は次から次へとすばらしい考えが放出し、いろいろと考えごとして寝るのが3時くらいになってしまった。さすが避暑地である。

朝起きると外は思いっきり雨が降っている。この旅初めての朝から雨である。一通り用意をしたが、雨は止む気配なく、急ぐ旅でもなかったのでもう一泊することにし、昼まで寝ることにした。

昼飯を食いに雨具を着て出かけたが、非常に寒い。昼飯食べてあっというまにホテルに戻る。ゆっくりとウルドゥ語、ヒンドゥ語を勉強しつつ、インドのガイドブックを見ながら今後の計画を立てる。

このホテルは立地条件がすばらしく、向かいにどーんとヒマラヤ山脈になれなかった山々みたいなのがあり、またインダス川も見え、かつインダス川のせせらぎが聞こえてくる・・。部屋には小さなベランダが付いており、椅子に座ってゆっくりすることさえできた。なんてすばらしい贅沢!

とりあえず夜飯をくい、雨対策をきっちり行う。出発前に作った計画書を見直すと結構誤字脱字が多いもんだ。

明日は晴れるといいな!と思い外に出ると、外は晴れており満点の星が見えた!あまりにも暇だったので、数を数えてみたら(これもまたなんて贅沢な話なんでせう!)とりあえず100個くらいの星は確実に目視できたのであります。

<24.Dec.2003 Day-67>

From Besham to Aderi? 25km?

よ〜し、外は晴れている。一週間前のパンを食べて出発。ここのホテルのロケーションは最高だったし、従業員の兄さんもいい人だった。

ここベシャムの標高は500メーター、こっから標高2,100メーターのシャングラ峠を越え、ミンゴラ

まで120km走るのが本日の目標である。

1本目、案の定半ダート道だった。40〜50メーターくらい舗装路を走ると10メーターくらい未舗装部分(舗装部分が落石のためか剥がれている)が続く道であり、スピードがまったく出せない。いかにも渓谷という感じの道だ。そして、何が一番辛いかというとガキンチョがうざい!スピードが出せないこともあり、10分くらいは群れて付いてくる。もちろん投石はあるし、「ペンくれ、ペン!」とうるさい。「Would you give me a pen for me?」とかならまだわかるが、「マイ ネーム イズ ペーン!」とか「ホワット イズ ユア ペーン?」とか言われると、ほんと首都イスラマまで戻ってペンを買ってきてあげたほうがええんじゃないだろうかと考えてしまう。

1本目走り休憩する。気温は3℃。このとき見慣れない物体がおっこっているなぁと気が付いたが、自転車こいでる時用のグローブが破け、中に入っていた手が疲れないようにするためのゲルを落としていたことにあとで気がつく。

2、3本目もなかなかスピードが出せず、また集まってくるガキンチョと静かな戦いを繰り広げながら進む。途中、昨日の雨のせいか、がけ崩れがあり、ブルトーザーが石を除去するため一時ストップもした。

時速8kmじぁあいつミンゴラに着くかわからんと思い、早めに昼食にする。飯を食っているとレストランの外には30人くらいのガキンチョが集まってじーっとこっちを見ている。さすがにレストランのおやじも「ジー!」(パフトゥ語で「行け」)「チャロ!」(ウルドゥ語で「行け」)と叫んでいるがいっこうに少年たちは動かない。そりゃ地元の人が言っても無理なら、自転車でこいでる外国人がなんか言っても無理だろう。

長居できずレストランを出発するとすぐに「飯食ったばっかといったってちょっとお茶するくらい時間あるだろう?!」とおじさんに捕まり、この日は25kmで標高1,100メーターまであげてツーリング終了。

とりあえずこのおじさんの家に連れて行かれるが、ちょうどお祈りタイムのため15分屋上で待ってて欲しいとの事。椅子に座って待っていると、50人くらいの村人が僕の半径1メートルくらいに集まりじーっと僕を見つめている。ある程度僕は免疫があるので平気だが、一般人なら発狂してしまうに違いない。おじさんが戻ってきて、結局部屋の中でお茶をする。解りやすいことに、メディカルイングリッシュディクショナリとシリンジ(注射器)がおいてある。聞くとこの街には病院がないため町医者をやっているらしい。

外に出て歩くと常に20〜30人くらいの村人が僕に歩いて付いてくる。異状事態である。「あなたは首相みたいですねぇ(笑)」とおじさんに陽気に言われ「ただのツーリストですが・・(笑)」と力弱く返す。

そこらへんの雑貨屋で座ってお話をする。「イスラムっていいよっ」ってゆう話がほとんどだったが・・。その後村人たちが自作で川に橋を作っている風景を見つつ、「この家にはファイルがないので友人の家に行こう」と言われる。柵がないのからかなぁと思いつつ、柵がある家なんてあるんだろうかと思いながら村を出る。

ミニバスに乗って(こっちでは日本製12人乗りハイエースに20人くらい乗っけて走る「ミニバス」が市民権を得ています)10分くらい走り、バスを降りた後10分くらい山を登り(みんな山岳民族だけあって、彼らはほんと山の中に住んでます)友人宅に到着。なるほど、柵があるのではなく、ミニ焼却炉みたいな暖炉があるからこの家に来たわけだ、寒いもんなぁ。

ただ、なんとなく家もそれなりに立派で、友人カリルさんやその子どもも見なりがよい。夕食をごちそうになったが、最後にカスタードクリームまででてきて結構リッチな生活をしているようだ。アドレスを交換すると、PML,General Sacrataryとある。このあたりの党員ってわけだ。どおりで新聞をチェックしつつ、ラジオでBBC聞いたり、こんな山の中でひっきりなしに電話でやりとりしていたわけだ。これまでお会いした人の中で一番偉い人かもしらん。

この日はチャイとグリンティをバカみたいに飲んだ。えんえんと夜12時までパフトゥ語で会話しておりさっぱり内容は解らなかったが、非常に心地よかった。どうでもいいが、この日はクリスマスイブ。

<25.Dec.2003 Day-68>

From Aderi? to Alupri 12km?

朝起きて朝食を頂く。そしてまた次から次へとチャイを注がれるが、9時半にこのカリルさん宅を出る。これまたどうでもいいが「中国人と韓国人と日本人は犬を食べるんでしょ?どうやって食べるの?」と聞かれびっくりした。山を下りバスを待つがなかなかやって来ない。ようやっとつかまるが途中ですぐに降り、仕立て屋さんでチャイを飲む。いいかげん、昨日からチャイ飲みすぎである。なんの用があってこの街にてバスを降りたのか解らないが、何をしているかと聞いたらバスを待っているらしい。が、結局バスは来ないので、歩いてAderi?の街まで戻ることになった。

結局街に戻ると12時。「いや〜、遅くなってしまってごめん。昼食べたらすぐに出発しよう」と言われ昼食をごちそうになったが、お祈りタイムと食後のティータイムを含め結局出発したのは14時。これじゃ目標のミンゴラまで75kmは厳しい。

そして走り始めると今度はガキンチョがカバンにつけている荷物をひっぱったり、カバンに付けているサンダルをいつのまにか取り外してパクっている。石は投げてくるは「ペンくれ」とか「金くれ」とかうるさいし、挙句の果てに「アラーは一番だといってみろ」と少年たちは叫んでいる。やはり、イスラム教ってのは、完璧さを売りものにしている以上非常にリスキーだと思う。彼らは人を傷つけたとしても、物を盗んだとしても、イスラム教さえ信じていれば、天国に行けることになっていると昨日おじさんが言っていた。(もちろんホーリーコーランには物を盗んじゃいけないとは書いてあるらしいが・・。)アメリカが何をしでかしているかは別として、イラクではなくイスラム教徒に対して喧嘩を売ってしまう気がなんとなくわかる。

結局標高1,100メーターから1,400メーターまであげ、アルプライの街に到着したのが16時。この街はシャングラ峠頂上へ向かう最後の街。あとミンゴラまで60km近くある。ちょうどホテルと溶接屋を見つけたので、今日はこの街でストップすることにした。破損したキャリア4個所の部分含め、金枠を取り付けている6個所をすべて溶接してもらった。この時親切君(名前忘れた!)がおり、ホテルまで一緒に付いてきてくれた。結局このホテルはやっていないらしく、近くのレストランの物置(いちおうれっきとした部屋らしい)に泊まることにした。

このレストランでチャイとケーキを食べた後、この親切君が通っている大学に連れてってもらい見学しつつ、親切君の家に行き部屋を見せてもらい、レストランへ戻る。レストランでポケーッとしていると自称ポリスマン等こわ持てのおじさんが次々とやってきて「パキスタンはいい国か?」「おまえはまた来るか?」「日本に帰ったら俺にデジカメを送ってくれるか?」「ここは寒いし危ない、別のホテルを探せ」等、コミュニケーションを間違えると死にそうな感じが漂う。やっぱりこのシャングラ街道には外国人が入ってきちゃいけないところだったと思う。(ガイドブックには、ミンゴラの北部(上部スワート)は危険であり、冬はパキスタン人観光客も寄り付かない、と書いてあったが、その状況に近いものがある地帯だったと思う)

レストランで飯をくい、19時に寝ろと言われ、そんな早く寝れるかと思っていたが、21時には寝てしまった・・。

<26.Dec.2003 Day-69>

From Alupri to Mingola 62km?

7時起床。外と変わらない寒さの物置小屋だったが、寒くて寝れないということはなかった。チャイとナンを食って出発。アルプライの標高は1,400メーター、ここから12km走ってシャングラ峠の頂上2,100メーターを目指す。

あまりにもガキンチョが強力なので音楽は聴かず静かに走る。気温は1℃。2本目を走るとあたりには雪が積もっている。そして道路の日陰部分は雪が積もったまま根雪になっており、当たり前だがスタックしてしまい自転車をこぐことができず、なんとか自転車を押して進むしかない。たんにどっかを見に行ったり、体験しに行く「旅行」とか「観光」という言葉からはあまりにもかけ離れているし、たんにどっかへ行くという「ツーリング」という言葉からもあまりにもかけ離れた冒険になっている。

シャングラ峠中腹。ちらほら雪も残る。

3本目は結局1時間ほとんどまるまるガキンチョがついてきた。「ペンくれ、ペン」と言われながら、最終的もらえないことがわかると、石やら雪やらをしこたま投げつけられた。「なんでここらへんのガキンチョは強力なんだろう?」と思っていると、今度はいいおじさんがいきなり抱き着いてきて「ペンよこせ、ペン」といってきた。さすがにこれには参り「ペンなんて10Rsもあれば買えるじゃん?あんたが1日何杯も飲んでるチャイを2、3杯我慢すりゃ買えるでしょうが?」と日本語で強く説得したらあきらめたようだったがなんとも・・。僕は思うに、両親からの教育や、学校での教育がないというわけではなく(もちろん金や物がないというだけではなく)、「こういうことやっちゃいかんだろうなぁ、やめとこう」という緊張感がないと思う。なぜなら石を投げつけられた後、後ろを振り向くと彼らは走って逃げてたから。

そしてまたへんなおじさんにつかまったぁ、と思ったらパナソニックのビデオカメラを担いだ自称ジャーナリストだった。突然インタビューされる。

やっとこさ標高2,100メーターシャングラ峠の頂上に到着し、昼飯を食う。ちょうど頂上がチェックポストになっており、外国人はここで名前やビザナンバーを書かなくてはならない。今年1年のリストを見てみると7、8人くらいの日本人の名前があった。

頂上を越えると一気に風景が変わる。これはすばらしい、ナイスショットって感じ。下りは気持ちいいはずだが、あいかわらずのダート道のためスピード出せず、また寒いせいかヒザが痛烈に痛くなってきたのが残念。

ホワザヘラまででると舗装路になった。こうなると一気にスピードが出る。あっというまにミンゴラの街に到着。NAWAB HOTEL100Rs。だいぶ自転車も参っていたので掃除用ブラシ(15Rs)とハリガネ500g(40Rs)(なんでグラム売りなんだろう)とヒモ10メーター分(10Rs)を購入する。とりあえず自転車をチェックしてみると溶接してもらった部分4個所がさっそくあっけなく折れている。よくこれでガタガタ道の峠を下ってきたもんだ。溶接には頼らずハリガネですべて固定することを決意。

とりあえず夕飯を食いに行ったらたんなるチャイハネだった。すると「お、あんたチャリンコ野郎でしょ?」と聞かれる。ちょこっと街中を走っただけなのに一躍有名人になってしまっている。正式にカバブを食いに出かけるとまた「チャリダーでしょ?」と聞かれる。なんとなくちょっぴりまだ危険の感覚が漂っており早めにホテルに戻る。

<27.Dec.2003 Day-70>

Stay Mingora

午前中はキャリアの補強作業に費やす。こんなんばっかだちくしょう。しかも昨日買ったハリガネはもろくてまったく使い物にならない。日本から持ってきたハリガネをうまく使い固定する。その他タイヤのチューブに空気を入れ、チェーンに油を注していたらあっというまに3時間はかかった。

昼飯はなんだかわからんがヤギの肉をふんだんにつかった炒め物で、たいそう美味かった。とりあえず観光に出かける。このミンゴラという街は川沿いに繁華街があり、かつ山の斜面にぎっしり家が立っており、カブールっぽかった。スワート博物館にいくとちょうど昼休み中だったので、先にブトカラ(遺跡系)に行く。なんとなくまぁここらへんが遺跡と言われているところなんだろうなぁとあたりをつけただけで博物館へ戻る。

この博物館はタキシラ同様入場料に200Rsかかった。入り口に「日本の援助で立て直しました」と書かれた碑があり、中に入ってみると、展示の仕方がなんとなく日本っぽく、展示されているものがそれらしく見えるから不思議。マネキンを使って「ここらへんの人々」を再現した展示などもあったが、なんとなく、ここらへんの人たちは文明化しない方がよかったんじゃないかなぁと思ったりする。

博物館の前にある店でチャイをのみ戻る。ネットカフェに行き、日本語読み書きソフト(JAMONDO)をダウンロードするが、ちょうど5MB中3MBくらいダウンロードすると回線が切れてしまう。扉開けっ放しで寒い中、いらいらしつつ何度もトライして、やっとダウンロードしたら結局夜の8時になっていたのでちょっとチャットして飯食って帰る。

<28.Dec.2003 Day-71>

From Mingola to Mardan 113.9km

出発。やっぱり寒いと動きが悪い。そういや今年ももう終わりだなぁと思いつつ、標高900メーターからじわじわと下りつつかっとばす。そこらへんに遺跡もごろごろしていたが、ストゥーパ(仏舎利)を走りながらちらっと見たくらいだった。観光のためにミンゴラに来たもののまぁこんなもんでしょう。

右手に川を見ながら2本目を走る。ビョークがよくあう風景だ。3本目、最後の峠(登り)に入る。ただ、太ももに自信をつけていたので、あっけなくマルカランド峠を登り切る。なんだかしらんけど、このあたりには銃を持った警官が多かった。そしてカラコルムハイウェイの山々は非常に女性的な感じがしたが、このマルカランド峠は男らしく感じた。ややでこぼこ道だったのでスピードは出せなかったが一気に峠を下る。下りきったところで道は平坦になったが、工事中で片側1車線つぶれており、さらに道が悪くなる。道が悪いとほんと疲れる。

5本目を走った後休憩していると急にお腹がいたくなり、とうきび畑みたいな茂みに隠れる。なんだか非常に疲れておる。6本目、気合を入れ直し出発。なんとかマルダンの街に17時に到着。もう17時くらいにはあたりがだいぶ暗くなっておる。7時サンライズ17時サンセットでは、なかなか距離が稼げない。ザフール君という青年にホテルまで案内してもらう。ZAMAN HOTEL200Rs。

買い出しにでかけると、ホテルの近くの携帯屋さんに捕まる。「日本はなぜWTOに・・」と、僕の英語力ではとうてい説明が難しい内容をお話する。このホテルのあるバンクロードを歩く。結構このマルダンという街は栄えていた。ホテルで夕食をとる。なんとなくいかにもツーリングしたっという感じの疲れがある。このホテルまで連れてってくれたザフール君の友達が7年間日本で働いており、昨日戻ったばかりらしく、夜でもその彼連れて君の部屋に行くよ、と言っていたが、結局21時を過ぎても来ないのでいつのまにか寝てしまう。

<29.Dec.2003 Day-72>

From Mardan to Hasan abdar 108.5km

果たしてザフール君は部屋まで来たけど僕が起きなかったのかはたまた彼自身こなかったんだろうかと考えつつ、さくっとナンとチャイ食って出発。

1本目、思い通りに走れる。そしてNH5(ナショナルハイウェイ5、通称GTロード)へ三度戻ってきた。さすがに同じ道を走るのも3回となるとおてのもんである。

2本目を走り、2週間前同じ道を走ったが、雨のためよく分からなかったインダス川の眺めがすばらしい。とりあえず昼飯。たいてい「ローティ」といえば、何も言わなくてもパンだけではなくなにか副食(オカズ)を付けてくれるもんだが、ほんとローティだけだった。がっかりしつつ、ちょっとお腹を壊し気味な感じもしてたので、まぁいいかと観念する。

3本目、心地よく走っているとトゥクリップが完全に壊れてしまった。とりあえず3本目の休憩でインシュロックをつけ出発。が、完全にエネルギー不足。急遽休憩をとり、持参しているパンを貪り食う。パキスタン人(特にパターン人と呼ばれる人たち)はよく唾を吐く。人がパンを食っているのを見ていてもいいが、食べてるときに唾を吐かれるとどうかと思う・・。

なんとなく非常に肉体的に疲れているが、目標のハサンアブダールに到着。結局14スターホテルというところしか開いておらず、800Rsもしたが、テレビも付いており、今回1、2を争うすばらしいホテルだった。インドのMTVみたいな音楽番組を見つつ、久々のピザを食べる。そしてお腹壊し気味のときに限って、ピザは青トオガラシだらけだったがぺロッと食べてしまった。いちおうルルとビオフェルミン飲んで寝る。

<30.Dec.2003 Day-73>

From Hasan abdar to Rawal pindi 50.5km

今日はそれほど距離がないので遅起きする。しっかりと目玉焼きとトーストの朝食をとる。病後というか風邪ひいた後みたいな感じがするが、お腹の方は回復している。今までのところ、おそらく日本にいるときよりもお腹壊している日が少なくすばらしい。とりあえずビタミン剤だけ飲んで出発。

1本目を走り、休憩をしていると警官に呼ばれお話する。いつでもどこでも言われる「俺日本で働きたい。ビザ発行して」系の話だったが、果たしてパキスタン人が日本で警官なんてできるんだろうか?彼は自慢気に警官証明証をみせびらかしていたけど・・。

2本目を走り、ダラダラ上り坂を70%の体調にも関わらずええ感じに登っていく。今回はほんとバテルことを知らない。2本目の休憩で昼飯にしようと思っていたものの、レストランがある一帯を通り過ぎてしまった・・。しょうがなく手持ちのパンをそこらへんに座って食う。立ち止まったタクシー運チャンいわく「今日はインドのバジパイ首相が来るから、イスラマにはもう入れないよ」とのこと。もともと年末年始にかけてはイスラマではなくピンディにいようと思っていたが、ちょうどよかったかもしれない。

3本目、本年度最後のラン。じっくり走り、無事ラワールピンディのNEW KAMRAN HOTEL(250Rs)に到着。なんか部屋がガス臭かったが、アフガニスタンを自転車で走ったという自信と、僕の靴下の方がもっと臭いという自信がある。

久々にでかい街だ。特に、やっぱり若者が多いせいか活気を感じる。たんにバザールがあるだけの街はつまらんが、こういう根本的に活気がある街ってゆうのはやっぱりいい。なんとなく安タバコを吸っているのが恥ずかしくなり、ゴールドリーフというリッチなタバコに変更。とりあえずぶらぶらしていると、自転車のチェーンに使えるアブラを発見し購入する。(80Rs、100ml)スプレータイプは飛行機で日本から持っていくのは不可能なのでこの発見はうれしい。雑貨屋でプリングルスとジュースを買い、久々に新聞を読んでホテルでゆっくりとする。夜飯は適当にホテルの近くで食べる。ネットカフェに行き、JAMONDOをダウンロードし、3日分の掲示板の更新を行う。

これにてカラコルムハイウェイ&スワートの旅が終了だ。とにかく今回の冒険で(いかにもな避暑地にて)、第一の目標であったアフガニスタンの冒険をじっくり考察することができたのことはとてつもなくでかい。

簡単にここにその意義を記すとすれば、「社会人になったらもう冒険できないから」「これまでの集大成」として4年前インドチャリンコの冒険に出かけたわけだが、これがあまりにも冒険で、逆に冒険を終え帰国する前「なんでこれで冒険が終わりなんだろうか?」「果たして僕にとっての冒険とはなんぞや?」という人生最大の疑問符を投げつけられてしまった。ただ目標が「冒険を完成させること」だったため、その人生最大の疑問符にフタをして帰国したわけだ。

そして4年間フタしたままその自己欺瞞と戦い、やっとその人生最大の疑問符に対し、「アフガニスタンを自転車で冒険する」という「行動」で答えを示したわけだ。「何故旅に出るのか」と「何故旅に出たのか」と問いかけは根本的にその意味が違うものであると考えているし、今回その「何故旅に出たのか」の答えを見つけることができたわけだ。もう僕は今後途中で冒険が挫折したとしても悔いは残らないと考えている。

そして、予定の169日分の73日が終了した。そして、インドのデリーに戻り、ゴアもしくは最南端までの冒険への可能性が待っている。この可能性は年越し!なんてすばらしいっ!

<31.Dec.2003 Day-74>

Stay Rawalpindi

朝起きてシャワーを浴びる。昨日ホテルの兄さんが「朝ならホットシャワー出るよ〜」と言っていたものの、ぬるま湯で残念。洗濯物を漬け起きして昼飯に出かける。昼飯は昨日の晩と同じで、ホテルの隣にあるレストランでチキンコルマー(チキンの煮込み)を食べる。そしてホテルに戻り、洗濯。「今年の汚れ、今年のうちに」である。

洗濯終了後、昨晩行ったネットカフェに行ってみる。「今年の汚れ」ではないが、なんとなく今年度中にこの掲示板の更新をしたくてしょうがない。ただ、昨日は高速だったが今日になったらガゼン遅くなっている。一生懸命JAMONDOダウンロード中にいきなり停電しあっけなく終了。しょうがなく、「旅行人」のホームページ(掲示板)に「日本語使える」と書いてあった気がした「JASCOM」ネットカフェに行ってみる。ここは日本人がよく利用するらしく、ここの主人がよく事情を知っており、サーバーにJAMONDOがおいてあった。あっというまに日本語読み書き出来るようにしてもらう。そしてある程度書き込みした時点でまたしても停電。う〜ん、もう17時をまわっており、今年度に終わるか怪しいところだ。そしてこの停電のときに「うわ、なんだよ!」という声が聞こえた気がしたが、まわりに日本人は一人もいない。ロウソクを灯し復旧を待っていると、なるほど横にいたおじさんが蒲田で数年間働いていたとの事。やっぱり空耳ではなかった。しばし待つも結局復旧せず、いったんホテルへ戻ることにして、明日の朝飯くらいはりっぱにしようと思い、80Rsのサンドイッチと7UPを買ってかえる。ホテルに戻るとこれまた暦の違う中国にいる冒険旅人I氏よりTelあり、かれも「らしくない」年末をいかに「らしい」年末にさせようかと考えておった。

今年度最後の夕飯はチキンティッカ、これはなかなかだった。

そして再度JASCOMネットカフェに行き、19時半から執筆を開始して、結局終了したのが1時・・。日本時間、パキスタン時間ともにインターネットを相棒に年越ししてしまった。ただ、随時ヤフーで「浜崎あゆみ3年連続V!」とか「曙サップに負ける!」とか見れたので、なんとなく年越しを感じることができてよかった。う〜ん、インターネットってのはすばらしい。そして、明らかな冒険中の状態のまま年を越せるというのがすばらしい・・。長期的なビジョンがないだけかもしれないが、「今年こそは冒険を!」と願う必要もなく、現時点におけるこの冒険中の状態にとんでもない自信を持っており、帰ってからのことは考えられない状態である年越しだ!

<1.Jan.2004 Day-75>

Stay Rawalpindi

「あけましておめでとうございます。」と朝起きて自分に挨拶する。とりあえずお雑煮とおとそ代わりにチキンサンドイッチと7UPを食べる。残念ながら高級サンドイッチはあんまり美味くなかった・・。いちおう実家に電話をする。

とりあえず正月くらいゆっくりしようと思うが、どうもやはりこのイスラム教国家は暦が違うせいか、まったく新年らしい気分がしない。「なんか正月っぽい曲が入ってたなぁ」と思い出し、JAZANOVAのコンピ「CIRCLES」を聞いてみた。

と、ゆっくりしている間、部屋の戸を叩く音が聞こえた気がしたら、ホテルの従業員が「パスポートヨコセ!」と騒いでいる。どうも、SAARC(日本でいうサミットみたいなもの)が1月4日からこのパキスタンで開催されるせいか、役人が「外国人の宿泊にはコピーが必要だ!」と言ってきたらしい。新年早々「ビッグプロブレムだ〜」なんて騒がなくてもいいのに・・。結局パスポートが戻ってくるまでの間、このホテルの隣のレストランで待つことし、またしてもチキンコルマーを食べる。

昼飯を食い、パスポートを受け取ったのち、通り(カシュミールロード)に出てみる。と、いきなり「ドカジャ〜ン」と音がした。見ると新年早々、前の車のおかまほってしまい「あっちゃ〜、やっちゃった〜」といい顔をしているおじさんが見えた。騒々しいスタートだが、ここラワールピンディは東京でいう新宿とか渋谷みたいななところであり、こんなところで新年を迎えるのもまたよろしい。

ぷらぷら歩く。コニカデジタル発見。昨年末のカラコルムハイウェイのデータ(メモリースティック)をCD-Rに焼いてもらう。1時間後出来上がるということなので、さらにぷらぷら本屋を覗いて「TIME」誌(80Rs、日本なら1,000円位する)を買ってみたり、10Rs屋台(日本の100円ショップで売られている中国製製品屋台)で小指よりも短いが伸ばすと中指以上になるすばらしいボールペンを買ってみたり(これは首からかけている貴重品入れに収めることができ重宝している)、「アッラー」と書かれている貝殻(10Rs)を買ってみたり、針金3メーター(15Rs)買ってみたり、トルクスレンチ(250Rs)(星型のアーレンキーなのでスターキーレンチと言っていた)を買ってみたりする。そしてCD-Rを受け取りネットカフェへ。

とりあえずFD、CDドライブが使えたので、この掲示板にカラコルムハイウェイにおける冒険の写真をアップし、いちおう勤めていた会社関係に「去年はお世話になりました」メールを送る。そして昨日年越し気分を味わったように、ネットで新年気分を味わう。「幸子小林衣装開かず!」とか「長渕熱唱!」とか「紅白は白組が勝ち・・」と見ると正月を感じてしまう、やはり心は日本人なんだなぁ。さらにネットでおみくじを引き、仏像だらけのホームページでインターネットお参りをする。う〜ん、すばらしきデジタル時代。おみくじサイトは結構しっかりしたもので、おみくじをひいたら「62番の大吉」だった。「注目を集めるようになり、周りから認められることを示すくじ。それまでのやりかたがやっと時代のニーズにあってきたようです。これを機にさらに時代のニーズを取り込んで打ち込めばさらに運が栄えるでしょう!」と、なんだかうれしい内容のくじだったので(そういや去年成田山でおみくじひいたら「凶」で、「旅行にゃ行くな!」とあった気がする・・)思わずノートに書き写してみたりした。

そして、去年は捨て身のギャグをかましたんだから(ほんと命張ったギャグだよなぁ)なんか今年はもっともっとでっかいことしでかしてぇなぁ、と思う正月。