【諭吉】を訪ねる(1)

1 諭吉翁との出会い
    平成12年4月、愛知県立豊橋商業高等学校に着任してしばらく経った頃、ある
   先生から福沢諭吉訳の「帳合之法」原本全四巻が学校にあるということを聞かさ
   れた。この本が日本で初めて複式簿記を紹介した本であるということは簿記教育
   を志した者として知っていたが、まさか自分が勤めることになった学校が所有して
   いるとは思いもよらぬ事であった。簿記史上貴重な本を目の当たりにして少なか
   らぬ興奮を覚えた。それから5年、「学問のすすめ」や「福翁自伝」その他福沢諭
   吉の関係書物を読むにつれ、彼の考え方や人柄に共感を覚えた。そして、平成
   16年の夏、私が定年退職を迎えるのを機会に、「帳合之法」の凡例を現代意訳し
   てまとめてみた。140年経った現在でも十分に通用する、実学を重んじる教育観
   にふれ、商業教育に携わってきた者として勇気と自信をもらった思いであった。


        
   豊橋商業高校所有の「帳合之法」全四巻と第1巻1,2ページ目
   《豊橋市立商業学校図書館》の印と発行は明治9年とある。
   「帳合之法」初編一・二巻は明治6年、二編三・四巻は明治7年に出版された。

       「帳合之法」全四巻現代語訳刊行(平成21年10月18日)(クリック・オン)

2 【諭吉】関連書籍(クリック・オン)

3 慶応義塾大学訪問

旧図書館前に鎮座している諭吉翁


 4 慶應義塾発祥の地を訪ねる
    1858年、緒方塾の塾長であった諭吉は藩命により江戸に出て、築地鉄砲洲の奥平家中屋敷内の
   長屋を借りて蘭学塾を開く。これが慶應義塾の起源である。
     
   【現在の東京都中央区明石町、聖路加国際病院前の三角公園の一角にある記念碑・創立100年で建てられた】

   『さて私が江戸に参って鉄砲洲の奥平中屋敷に住まっているという中に、藩中の子弟が三人五人ずつ学びに来るようになり、
   また他から五、六人も来るものが出来たので、その子弟に教授していたが、前にも言う通り大坂の書生は修業するために江
   戸に行くのではない、行けば教えに行くのだというおのずから自負心があった。』(「福翁自伝」岩波文庫P97)



  日本が西洋列国に追いつくためには複式簿記が必要であることを主張し、
 諭吉は義塾でその教育を始めた。それから12〜3年後の明治13年には東
 京の私立学校のリストには26校の簿記を教える学校があった。更に、明治
 23年のリストを見れば『明治13年のリストと比べてみると、学校の数は約2
 倍になっており、名称に「簿記」という字を含む学校は、5校から23校に増加
 している。』(「日本簿記史談」西川孝治郎著同文館P389)
  慶應義塾発祥の地から南西に10分も歩けば東京の台所、中央卸売市場が
 ある。そのすぐ側の勝鬨橋の袂には《海軍経理学校之碑》があった。ウィキペ
 デイアによれば、「海軍経理学校」は『1874年(明治7年)に海軍会計学舎と
 して創設され、第二次世界終結後、日本海軍が解体されるまで置かれた海軍
 主計科要員養成校で、海軍三校の一つ。卒業後は主計少尉(学士入学者は
 中尉)に任官され、武器、弾薬、食糧補給や予算編成を担当した。主な卒業
 生には中曽根康弘(元内閣総理大臣)、松野頼三(元衆議院議員)、正力亨
 (元読売新聞社主)神山繁(俳優)』など錚々たるメンバーである。



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  『鉄砲洲の塾を芝の新銭座に移したのは明治元年即ち慶應四年、明治改元の前でありしゆえ、
 塾の名を時の年号に取って慶応義塾と名づけ、一時散じた生徒も次第に帰来して塾は次第に盛ん
 になる。・・・・教授も矢張り人間の仕事だ、人間が人間の仕事をして金を取るに何の不都合がある、
 構うことはないから公然価(あたい)をきめて取るが良いというので、授業料という名を作って、生徒
 一人から毎月金二分ずつ取り立て、その生徒には塾中の先進生が教えることにしました。』
 (「福翁自伝」岩波文庫P201)

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塾の『新銭座跡』は現在のJR浜松町駅北に位置する.
地名として「新銭座」は残っていない。
工事現場の一角にぽつんと碑があった。
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碑には「一日なりとも講義を休むことはなかった」とし、
上野の戦争中も
ウェーランドの経済書の講義をしたことを記している

 明治元年5月15日、上野彰義隊の戦いの砲火の中、ウェーランドの経済書の講義をしたことは有名であるが、その時のことを
『上野の戦争』として「福翁自伝」に書いているので掲載しておく。
『新銭座の塾は兵火のために焼けもせず、教場もどうやらこうやら整理したが、世間はなかなか喧しい。明治元年の五月、上野に
大戦争が始まって、その前後は江戸市中の芝居も寄席も見世物も料理茶屋も休んでしまって、八百八町は真の闇、何が何やら
わからないほどの混乱なれども、私はその戦争の日も塾の課業を罷めない。上野ではどんどん鉄砲を打っている、けれども上野と
新銭座とは二里も離れていて、鉄砲玉の飛んで来る気遣いはないというので、丁度あの時私は英書で経済の講釈をしていました。
・・・・・「世の中に如何なる騒動があっても変乱があっても未だかつて洋学の命脈を断やしたことはないぞよ、慶応義塾は一日も
休業したことはない。この塾のあらん限り大日本は世界の文明国である。世間に頓着するな」と申して、大勢の少年を励ましたこと
があります。』(「福翁自伝」岩波文庫P202〜203)


 5 大阪《適塾》を訪ねるー2009・11・16ー

大都会大阪の中心、今はビルの谷間にひっそりと立つ《適塾》 適塾に隣接する公園で鎮座する《緒方洪庵》像
諭吉は、適塾で塾生として、塾頭として充実した青年期を過ごした。諭吉翁の資料も沢山公開されていたが、
写真は写すことができないため、我が眼にしっかり焼き付けてきた。

 6 諭吉の墓を訪ねるー2010・06・02−

善福寺:樹齢750年の大イチョウの下、親鸞聖人に見守られて眠る諭吉翁。(墓内写真撮影禁止とあった)


7 諭吉の故郷、中津を訪ねるー2010.11.14−

 

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