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十代の子を持つあなたへ
2.触れ合い
十代の子どもとのつきあいは、なかなか難しいものです。以前はよくしゃべっていたのに、話さなくなったとか。
「そろそろ自立のときかな?」と考えたりします。
イエスさまは、子どもの心をよくご存知でした。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。」(ルカ18:16)
十代ぐらい、親が意識的に触れ合いをしなければならない時はありません。あなたのそばに近よらなかったり、ということもありますが、愛を求める思いは非常に強いものです。
私たちはつい、自立し始めたのだと思い、ある親は子どもが好きでないために、忙しさや他のことへの興味を隠れ蓑にして、子どもと離れた生活をしてしまうことがあります。
そして後になって、高いつけが回って来て慌てます。今回は、愛の伝え方としての触れ合いについて、考えましょう。
第1に、視線を送ることです。
それほど難しいことではありません。しばらくは反応がなくても、続けていれば、やがて子どもはそれを親から発射されている愛の視線と理解して、「僕(私)に関心があるんだな!」 って感じ取ります。
女の子の場合に多いのですが、非常にことば巧みで、人の取り扱い方の上手な子どもがいます。他人の親は、その魅力的なさまに、うらやましくさえ思う程です。
けれどもその態度は、年令が進んでもふさわしい成長をしないため、まもなく大人からも友人からも、うさん臭く見られるようになります。
このような場合、とくに父親が愛情を向けることによって、再び成長を始めさせることができます。
お父さん、お母さん、十代の子どもは確かに愛情を求めています。問題は、その表現が上手ではない、ということにあります。
尋ねても返事をしなかったり、わざといいかげんな態度や返事と思われるようなことをしたり、すねたり、わざわざ嫌われるような行動をしたりと、様々ですが、もうかまってほしくないという意味では決してありません。
むしろ、以前(おおっぴらに愛情を請求できた幼児期)のように、親に接することができなくなっている自分自身に、いらいらしていると言った方が正確です。
愛の視線は、その欲求不満を解消して、十代の心に愛をたくさん注入します。その心は解放され、他の人格と深い交わりを試みるようになります。
そしてお父さんや、お母さんの期待に応えようとする行動を生みます。
「イエスがどんな方か見よう≠ニした・・・それでイエスを見る≠スめに、前方に……走り出て・・・イエスは:・・・見て#゙に言われた。・・・今日あなたの家に泊まることにしてある。」(ルカ19:1〜5)
ザアカイはイエスさまを見=Aイエスさまはザアカイを見た≠フです。視線を交わす所に、深いレベルでの交わりが生まれます。
「涙と共に種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れを抱え、泣きながら出て行く者は束を抱え、喜びながら帰って来る。」(詩篇126:5、6)
第2に、からだに触れること
親は、容易にひとつの誤解をします。――物をあげること=子どもに愛を上げること=\―しかし、物をあげずとも愛を上げることはできます。
それが子どもの身体に触れることです。もしあなたが適切にこれをなさるなら、あなたの愛を確実に知ってくれることでしょう。
私はかつて会社に勤めていて、部下によく使ったのがこの手です。たとえば後ろから肩をポンと軽く叩いて、ニコッと笑いかけるのです。
ニコポンというのだそうです。私自身も、上司から何度もしてもらいました。とてもうれしいものです。
「私に関心を持っていてくれるんだなあ!」 と、心の中でほほえみながら考えたものです。口を使わずとも、愛を伝えることはできるのです。
同じものを見る時、例えば本だとか、小さな何かをです。当然身体は接触しやすくなります。
子どもがケガをしたときには、もっと自然に触れることができます。
幼児期には頻繁に触れていた親も、年とともに次第に触れなくなるようです。しかし子どもには欲求不満が残ります。
抱き合う習慣も、幼児期から続けていれば自然にできるでしょう。ただし、あまりにもわざとらしくしないように、子どもが受け入れやすい程度に! 「イエスは1人の子どもを連れてきて、腕に抱き寄せて彼らに言われた。『だれでもこのような幼子たちの1人を私の名のゆえに受け入れるならば、私を受け入れるのです。』」(マルコ9:36、37)
第3に、ことばによる触れ合い
通常私たちは、この触れ合いを見逃しています。ところが頻度が高い割りには、効果を発揮していません。
「さあ、早くしなさい!」
「まだ分からないの!?」
「こんな点数じゃ、ダメじゃないの、えーっ!」
「何度言っても分からないんだからー、あーあ」
文章にして見ると、なる程、余りいいことを言ってないなーと気がつきますが、ではどうしたらいいのかというと、はたと困ります。
子どもに対して親が教えなければならないひとつの重要なことは、「物事や事態を冷静に観察し、論理的に判断し、効果的に他者に伝達する能力」 です。これは練習する以外に道はありません。そのためには親自身が、その訓練を受ける必要があります。
冷静な論理的な会話の能力を、磨かなければなりません。子どもが「なぜ?」と聞くとき、「ダメなものはダメ!」では、すぐカッとなるだけの情緒人間、感情的人間を育てるだけです。
まず親が、自分に自信を持つことです。イエスさまを受け入れて、あなたの造り主である神さまから、生きることへの積極的な承認をいただきましょう。
そして子どもの話をじっくりと聞き、自分の考えを伝えます。反論があれば、再びじっくりと、ていねいに聞きます。
ちょうど野球のキャッチボールのように、ことばをやり取りします。途中で話の腰を折らないようにします。
そして投げる球は常に、直球です(変化球、すなわち皮肉などはよくありません)。
「お父さん(お母さん)は・・・こう考える」←→「○○(子どもの名前)はこう考える」
「僕(私)は・・・こう思うけど、お父さん(お母さん)はどう考える?」←→「○○(子どもの名前)はこう考えるけど、お父さん(お母さん)はどう考える?」
いたずらに親の権威を振りかざさないことです。親としては自滅行為ですから。
会話が論理的に、かつ冷静に交わされるとき、子どもは自分が一個の人格ある人間として見られていると思い、とてもうれしくなるのです。
自分の考えが尊重されているのを知るとき、人は自分自身の価値を知ります。
神さまが造られたものにはすべて、すばらしい価値があります。自分の価値を認めてくれる者に、人はいつまでも尊敬の念を持ちます。
(つづく)