2、伊勢 新九郎の伊豆侵攻

 狩野道一の不安は日増しに膨らんだ。彼にとって韮山以北の安定は不可欠だからである。茶々丸とやらがとんでもないことをしでかしてくれた。
 富士の麓の沼津には伊勢新九郎長氏(後世北条早雲と呼ばれた豪傑)が興国寺城を構えている。周辺の湿地にはかきつばたが繁茂していて花の咲く頃にはよい眺めである。時の人からは「かきつばた城」とも呼ばれた。
 彼はただ者ではなかろう。狩野はその動きが気になってはいた。茶々丸など形式だけは伊豆公方を名乗っていても権勢など実質的には無いに等しい。もはや伊豆は権力の空白地帯となった。
 狩野は密使を送り伊勢新九郎の動きを探らせもした。しかし伊勢は伊豆へ来るときにはたいてい修善寺の湯につかりにのんびり側近数名と忍びで来るだけのようである。ものものしい行列はつくらない。
 しかし伊勢ほどの男がただボケーッと温泉につかっているはずはない。伊勢は修善寺を表向きはのんびり旅をしていると見せながらも実は地理を掴み、内密に情勢を聞きだし着々と地元の情報提供協力者を増やしていたのである。伊勢は「情報戦」を重視した。

 修善寺以南は山も険しい。川の流れも速くなる。山の向こうには狩野一族が勢力を張っているという。伊勢にとって狩野氏はいかにも邪魔である。
 伊勢の目標は関東を制覇することである。まずは小田原制圧でありそのためには伊豆半島のあちこちの港に水軍拠点を設けることが必要と考えていた。三浦の水軍もいずれは降さねばならない。関東を名実共に支配するには海岸地域も抑えなくてはならない。よって伊豆全域を支配下におさめておきたい。伊豆のど真ん中の狩野は足利とは同盟関係にあるようだから伊勢はその分断を謀ろうとしていた。
 山の険しい狩野の地に攻め入るには獣の道、近道など含め相当地理に詳しくなければ戦いに不利となる。地元の人の情報を基に山の起伏の形状、沢や川の流れ方、方角の掴み方、人里の位置、敵の居場所など彼は密かに図面を作っていた。当然、韮山の地理も調べあげていた。韮山は狩野の地に比べれば地形は複雑ではないから容易に図面はひけていた。が、
 その前に伊勢には一仕事やらねばならないことがあった。今がチャンスである。彼にとっては丁度よく名目はある。親殺しの新堀越公方をいや、韮山の足利を滅ぼすことである。そしてそれを機に韮山あたりまでの平野部を支配下におさめておく必要がある。先人頼朝もそうであった。まず、韮山を本拠地として固めるのだ。

 1493年7月、沼津の興国寺城に陣取っていた伊勢は以前彼が仕えていた今川より兵五百を援助され韮山の堀越御所を急襲した。親殺しとはいえ茶々丸は京の将軍の甥である。いくら政治的には無能でも将軍の近縁の者を幕府の許可なしに攻撃するのだから本来なら伊勢は反乱軍ということになる。しかし幕府が伊勢に何の干渉もできなかったのであるからすでに東国は幕府の掌握するところではなかったといえる。
 その時御所は政知の三回忌の法要の最中であった。法事には大勢参列ができていた。そこを伊勢の精鋭部隊が急襲したのである。御所はたちまちパニックになった。伊勢は命令した。
「足利の者は全て討て。しかし客には手出しするな。首尾よく逃がすのだ。」
 無防備なところをつかれた足利側はなすすべなく次々と斬り伏せられていった。さすがに武士とはいえ法事にまで完全武装して出ている訳ではない。 
 また、参列した客たちは一応足利に従っていたのではあるがさてどうしたものか。政知亡き後、もはや足利に実権はなく公方など名ばかりである。まして茶々丸ごときに命懸けで加勢しようなどというお人好しはいない。法事に参列したとはいってもあくまでも形式的、儀礼的なものであって忠誠を本気で茶々丸に誓っていた者はなかった。
 客たちは一斉に逃げだした。伊勢軍も彼等客には手を出さず、「さあさあ」と追い払っているだけである。
 足利家の家臣は家を守ろうと屋内に立て籠り必死で防戦した。客が全て避難し終えたころ、どこからか火の手があがった。どちら側が放った火かはわからない。
 茶々丸は追い詰められた。しかし、忠臣関戸吉信播磨の守は何としてでも主君足利の血を絶やしてはなるまいと、敵と火の迫る中、咄嗟に策を考えた。勿論茶々丸個人に対する尊敬の念から出た忠誠心ではない。彼は主君を身を挺して御守りするのが戦国武将の宿命だと心得ている旧いタイプの武将である。もう当時は下剋上の時代であって、場合によっては家臣が主君を裏切り、チャンスとばかりのしあがることもあったのである。それほど社会秩序、治安は乱れていた。
 しかし関戸は純粋なる忠臣であった。彼はここで自分が討ち死にする訳にはいかないと思った。なぜなら主君茶々丸を無事逃がすまでは自分は死ねない。何と彼は我が息子を身代わりにすることを考えた。年の頃も二十歳前で茶々丸とほぼ同年代、姿もちょっと見たところは似ている。関戸の息子も立派に決意していた。彼も父ゆずりのきまじめな性格の忠臣である。茶々丸は人格的には何の尊敬にも値しない主君ではあるが一応主君は主君である。はなはだ無念ではあるが、戦えどいずれ討ち死にする身でもある。もうこのいくさに勝ち目はない。彼はみずから
「我こそは足利公方なり。我が首を討て。」
と北条の軍勢の前にためらわずに進み出、潔く自刃した。対してその場にいあわせたのは今川から派遣された兵であった。彼等はその首をとったが茶々丸の人相を直接見たことはなかったのでてっきり足利茶々丸の首をとったかと思い込んだ。
 火が屋敷を包みはじめていた。煙りが立ちこめ眼を開いていられない。伊勢軍は勝鬨をあげ屋敷より表へ引き上げた。
 そのすきに地下に掘ってあった、秘密の抜け穴から関戸は茶々丸を連れて逃げ出していたのである。
 伊勢の軍勢は茶々丸の首と信じそれを大将伊勢新九郎の前に差し出した。伊勢は茶々丸の人相をあらかじめ知っていたから、その首を見て唖然とした。当然御褒めの言葉にあずかると思っていた兵たちも大将の険しい表情にドキッとした。
「おお、これは違うではないか。身代わりじゃ。きゃつめ、謀りおった。」
焼け落ちゆく屋敷内にはもう生存者はいるまい。怒りに震えながら伊勢は命じた。日頃は知的で冷静な伊勢新九郎であるがこの時は激情を抑えきれなかった。
「草の根を分けても茶々丸をさがしだせい。」
 屋敷の周辺の草むらや茂みはことごとく焼払われ、追討部隊はさらに捜索範囲を拡大した。やがて焼け落ちた屋敷後から抜け穴がポッカリ開いているのが見つかった。万一の非常時に備え掘ってあった穴である。それをたどってみると、屋敷の南にある守山の麓に通じていた。部隊は山狩りを始めた。大した山ではないので数百人の部隊で探せばしらみつぶしにできるが茶々丸は一向に見つからなかった。さらにその南麓には願成就院という落ち着いたたたずまいの寺がある。状況から察するにどうやらこの寺に逃げ込んだとしか考えられない。
 源氏、および鎌倉執権であった本当の元祖北条ゆかりの名刹である。伊勢は北条家筋の女を四十歳過ぎてから娶っており、ネームヴァリューのある北条家と姻戚関係を主張し関東支配に打って出ようと画策している男である。名もない出自の伊勢にとって北条ブランドが是非とも欲しいところであった。だからこの由緒ある寺に伊勢といえどもいきなり攻め込むことはできない。しかも、彼は神仏を厚く信仰していると公言してもいる。家臣にもそのように訓じてきている。
 伊勢は住職にもし茶々丸を匿っているなら出すように要求した。しかし寺の僧はその様な者はここにはいないと断わった。どこの馬の骨ともわからぬ伊勢なる他所者に曲がりなりにも将軍家の血筋をひく堀越公方をおいそれと差し出す訳にはゆかない。聖なる寺に荒くれた侍が入ってくることだけでも住職は気に入らない。
 実は茶々丸と関戸はそこに匿われていたのである。一方中では寺の僧たちが追手が嗅ぎつけてきたことを茶々丸たちに告げ、早く逃げるよう手引きした。さらに、大切な秘仏をはなれの蔵の地下の倉庫に隠した。秘仏とは、木彫りの阿弥陀如来像、不動明王像、二童児像など数点である。武士にとって主君が命を賭して守るべき対象なら、僧侶にとって自分の命を賭けて守らなければならないのが仏の像や経典である。
 一方寺の門前では住職と伊勢たち軍勢の間で押し問答が繰り返されていた。業を煮やし苛立っていた伊勢たちは武力行使をほのめかした。しかし住職はがんとして断わり続けた。その間に茶々丸たち僧の衣装に身をくるみ逃げのびていたのである。
 ついに伊勢は寺を包囲するよう命じた。魔がさしたとでもいうのであろうか。それでも寺が茶々丸の差し出しに応じないので、踏み込めと命じた。武力行使である。ただし、寺の僧や仏像を損なってはならないと伊勢は命じたつもりではあったが、苛立っていた兵どもにはブレーキが効くはずもない。たちまちどこからか火の手が上がった。僧たちは手に手に残っていた仏具、仏像、経典を持ち寺から逃げ出した。
 血眼になって伊勢は寺の中を探したが茶々丸の姿はなかった。
 結局そこには焼け焦げた寺の残骸が無惨な姿をさらしていただけであった。

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