梅橋


ではここで旧東海道を離れ南に向かいます。
曽我地区を南北に分けるように逆川が流れています。この川は掛川市の東にある粟が岳を源流とし曽我地区の西端で原野谷川に合流するのですが上流の雨がこの地区に集中するためよく洪水がおきたものです。(現在では河床を下げる工事の結果滅多に洪水は起こりません)


昔は木橋が多く増水すると流失することが度々で、地区の人は生活への影響を受けたのです。梅橋は昭和3年竣工の鉄筋コンクリート製「永久橋」(雨が降れば流されていた事に対し)ですが河川改修も含め10年の歳月を要した大工事だったようです。この事業費を獲得するため当時の村長さんは県庁に出向いて請願の際、出されたお茶を急須から注ぎ続けテーブルをびしょ濡れにした後「これが曽我地区の現状である」と言い放ち県の人を驚かせたということを古老の人が教えてくれました。

梅橋

この事業には地元の人も資金を拠出(報徳の部屋で紹介した推譲)しまさに官民一体となった事業だったようです。写真の向かって左には梅橋記念碑があり、この下部四面には次の碑文に記されたとおり推譲者の名を刻んだ銅板が嵌め込んであったのですが戦後盗人の手により持ち去られた事は残念でたまりません。

梅橋記念碑文をご紹介します
正五位勲四等辰馬鎌蔵題字
昭和三年九月梅橋改築工事竣工ス抑太田川ノ支流逆川ノ未ダ改修セラレザルヤ氾濫シバシバ(漢字が見当たらない)臻リ濁流沿岸ヲ襲イ耕地民屋其ノ害ヲ被ルコト甚タシク交通為ニ開ケズ産業従ッテ振ルハザルヤ久シ政府當局地方住民ノ衷情ヲ容レ大正八年三月之ガ改修事業ニ着手シ爾来拾年将ニ其ノ工ヲ竣ヘントス多年ノ宿望爰(ここ)ニ達成セラレ地方民庶ノ幸福其レ幾何ゾヤ寔(まこと)ニ空前ノ盛事ト謂フ可シ是ニ於テ乎此ノ工事ヲ永遠ニ記念シ且ツ交通運輸ノ利便ト両岸民心ノ和親融合トニ資セントシ沿岸地方進ンデ梅橋ノ改築ヲ議決シ地元住民協心戮(りく)力浄財ヲ醵出シ遂ニ鐡筋混凝土(鉄筋コンクリート)ノ堅牢壮美ナル橋梁ノ架設ヲ完成セリ惟フニ自今地方文化ノ向上ト産業ノ發展トハ更ニ期シテ待ツベキナリ茲に有志胥謀リ地ヲ相シ碑ヲ建テ略其ノ由来ヲ記シ以テ之ヲ後昆ニ傳ヘント欲スト爾カ云フ
昭和三年九月 正五位勲四等太田吾一撰 園田松東書


トップページに戻る地域紹介に戻る次の案内に進む