八菅神社

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山十邸に

八菅神社

八菅山は古名を蛇形山と言った。日本武尊が坂本からこの山を眺め山容が竜ににているところから名づけられた。

その後役の小角がこの地を訪れ六神を祭り修行を行った。その時に八丈八手の玉幡が降臨し、上座の菅の衣から八本の根が出てきた事から「八菅山」と呼ぶようになった。

また、『新編相模風土記稿』によれば、「その昔、中將姫が織り上げたという大きくて立派な幡が、津久井の方から飛んできて、八菅の北の坂(幡の坂)へ落ち、更に舞い上がってこの家(雲台院…字宮村の中央部。地名は、幡)の庭に落ちてきた。行者(八菅山は、修験の道場)たちが総出で祈りあげると、幡はまた天空へ舞い上がり、鶴巻の落幡に落ちた。土地の人々はあまりにも立派な幡なので、相談の結果、日向薬師へ寄進に及んだ」と伝えられる。
 

修験者ウォークで知る

『ハトムネ』とは

のどかな八菅の里山づくり」実行委員会主催の”八菅神社のお話と修験者ウォーク”に参加した。

山を歩いている事と、大山、八菅山の近くに住んでいる事が”修験”に興味を持たせたからだった。

講師は、以前八菅に住んでおられ、修験者の末裔で八菅神社の氏子の矢後忠良さんだった。

この方は76歳とご高齢でありながら、山道を歩きながら息も切らさず説明をされていた。

200m以上あるハトムネ

修験が絶えて120年も経ち殆ど話は聞いていないが、古文書などを読んで研究されたという事だった。

昭和59年、この辺りの地名調査を行なった際、不思議な地名が多い事に気付かれた。

話は、そこから始まった。

それが一気に太陽信仰の話と繋がり、「沖縄にもあった太陽の道」というTV番組の話へ広がった。

不思議な地名『ハトムネ(破途胸)』は太陽の道と同じく、北緯34度上にあり”一陽来福”を願って造られた道(途)の事だった。

長さは凡そ250m、冬至の日の出にはこの途上を太陽が上り、鳥居の真中に太陽が位置する。

そしてその方角を向いた建造物は、この辺りではここだけのようである。

 

鳥居前で聞いたその話から八菅神社の重みを感じ、年始のお参りでは程ほどの気持ちで見ていた神社の建物が、今日は凄く尊厳のあるものに見えた。

本堂付近では木々の話をして頂いた。この付近にある大木はスダジイが多く、この木は寒い地域では生息していない。この山 に多いのは、昔から木々に覆われて霜が下りない事が要因らしい。

また、下の写真「老松の碑」や、大きい木が多いので、少しでも光を受けようと丈の高い木が多いこと、クロガネモチやベンケイナカセ等についても教わった。

 
 

八菅神社の屋根

修験は神社脇の経塚付近にあった禅定宿から始まった。ここで修験35日の内の27日間を過ごし、そして峰入りになる。

矢後さんが繰り返し話されていた事は、修験は@”不動”になること、つまりは自然になるA”一陽来福”、必ず良い方に向いてくる事だった。

そして、修験の始めは白山権現で始まり、その終わりも大山の白山不動で終わる。そして生まれ変わるという。

 
 

その白山権現後を右に見て幣山に向かった。シイの木の実が道に沢山落ちていて歩くと割れ音がパチパチと軽快だった。子供のようにわざと踏みながら歩いた。

途中、矢後さんが分岐が分からなくなり行き過ぎてしまった。右の写真の黄色い看板が目印になる。

ここからは急な下りになった。それまでは尾根歩きなので殆ど苦にならないが、ここでは滑った人がいた。

山王社の石室の後ろを通り過ぎると、リサイクルセンターの下にでた。

幣山への道

 
 

矢後さんの背中と老松の碑

 

事務局の大木さんが、一生懸命にこの道が尾山耕地に続き、その規模その影響について語って下さった。

ホームページで少しは知っていたつもりだったが、やはり直接聞くとしみじみと分かってくる。道を使う側の立場からすると、一本松まで行かないで半僧坊まで出れるのは魅力があるが、はてさて八菅山まで行くのは年に何回あるのやら?

そう考えると、僕にとっては余り必要のない自然破壊かもしれない。

 
 

二番行場の石神社で昼食になりました。

石神社にも経塚があり、それを横浜の方が掘りだし、出土品を自分で持たれているとの事でした。(神社脇のは奈良埋蔵文化財の資産だそうです)

三番行場は館山になりますが、ここは砕石場となり今は何もありません。

四番目は平山です。沓掛の道を登りますが、ここには石の祠があるそうです。

参加者は皆疲れていて、ここも登らないで進み、今回の最終目的地の塩川滝に進みました。

修験者達は塩川滝の塩水で体を清め、法華峯に登り身を益々清め山神から華厳岳に向かいます。しかし、我々の修験はここで終了しました。スタートから5時間も掛って 全修験の1/6の工程でした。

尚、宝珠山では13歳の行者が行の途中で亡くなり、そこに川原石が今でも置いてあるそうです。

 

日の出の話があったので、当日は天気がよく夕焼けが綺麗だろうと、宮ヶ瀬湖に向かいました。

 
 

鳥居の中央から陽が上った

ハトムネ検証

03年12月21日(日)

矢後さんの説明を裏付ける為、八菅山に写真を撮りに出かけた。出来れば冬至の日が良いが、都合が付かない。 一日位は誤差と判断し出かける事を決めた。

当日、寒いのでなかなか布団から出る事ができなかった。

日の出に間に合う6時20分に飛び起きた。

 
 

6時40分に駐車場前に着くが鎖があり駐車できない。道端に停めて鳥居の後ろに立つ、しかし 、なかなか陽が出ない。

少しお年を召したご婦人が登って来た。下ばかり見て私に気付かないようである。

こんな早朝に人が立っていればビックリする筈であり、どうやったら驚かれないか考えていた。

しかし、いい方法は見つからず結局、道の脇で突っ立っていた私にビックリされた。

ハトムネと呼ばれる道は赤くなった

 
 

階段途中で振り返る

その方の話が面白かった。起きたら凄く陽の出が綺麗で、そのままお札を返しにきたと話し出し、ご主人に『もし何かあったら”八菅山”に行くからそこを探すように』と言ってきたと話された。

後で考えれば、その方の精一杯の牽制ともとれなくはなかった。

いずれにしても、沢山の民家があるここで何か起きるわけが無いと思った。

 
 

待つ事15分やっと鳥居の中に陽が入ってきた。出来れば大きな太陽を鳥居の真中でとらえたかったが、カメラの機能が劣っていた。

鳥居の陽を撮ってから、急いで太陽の道を登った。

”ハトムネ”を赤く光が染めていた。

男坂を息を弾ませて登った。社にも陽が指し、紋が黄金色に染まっていた。

『一陽来福』。あともう少しで私の人生も福に向うかもしれない。

そして、下山して橋の袂で陽を探すと、中津川の下流に向ってそれは輝いていた。

イメージでは太陽は中津の町から上ると思っていたが、位置の感覚が全く異なっているのに驚いた。

神社正面の黒い紋が黄金色になった

 
 

修験について

火渡り(0403)

 
 

11月27日(木)

愛川町教育委員会主催の『愛川の歴史教室』に参加した。上はその際に頂いた寶暦六年に書かれた古文書のコピーである。

古文書内容については夢が無くなるので細かく書かないが、今も昔も変わらない組織維持のルール事を主体に書かれたものである。

またこの八菅山の修験者の棟梁と言うべき役は”年番”と呼ばれ順番で、外交・財政、祭礼の運営にあたっていた。

しかし、その際の費用負担が大変で病気と言って逃れる人が出ていたらしい。

総門の跡と形(イメージ)

 

駐車場にある光勝寺の礎石

墓の後ろにあるこの町で一番古い石碑

私が何故修験に興味をもったのかは、2つの理由がある。山に生きていた人たちの知恵・工夫を知りたかった事。

そして、それにも増して興味があったのは廃仏希釈、その時の事実を知りたかったからである。

幕末の歴史が大好きな私は、特に歴史を動かすキッカケを作った高杉晋作、坂本龍馬を司馬遼太郎の小説を読んでから尊敬した。

しかし、彼らが作った明治政府が出した『神仏分離』の影響は山歩きを始めた僕にとっては驚愕の出来事だった。

相模大山で見た首の飛んだ石仏、伯耆大仙で見た廃寺の跡は歴史の裏を見たような衝撃があった。 廃仏毀釈の目的は、そしてその結果は今の生活にどのように影響していたのだろうか?

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