勝利教会インターネットチャペル |
十代の子を持つあなたへ
3.霊的必要を満たす
子どもが神さまを知りたいと思っていることは、明らかです。ちょうど学校から帰って来るなり、「ただいまー!」と叫んで、お母さんの存在を確かめて安心したがるように。
私たち親は、神さまについて教えることによって、彼らの霊的必要を満たしてやらねばなりません。
ある人たちは、大人になってから本人に決めさせるべきで、信仰を子どもの時代に教えるべきでないと考えています。しかし愛情のある親は、
「赤信号の時には止まるんですよ!」
と事前に教えるのではないでしょうか。事故を起こしてからでは遅いからです。
人は、自分にとって重要であると信じることに従って、生きています。あなたは人生において何がもっとも重要なことであると、考えていらっしゃるでしょうか。
「この世界には、天地の造り主である神さまがおられ、このお方とともに人生を歩むときに、もっとも豊かな祝福された人生になる」
ということのはずです。このことを、あなたの愛する子どもたちにわかってもらうために、具体的にどのようにしたら良いでしょうか。
第1に、神さまについての正しいイメージを伝えましょう
私は神さまについて、長いことこんなイメージを持っていました。
「正しいお方ではあるけれども、こわい、よく叱る神さま」。
その間、信仰生活はお世辞にも好調とは言えませんでした。原因は私の父のイメージが、そのまま神さまに向かって平行移動していたからです。
神さまについての間違った、また悪いイメージは、決して信仰を魅力的なものにはしてくれません。お父さん、お母さん、どうか神さまについて良いイメージを、あなたの愛する子どもたちに与えるようにしてください。
そのためには魅力的な教会生活、信仰生活を見せてください。十代は理屈よりも感情で吸収します。
「子どものときに行っていた教会が、とても良かったから」
と、大人になってから教会に来られる方が少なくないのも、そのせいです。
あなたのかわいい、未来のある子どもたちの網膜に、しっかりと魅力的な神さまを焼き付けてください。
必ず神さまとともに、そして神さまのために、生きて行くようになります。
第2に、人生には試練があることを伝えましょう
子どもがときどき、ふさぎ込んだりすることがあります。原因はさまざまですが、子どもにもそれなりに試練があるものです。
ところが、子どもには過去を振り返って先人の知恵に学ぶということが、ほとんどありません。ふだん見聞きする大人の考えや、態度をいわば無批判に受け取って対応しようとします。
ですから、周辺の大人たちが励ましを与えなかったりしていると、克服しようとか、この苦しみから何か良いものを産み出して行こうとかいう、積極的な人生への姿勢が生まれないことになります。
幸い、クリスチャンには聖書があり、試練について適切な指導をすることができます。
「あなたがたの会った試練は、みな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ耐えることのできるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます」(第1コリント10:13)
第3に、夢と希望を与えましょう
現代の日本では、
「この程度の学校なら、この程度の会社。この程度の会社なら、この程度の人生」
というふうに、先の見えた、夢のない時代になっています。
そんな時代の真っただ中にいる十代の特徴の一つとして、厭世的ということばがうまく当てはまるでしょうか。十代は終末時代に生きていることも直感しています。
決して聖書から学んだわけではありません。ノストラダムスなど世俗的な情報によっています。
このような風潮からは、こつこつ積み上げてやがては大きな何かをものにしようとか、一生懸命努力して大きなことをしようなどという考えは、生まれにくいでしょう。ただ一時の快楽に身を委ねる生き方となるでしょう。
十代にはいま、夢と希望が必要です。
「私は捕えようとして追及しているのです。……うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み……目標を目指して一心に走っているのです」(ピリピ3:12〜14)
クリスチャンとは、積極人間のことです。まずお父さんや、お母さん自身が聖書を読み、よく祈り、聖霊さまに導かれ、夢を追いかける毎日であってほしいものです。
(どうか勘違いしないでください。「この子にはこのようになって欲しい」といったものではなく、お父さん自身、お母さん自身の夢や希望です)。
私は、自分の子どもたちを見ていて、よく思います。
「ことばでは決して教えはしなかったのに、立ち居ふるまいや考え方など、実に自分に似ているな」
と。そう、子どもは親に似て来ます、というよりもコピーと言ったらいいでしょうか。
第4に、人生の意味を教えましょう
聖書には、非常に具体的な生活上の知恵が、随所に見られます。たとえば、
「野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる」(箴言15:17)
現代の日本では、どちらかというと知恵よりも、知識が尊重されて来たと思われます。たとえば歴史のテストの準備のためには、一生懸命に歴史上の事件の年を丸暗記したものです。
しかしもっと重要なのは、その出来事から教訓、つまり知恵を得ることではないでしょうか。ところでこの知恵は、人生の意味と密接に関わっています。
「人生とは何か。私はどこから生まれて来て、どこへ行くのか」
このような問いに答えることができていてこそ、真に価値ある知恵を身に着けることができるでしょう。十代の子どもは、このような問いにお父さんや、お母さんが明確に答えてくれることを期待しています。私たち親は自信を持って、
「私はこう生きているんだよ」
と子どもに示し、また教えることができなければなりません。それには、お父さんやお母さん、また神さまとのしっかりした出会いの体験が必要です。そして、
「私の人生は、神さまによって最高に祝福されているんだ!」
という確信を持って、毎日生活をして行かなければならないのです。
最後に、全体的に以上のようなことを、どのようにして子どもに受け入れてもらうか、ということを考えましょう。
それは、あなたがお子さんを真実に愛していることと、お子さんがその事実をはっきり知っていることです。
子どもは情報に対して無防備です。テレビの画面などから流れてくる情報を、いとも簡単に受け入れてしまいます。
決して、大人になるまで無色透明のままいるわけではありません。これは早い者勝ちなのです。
そしてもっとも有利な立場にいるのが、お父さん、お母さん、あなたです。
(つづく)