5.「日々更新」デリー再び。(パキスタン・インド)

Attack.4 From Rawalpindi to Delhi 884.1km

(2004年1月2日〜2004年1月19日)

<2.Jan.2004 Day-76>

From Rawalpindi to Dina 106km

パキスタンビザが1月9日に切れてしまう。また、12月8日にパキスタンに入ったので、1ヶ月以上滞在する場合はパスポートオフィスに出向いて滞在許可証を入手し出国時にそれを見せなくてはならないという掟がある、ということもあるが、なんとなく、冒険旅人らしく、「初走り」をしたくてしょうがなかったので、ラワールピンディでほとんど休むことなく出発を決意。

出発。長渕が紅白で熱唱したということもあり、新年一発目は長渕を聞きながら走る。ペシャワールまでの往路時、この道(GTロード)を走っていた時は、ひどく疲れた記憶もあるが、問題無く快走。

昼飯をレストランで食べていると、ここのオーナーのお兄さんが今日本で働いているとの事。「新年だしお兄さんへものを送りたいだけど、住所があいまいなんだなぁ。これで届くんだろうか?」と聞かれる。中国にいる冒険旅人に携帯で電話し、郵便番号をネットで確認してもらい、このオーナーに英語と日本語での送付先住所を書いて渡す。そしてこのレストランを出るときに話し掛けられたおっさんは、かつてイギリスで働いていたことがあるらしい。ほんとこの国の人たちはある意味遊牧民的だ。

順調に走り、またいつものように「どこから来たの?」と英語で聞かれ「日本から来たよ」と返すと「あ、やっぱり日本人だった〜!」と日本語で返された。とりあえずお茶をする。聞くとこのAbidさんはかつて静岡県富士市で4年間働いていたことがあるらしい。パキスタンに戻ってから3年くらい経つらしいのだが、まったく問題無く日本語を話しておりすばらしい。結局100km位走ったがこのアビさん(日本でそう呼ばれていたらしい)宅に泊めさせてもらうことになった。

アビさんの兄さん宅におじゃましてお茶したあと、アビさん宅へと向かう。このアビさん宅にはアビさんの奥さんと子ども3人とお母さん、親戚含め8人くらいで生活していた。居間でテレビを見ながらチキンの夕食をいただく。女性は顔や体を隠し、女性一人ではまず街に出歩くことがないこのイスラム教国家において、家の中まで入れてくれるというのはなかなか貴重な体験だ。このアビさんは富士市のとある製紙工場で一生懸命働いて月に30万以上稼いでいたらしい。時間があれば街の公民館の日本語教室に通ったり、図書館で日本語の勉強をしたり、よく日本の人たちと海に泳ぎに行ったり魚釣りをしに行ったりしていたらしく、良き思い出でいっぱいらしい。間合いや相づちの仕方など含め(「〜だよ。〜じゃん。」とか辞書にはのっていないだろう言葉を使うことができ、周りの外国人からも「なんでそんなに日本語話せるの?」と言われていたらしい)問題無く日本語を話していた。そして製紙工場の工場長や友達がいっぱいいたらしく、今でもローマ字でチャットしたり、メールしたり、手紙のやりとりをしているらしい。

「なんでまたパキスタンに戻ってきたんですか?」と聞くと、次から次へと不幸が起こり、アビさんの日本滞在中に親戚が4人も亡くなられたらしく、結局パキスタンへ戻ったとの事。そういうもんなんだなぁ。

久々に普通の日本語で会話することができうれしかったが、その分気を使い疲れた。本当に気を使ったから疲れたのか?夜半腰が痛くてしょうがなくなり滝のような下痢をする。嫌な予感。

<3.Jan.2004 Day-77>

From Dina to Jhelum 16.5km

朝腰が痛すぎて目覚める。明らかに不快だ。とりあえず居間のテレビでクリケットの試合を見ながら(昨晩は夜11時くらいに寝たが、アビさんは朝4時から起きてクリケットの試合を見ていたらしい。ほんと南アジアの人たちはクリケット好きだ)朝食をいただくがまったく受け付けない。「何泊でもしていいよ。ここは日本じゃないから、少しくらいビザが切れても大丈夫だよ。」と言われ納得したが、とりあえずここにいても直らないだろうと思い、11時ころ出発。特にこのアビさんのお母様はいい人で忘れないと思う。

とりあえず走っては見たものの「全滅」って感じ・・。まったく力が入らずヘロヘロになり、15km位走ったところのホテルに駆け込むことにした。New Kashmir View Plazaは800Rsと高かったがそうもいってられない。オーナーはこれまたイギリスで働いていたことがあるらしく、インターナショナル割引で500Rsにしてもらった。どうも団体で勉強ができるような宿泊施設付き研修所のようだ。ただ、自転車含めて荷物を部屋まであげるだけで、心臓がバクバクいっており、ほんとに歩けなくなる。

そして滝のような下痢が止まらない。「こんなに食べたり飲んだりしてないじゃん!」と言いたくなるほど下痢が止まらない。結局昼から翌朝まで何も食わず、寝るかトイレに行くかを数十回繰り返した・・。今回はこれまでこういった下痢はなかったが、これまで海外旅行に行けば必ずこういった下痢をしていたもんだ。何故か懐かしさを感じるがやっぱり辛い・・。

<4.Jan.2004 Day-78>

From Jhelum to Gujranwala 113.9km

体調はどん底からは脱出した気はするが、やっぱり20%位まで体力が低下している気がする。外は霧がかかっている。当然Go or Stayで迷うが、目標のGujranwalaまでの間50km地点にGujratという多少大きな街があることと、なんか日本で相当お騒がせしてから出発した気がして、Goを決意。出発を決意しただけであって、自殺行為に及んだという訳ではない。

1本目、恐る恐る走るとなんとか行けそうだ。ただ、走りはじめると、休憩したらもう走れないんじゃないかという怖さがある。また休憩すると、走り始めたらぶっ倒れるんじゃないかという怖さに襲われる。単独であり、はっきりいって恐い。2本目PearlJamの「Nothing Man」と「Better Man」が心の奥底に鳴り響く。とりあえず2本目を走った後、バナナを買ってチャイと一緒に食べる。果たしてどうだろうか?3本目までは走ることができ、Gujaratの街を通り越した。が、とうとう4本目でびっくりするくらいの脂汗が流れ出し、気が遠くなっていき、チナーブ川を渡ったところでぶっ倒れる。「う〜ん、もう走れないよ〜」と、ぐったり寝転んでいると、爺さんが現れ、煙草を一本渡す。この爺さんはラワールピンディからラホールまでの300kmを歩いているらしいが、完全に手が震えており、煙草に火をつけるのもぎりぎりである。「負けないぞよ」という訳じゃないが、何故か走る気力がわいてきた。再度走り始めるが、ちょこちょこと20〜30分に1回は立ち止まってしまう、たかだが自転車こぐだけなのに・・。5本目を走った後、仮眠を取り、目覚めるともう17時で陽が落ちかかっている。う〜ん、こりゃ困った。

ただ、僕は夜行性なんだろうか、こっからぐんぐん走れてしまう。会社に勤めていたときも「体力あるねぇ」とか「あんまりがんばって無理するなよ」とよく言われていたが、決して僕は体力があるわけでもなく、無理がきくわけでもない。ただ、自分の限界を知っているだけだ。そしてコレラだがチフスだか赤痢だかわからん細菌性の下痢をともないながら、110km走って19時半に目標のグジャランワラに到着。往路でも利用したドリームホテルに宿泊する。

そして往路で宿泊した際も食べたローストチキン(ケンタッキー的)とナンを食べる。ケチャップがむっちゃくっちゃうまかった。(走っているときしょっぱいものが食べたくて食べたくてしょうがなかった!)そして下痢は止まっていないが何故か元気だ。とりあえずよくやったといいたい感じ。

<5.Jan.2004 Day-79>

From Gujranwala to Lahore 75.1km

夕飯をちゃんと食べたせいか、体力が20%から30%位にはなった気がする。ただし下痢は止まらない。しっかり朝食のナンと昨日買ったバナナを食べチャイを飲む。なんでかわからんがこれはこれで楽しい。

出発。そして往路のときこのラホール・グジャランワラ間は道路の舗装状況が悪かったことを走り始めてから思い出した。このガタガタは疲れに響く。2本目を走り休憩していると警官が現れ「ここはむちゃくちゃ危ない。早く行きなさい」と言われ、再び走り始めると雨が降ってきた。う〜ん、ついてない。昼飯をとることにし、ダールとナンを食べて雨宿りする。(ちゃんと食べれるってのはけっこうすばらしいことですよ)雨やんだので出発する。なんとか普通に時速20kmで走れておる。

4本目を走り休憩していたときに、青年とお話をした。「あんた学生?」と聞いたら青年は帽子を指差しそこには思いっきり「パキスタンポスト」と書かれておりウケた。ただこの青年の話でなるほどなぁと思ったことがある。ここイスラム教国家のパキスタンに入ってから、街を歩いている時や、自転車こいでいる時など、いたる人から「どっからきたの?」ともう嫌になるくらい話し掛けられた。ウルドゥ語やパシュトゥ語しか話せない人が、こっちはわからなくても、そのままその言葉で話し掛けるということも多かったし、自転車で走っている時「俺の携帯は○○だ。忘れんなよ」とか「俺のメールアドレスは○○だ。なんかあったれメールくれ」とそれだけいい残してどっかいってしまうということもしょっちゅうあった、覚えられるはずないのに。このパキスタン郵便局の配達人をしている彼も、最初は僕を見てそのまま通り過ぎようとしたらしい。ただ、イスラム教の経典には「旅ゆく人を見たらお粗末にしないこと」とあるので、引き返し、僕に話し掛けてきたらしい。彼は「これは僕らのDutyなのよ」と言っていたので、なるほどなぁと思ったわけだ。

とにかく一生懸命走る。「前へ、前へ」という精神は健在なんだなぁ。ラホールの街に入る。どうでもよいが南下するにつれて、移動手段(乗り物)が小さくなっていく気がする。パキスタンの北の方はミニバスと呼ばれるハイエースに20人くらい乗るのが普通だったし、ミニトラック的な乗り物のもありでかかったが、どんどん南下するに連れてスズキと呼ばれる6人乗りのオートリキシャが増え、ここラホールまでくるとインドで見るような3人乗りのオートリキシャが増えた。

ラホール。クリフトンホテルは宿泊拒否。ラホールホテルの前にあるメノラホテル300Rsに決定。

今日もまた生きているってすばらしい。ローストチキンとナンを食べて就寝。

<6.Jan.2004 Day-80>

Stay Lahore

なんとかラホールまでは来たが、さすがに疲れた。今日は1日ゆっくりして明日パキスタンを出国しよう。そして明日パキスタンを出国するとなると、本日が2ヶ月近く滞在したパキスタンのほぼ最終日となる。何しようと思ったら、そういやラホールでマックを見たけど、パキスタンでマックを食ってない。(韓国やインドなどのマックには行ったことがある。韓国ではIMFバーガーってのを食ったし、インドでは牛肉が宗教上禁止されているので羊の肉のマックを食べた)適当に地図も持たずに出かけ歩くと、なんとなくホリデーインホテルの近くにマックを発見。やっぱりこちらのマックには高級感が漂っており、ダブチとポテトMとコーラのMのセットで160Rsもした。ただ、これはまったく日本で食べるダブチと同じ味で、そして日本でマック食べるのと同じように、何となく胃がやられる。コーラもほとんど飲めず(ミネラルウォーター以外だとペプシ等の炭酸類しか冷たいものが飲めない国において、もともと胃腸の弱い僕は、炭酸のジュースを飲むとき、ペットボトルなら飲む前に振って炭酸飛ばしてから飲んだし、ホテルやレストランでビンの炭酸ジュースを出されたらストローで子どものように「ぶくぶく」してから飲んでいる)、高級なマックで「ぶくぶく」するわけにはいかないので、飲み干さないまま歩いてホテルに戻る。ホテルでBBCワールドを見ながらゆっくりする。BBCワールドは30分ニュースをやって、30分なんらかの特集をするという1時間のセットを繰り返し、同じ内容を何回も流しているのだが、さっぱり英語わからず内容不明。ただ、先のSAARC会談時に、インドとパキスタンがカシュミール紛争地帯の問題など含め解決案を模索していくことになったというニュースや、アフガニスタンでまた爆弾テロで10人死亡したなどというニュースを見ていると、世界のニュースを提供している準戦時国に今僕はいるんだなぁという実感が湧いてくる。

外に出歩く。年末年始銀行が閉まっていて泣くのは嫌だなぁと思い、12月中旬にイスラマバードにて多めに両替をしていたが、8,000パキスタンルピー(PRs)近く余っている。パキスタンには(合法とうたっている)両替所が数多くあったが、(これもイスラム教国の人間がいかに流浪の民であるかを証明していると思う)インドではほとんどみたことがなく、国境で両替できなければパキスタンルピーはただの紙切れになってしまう。今回腕時計に恵まれていなかったので、思い切って余ったパキルピーで時計を買うことにした。目立たず、壊れず、アラームとライトが付いており日付もわかる、7カ国語対応のカシオデータバンクを買ってみた。中国製で1,350RS(2,700円位)だが、日本で買えば10,000円はすると思う。

パキスタン最後の夕食は、へんなマヨネーズみたいなタレにナンをつけて食べた。これがまた恐ろしいほどまずかった・・。最後の夕食ということで狙い過ぎてしまった・・。失敗・・。とりあえず明日無事パキスタンを出国できるよう、自転車のチェックをする。心覚え全くないがリアのタイヤがパンクしていたので修理する。(今回4回目。よくアフガニスタンとカラコルムハイウェイのガタガタ道をパンク無しで来たもんだ。シュワルベのマラソンクロスという今回用意したタイヤは必要以上の仕事をしている)

珍しくエンドレスにお湯が出たのでシャワーを浴びる。そしてドリフで天井から加藤茶の頭にめがけて落っこちてくる以外に見たことのない「タライ」があり、やっちゃいけないと思いつつ、思わず「タライ」の中に入りこんでしまい、案の定足が抜けなくなりあせる。

ただ、やはり滝のような下痢をしておきながら通常ベースのツーリングをこなしたことで、相当なパワーを消費したようだ。久しぶりに腰の回りにヘルペスができている。

<7.Jan.2004 Day-81>

From Lahore to Amritsar 70.6km

少なくとも下痢は治っていないが、なぜか体は動くし元気だ。出発する。

国境で「こんなに両替できないよ」と言われることに不安を感じていたため、とりあえずラホール市内の両替所に行ってみる。3,500PRsを60$のキャッシュに両替してもらう。アメックスで1$=56PRsのレートで両替したルピーを、1$=57PRsのレートで再両替したわけだ。

人、自転車、バス、リキシャ、馬が多く、走りづらいラホールの街を走り抜ける。そして「ワガーボーダー」の標識を頼りに進んでいくが、往路時に見覚えのない道路を走る。なんとか往路時に使った道に戻ることはできたが、だいぶロスをしてしまった気がする。最後の最後のパキスタンでの昼食をとる。(なぜこんだけメシにこだわっているかというと、北インドに比べ比較できないほどパキスタンディッシュが僕の口に合っていたからです!)国境近くの街に住む子供たちは非常に愛想がよいというか、笑顔がかわいい。おそらくインドからなんらかの理由で逃げてきた人がスラムを作って住んでいるんじゃないかと思う。

そして国境越え。残りの2,000PRs(パキスタンルピー)を1,500IRs(インドルピー)に両替してもらう。ラホール市内の両替所では、パキスタンルピー→インドルピーが70%のレートだったので、75%で両替できてまぁまぁだろう。パキスタン側の出国は簡単だった。税関も荷物開けることもなく素通りすることができた。

パキスタンを出国すると、インドから来た欧米人のサイクリストに出会う。パキスタンを出国して今どの国にも属さない日本人と、インドを出国して今どの国にも属さない欧米人が、国境の緩衝地帯で出会うというグローバルな絵だ。ただ、この時僕はちょうどパキスタンの軍人と「ペンくれ、ペン」「うるせぇ、なんであげなくちゃならんのだ」というやり取りをしていたところだったので、その欧米人(カップルだった。なんで地球を自転車で旅行するサイクリストはカップルが多いんだろう)と話しはじめた瞬間に、そのパキスタンの軍人から「もう、おまえはさっさとインドに入れ」とうるさく言われたので、そのサイクリストと話すことができなかったのが残念。

インド側も今回は税関で何も荷物の中身をチェックされることなく入国できた。「あぁ、インドに戻ってきた・・」なんだか日本に戻ってきた感じさえしてしまう。国境を越えると文字が変わるだけでなく、なんとなく雰囲気も変わる。2ヶ月近くイスラム教国家におったので、女の人がスクーターに乗って走っている絵なんて非常に新鮮だ。往路時に泊まったツーリストゲストハウスに到着。ホテルの部屋までの荷揚げもそんなに辛くないし、今日はバテることなく走れたが、やっぱり下痢は止まらない。とりあえず絶食して治すことにした。

<8.Jan.2004>

Stay Amritsar

さ、今日はゆっくりして下痢を治しにかかろう。午前中はお金のチェック、スターキーレンチを使ってパニアのネジの増し絞め及びほこり取り、スピーカーコードの補強、壊れてしまっていたCDウォークマンのリモコンアタッチメントの補修、食料の再チェックを行う。

午後、ホテルの屋上に自転車を持ってきて、10Rsショップで買ったブラシをふんだんにつかい、自転車のほこり・泥落とし。ピンディで買ったスプレータイプの油を使ってチェーン・スプロケットの泥落とし。キャリア・チェーンリング・ペダル・ボトルゲージ・サドル・ヘッド・エンドバーの増し絞め。ただ、プーリーに水が入ってしまってグリスが無くなってしまったのかキィキィ音がする。また、リアのシャフトを支えている部分(フレームの先端部分)が削れてしまっているせいか、なんとなくリアタイヤがまっすぐ回転していない気がする。そしてリアのハブカセットのベアリングがつぶれてしまっているのか、リアタイヤをまわしているとカチカチ音がする。やはりこれだけの荷物を背負ってあんだけのガタガタ道を走っていれば、新車とはいえもう限界が近いらしい。ボロボロだ。自分が壊れる前に、自転車がそろそろ走れなくなるくらい決定的に壊れそうだ。

1日絶食を決意したが、夕飯にバナナだけ食べる。インドに入るとバナナが大きくてうまい。

<9.Jan.2004 Day-83>

Stay Amritsar

なんとなく下痢に対する考え方が分かってきた気がする。今日からはガンガン飯食って回復させよう。ホテルの前の屋台でパラーターとチャイを飲み、ホテルに戻りバナナを食べる。

2ヶ月前にアムリットサルに来たときに、シーク教の聖地「黄金寺院」(ゴールデンテンプル)へは行ったので、ジャリアーンワーラー庭園というところに歩いて行ってみる。デリーまで分のトラベラーズチェックも両替しなくてはならない。

が、「両替可能」とガイドブックに書いてあるステートバンクオブインディアやジャリアーンワーラー庭園が見つからない。庭園は公園みたいな感じなんだろうと思っていたら、入り口は普通の建物というかビルの入り口みたいな感じになっており、そこに「ジャリアーンワーラー庭園」と書いてあった。ここは、100年前まだインドがイギリスの支配だったとき、インドの民衆が「イギリスはんた〜い」と集会を開いていたら、何百人も殺されてしまった(しかも殺したのはイギリス兵ではなく、ネパール兵であったのが悲劇的であり、この事件からガンジーが歴史に登場してインドが独立するきっかけになった)というところである。ま、今となってはただの公園である。

サイクルリキシャに10Rs払い銀行へ連れてってもらう。だいぶ奥まった分かりづらいところにあり、またチェックを両替するのに1時間近くかかってしまった。チャイを飲んで帰る。パキスタンのチャイは牛乳と紅茶と砂糖で作った「ミルクティ」が多かったのに対し、インドのチャイは牛乳と紅茶と砂糖に「水」と「生姜」などを加えて作った「チャイ」というオリジナルな飲み物であると思う。つまり「薄い」のでインドのチャイは何杯でも飲める。しかもパキスタンではチャイがティーカップに入って出てきて、そのティーカップの皿にあえてチャイをこぼして冷やしてから飲むというスタイルだったが、インドに入るとチャイはグラスに入っておりあっついチャイを飲むんだなぁ。

昼食はフレンドダバというところでチキンエッグフライドライス。これは最高に美味かった。こんなにチャーハンって美味かったっけという感じ。歩いてGPOに行き手紙を送る。(8Rs)チャイをまた飲んでいると、調子のよい青年とお話することになり、インドでの携帯事情を聞いてみた。なんで調子いいかと思ったらウィスキーを持ち歩いているではないか。「一杯どうよ?」と誘われたが、往路時(2ヶ月前!)最後に飲んだカンナというところでビールを飲むことを企んでいたのでお断りした。パキスタンとインドの比較論を進めるわけじゃないが、パキスタンでは「What can I do for you」と言われたのに対し、インドでは「Do you have any problem」と言われたので、インドの方が日本人にとってなじみやすいなぁと思ったりした。

アムリットサルの街はけっこうでかい。高級といわれている「エボニー」というショッピングセンターもある。携帯屋に行って話を聞いてみる。インドのプリペイド式携帯事情は、インドのほぼ各州ごとに(インドはアメリカ合衆国に近い連邦制国家である)オペレーターが存在しているらしい。州が変わるごとにその各州ごとのオペレーターにローミングできるが、たとえばSIMカード(コネクション)と呼ばれる携帯の中に入れる爪の大きさくらいのチップと1,000 Rs分通話できるプリペイドカードを購入した後、その1,000 Rs分のプリペイドーカードを使いきってしまうと、他の州ではそのオペレーターがないので、またプリペイドカードを買ってリチャージするということが難しいらしい。ただ、日本でかつてPHSが1円とかで売られていたように、インドではSIMカードが無料に近いので、SIMカードを買うごとに番号は変わってしまうが、もしプリペイドカードのチャージを使い切ってしまったらまた新たなSIMカードを購入する方法しかないらしい。結局このパンジャーブ州にあるスパイステレコムというオペレーターのSIMカードと1,000Rs分のプリペイドカードを購入した。

ネットカフェに行ってみる。パキスタンに比べ高速だ。パキスタンのひどいところではダウンロードするのに100b/Secくらいだったが、8kb/secくらいでダウンロードできる。スピードが速いせいか、デジタル旅人S氏に作ってもらったFTPサーバーに入ることができた。これで旅行中の写真や動画、この掲示板の記事をワードでコピペしてそのサーバーに保存しておくということができるというわけだ。そしてそのインターネットカフェのパソコンにエクセルが入っていれば、もちろん今回の計画書(すべてエクセル)を開いてみることもできる。なんとすばらしい。特に今回の計画書のプラスアルファとして、IDやメール・住所等が入っているCD-Rを持ち歩いているし、PDA(クリエ)でその計画書を見ることもできる。

先日泊めさせてもらったアビさんに「インドに入りましたよ〜」と電話をする。当たり前だが国境を越えると国際電話になり、一気にコストリィになる。特にアビさんのお母さんが「秋山さんはどうしているかねぇ」と日頃心配しているらしい。

昼食った店に行きまたしてもチキンエッグフライドライスを食って帰る。

<10.Jan.2004 Day-84>

From Amritsar to Julandar 94.6km

朝起きてホテルの向かいにある屋台でパラーターとチャイを食べて出発。大方下痢は治っている。

ちなみに昨晩ネットカフェでちらりと下痢に関するサイト見た。(旅ならではですなぁ)なんとなく、下痢に関する考え方が解ってきた気がする。つまり、1日何十回という細菌性の下痢になったということは、腸の中になんらかの菌がはびこったということだ。よって食べ物が来ても消化して栄養を吸収せず、またその悪い菌をすぐに出そうとして食べ物も出してしまうため体力が落ちる。この時、抗生物質など飲んでも(イスラマで買った抗生物質(アンチバイオティック)をジェラムで飲んでみたがまったく効かなかった)その菌を殺す抗生物質でなければ意味が無いし、もともと殺菌剤なので胃腸自体がやられるし、その菌を殺すことができるいい菌も作れないし、その菌に耐性ができてしまう。基本的にいつも腸にいる菌たちは何をしているかというと、胃を通過してやわらかくなった食べ物の残りを食べて体に栄養を吸収させ、また吸収した残りの食べ物を酸性にさせるので腸内の悪い菌を殺す(繁殖を抑える)わけだ。だから、下痢をしたらむやみに抗生物質を飲むのではなく、ましてや下痢止め何ぞ飲まずに、ビオフェルミン等のいい菌を大量に補給してあげて、ゆっくりしてあげればいい菌が増え、自然と元に戻るものだと考えた。

問題無く走ることができ1本目の休憩。タバコを吸っていたら「ここは寺院だからタバコすっちゃあかんよ」と注意された。どぶ川かと思っていたら聖なるプールだったらしい。2本目も快走し、昼飯にする。パキスタンにいる感覚でチキンを頼んだら189Rsもかかってしまった、一気にチキンが高くなる。なんだかわからんが、このパンジャーブ地方のパンジャビーソングシンガーがレストランにおり「○○町カラオケ大会」に出場したみたいな写真を見せてもらう。

3本目を走り、レストランでチャイを飲んで休憩する。しばしばどのような行程で旅をしているのか聞かれるが、来た道を戻っているということもあり、僕の英語力では説明不能になってきた。そして南下してきたせいか、日差しが強くなり暑い。久々に半袖・短パンというスタイルで走る。気分的にも軽くなった。4本目なんてけっこう充実した走りができた。滝のような下痢して1週間でほぼ全回復しておる。ジャランダーの街に到着。Surendra Plazaというホテル200Rsに決定。すばらしいことにカラーテレビとホットシャワーとバスタオル、それに石鹸が置いてある。

夜飯はフライドライス。よく考えるとチャーハンってツーリング向けだなぁと思う。あまりにもどう旅をしているのか説明不能になってきたので(インド人にパキスタンの都市名を話してもやっぱりわからないんだなぁ)走りながら地図を見ることができるマッパーにガムテを貼り付けそこに「こっからここまで走りました」と書いてみた。

<11.Jan.2004 Day-85>

From Julandar to Kannna 90.6km

今日の目標はカンナという街の近くにある、往路の時宿泊したホテルだ。そこで2ヶ月ぶりのビールを飲むのだ!そのために下痢が治ったんじゃないかという気さえする。とりあえず駐輪場に自転車を預けていたので4Rs払い自転車を取りに行く。

さて、このジュランダーの街に入るときに、パキスタンのあちこちでみた「スタンダードチャーター銀行」をこの街でも発見していた。試しにキャッシングを試してみると1分とかからずお金を手にすることができた。アムリットサルでは1時間かかって両替したというのに。これは使えると思い、10時の開店を待ち、インド内に支店がどこにあるのか聞くと、エクセルに入っている支店の住所データをプリントアウトしてくれた。しかもコーヒーまで出してくれた、この香港の投資銀行はすばらしい。結局ビザカードのホームページで履歴を見たところ、先日パキスタンで何回かキャッシングしたが、10,000Rsキャッシングするのに、最も長いだろうという55日の1回払いで手数料含めて20,063円かかっている。僕はトラベラーズチェックを03年の8月にもうこれ以上円が高くはならないだろうと思って1$=120円で買っているので、レートのよいアメリカンエクスプレス1$=57Rsで計算すると10,000Rs両替するのに21,053円かかることになる。つまり、今後円がドルに対してどうなるかわからんが、1$=120円でチェックを買っている以上(現状1$=106円になっている以上)カードを使った方がお得なわけだ。ちなみに銀行口座にはボーナスの半分含め40万近くは入っていることを、H銀行のテレホンサービスで12月に確認している。

さておき、自転車は快走する。赤い旗をつけ、自転車で旅行しているらしいインド人集団(往路でも見た)をところどころで見かける。昼飯はジャガイモダンゴカレーとチャパティ4枚とチャイとサラダ55Rs。

3本目の休憩をしているとなにやらマッパーに書いた旅程を見ているが、結局英語がわからないらしく、また1から説明する。う〜ん、あんまり意味が無かった。

Kashimir Tourist Lodgeに到着。ここのおっさんは「お、インドパキスタンアフガニスタン!」と覚えていてくれてた。ただ往路時は200Rsで泊まったのに、300Rsになってしまった。「税金が上がってしまって」と言っていたがどんな税金なんだろうか。スタンダートチャーター銀行の住所を手帳に書き写したあと、世界地図を眺める。東京がE135°N35°とすると、カブールはE70°N34°デリーがE77.6°N28.5°、インド最南端となるとE78°N8°なんだなぁとただ感心する。

そして、待ちに待ったビール。ここ数年2ヶ月もお酒を飲まなかったなんてないんじゃなかろうか。そしてここのチキンチリはむっちゃ辛いけど最高に美味い。もともとお酒は強くないが、久しぶりのためえらくビール1本で酔っ払ってしまった。

嗚呼、愛しきキングフィッシャー!

<12.Jan.2004 Day-86>

From Kannna to Ambala 99.9km

こんだけ自転車の旅をしていると自転車に乗ってる夢を見るようになる。とりあえず宿のおやじにオムレツとチャイを頼む。チャイは来たけどオムレツがこない。宿のおやじさんも見当たらないのでとりあえず食パンにピーナッツバターをつけ食べているとやっとオムレツがでてきた。外にはコケコケとニワトリが歩いているが、卵生むまで待ってたんだろう。

カンナの街を走る。結構でかい街だ。ただ、人、バイク、自転車、車が多く混んでおり「基本的にこっちの人は運転がへたくそなんだろうなぁ」と思いながらゆっくり走る。(事実です)すると前にシーク教のターバンを巻いたおじさんがスクーターをひっくり返してワナワナと座り込んでいる。「ほらやっぱり事故ってるよ」と思いその人だかりを通り抜けようとすると、人が死んでいた。詳しい記述は避けたいが、飛び散らかっている自分の下半身に対し、全ての責任を放棄したように青年が穏やかに眠っていた。さすがにショッキングな絵だったので辛い・・。そして急に自転車で走っていることが恐くなり、また休憩することも恐くなる。やっとのことで休憩を取り30分くらいと長めの休憩を取るが全く落着かない。こう気が動転しているときこそ危ない気がして早めの昼飯にする。そしてまたちゃんと昼飯を食べるのはなかなかできないことだ。このような形で冒険をしている以上、「彼」のようになるリスクは常にあるが、それに対して立ち向かわなくてはならない、逃げちゃあかんし、「その絵」くらいのことをやってのけているんだから、と立ち直ることができるまで1時間くらいかかった。

3、4、5本と気分的には立ち直り走ることができたが、やっぱり精神的に疲れた。アンバラの街に到着したが、バスターミナル近くのホテルは宿泊拒否。パキスタンから来た外国人は泊めないそうだ。ホテルはいっぱいあるがすべて高そうな感じ。道行く人から「KAMALホテルが一番安いよ」と聞き、そのホテルに決定する。(250Rs)

「こんな日は・・」と思いながらも無事到着することができほっとする。街をぷらつく。今まであまり注意して見てなかったが、ちゃんと食パンやピーナッツバターやジャムが街にあふれている。これで朝はチャイだけ飲んで食パンを食べて出発という時間のかからないスタイルでいけそうだ。

携帯をみるとパンジャーブ州からハリヤーナ州に入ったため、さっそくESCOTELというオペレーターにローミングしていた。夜飯はフライドライスとヨーグルト。BBCを見つつ「自転車乗る前にチェックすること」「運転中の心得」を思わずノートに書き込む。今回の旅程トータルで170日を2で割ると85。つまりちょうどスパン的に折り返しの日だったわけだ。デリーからラワールピンディ(イスラマバード)と走って来た同じ道で、ラワールピンディからデリーまで戻るのは退屈するんじゃなかろうかと思っていたが、細菌性の下痢とこの事故目撃と毎日が更新されていく。そして、さらに深い、記憶を探すために走る。

<13.Jan.2004 Day-87>

From Ambala to Panipat 117.6km

コーヒーだけ頼み、食パンにピーナッツバターつけて食べ出発。

さくっとアンバラの街を抜ける。往路時はちょうど走り始めだったため、デリーからこのアンバラまで3日かけて来たが、復路時は2日間で行く予定なのでちょっと今日は長丁場だ。休憩していると、赤い旗をつけて自転車で旅行しているインド人の集団と間違えられる。「カシミールプジャ」と彼らのことを言っていたが、やっぱりカシミールまでの巡礼を自転車でやっている集団らしい。

2本目を走り飯にしようと立ち止まるとちょうどたまたま往路時に昼飯を食ったところだった。やっぱりおんなじベジタブルヌードルを食べる。往路時は一皿で満腹だったが、今や一皿で足りず、パンケーキも食べる。

だいぶ走っているときに暑くなってきた。これまでほとんど休憩のときはチャイを飲んでいたが、思わず炭酸のペットボトル入れジュースを買ってしまう。5本目を快走し、休憩していると「長老」に出会う。この爺は僕がマッパーに書いた行程を理解してくれており「パキスタンやアフガニスタンにはテロリストがいると聞くが何かトラブルはあったかね?」とか「そのようなリスクをエンジョイすることが出来るのは何故かね?」とモラルに富んだ会話が出来た。インドにはこういう深い長老がいて嬉しい。1日100kmを越えると結構大変なもんだが、けっこう走れるもんだ。パーニーパットはレインボーゲストハウス250Rsに決定。カラーテレビ+バスタオル+石鹸がついていた。どんなホテルにおいてもサービスが増え、その分値段が上がっている気がする。

ここのホテルの兄さんの叔父さんが日本で働いているとの事。ラージマハルというレストランを経営しているらしく、聞いたこと有りそうな名前だなぁと思い、名刺を見せてもらうと、銀座、六本木、新宿、渋谷店と書いてあった。

外をうろつき、ミックスベジタブル(インドに入ってからこのミックスベジタブル系、つまりどろっとしたカレールーがメインではなく、ジャガイモやにんじんといった野菜がメインでカレー味炒め系になっているものにシフトしている。あまり辛くもなく、食べた気がするのでよい)、ダール、チャパティ4枚、サラダを食べる。街中の小汚いレストランでも60Rsする。

走っているときは常に手ぬぐいを頭に巻いているせいか、ホットシャワーを浴びると髪の毛が抜けまくる。こわいよ〜。

<14.Jan.2004 Day-88>

From Panipat to Delhi 99.3km

外は霧。チャイを頼み、食パン+ピーナッツを食べる。やっぱりBBCは何回見てもわからない。(3ヶ月近く旅行しているのに、さっぱり英語は話せないし聞き取ることができない)

9時半になっても霧は晴れず出発。トラックはライトを点けて走っている。1本目の休憩をとり、「ハーレジ?」と聞かれ、確かヒンドゥ語で外国人っていう意味だったなぁと思い、「イエス」と答えると「PEARL G」というビスケットが出てきた。ヒンドゥ語も話せないし聞き取ることができないんだなぁ。

昼飯にまたミックスベジを食べようとしたが、ミックスはないらしくにんじんのカレー炒めを食す。そして、デリーから出発したときはえらく辛かった気がする道だが、3本目をナンバーガール「渋谷ロックトランスフォーム状態」、4本目を友川かずき「渋谷アピアドキュメント」を聞きながら走っていたときはむちゃ充実した走りが出来た。決して言葉を飾るわけではないが、風を感じて走ることが出来ておる。自転車でただインドを走っているということがただ楽しい。

満身の力を込めて快走。

ただ、デリーの街に入るとごっちゃごちゃで迷ってしまう。おそらくサダルバザールの中に迷い込んでしまったのだと思う。なんとかメインバザールに到着し、結局またしてもANOOP HOTELに決定。欧米人観光客はやはり多いが韓国人の姿も目立つ。欧米人一人に「あんた何者?」という感じで驚かれただけで、大した反響はない。今回はちょうどメインバザールの通りに面した部屋で220Rs。部屋の中で「ハロー、リキシャー」という声が聞こえてくる。

ストレッチして(出発前と後のストレッチはほんとかかしていない)街を歩く。一つ残念なのは、6年前初めてインドに来たときは、デリーの街を歩くことにびくびくしたもんだが、ただちょっと客引きの多い一つの街になってしまっていることだ。

夕飯はVATIKAレストランに行きチャーハンを頼むが焼きそばが出てきた。こういうのもよい。ネットカフェにいく。やはりインドはパキスタンに比べ高速だ。

またアヌープホテルのネットカフェで「CD焼けます」と張り紙があり聞いてみると、同経営のアジャイホテルのネットカフェで焼けるらしい。CD-R1枚にメモステ2枚分をコピーしてもらう。(150Rs)深夜でも欧米人ツーリストが多く街を徘徊している。

 

<15.Jan.2004 Day-89>
Stay Delhi

さ、デリーだ。5日間走りっぱなしだったのでゆっくりしようと思うが寝れない。とりあえず残っていた食パンを食べる。


デリーでは5日間滞在して、様々な用事を済ませようと考えていたので、とりあえずATMで(メインバザールにHDFCバンクのATMコーナーができていた)で5,000Rsをキャッシングする。そして最終的なゴールを「ゴア」から最南端の「カニャークマリ」に変更することを考えていたので、計画を1から練り直すため、計画書の行程表をフォトコピーする。そしてシティバンク郵貯ワールドキャッシュカードをイスラマのシティバンクで試したが、結局使うことができなかったので、とりあえず電話して聞いてみることにした。確認したところ(プータロー相手になかなか丁寧な対応してくれた!)やはりPINコード(暗証番号)を3回以上立て続けに間違えたのでロックがかかっており使えなくなっているとの事。このシティバンク郵貯ワールドキャッシュカードを数年前に作ったとき、さっぱり暗証番号を何にしたか忘れていたので(郵便局口座の暗証番号とこの電話の照会用暗証番号とATMで引き落とすための暗証番号とこのカードを使って国際電話をかけるときの暗証番号4つを設定せなあかんのだが、それぞれをばらばらにしていた)、適当に心当たりのある暗証番号を入れていた。バカな僕は1日に3回まで暗証番号を間違えて入れることができると思っていたけど、累積なんだなぁ。身元確認してから(郵便局の通帳のコピーを持ってきていてよかった)、ロック解除の設定をしてもらった。


そしてアヌープホテルに戻り地図と電卓を持って屋上のレストランへと向かう。結局コーヒーとチャイを飲みながら地図を広げて電卓たたき、途中スパゲッティを食べつつ3時間近くかかって今後のルート及び日程を再計画した。主な変更点は(1)ゴールをゴアから最南端のカニャークマリに変更したこと。(2)1日の走行距離をマキシマム150kmから120kmで再計算したこと。(3)アジャンタ・エローラの観光はムンバイに荷物をおいてそこからバスで行こうと計画していたが、どうも都合が悪いらしいので自転車で立ち寄ることにしたこと(4)その分ゴアでの滞在日数を15日から6日に短縮したこと、である。この計画だとあまり日数に余裕はなく、また自転車もぼろぼろだし下痢などになった場合全く対応できないので、いちおうの目標というか更なるモチベーションアップに過ぎないが・・。いかに冒険的な状態にするか、ということだ。


とりあえずシティバンクカード(ロック)の解除が3時間後と言ってたので、コンノートプレイスに行ってみる。途中バイク屋さんでチェーン用油を分けてもらう。(5Rs)この兄さんはバイクのディーラーをやっているらしく、イタリア製のベスパみたいなスクーターを日本に卸しているらしい。


昨晩ネットでシティバンクの場所は見たが(といってもコンノートプレイスの南の方ってことしか分からないものだった)さっぱり分からない。そしてふと見上げるとエアインディアの本社ビルに「シティバンク」とでかでか看板があるではないか・・。なるほど。そしてまた恐る恐るピンコードをいれると無事郵便貯金からルピーを下ろすことができた!これでもしお金が無くなったとしても、自宅から郵便局にお金を振り込んでもらってお金を下ろすことが出来るわけだ。また、シティバンクカードなら紛失したとしても2,000円かかるが24時間以内に再発行(近くの支店まで送ってもらえる)できるのでこれは安心だ。続いて食パンはどこの雑貨屋にもあることを確認しており、またイスラマバードで買ったピーナッツバターが残り僅かになっていたので、食料品等があるスーパーバザールに行ってみるが分からず。とりあえず夕方になったのでホテルのあるメインバザールへと戻ったが、この間スタンダードチャータード銀行を数店舗見かけた。日本で口座作っておけばここらでお金おろせたんだなぁ。10Rsショップがあったのでライター2つとペン2本と小さなノートがセットになったものを10Rsで買う。(中国すごい)しかしメインバザールには韓国人が多い。何十人とツーリストがメインバザールを歩いているが、半分くらいは韓国人じゃなかろうか。


18時受け取りでランドリーサービスに出していたパタゴニアのフリースとリーバイスのコーデュロイズボンと長袖シャツ1枚の衣類を受け取る。65Rsかかったが、コーデュロイに関しては3ヶ月目にして初めて洗ったわけだ。そしてこれから南下するにあたって使用することのないダウンジャケットや冬用のグローブ、パキスタンやアフガニスタンで使ったダリ語やパシュトゥ語の単語帳など、いらなくなったものをまとめた。これを先に日本で船便で送って荷物の軽量化をはかるのだ。


夕飯に出かける。何故だかせっかく携帯のコネクションを買ったのに国際電話が使えなくなっていたので、メインバザールの道端でSIMカードを売っている兄さんに話を聞いてみる。よく事情は解らんが、ローミングにも種類があるみたいだ。そして旅行代理店の兄さんに「なんで日本人はみんなごぎれいで金持ちなのにそんなきったねぇかっこしてんのよ!」と言われる。うるさい、よけいなお世話である。適当にそこらへんでカレーのカリフラワー炒め+チャバティ4枚+チャイをたしなむ。


そして昨日に続きホテルプリンスなんちゃらというところにあるネットカフェに行き、掲示板の更新にかかる。1時にホテルに戻る前、屋台のオムレツサンドイッチ10Rsを買って帰る。

<16.Jan.2004 Day90>


Stay Delhi

とりあえず送る荷物を持ってGPOに向かう。ただの袋ではこころもとなかったので、お土産屋さんで段ボールを譲ってもらい、ちらりとお土産を購入する。段ボール持って数キロ歩くのも何なのでサイクルリキシャに乗る。が、さっぱり道を解っておらず、結局10Rs払って降り、オートリキシャに乗り換える。GPOに入ったすぐのところに梱包師がいたので梱包をお願いする。さすが職人、くるりと布を巻いて、丁寧にその布を糸で縫い付け、塗った部分がほつれないようにロウソクをたらす。ガイドブックには20Rsと書かれていたが結局縫い代に150Rsもかかり、目の前で梱包師がリキシャドライバーに100Rsを渡しており笑えた。結局8kg分の荷物があり船便で1,250Rsかかったが、この8kg軽くなるってのはでかい。リキシャに50Rs払い(相当彼らは儲かった)、コンノートまで歩いて戻り、スーパーバザールを探す。その途中、昨日JALに電話したら17時半を過ぎており、営業が終了していたので再度電話をする。とりあえず3月4月のスケジュールは確定しており、デリーから成田線は火・木・日のフライトが出ているらしい。また、国際線特典航空券の変更は(空きがあれば)前日17時半まで可能ということを確認した。最南端までいくと電車でデリーに戻るのに車中2晩(3日間)かかるし、ビザの期限が4月8日までなので、もし最南端近くでなんらかのトラブルがあると、ティルバナンタプラム(トリバンドラム)からスリランカのコロンボに飛んで、インドのビザを取ってからという複雑な工程になるので念のため確認したわけだ。


そしてスーパーバザールの場所を聞いて行ってみるが、もぬけの殻になっている模様。5年前スーパーバザールに行ったときも迷った気がするだが、つぶれてしまったのかどうかは不明。適当にそこらへんの立ち食いチキンビルヤーニを食べる。都会のせいか立ち食いのレストランが多い気がする。そして1ヶ月分の単三電池(いつもエネルガイザーです)12本を購入する。(234Rs)ぷらぷら歩きながらコンノートプレイスの輸入雑貨屋でインド製の国産ピーナッツバター210g(44Rs)を2つ購入。


ぷらぷら歩いていると、いつもパリカバザールの辺りにいて愛くるしい「耳かきおじさん」に出会う。「ちょっと耳見せてっ!うわ、ばっちぃ!」と言われ(もちろんインド人だけど、日本語で!)いつのまにか耳掃除されてしまう。結局耳かき後チャイをおごってもらいながら、1時間近く公園の芝生でお話をし、旅行人の掲示板かなんかに10Rsと書いてあった気がするが200Rsも払ってしまった。(ちなみに地球の歩き方には35$ぼられたという記事もある)非常に愛くるしいおじさんで(ムルチャンという名前らしい。それもまた愛くるしい)思わずアフガンの写真を1枚あげてしまった・・。地球の歩き方的なツーリストとしては失格なんだろうが、それはそれでいいんじゃないだろうかと思ってしまう27歳のおやじである。


とりあえずホテルに戻り、シャワーを浴びつつ(ぬるま湯です!)短パンなど含めて洗濯をする。結局フルセット洗濯したら2時間近くかかってしまった。


昨日ちらりとメトロポリタンホテルから西に向かう小道に「モモ」(ぎょうざに似たチベットの料理)がメニューの看板に入っている店を見つけていたので、思わず食べに行ってみた。チキンモモスチームとスープとフライドライスというなんとも贅沢な夕食である。(50Rs)モモはタレが辛かったけどむちゃくちゃ美味かった!ランドリーに出したコーデュロイとシャツを来ていたせいか、昨日「おまえきったねぇなぁ!」と言われた兄さんに「お、どうした!なんでこぎれいなのよ!」と言われる。うるさい、余計なお世話である。


そしてホテルプリンスなんちゃらにあるネットカフェに行く。この日は0時半までかけて、掲示板の更新と、これまで撮った写真と動画をデジタル旅人S氏のサーバーに半分くらい置くことができた。また、昨日練り直した計画(予定)とこれまで何キロ走った等の結果含めた行程表をエクセルで打ち直すことができた。オムレツサンドイッチ食って帰る。

<17.Jan.2004 Day-91>


Stay Delhi

食パンは食い尽くしたので、アヌープホテルの屋上にてフレンチブレックファーストセットを食べる。


ちょうど3,000km走ってこっから3,000km走るというちょうど中間地点なので、今日は気合いを入れて自転車のメンテをする予定。


とりあえず折れてしまった(ほんとなんでだろう)ボトルゲージを針金使って修復する。そして今や原形のないトゥクリップ(デリー入城の際、あまりにも道が込んでいたのでラン&ストップを繰り返しているうち、トゥクリップを踏んづけてコナゴナにしてしまっていた)を修復する。クリップをつけているM2.5の小さいボルトを接着剤までつけて固定をしていたせいか、結局1時間くらいかけてもボルトは外れず。結局ラワルピンディで買った太目の針金2本とひも1本だけでできている自家製トゥクリップになってしまった。


14時になってしまったので昼飯を食いに行く。「きったねぇなぁ。おまえ!」といわれた旅行代理店の兄さんに「今ちょうど日本人いるから呼んでくるよ」と言われる。なんと彼女は1月からデリー(サウスエクステンションの近く)に住みこみ、ヒンドゥー語学校に通っているらしい。「お金が続くまでデリーにいようかと思うけど、旅行とかいっちゃうとお金かかるしね・・。」と、えらくうらやましい生活を送っておる!旅行代理店の兄さんから「その髪型はなしだよ、髪きった方がいいよ」と言われ、うるさい、余計なお世話だとつぶやくと、彼女が「ヒー セズ シャラップ!」と訳してくれた。昨日の店に行き、チキンスチームモモとチキンチョウメンを食べる。ここはチャーハンよりチョウメン(焼きそば)の方が美味い。


自転車の汚れを取るためブラッシングする。泥などの汚れが錆や緩みの原因と考えているので、スポークのハブ側とニップル側もちゃんとブラッシングしているのだが、見てみたら「リアタイヤ」の「右側」(スプロケットの反対側)の「ハブ側先端」が折れている。つまりスポークが1本取れてぶらぶらしているのを発見した!発見した!というよりも発見してしまった!これは致命的だ!!ラホールでメンテしたときは後輪がパンクしていたし、アムリットサルでメンテしたときは、なんとなく後輪の回りが悪かった気はしていたが、以前から折れたままになっていたんだろうか。どこかにぶつけて折った記憶は無いし、やはりあんだけの荷物背負って悪路を走ったのが相当こたえたのかもしれない。


自転車の前輪及び後輪はタイヤとタイヤについているリム(枠)だけで成り立っているわけではなく、真ん中のハブシャフトから左右に出ているスポークが支えているからこそ成り立っている。そしてそのハブから左右に2本出ているスポークがハブシャフト(軸側。内側)とリム(タイヤ側。外側)を引っ張る微妙かつ強力なテンションによって成り立っており、そのテンションを調整するのは職人で無ければ(相当いじくっている人でなければ)難しい。とにかく、スポークの予備は持ってきていたので、折れてしまったスポークと交換しようと思ったが、思い出した!そういや唯一専用工具を持っていないと交換できない後輪の左側(反スプロケット側)が折れている。つまり、スポークを交換するためにはスプロケット(ギアのお皿がついている部分)を専用工具を使って外さなければ交換できないのだ。スプロケット外しは僕の実家においてある。


これは完全に困った。リアの荷物だけでも30kgはあるだろうし、1本だけでもスポークが折れていれば(スポークによるテンションが1本でもかかっていなければ)、あっというまにスポーク全体のバランスが崩れてしまうので、へたすりゃリムが曲がってしまったり、スポークがチューブ側に刺さってしまいパンクしてしまったり、ハブシャフトやリアエンドといった肝心要の部分に均一でない力が加わってしまい変形・破損したりという影響がでるためもう走行不能だ。自転車冒険ジ・エンド。


ただ、ここまで職人級に針金を駆使してやってきている実績を踏まえ、ハブ側は針金で完全に固定し、また隣のスポークに絡めてさらに固定してから、ニップル回しを使ってテンションを調整した。最初は振れていたが(後輪を回転させてもまっすぐに回転しない。びみょ〜にスポークが折れている部分だけ(スポークによって引っ張られていない部分だけ)が外側に回転しようとする)、素人ながら微妙な調整をしたら、なんとか振れずに後輪が回るようになった。なんとかの応急処置だがこれしか方法が無い。荷物背負って走ったらまたあっというまに振れてしまい調整が必要だが、これでだましだまし走るしかない。ただ、最南端までの3,000kmは遥かに遠くなり、500km走れるかどうかも微妙になった。


その他チェーン関係のオイリングをし、各ボルト部分の増し絞め、キャリアを針金使って更なる補強、ヘッドの増し絞めを行い、すべて終了したのが20時。距離はたいして走っていないが、悪路を走るとなるとやっぱり自転車をいじくる技術が必要のようだ。今までチャリンコはそう簡単に壊れないもの、いじくる必要の無い「けっこう強い子」だと思っていたが・・。


夜はミックスベジタブルにチャパティ4枚にチャイ。掲示板の更新をしつつ、サーバーにすべての写真と動画を置くことができた。夜1時オムレツサンドイッチを食って帰るのが定説になってきた。この時間でもメインバザールには欧米人ツーリストが多く歩いている。


どうしよう、スポーク。

<18.Jan.2003 Day92>
Stay Delhi

2時3時まで仕事して(仕事っちゅうかなんちゅうか)寝る日が続いており、9時半に目覚める。さっさとアヌープの屋上でフレンチブレックファーストを食べ、なかなか進まない掲示板の更新をしよう。


結局11時半から始めて終了したのが20時。ただ、これまで走った結果と今後の予定に関してはエクセルで作り直し、サーバーに置き、自分のメールに添付ファイルを送った。また、これまでの掲示板の内容はワードにコピーしてサーバーに置き、自分のメールに添付ファイルを送った。しかもフォントサイズ「10」で「50枚!」になっている・・。これまで、遅いとその都度ダウンロードするのに3時間近くかかったり、途中で回線が切れてしまったり、停電になったり、ダウンロードしてメモリースティックに落としてそれをCD-Rに焼いたけどファイルが壊れてたりと苦労していた日本語読み書きソフト「JAMONDO」だが、やっとCD-Rにコピーしたファイルでインストールできるようになった。また、分割・復元ソフトを10個くらいダウンロードして使ってみたが、海外で使うとどれもポップアップウィンドゥが文字化けしてしまい使えなかったが、やっと使えるものをダウンロードすることができ、かつ「.batファイル」をダブルクリックするだけで4枚のフロッピーディスクに分けたソフトを一発で復元できることを確認した。これで毎回インターネットカフェで5MBのファイルをダウンロードして日本語を読み書きできるようにしてから掲示板の更新をするという手間が省けるようになったわけだ!また、これまでの(アフガニスタンで1枚メモリースティックを紛失しているのでそれ以前のデータはないが・・)写真と動画に関しては、CD-Rに焼いて1枚を船便の荷物の中に入れて送り、1枚を自分で持ち歩くようにした。また残りの1枚のメモリースティックにコピーをすべて保存し、首からかけている貴重品入れに入れるようにした。また、すべての写真と動画をデジタル旅人S氏作成のサーバーにコピーを置くことが終了した。決して写真と動画を撮りに来たわけじゃないが、撮った写真と動画を無くすということはむちゃくちゃ悔しいのだ・・。やりすぎかもしれないけど(CD-Rを何度も焼いたりこのネットカフェに何時間いるのかわからんし、何百ルピー払ったかわからんが・・)ここまでやれば、もしすべてのデータを紛失したとしても、悔しい思いはしないと思う・・。


昼飯も食わずにやってたので腹が減った。(ただ、このネットカフェはタバコ吸えるし、コーヒー、紅茶は頼めば持ってきてくれるし、トイレは使えるしで快適だった。ここの兄さんは非常にサービスもよかった。日本語で「〜です。」にあたる「〜ヘイ。」という言葉を普通のインド人は使わないが、この兄さんは多用していたので、サービスを知っている青年だと判断する)フライドライスとモモを食べる。いんちき旅行ライター調だが、看板に店の名がないこの店を「モモ屋」と呼ぶことにした。10Rsショップでたわしと油を入れる容器を購入。携帯屋にいってみると、「HUTCH」というオペレーターで、ちゃんと僕が通るルートをローミングしているインド地図が書いてあるポスターがあった。(僕が通らない東インドに関しては別のローミング形態になっていた)店のおやじに聞くとこの「HUTCH」ならデリーから南下してムンバイ等の街に移動しても、国際電話は使えるとのこと。SIMカード300Rs(定価、コンノートでは100Rsとか50Rsとかでたたき売りしていた気がするが・・)と500Rs分のプリペイドカードを購入し、その場で日本にかけてみたら、ちゃんとかけることができた。


ホテルに戻るとフロントの側でおしゃべりしていた日本人3人と遭遇。朝というか昼ホテルを出る際、ちょうど女の子2人組みがフロントのおっさん(このおっさんはしっかりしていていいおやじだ。2日前に、1泊分の宿泊費しか払っていなかったので「たぶん5泊はするんで先に払った方がええっすか?」と聞いたら「サムライとゲイシャはアドバンス払わなくてもノープロブレムだ!」と陽気に回答した)と値段の交渉をしていたところで「僕は今シングル220Rsの部屋に泊まってますよ。まぁ問題無いホテルなんじゃないですかねぇ」と話した彼女らだ。


お話をする。1人の兄さんは中国から入ってタイ、カンボジア、ネパール、インドと4ヶ月くらい旅をし、4日後日本へ帰ってしまうらしい。僕もけっこう今回は頑張って写真を撮っていると思うのだが、彼はアナログカメラで1,000枚くらいは写真を撮っていると聞いて驚いた。女の子2人組みはインド初めてで、旅をスタートさせたばかり。この女の子1人とホテルのおっさんら4人で12時くらいまでお話する。そういや僕はイスラマでアフガンのビザ取るとき領事館であった日本人としゃべって以来、11月から全く日本人と会ってなかった。彼女は半年間インドネシアで日本語教師をやって日本に帰ったとき、日本語がたどたどしかったと言っていたが、僕もそうなりそうな感じがする・・。


なにより、インド3回目でデリーは通算20日間以上おり、新鮮味に欠け取る僕にとって、インド2日目の彼女は「インド人がただ面白い!」と感じており、その新鮮な感覚が伝わってきてよかった。また、その感覚があれば、インドを楽しめるじゃなかろうかと思う。Have a good journey!

<19.Jan.2004 Day-93>
Stay Delhi

だいぶ用事も済ませることができた。首都デリー滞在最終日、ラストスパートだ。

明日から走り始めることにしていたので、アヌープの屋上でセットブレックファーストを食べ、デリー滞在中にやらなくちゃいけないこと、忘れていることがないかどうかチェックする。昨晩あった女性二人組みもちょうど朝食に来ていたが、このレストランに住み着いている猫にえらく気に入られておった。

とりあえずアジャイゲストハウスのネットカフェに行き、計画書をプリントアウト(10Rs/枚)する。そのままコンノートへと歩き、明日からのためにビスケット等を購入。計画外のルート部分の地図をカラーコピーする。(A3、50Rs/枚)スタンダードチャータード銀行に行き、アーメダバードまで分のルピーをキャッシング。CDを買うためパリカバザールに行く。いんちきくさいMP3のCD-ROMを買ってみた。(80Rs/枚。もっと安くはなると思う)リンキンパークとヒンドゥーポップが1枚のCDに200曲くらい入っているらしい。また、OFFICE2003やフロントページ等各種違法コピーがあったが(サーバーにインターネットページをアップロードするという野望がある)止めといた。たしか僕の持っているCDウォークマンでMP3も聞けるはずだが、聞けなかったらショックなのでCDをさらに購入。パンジャビーMCが欲しかったが探しても見つけることが出来ず、その代わりにお気に入りのカーシュカーレイ(今回アルバムを2枚もってきている。在米インド人2世)のニューアルバムが出ていたので買ってみた。また、ヌスラットファティアリハーンのJOIリミックスなどが入ったコンピがあったので買ってみた。(300Rs/枚)そこらへんでエアログラムを買い、スタービーンズカフェでエスプレッソを飲みながら(これはコーヒー牛乳ではなく、本物のコーヒーです!)(25Rs)計画書と地図を折り畳み、親宛てにちょこっと一言&住所を書く。そのまま郵便局に行きエアログラムを送る。(計45?Rs/通)5年前にきたときも使ったセリフだが、おそらく渋谷よりはデリーの方がわかる。少なくとも地図はまったく必要としない。


ホテルに戻る途中、「アー ユー コーリアン?」と間違えられる。彼はメインバザールが分からず2時間近くをうろうろしていたらしく、汗びっしょりだ。今日の18時の電車でバラナシへ行くらしいが、一緒に行く韓国人を探したいらしい。とりあえず、メインバザールまで一緒に行くことにしたが、韓国人とは残念ながら遭遇せず、韓国人が溜まっているだろうゴールデンカフェに行く。ファイナルファンタジーを1〜10までやったというこのリム君は片言の日本語とカタカナを読めた。インドは初めてでこれからバラナシに行ってからアーグラに立ち寄り、ラージャスタンの方を回ってからデリーに戻る12日間の旅程らしい。結局ゴールデンカフェに韓国人一人もおらず、店を出ることにしたが、「いいよ俺払うよ」「いいって、そんなぁ」と儒教徒らしい押し問答をしつつ、結局フライドライス代をおごってもらってしまった・・。とりあえずすることがないリム君は、僕の部屋を見てからどっかぷらつくということだったので、(彼は韓国軍に徴兵したのではなく、米国駐在軍に徴兵していたらしく、問題の無い英語を話していた。アメリカ軍の方が金がいいらしい)ホテルに戻ると廊下にたまたま韓国人がおり、デジカメを首からぶらさげて劇写しまくっている彼は、僕の部屋を写真に収めから、その韓国人さん達と合流した。


ラストスパート。ペシャワールからまったく髪を切っていなかったので散髪。(25Rs)旅行代理店の兄さんから「よっしゃ。かっちょいいじゃん」と喜ばれる。HUTCHの500Rsのプリペイドカードは30日間の期限であり、デリーを出るともう購入できないので、プリペイドカード1,000 Rs分を購入する。1,000 Rs分だと2ヶ月の有効期限なので、2月4日以降にリモートチャージングすれば、帰国までこの携帯の番号を使えるわけだ。さらにクッキーと水と食パンを購入してホテルに戻る。さらに、太目のガムテープサイズのセロテープ15Rsを購入した後、アジャイのネットカフェに行き、この掲示板のアドレスをエクセルで打ちプリントアウトする。


最終パッキング。パニアをブラシ使ってホコリをとり、スターキーレンチを使って増し絞めを行う。また、荷物を送ったのでだいぶカサもへり、左右の荷重のバランスも変わったので、再度左右の荷物の重さが同じになるようパッキングする。ダウンジャケット等冬季冒険用衣類を送りカサの減った部分にタイヤを入れ込む。やはりタイヤをくにゃくにゃにまげることができるケブラービート製のものを買っておけばよかったと思う。


どうでもよいが、この掲示板のアドレスを多少かっこつけてカラープリントアウトしたものを、自転車のフレームにさっき買った太目のセロテープで貼り付ける。が、アドレスが長いせいかかっこつかない・・。「○○.com」とかならかっこつくんだろうけど。
これでほぼデリー滞在中にしなくちゃいけないことはだいたい片づけた。ふ〜。昨日日本人と話しているときも「ネットカフェに8時間もいたんですか?!」と聞かれたが、やっぱりこんな生活を送っているツーリストってのは(サイクリスト含めて)あんまりいないだろうなぁ。やっと5日目で一息つくことができたがもう20時である。
自分用に計画書をコピーし、最後の夕飯モモ+チキンフライドライスを「モモ屋」で食べる。と、ちょうど停電してしまい、ろうそくつけて食べる。隣りにいた欧米人は「いいじゃない、ろうそくつけて中華を食べるなんて素敵じゃな〜い」と満足していたが・・。


メトロポリタンホテルの前でチャイ飲んでパキスタンのアビさんに電話をする。「メール送っても帰ってきちゃうんだけど?」と聞くが本人も解らず。「ヤフードットコムがだめならホットメールドットコムで送って見てよ」との事。「というか、毎日あきやまさんどこにいるんだろうとか家族で話しているよ」と言われた。「また電話ちょうだいね。じゃ〜ね〜」とインドにいながらパキスタン人に言われるのもおつなである。


ネットカフェにいく。このデリー滞在中の掲示板を書き込むことにした。
どこまでいけるかまったくわからず楽しみだ。